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大阪会議ゆかりの地

三橋楼とハリストス正教会 写真パネル展 開催 

大阪大空襲70年 

「石町一丁目の歴史  ~三橋楼とハリストス正教会」

2015年6月7日は、70年前の大阪大空襲の際に、同教会の聖堂が焼失されるなど大きな被害を受けました。

70年目という節目に、犠牲者の慰霊と平和の祈願のため、吹田市に移転した大阪ハリストス正教会の主催により、エル大阪で写真パネル展が開催されます。

ぜひ、お見逃しなく。

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大阪史跡探訪Vol.16を開催(2014.5.25)

大阪史跡探訪Vol.16

2000年から継続して実施してきました大阪龍馬会主催「大阪史跡探訪」が5月25日で16回目を迎えることとなりました。

お申し込みはこちらまで

夕陽丘を紹介したVol.1の2000年以降、新発見があればその箇所を目玉として実施してきましたが、今年も継続して実施することができることとなりました。

これまで数回紹介いたしました「三橋楼」が、ついに大阪市の顕彰史跡となりました。2014年1月には説明板が設置され、石碑建立を待つだけとなりました。私が永田屋昆布店(店前に八軒家船着場の石碑が建立されている)に「三橋楼跡は現在どこに該当するのでしょうか?」と問いかけたことから、平成24年度、大阪市が顕彰史跡として№189「三橋楼跡」が登録されました。

奇跡としか言いようがありません。私以外に尽力された方による功績です。この内容は今年、大阪龍馬会から発刊される「大坂の史跡探訪vol.3」で執筆させていただきました。

三橋楼跡にお住いになっている某マンションH氏の尽力によるものです。

三橋楼は本町橋西詰に移転しますが、そのいきさつを東横堀川界隈で結成されているe-よこ会(東横堀川水辺再生協議会)から原稿依頼があり、投稿させていただいた内容が下記URLでアップされておりますのでご覧ください。

http://e-yokobori.jp/docs/news11.pdf

大阪市の顕彰史跡については下記URLをご覧ください。

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000243650.html

5月25日までに石碑が建立されればいうことがないのですが、H氏にお伺いすると、別の案件があるため、もう少し時間がかかるようです。

このブログ記事をご覧になっているガイドをされている方にお願いがあります。

<お願い事項>

史跡箇所がマンションであるため、マイクなどの拡声器を使って説明するがゆえに、住民に迷惑がかかるため、ぜひともマンション前でのご説明は差し控えてください。H氏からのご要望でもあります。

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幕末期のグルメ本に該当する「花の下影」に「三橋楼」が掲載されています。

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大阪会議の舞台の地となった場所のうちのひとつに「三橋楼」が該当します。

大久保利通日記から明治8年1月8日と1月26日の記載内容が下記の画像です。

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大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

今春は、3月23日に行います。

見どころは下記の通りです。詳しくはこちら

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・復帰した八軒家船着場の常夜燈

・大阪市の史跡に顕彰された「三橋楼跡」(大阪会議ゆかりの地)

・新選組の定宿「京屋忠兵衛」跡

・坂本龍馬ゆかりの船宿「堺屋源兵衛」跡

・新選組ゆかりの地 平野屋跡、岩城升屋跡

・花外楼

・大坂銀座跡

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などなど。

ぜひ、ご参加ください!

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三橋楼跡をはじめとした天満橋~北浜の史跡ツアーのご案内

天満橋~北浜の史跡ツアー

3月23日(日)13時~

http://www.osaka-asobo.jp/course29.html

天満橋から北浜にある史跡巡りを行います。

見どころは、三橋楼跡。大阪市の史跡として顕彰されました。

また、三橋楼移転後に同場所に建った大阪ハリストス正教会の聖堂も、名所として知られています。

大阪ハリストス正教会に現れた人物に新島襄ゆかりの人物、また坂本龍馬の従兄弟に当たる人物、懐徳堂の復興を悲願としていた人物など、これまで紹介していないネタを紹介いたします。

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もう1点は、一昨年、復帰した八軒家の常夜燈。

ぜひ、ご都合の合う方は

上記URLにアクセスしてください。

「大坂の史跡探訪 vol.3」

「大坂の史跡探訪 vol.3」

今年、発刊するシリーズものの「大坂の史跡探訪 vol.3」の原稿ができました。

発刊まで大阪龍馬会の編集スタッフにより、ページの校正や写真の配置、地図などを工夫していただき、5月25日の「大阪史跡探訪Vol.16」にあわせて発刊いたします。

史跡案内箇所は下記の写真のとおりです。

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三橋楼その7

三橋楼 その7

三橋楼についての続報です。

ついに大阪市により史跡として顕彰されました。

近日中に石碑が建立されるそうですが、説明板ができました。Resize0482 Resize0477 Resize0478 Resize0479

中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 22

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 22

三橋楼跡                       中央区石町1-1-1

中央区石町1丁目「天満橋ニュースカイハイツ」がある場所は、江戸期から明治期にかけて「三橋楼」という料亭があった。
高台にあったため「天神橋」「天満橋」「難波橋」三つの橋を眺望することができたところから三橋楼と名づけられた。
元治元年(1864)11月16日、新選組隊長 近藤勇の名による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。
勤王派、佐幕派の武士をはじめ町人たちが利用したと思われる。
慶応4年(1868)4月、大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、大久保は小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所 篤を招き、三橋楼で祝宴をあげている。

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最も有名なのは、明治7年(1874)~8年(1875)にかけ、大阪で繰り広げられた「大阪会議」の開催地のうちのひとつだったことである。
明治6年の政変後、大久保利通が政治の実権を握ったものの、不平士族の勢いが強まるばかりで、大久保が困り果てていた。そのような時期、井上馨、伊藤博文が、大久保利通に働きかけ、下野した木戸孝允の政界復帰の画策を行った。
木戸孝允、板垣退助、大久保利通が大阪で話し合いを行い、政界立て直しを目的で話し合いが数回行われた。
明治8年(1875)1月8日、木戸の宿泊先「加賀伊」に大久保が来訪。同伴にて「三橋楼」に場所を変え、10時間以上に及ぶ対談を行った。途中、黒田清隆が「三橋楼」に来訪。黒田は泥酔により両者の話をぶち壊してしまい、木戸は激怒し破談かと思われた。

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しかし、軌道修正され「国会開設」に向けて話し合いが行われるようになった頃、同年1月26日、木戸孝允の呼びかけで、「三橋楼」において「囲碁会」が開催された。
参加者は井上 馨、中野梧一、鳥尾小彌太、伊藤博文、大久保利通、五代友厚、税所 篤、内海忠勝(大阪府参事)、渡邊昇、山尾庸三などが参加した。

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その後、伊藤博文の宿泊先である「専崎楼」、木戸孝允の宿泊先である「加賀伊」で何度も話し合われた結果、同年2月11日「加賀伊」において三者(大久保、木戸、板垣)の和解が成立し、木戸孝允、板垣退助は条件付きで政界に復帰することとなった。
これを「大阪会議」という。
【陸軍参謀部を三橋楼に設置】
○明治10年3月、西南戦争における陸軍参謀部を「三橋楼」に設置。
3月は西郷軍と官軍と「田原坂の戦い」で激闘している。
「電報綴」「發翰(はっかん)日記」「電信其他原稿」などの史料が残っており、その史料には、参謀部が大阪三橋楼に設置されていたことが記載されている。
「電報綴」4月1日には、山県有朋が賊軍との戦について鳥尾小弥太に戦況報告を行っている。また、同日、西郷従道が案件に対し、至急、大久保利通に返答の手続きをとってほしい旨の電報を発信している。

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【新聞記事に掲載された三橋楼について】
朝日新聞では、創刊号(明治12年1月25日)以降、三橋楼に関わる記事や広告の記載件数が65件にも及んでいる。
○明治12年1月25日創刊号
2月2日に大来吟会が開催されることが紹介されている。
○明治12年2月4日号
一昨日の2月2日石町三橋楼での大来吟会にて、大阪府知事渡邊昇が出席し、その場で詠んだ詩を紹介している。
○明治12年3月11日号
 医事会同社の集会の様子と陸軍少将 三好重臣、中佐 高島鞆之助、少佐 白井胤良が臨席したことを紹介している。

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○明治12年11月13日号
 右大臣 岩倉具視が大坂に来ることになり、その際の旅宿は三橋楼に決まったことを紹介している。

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○明治15年4月26日号
朝鮮の賓客 金玉均一行が来阪。
大阪造幣局、大阪城を見学し三橋楼に投宿したことを報じている。
<金玉均> 
明治維新を模範とし清朝から独立・朝鮮近代化を目指した李氏朝鮮後期の政治家。
クーデター(甲申事変)を起こしたが、清朝の介入により、わずか3日間の政権で終了した。

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○明治15年7月18日号
移転広告。(6月、大阪ハリストス正教会に5,800円で転売。)
三橋楼は本町橋西詰に移転。

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○ 明治19年5月5日号
三橋楼は大川筋築地に移転。

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天満橋ニュースカイハイツの管理組合元理事長であるH氏からご教示いただいた内容を紹介する。
現在、天満橋ニュースカイハイツの北側には石垣と石崖がある。
上半分は江戸期のものできれいに石が切られて詰まれている。下半分は野面積みで丸い石を重ねていったもの。その上半分の石垣の東側に空洞があり、現在はコンクリートで蓋をしている。この空洞は、防空壕に使われた形跡は無く、戦国期から残る抜け穴という説があるようである。
洞穴は東西と南北にあって、マンションを建てた際、工事を手がけた業者が手を抜いたのか、空洞に丸い筒のようなものをはめ込み、中には雑用品を詰め込んであった。抜け穴は何のために掘られたのかが不明である。
蓮如上人の隠居先として建てられた御坊が、やがて総本山石山本願寺(大坂本願寺)と移っていくわけだが、本願寺時代の遺構ではないか。本願寺の遺構は天満橋付近にあったのではないか。という考えがあったようである。

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H氏は、「三橋楼」の経営者とそのご子孫を探したいという考えになり、随分と調査をされたようである。
「三橋楼」に関わる新聞記事や広告などが40数件あったなかで、三橋楼の経営者は、江戸期は「丸屋恒七」。
その後「鈴木」姓を名乗った。
「石町水帳(壱丁目)」にも記載があり、寸法を換算すると、ほぼ「天満橋ニュースカイハイツ」の土地にあてはまる。

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幕末の大坂を歩く(八重の桜編)

幕末の大坂を歩く(八重の桜編)

11月10日(日)、天満橋~北浜の幕末維新の史跡案内を行います。

今年の大河ドラマにあわせて、大阪にある新島八重のゆかりの地も訪ねます。

これまでの天満橋編をマイナーチェンジしての史跡案内です。

もちろん、復帰した「八軒家船着場の常夜燈」もコースに入ります。

さらに、明らかになった大阪会議ゆかりの地「三橋楼」跡も、存分に紹介させていただきます。

詳細はこちらです。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(19)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(19)

料亭「三橋楼」跡 

江戸期から明治期にかけて「三橋楼」という料亭があった。

高台にあったため「天神橋」「天満橋」「難波橋」三つの橋を眺望することができたところから三橋楼と名づけられた。

元治元年(1864)11月16日、新選組隊長 近藤勇の名による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。
慶応4年(1868)4月、大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、大久保は小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所 篤を招き、三橋楼で祝宴をあげている。
明治7年(1874)~8年(1875)にかけ、大阪で繰り広げられた「大阪会議」の開催地のうちのひとつだった。

明治6年の政変後、大久保利通が政治の実権を握ったものの、不平士族の勢いが強まるばかりで、政府が困惑状態だった。そのような時期、井上馨、伊藤博文が、大久保利通に働きかけ、大阪を舞台に下野した木戸孝允の政界復帰の画策が行われた。
明治8年(1875)1月8日、木戸の宿泊先「加賀伊」に大久保が来訪。同伴にて「三橋楼」に場所を変え、10時間以上に及ぶ対談を行った。途中、黒田清隆が「三橋楼」に来訪。黒田は泥酔により両者の話をぶち壊してしまい、木戸は激怒し破談かと思われた。しかし、軌道修正され、「国会開設」に向けて話し合いが行われるようになった頃、同年1月26日、木戸孝允の呼びかけで、「三橋楼」において「囲碁会」が開催された。

参加者は井上 馨、中野梧一、鳥尾小彌太、伊藤博文、大久保利通、五代友厚、税所 篤、内海忠勝(大阪府参事)、松本、渡邊父子、山尾庸三、吉富などが参加した。その後、同年2月11日「加賀伊」において三者(大久保、木戸、板垣)の和解が成立し、木戸孝允、板垣退助は条件付きで政界に復帰することとなった。
これを「大阪会議」という。

明治10年、西南戦争が起こると「三橋楼」に陸軍参謀本部が置かれた。このことは、あまり知られていない。

【関連写真】

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6月9日 講演会「歴史の舞台となった大坂」その3

6月9日 講演会「歴史の舞台となった大坂」その3

よこ会主催の「e-よこ逍遥」で講演したときのVTRの続きをアップいたします。

http://www.ustream.tv/recorded/23193759 ③

http://www.ustream.tv/recorded/23182095 ①

http://www.ustream.tv/recorded/23183313 ②

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