豊臣家の家紋の謎
ガイドをしているこのような質問を受けました。
五山桐や五七桐の家紋が豊臣家のゆかりの地で散見されるが、どちらが正しいのでしょうか?と
お客様からの質問は本当に勉強になります。
調べてみますと次のpdfデータをご覧ください。
豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(5)
大村益次郎終焉の地
大村益次郎は、文政7年(1824)、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村にて医者 村田孝益の子として生まれた。弘化3年(1846)、23歳の時、大坂に出てきて、緒方洪庵の適塾に入門。入門後、成長著しく、3年後には塾頭を務めた。
塾頭になったその年に、橋本左内、杉 亨二が入門している。
27歳で塾を辞め、帰郷し医業を開業。
その後、才能を買われて宇和島藩に招かれ、藩主 伊達宗城より蒸気船の建造を命じられ、それを実現させた。
安政3年(1856)、幕府から招かれ蕃書調所(洋書を翻訳する役所)に出仕し、併せて講武所(幕府の学校)の教授を務めた。
2年後、長州藩 桂小五郎の薦めにより長州藩の藩校教授となる。幕府による第二次長州征伐の時は、参謀として指揮を取り、勝利に導いた。新政府樹立後は、大参謀 薩摩藩 西郷吉之助の下で軍監兼参謀を務め、上野の彰義隊との戦いの総指揮を命じられ、僅か1日で終わらせた。
明治元年(1868)、維新に散った人たちを祀る招魂社(現在の靖国神社)を九段に創建する。
明治2年9月4日、京都の三条木屋町の定宿にいるところを刺客に襲われ、瀕死の重傷を負った。大阪病院(浪華仮病院)に治療のため運ばれる。敗血症を併発し、右足の切断手術を受けたが、その甲斐なく同年11月5日、46歳で永眠。
墓は故郷の鋳銭司村にあるが、切断した右足は、大村益次郎の遺志により、師である緒方洪庵の墓がある龍海寺に、洪庵の墓の横に埋められた。
豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(3)
真田丸(真田の出丸)跡/真田山心眼寺
心眼寺は、元和8年(1622)4月、真田幸村(信繁)とその子大助の冥福を祈るため、真田幸村が築いた「真田の出丸」と呼ばれる砦の跡地に、白牟和尚によって創建された。
心眼寺の定紋は真田家の六文銭に定められ、山号は真田山となっている。
真田丸(真田の出丸)は東西2つの郭で構成され、広範囲にわたる砦だった。
西側の郭は、南面を半月状の頑丈な柵で固められていた。東側の郭は、堀の内側に塀を建て連ねた構えとなっていた。
慶長19年(1614)大坂冬の陣の際、真田幸村率いる豊臣軍は、徳川軍の松平忠直、井伊直孝、前田利常、藤堂高虎らをここで迎え撃ち勝利している。
豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(1)
真田の抜け穴跡・真田幸村像
かつては「真田の抜け穴」が10数箇所あった。
現在残る貴重な抜け穴跡。
現在抜け穴の奥はすぐに遮断されているようであるが、阪神大震災前は結構おくまで入れたと体験談を聞いたことがある。昔は柵がなく子どもにとってよき遊び場所だったようである。
大坂冬の陣で徳川軍に大きく立ちはだかったのが真田の出丸。
宰相山公園から西あたりに真田丸が築かれていた。契沖の旧跡及び墓所がある近くの円珠庵(鎌八幡)境内のエノキの木は、古来から霊木として人びとの信仰を集めていた。
真田幸村(信繁)がこのエノキに鎌を打ちつけて戦勝を祈念し、大いに戦功をあげたと伝えられている。以来、「鎌八幡」と呼ばれ、このエノキに鎌を打ち込み悪縁を断つ願かけをする人が増えたそうである。
豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(24)
大阪砲兵工廠跡
大阪砲兵工廠は明治3年(1870)「造幣司」という名称で、大阪城三の丸米倉跡に設置された。同5年(1872)「大砲製造所」、同8年(1875)「砲兵第二方面内砲兵支廠」、同12年(1879)「大阪砲兵工廠」と名称が変わった。
政府(陸軍)直属の兵器製造工場で、大砲、重兵器、爆弾、戦車などを製造していた。
終戦直前では6万4千人近くがここで働いていた。終戦の前日である昭和20年(1945)8月14日の大空襲により、完全に破壊されました。
多くの犠牲者を出した。大阪砲兵工廠本部があった場所は、現在、大阪城ホールがある場所に該当する。
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