後藤象二郎 大阪旅宿跡
住友鰻谷邸(中央区島之内1-16-7)に宿泊した土佐藩士と土佐藩出身者
① 川田小一郎
天保7年(1836)、土佐藩郷士の川田家に生まれた。理財の才能が認められ、土佐藩の会計方に登用された。
維新直後、別子銅山の接収を任されたが、住友の広瀬宰平の強い説得に耳を傾け「住友が幕府から得た稼行権をこのまま認めるべき」と判断し、明治新政府にその旨を進言した。
住友財閥の隆盛は、川田の決断にあったといって過言ではなく、住友家と広瀬は、川田を大恩人として敬い、別子産銅で寿像を建立して顕彰した。
川田は広瀬と同行し来坂し、住友鰻谷邸の濱屋敷に逗留した。
川田は、その後、岩崎彌太郎のもとで三菱の発展に尽力し、第三代日本銀行総裁を務めた。
②後藤象二郎
住友家では川田の尽力を機に土佐藩を頼るようになった。
慶応4年7月から第2代大阪府知事に就任した後藤象二郎の世話をした。
後藤象二郎は、幕末期、土佐藩で参政を務め「大政奉還」に貢献し、明治新政府では参与職を兼ねて大坂府知事に就任した。
住友家では、後藤の旅宿先として、住友本邸(鰻谷邸)の東座敷を提供した。このことが、広瀬宰平の自伝「半世物語」に記されている。
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