NHK「龍馬伝」関連

京都の幕末を歩く Vol.1 を実施します

京都の幕末を歩く Vol.1

JASS(会員制)から今年も史跡ガイドの依頼を頂戴しました。

これまで大阪市を中心に実施してきましたが。今年は京都の史跡ガイドを行います。

京都はガイドブックも豊富ですし、参加希望者が少ない可能性があります。

そこで、募集状況が芳しくない場合、会員以外の方にも募集をしたいと思います。

私が行う以上、他のガイドさんがたったことのない案内をしたいと思っています。

日時は2014年10月5日(日)10:00~16:00(昼食付)

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大坂の幕末を歩く 北浜~本町

大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

今春は、4月5日(土)に行います。

見どころは下記の通りです。こちらです。

<勝海舟 寓居(専稱寺)跡>

文久2年(1862)閏8月17日、軍艦奉行並に就任した勝 海舟は、同年12月、軍艦順動丸で大坂天保山に投錨し来坂しました。
その後、大坂を基盤に兵庫、泉州、紀州などを訪れ、砲台の設置場所を吟味しています。
坂本龍馬の幼馴染だった望月亀弥太(のちに「池田屋の変」で闘死)の手紙には、次のような記載があります。

(前文省略)
私も今七日京都出足その夜伏見より船に乗り、八日朝7ツ半(五時)頃大坂八軒家に着き申し、御屋敷(藩邸)の近へ宿をとり、夕方勝先生(海舟)の御旅宿へ参り候処先生にはいまだ御用之有る趣にて船出延引、同九日本町三丁目先生の御旅宿に逗留、住吉の陣屋に行き申し候。同十一日大坂より船にて兵庫に参り申し候。(以下省略)
(望月亀弥太が母に送った手紙) 
                   文久三年正月廿一日

勝 海舟の日記にも文久3年(1863)正月九日、土州の数輩、わが門に入り、坂本龍馬と時勢を論じたことが書かれています。
文久3年(1863)1月の段階では「本町三丁目」に逗留していたと思われますが、正確な場所は不明です。

「海舟日記」によりますと、次のような記載があります。

文久3年2月27日
朝、上陸。
安治川一丁目順正寺旅館に到る。(以下省略)

日記にあるように同年2月には「順正寺」を大坂の寓居先にしていました。順正寺の場所は、現在の大阪市福島区野田1丁目、中央卸売市場のあたりにありました。勝 海舟は寓居先をすぐに別の場所に変更しています。
「海舟日記」の文久3年(1863)3月朔日には、次のような記載があります。

(前文省略)
大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。
坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。

この日より、元治元年(1864)11月10日、軍艦奉行を罷免され、江戸にて蟄居を命ぜられるまでの間、この場所を大坂の寓居先としていました。
一時期、文久3年(1863)6月13日より、約3ヶ月間江戸へ帰っていました。しかし、すぐに大坂へ呼び戻されます。
文久3年(1863)9月9日の「海舟日記」には、次のような記載があります。

朝、上陸。天保山沖へ入津。
同日、雅楽頭(姫路藩主 大老 酒井忠(ただ)惇(あつ))殿はじめ役々、上陸、専修寺旅宿へ入る。

「海舟日記」にある「北溜屋町」や「真正寺」は実際に存在しませんでした。
「専修寺」は此花区酉島3丁目に同名のお寺が存在しますが、幕末当時、この「専修寺」は堺にあり、明治になってから此花区に移っています。
従って、勝 海舟の寓居先とはまったく関係ないことがわかりました。
勝 海舟は、寺名や町名を誤って日記に記載したのではないかと考えられます。
 「順正寺」は誤記ではなく、実際に存在していました。
「慶応四年目録」(川口居留地開設直後の外国人との応対や外国事務局の動静を記す資料)に次のような記載があります。

(慶応4年)九月二日 亥 晴 (途中省略)安治川上壱丁目 順正寺へ丸亀人数旅宿申付置候処、
(以下省略)

他の資料においても実存が確認されています。
「順正寺」はその後、大阪市西区京町堀、さらに東淀川区と移転し、昭和34年(1959)廃寺になりました。

勝 海舟の順正寺の次の寓居先は、当時の北鍋屋町にあった「浄土真宗 専稱寺」です。
北鍋屋町はその後の町名変更で、淡路町3丁目になり、区画整理などで更に変更し、現在の淡路町2丁目5~6、同3丁目1~2あたりが、北鍋屋町に該当します。
専稱寺があった場所の確証が取れる資料はなかったのですが、大阪市史を研究されている先生に助言をいただいたところ、「北鍋屋町水帳」(安政3年作成)と「大阪地籍地図」(明治44年作成の大阪市地図)の2つの資料を照らして判断すると、現在の淡路町3丁目2-13(スワン大阪第一ビル)及び、2-14(ノリタケビル)あたりだという結論にいたりました。
「北鍋屋町水帳」は北鍋屋町にあった全ての建物の横幅・奥行きの寸法、及び持ち主が記載されており、それらの建物一つ一つの寸法と地図を見比べますと、この場所だということになります。
「専稱寺」は、「東区史」において北鍋屋町にあったことが記載されています。また、専稱寺は神戸市葺合区吾妻町に移転したことも確認することができました。
葺合区は今の神戸市中央区で、ちょうど葺合警察署がある付近となります。
平成12年(2002)2月、現在の専稱寺を訪れてみました。ご住職のお話によりますと、勝 海舟や坂本龍馬の話が語り継がれているとの事で、それを裏付ける資料も残っていたそうです。
その資料の中には、坂本龍馬が専稱寺でお世話になった記念に、絵のようなものを残していたそうです。
しかし、昭和20年(1945)の空襲による戦災で、貴重な資料は全て焼失してしまいました。
「専稱寺」は、浄土真宗本派本願寺門下で、慶長13年(1608)12月28日、祐性という僧が、北鍋屋町にて開山します。
明治31年(1898)10月に、同じ大阪市内で旧東区中本大字森(現、中央区森之宮中央)に移転します。明治33年(1900)9月3日に、神戸市葺合区吾妻町(現、葺合警察署付近)に移転します。戦災により更に、現在の場所である中央区南本町通4丁目5に移転し、今日に至ります。
勝 海舟は文久3年(1863)3月より9月24日までの約半年間、大坂の寓居先である専稱寺にて海舟の私塾である海軍塾を開いていました。
その後、神戸海軍操練所開設に向け、海軍塾も神戸へ移転しています。
大坂海軍塾だった専稱寺の現在の場所と、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾(勝塾)の跡地との距離が、目と鼻の先というのも不思議なものを感じます。

第14代将軍 徳川家茂の江戸東帰に伴い、勝 海舟は供として、文久3年(1863)6月13日に大坂を出発し、16日に江戸に到着します。
同年6月26日の「海舟日記」には次のような記載があります。

大坂より、俵次郎、半兵衛、来る。聞く、大坂の塾へ、長藩五十人程来たり、図書殿を打つ企を告げ同志を募ると云う。龍馬子、これを説解し、敢えて同ずる者なし。

文中に「大坂の塾」という文字が出てきます。
勝 海舟は、大坂の寓居先である専稱寺に海軍塾を開いていました。
門地に拘らず、能力のある人材の発掘、海軍士官の養成を目的として「日本の海軍」いわゆる「一大共有の海局」を目指し、自身の私塾として海軍塾を開塾したのでした。
塾生には坂本龍馬をはじめとした土佐脱藩浪士、各藩から教育の要請を受けた紀州藩士、鳥取藩士、福井藩士などがいました。
塾頭は、海舟の片腕として活躍した庄内藩出身の佐藤与之助でした。
文久3年(1863)9月24日、勝 海舟は神戸海軍操練所の開所準備のため神戸に移り、私塾も大坂から神戸の海舟邸に移します。

勝 海舟は同年10月に上京し、福井藩松平春嶽を訪ね、次のように述べたと「海舟日記」にあります。

神戸操練所の事、并びに天下の海軍を立て、普ねく諸藩と士民とを論ぜず、人物を集め、その器に応じ将となし、士となし、門地の旧弊を止め、学術を以て募り、皇国興起の一大海局と成さんことを申す。

勝 海舟の門下生 坂本龍馬も専稱寺へ頻繁に訪ねています。
坂本龍馬と勝 海舟との出会いについて、同じく門下生だった杉 亨二が、勝 海舟の亡くなった後、追憶談で次のように語っています。

その頃、勝は大坂に出張していまして、帰ってきた時、見舞に行ってどうで御座いましたと尋ねますと、ウム 色々浪人などを取締っておった所が、旅館に菰(こも)を被って会いたいという者があるから、遇って、己を斬りに来たかと申しますと、斬りに来たと答えたそうで、それからどうしてか懇意になったそうですが、確か、これは坂本龍馬であったと承りました。

この場所が大坂で正しければ、専稱寺、或は前記の順正寺のどちらかだと思われます。
  しかし、勝 海舟日記に初めて龍馬の名が出たのは、海舟が神戸の寓居先である生島四郎別邸に居る文久2年(1862)12月29日でした。初めて会ったのは神戸の寓居先という説もあります。

文久二年十二月二十九日
千葉十(重)太郎来る。同時、坂下(本)龍馬子来る。
京師の事を聞く。(以下省略)

そのほかに同年12月9日、江戸の勝 海舟邸の説もあります。

十二月九日
此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり

海舟の門下生になった坂本龍馬は、文久3年(1863)2月25日に1回目の脱藩罪赦免を受け、京都の土佐藩邸にて7日間もの謹慎処分を受けますが、謹慎を終えた3月朔日(1日)に来坂し、寓居先を移したばかりの専稱寺に居る勝 海舟を訪ねています。

三月朔日
陸行、御願村に到る。同所より、西宮海岸に到り、地所を定む。即日、大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。

次の手紙は坂本龍馬が姉の乙女に宛てた有名な手紙で、この時期に書かれています。

扠もさても 人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハうんがつよくなにほど死ぬるバへでゝもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねばならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
其故に私年四十歳になるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだん(相談)いたし候所、このごろハおゝきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。

どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。
 (文久三年)三月廿日          龍
 乙様
御つきあいの人ニも、極(ごく)御心安き人ニハ内ゝ御見せ、かしこ。

此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先(まず)きやくぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、お々きに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私((マ)初(マ))栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近々のうち、土佐の方へも参り申候。そのせつ御見(目)にかゝり可申候。
私の存じ付きハ、このせつ兄上にもおゝきに御どふい(同意)なされ、それわおもしろい、やれやれと御もふしのつがふ((都合))ニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ夫までの命ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいゝし事を御引合なされたまへ。すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。
猶エヘンエヘン
                                    かしこ。
(文久三年)五月十七日         龍馬
乙大姉御本


                                    かしこ。

右の事ハ、まづまづあいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがうひとあるからは、をひとりニて御聞おき、
                                    かしこ。



 

京都史跡ガイド 初体験

京都史跡ガイド

2013年10月27日。私のとって記念すべき日となりました。

これまで、大阪史跡探訪、神戸史跡探訪のガイドを担当したことがありますが、ご縁があり、初めて「京都史跡探訪」のガイドを体験させていただきました。

10:00~13:00の3時間。四条河原町をスタートして池田屋騒動之址地までご案内いたしました。

最初の案内地からマニアックな史跡をご案内。

土方楠佐衛門寓居跡。鳥新跡。中村半次郎寓居跡。

半次郎と村田さととの経緯を説明。

Photo


いずれも石碑がないのが残念ですね。

そのような中で、一番時間を割いたのは坂本龍馬について。

今回の史跡探訪のレジュメは、知野文哉さんのレジュメページ数には届きませんでしたが、30ページとなりました。

そのうち坂本龍馬の案内は6ページ。

その内容を紹介したいと思います。

明日のこの時間にアップいたします。

今年のベスト3 3位 大坂の幕末を歩く

「大坂の幕末を歩く」を3コースでオーダーをあわせて10回開催しました。

毎回、私と奥野さんが新しいネタを披露し、毎回変化があるコース案内となり、ほぼ定員15名で実施する事ができました。

1.幕末 天満

 天満橋-現八軒家船着場-八軒家船着場跡石碑-三橋楼跡(大久保利通祝宴の地、木戸孝允主催囲碁の会開催地、大久保利通・木戸孝允会談の地)-坂本龍馬ゆかりに船宿堺屋源兵衛跡-新選組定宿京屋忠兵衛跡-紀州藩蔵屋敷跡--内山彦次郎暗殺の地-大阪銀座跡-高麗橋-山南敬助奮闘の地岩城升屋跡-平野屋五兵衛邸跡-大阪会議開催地花外楼-築地蟹島料亭跡(河井継之助宿泊の地竹式楼跡、清河八郎宿泊の地瓢箪屋跡)-大阪会議開催地専崎楼跡-池内大学暗殺の地-五代友厚像-北浜

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2.幕末 北浜

 北浜-五代友厚像-鴻池屋邸宅跡-大阪慶應義塾跡-彦根藩蔵屋敷跡-盛岡藩蔵屋敷跡-新選組吉村貫一郎終焉の地-緒方洪庵像-適塾-愛珠幼稚園-銅座跡-除痘館跡-勤王僧月照生誕の地-勝 海舟寓居(専稱寺)跡-坂本龍馬訪問の地-大坂海軍塾跡-勝 海舟・西郷吉之助初会見の地-近藤長次郎挙式跡-楢崎龍武勇伝-北御堂-本町

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案内の様子はこちら

3.幕末 夕陽丘

 松屋町-新選組ゆかりの地 ぜんざい屋事件跡-大利鼎吉終焉の地-土浦藩蔵屋敷跡-蘭医ボードウィン寓居跡-薩摩屋半兵衛墓所-坂本龍馬潜伏の地-英国公使ハリーパークス宿泊の地-アーネストサトウ宿泊の地-小松帯刀・西郷吉之助訪問の地-伊庭八郎宿泊の地-真言坂-天満八軒家船着場の常夜燈-井原西鶴像-水戸藩士川崎孫四郎自刃の地(桜田門外の大坂編)-土佐藩士(武市半平太の甥島村寿太郎ほか)墓所-源聖寺坂-新選組大坂旅宿跡-口縄坂-司馬遼太郎「燃えよ剣」舞台地-織田作之助文学碑-夕陽丘創名の地碑-陸奥宗光ほか陸奥家墓所跡-小松帯刀墓所跡-四天王寺夕陽丘

詳細はこちら

大阪検定連携事業 大阪史跡探訪Vol.9 その25

大阪史跡探訪Vol.9 その25

平成21年(2009)3月29日、大阪龍馬会イベント「大阪史跡探訪Vol.8」(参加者34名)のわずか2週間後、

4月12日に開催した大阪検定連携事業「大阪史跡探訪Vol.9」(参加者39名)を何回かに分けてアップいたします。

25回目は

・大阪史跡探訪Vol.9 実施にあたって

をご紹介します。

「vol.9(2009-4-12)25.pdf」をダウンロード

三橋楼 その5

三橋楼 その5

三橋楼から大阪ハリストス正教会に変わっていった経緯はすでに触れましたが、土地購入後、名義は大阪地籍台帳によると石町一丁目九番地・十番地は「日本ハリストス正教会維持財団エビスコフ・尼格頼(ニコライ)」となります。名義人の所在地は「東京市神田区東紅梅町が記載されています。

エビスコフ・ニコライ氏は幕末期(文久元年)に来日し、ロシア正教を広めた人で、日本ハリストス正教会の聖人として祀られています。

御茶ノ水駅の近くで東京都千代田区駿河台にある有名な「ニコライ堂(正式名称:東京復活大聖堂教会)」の建物は、明治24年(1891)2月に竣工されたものでした。皇居を見下ろすのは不敬だという右翼による妨害があったそうですが、信徒の沢辺琢磨(山本数馬)がこれに対応したそうです。

沢辺琢磨は知る人ぞ知る土佐藩郷士の出身の人で、坂本龍馬や武市半平太とは姻戚関係にあり、共に江戸で剣術修行に励んでいました。昨年の「龍馬伝」でも登場していましたね。ちょっとした過ちから切腹をしなければならないところを、龍馬が密かに逃がしたという話は有名です。

このニコライ堂の道を挟んで東隣に後藤象二郎が居を構えていました。その後、岩崎彌太郎の実弟 彌之助(正妻が後藤象二郎の長女 早苗)が居を構えました。

「三橋楼」をクローズアップするといろいろなつながりが見えてきました。

日本ハリストス正教会が編纂した書籍に「三橋楼」は、「天満橋」「天神橋」「難波橋」が三大橋、さらには北区の市街、北摂の山が眺望できる景勝地と紹介されています。

「龍馬伝」での吉田東洋を演じた田中 泯さんについて

「ムーヴィング・マウンテン」

田中 泯さんの舞踏に心を動かされた作品「ムーヴィング・マウンテン」。

昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で土佐藩参政 吉田東洋の役を演じられた田中 泯さんは俳優だけでなく舞踏、美術、音楽、オペラと幅広く活躍されている方です。

世界的な画家カレル・アペル(オランダ)が2006年来日した際、田中 泯さんが主宰する「舞塾」を訪れました。

強力なエネルギーで舞う田中 泯さんに心を動かされたカペル氏が、これまでの最大級の絵画を描きました。

その絵を持っておられたW氏より学校法人追手門学院に寄贈され、現在その絵は、追手門学院大学1号館に飾られています。

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大坂の史跡を訪ねて(連載21回目)その1

大坂の史跡を訪ねて(連載21回目)その1

平成16年(2004)3月7日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報 第91号」に投稿しました「大坂の史跡を訪ねて(連載21回目)を2回に分けてアップいたします。

その1は下記のとおりです。

・土佐藩住吉陣屋跡

 完成までの経緯、陣屋の規模、陣屋に勤務・訪れた人物、陣屋跡の場所、陣屋の撤去、陣屋の遺構

「211.pdf」をダウンロード

大坂の史跡探訪 ~龍馬の足跡~

大坂の史跡探訪 ~龍馬の足跡~

大阪龍馬会から発刊の「大坂の史跡探訪 ~龍馬の足跡~」

発刊のあと、史跡案内のたびに何冊かお買い求められる方がいらっしゃいます。

6月11日の「大坂の幕末を歩く」に参加いただいたお客様は、大阪府以外からの参加者もおられ、静岡県からお越しいただいた方もいらっしゃいました。本当に感謝申しあげます。6月4日の講演会で6冊もお買い求められた方がいらっしゃったのですが、偶然、6月11日にお会いしました。緒方洪庵の「除痘館跡」資料館の館長さんでした。たまたま6月11日、通常開いていない時間帯に開いていたので案内した際、館長さんから6月4日の件を教えていただきました。「ありがたい」の一言です。

8月5日の「大阪桜会」8月定例会に招かれまして、30分強「大坂海軍塾」を主に大坂にある史跡をご紹介させていただきました。「大阪会議」の話をしたかったのですが、時間切れでした。このとき参集されておられた多くの皆さんにお買い求めいただきました。

改めてお礼申しあげます。大阪桜会での講演にお声かけくださいましたT氏のブログ

「大坂の史跡探訪 ~龍馬の足跡~」の通信販売情報はこちら

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三菱発祥の地 岩崎彌太郎舊邸跡

岩崎彌太郎ゆかりの地  岩崎彌太郎旧居跡(土佐藩蔵屋敷跡) 

大阪市西区北堀江4-9

 三菱の創業者である岩崎彌太郎は、土佐藩が運営する「長崎土佐商会」の主任として任命され、長崎へ着任したのが慶応3年(1867)3月13日でした。
 正式には「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」と称し、土佐藩の御手先商法を行う機関でした(同年2月開設)。開成館奉行は土佐藩参政の後藤象二郎でした。
 彌太郎は商事貿易活動に従事し、維新期では藩の武器・軍需品の購入などに奔走しました。藩の土佐商会とは別組織だったのが、坂本龍馬率いる「土佐海援隊」です。
 4月から6月にかけて彌太郎と龍馬は、長崎で何度か面談していることが記録されています。彌太郎が記した「瓊浦日記其一」をご紹介します。

(慶應三年六月)三日 
天気快晴、朝入商會談公事(朝、長崎商会に行き仕事の打ち合わせを行う)、囘寓(彌太郎の寓居に帰る)、到後藤氏談公事(後藤象二郎の寓居に行き打ち合わせを行う)、午後坂本良馬来置酒(午後になり坂本龍馬が来訪し酒を置く)、従容談心事(じっくりと心を割って談じ)、兼而余素心ノ所在ヲ談候處(前々からの考えている本心を談じたところ)、坂本抵掌稱善(龍馬は手を叩いて「善し!」と称えた)、(以下省略)

(慶應三年六月)九日 
雨、(途中省略)
午後水蓮船ニ乗ル(後藤象二郎と坂本龍馬は藩船「夕顔」に乗る)、商會高橋随行(土佐商会より高橋某が随行)、忽々旅装着ス(たちまち旅装する)、狼狽可知、二字比出帆ナリ(午後2時に出帆)、余及一同送之(余(岩崎)および関係者一同)、余不覚流涕數行(余(岩崎)は不覚にも涙を流す)、(以下省略)
※この船の中にて「船中八策」を龍馬は起草する。

 彌太郎は、土佐藩開成館大阪出張所(土佐藩開成館貨殖局大阪出張所)の責任者として異動することになり、明治2年(1869)1月9日に長崎を発ち、同月12日、西長堀にある土佐藩大阪蔵屋敷に到着しました。この夜は近くの茶屋で宿泊したと日記に記しています。
明治政府が藩営事業を禁止しようとしている事を察知した土佐藩は、同年閏10 月、土佐藩士とは別組織の民間商社として「九十九商会」を設立し、翌年に開業しました。彌太郎は藩の立場で事業の指揮を執りました。
 明治3年(1870)、岩崎彌太郎は土佐藩の少参事(中老格)に昇格します。その後、土佐稲荷神社の西側にある敷地に住居を構えました。
 廃藩置県後、土佐商会の事業を九十九商会へ継承し、「三川商会」「三菱商会」と名称が変更し、岩崎彌太郎が社主となりました。
 明治7年(1874)、本社を東京に移転し、本宅も東京へ転居しました。
土佐藩蔵屋敷の跡地は大阪市などに分譲され、土佐稲荷神社だけは、三菱が継続して管理することになり現在に至ります。
 同神社境内に「岩崎舊邸跡」の石碑と説明板があります。
 その他、彌太郎の弟 岩崎彌之助寄進の青銅狛犬、彌太郎の長女 春路の婿である元内閣総理大臣加藤高明寄進の常夜燈などがあります。明治2年(1869)2月13日、住吉卯日例祭のため同地を訪れた岩崎彌太郎は、坂本龍馬も宿泊したことがある「三文字屋」で夕食をしたことが日記に記されています。
 彌太郎の長女 春路の夫は加藤高明(首相)、四女雅子の夫は幣原喜重郎(首相)。 
 彌太郎の弟 彌之助(三菱の2代目社長)の妻 早苗は、後藤象二郎の長女にあたります。福澤諭吉と連携し慶應義塾卒業をした優秀な人材を三菱に採用をしました。
 現在も「三菱」は誰もが知るブランドとなっています。

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  • osayan: osayanのアルバム http://www.voiceblog.jp/y-osayan/

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