三橋楼とハリストス正教会 写真パネル展 開催
大阪大空襲70年
「石町一丁目の歴史 ~三橋楼とハリストス正教会」
2015年6月7日は、70年前の大阪大空襲の際に、同教会の聖堂が焼失されるなど大きな被害を受けました。
70年目という節目に、犠牲者の慰霊と平和の祈願のため、吹田市に移転した大阪ハリストス正教会の主催により、エル大阪で写真パネル展が開催されます。
ぜひ、お見逃しなく。
大阪大空襲70年
「石町一丁目の歴史 ~三橋楼とハリストス正教会」
2015年6月7日は、70年前の大阪大空襲の際に、同教会の聖堂が焼失されるなど大きな被害を受けました。
70年目という節目に、犠牲者の慰霊と平和の祈願のため、吹田市に移転した大阪ハリストス正教会の主催により、エル大阪で写真パネル展が開催されます。
ぜひ、お見逃しなく。
大阪史跡探訪Vol.16
2000年から継続して実施してきました大阪龍馬会主催「大阪史跡探訪」が5月25日で16回目を迎えることとなりました。
お申し込みはこちらまで
夕陽丘を紹介したVol.1の2000年以降、新発見があればその箇所を目玉として実施してきましたが、今年も継続して実施することができることとなりました。
これまで数回紹介いたしました「三橋楼」が、ついに大阪市の顕彰史跡となりました。2014年1月には説明板が設置され、石碑建立を待つだけとなりました。私が永田屋昆布店(店前に八軒家船着場の石碑が建立されている)に「三橋楼跡は現在どこに該当するのでしょうか?」と問いかけたことから、平成24年度、大阪市が顕彰史跡として№189「三橋楼跡」が登録されました。
奇跡としか言いようがありません。私以外に尽力された方による功績です。この内容は今年、大阪龍馬会から発刊される「大坂の史跡探訪vol.3」で執筆させていただきました。
三橋楼跡にお住いになっている某マンションH氏の尽力によるものです。
三橋楼は本町橋西詰に移転しますが、そのいきさつを東横堀川界隈で結成されているe-よこ会(東横堀川水辺再生協議会)から原稿依頼があり、投稿させていただいた内容が下記URLでアップされておりますのでご覧ください。
http://e-yokobori.jp/docs/news11.pdf
大阪市の顕彰史跡については下記URLをご覧ください。
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000243650.html
5月25日までに石碑が建立されればいうことがないのですが、H氏にお伺いすると、別の案件があるため、もう少し時間がかかるようです。
このブログ記事をご覧になっているガイドをされている方にお願いがあります。
<お願い事項>
史跡箇所がマンションであるため、マイクなどの拡声器を使って説明するがゆえに、住民に迷惑がかかるため、ぜひともマンション前でのご説明は差し控えてください。H氏からのご要望でもあります。
幕末期のグルメ本に該当する「花の下影」に「三橋楼」が掲載されています。
大阪会議の舞台の地となった場所のうちのひとつに「三橋楼」が該当します。
大久保利通日記から明治8年1月8日と1月26日の記載内容が下記の画像です。
大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜
今春は、3月23日に行います。
見どころは下記の通りです。詳しくはこちら。
・復帰した八軒家船着場の常夜燈
・大阪市の史跡に顕彰された「三橋楼跡」(大阪会議ゆかりの地)
・新選組の定宿「京屋忠兵衛」跡
・坂本龍馬ゆかりの船宿「堺屋源兵衛」跡
・新選組ゆかりの地 平野屋跡、岩城升屋跡
・花外楼
・大坂銀座跡
などなど。
ぜひ、ご参加ください!
天満橋~北浜の史跡ツアー
3月23日(日)13時~
http://www.osaka-asobo.jp/course29.html
天満橋から北浜にある史跡巡りを行います。
見どころは、三橋楼跡。大阪市の史跡として顕彰されました。
また、三橋楼移転後に同場所に建った大阪ハリストス正教会の聖堂も、名所として知られています。
大阪ハリストス正教会に現れた人物に新島襄ゆかりの人物、また坂本龍馬の従兄弟に当たる人物、懐徳堂の復興を悲願としていた人物など、これまで紹介していないネタを紹介いたします。
もう1点は、一昨年、復帰した八軒家の常夜燈。
ぜひ、ご都合の合う方は
上記URLにアクセスしてください。
JASS秋のイベント 大坂の幕末を歩くシリーズ3
夕陽丘周辺
JASS主催の秋のイベントに夕陽丘をご案内いたします。
JASS会員の皆様へのご案内が主となりますが、定員に余裕があるため、一般の方も参加できます。
ご都合の合う方は下記の日時に集合場所へお越しください。
地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘駅 北西改札出て2番出口上がったところに13時集合です。
参加費は2000円です。
行程は次の通りです。
・陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡/稱念寺
・夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)/稱念寺
・陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺)
・陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺)
・原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺)
・陸奥家墓所に常夜燈の寄贈したおもな人物 岡崎邦輔、鍋島桂次郎、竹越与三郎、星 亨、アーネスト・サトウ
・薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡
・加賀藩大坂蔵屋敷ゆかりの石鳥居(太平寺)
・小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西照庵(さいしょうあん)跡
・赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所/吉祥寺
・赤穂義士四十七士墓所/吉祥寺
・大石内蔵助良雄像と赤穂義士四十七士像/吉祥寺
・<兵庫県加東市にある赤穂義士の墓/観音寺 加東市家原(いえはら)14-4>
・戦国武将 蜂須賀小六(正勝)顕彰之碑/吉祥寺
・幕末期 関白太政大臣 二條斉敬邸 遺構/鳳林寺
・上島鬼貫墓所/鳳林寺
・赤松家の墓所/鳳林寺
・大坂城代米倉丹後守種継父子墓碑/鳳林寺
・米倉丹後守昌尹墓碑/鳳林寺
・安部摂津守信勝墓碑/鳳林寺
・松本重太郎墓所/鳳林寺
・柴田勝家・お市供養墓碑/天鷲寺
・愛染かつら/勝鬘院
・多宝塔/勝鬘院
・愛染坂
・舊山口藩殉難諸士招魂之碑/大江護国神社
<残念さん(山本文之助)と無念柳>
<長州藩士切腹の地(東本願寺難波別院=南御堂)>
・料亭 浮瀬(うかむせ)跡
・蕉蕪園(しょうぶえん)
・大江岸水記念碑
・天王寺七名水 金 龍 水
・天王寺七坂 清 水 坂
・天王寺七名水 有栖の清水(土州御用水)跡
<土佐藩専用の浴室 三橋楼>
・清 水 寺
・天王寺七名水 増井の清水(増井弁財天)
・天王寺七坂 天 神 坂
・真田幸村戦死地跡(安居神社)
<大坂冬の陣ゆかりの地 真田丸(真田の出丸)跡/真田山 心眼寺>
<真田丸(真田の出丸)跡>
・安井の清水(癇鎮めの井戸)
・天王寺七坂 逢坂
・大坂夏の陣 徳川家康陣所跡/一心寺
・本多忠朝(ただとも)墓所/一心寺
・明治戊辰戦役 会津藩士墓所/一心寺
・明治戊辰戦役 東軍戦死者招魂碑/一心寺
・水戸藩士 高橋多一郎・庄左衛門墓所/四天王寺
・乾 十郎君之碑/四天王寺
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 22
三橋楼跡 中央区石町1-1-1
中央区石町1丁目「天満橋ニュースカイハイツ」がある場所は、江戸期から明治期にかけて「三橋楼」という料亭があった。
高台にあったため「天神橋」「天満橋」「難波橋」三つの橋を眺望することができたところから三橋楼と名づけられた。
元治元年(1864)11月16日、新選組隊長 近藤勇の名による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。
勤王派、佐幕派の武士をはじめ町人たちが利用したと思われる。
慶応4年(1868)4月、大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、大久保は小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所 篤を招き、三橋楼で祝宴をあげている。
最も有名なのは、明治7年(1874)~8年(1875)にかけ、大阪で繰り広げられた「大阪会議」の開催地のうちのひとつだったことである。
明治6年の政変後、大久保利通が政治の実権を握ったものの、不平士族の勢いが強まるばかりで、大久保が困り果てていた。そのような時期、井上馨、伊藤博文が、大久保利通に働きかけ、下野した木戸孝允の政界復帰の画策を行った。
木戸孝允、板垣退助、大久保利通が大阪で話し合いを行い、政界立て直しを目的で話し合いが数回行われた。
明治8年(1875)1月8日、木戸の宿泊先「加賀伊」に大久保が来訪。同伴にて「三橋楼」に場所を変え、10時間以上に及ぶ対談を行った。途中、黒田清隆が「三橋楼」に来訪。黒田は泥酔により両者の話をぶち壊してしまい、木戸は激怒し破談かと思われた。
しかし、軌道修正され「国会開設」に向けて話し合いが行われるようになった頃、同年1月26日、木戸孝允の呼びかけで、「三橋楼」において「囲碁会」が開催された。
参加者は井上 馨、中野梧一、鳥尾小彌太、伊藤博文、大久保利通、五代友厚、税所 篤、内海忠勝(大阪府参事)、渡邊昇、山尾庸三などが参加した。
その後、伊藤博文の宿泊先である「専崎楼」、木戸孝允の宿泊先である「加賀伊」で何度も話し合われた結果、同年2月11日「加賀伊」において三者(大久保、木戸、板垣)の和解が成立し、木戸孝允、板垣退助は条件付きで政界に復帰することとなった。
これを「大阪会議」という。
【陸軍参謀部を三橋楼に設置】
○明治10年3月、西南戦争における陸軍参謀部を「三橋楼」に設置。
3月は西郷軍と官軍と「田原坂の戦い」で激闘している。
「電報綴」「發翰(はっかん)日記」「電信其他原稿」などの史料が残っており、その史料には、参謀部が大阪三橋楼に設置されていたことが記載されている。
「電報綴」4月1日には、山県有朋が賊軍との戦について鳥尾小弥太に戦況報告を行っている。また、同日、西郷従道が案件に対し、至急、大久保利通に返答の手続きをとってほしい旨の電報を発信している。
【新聞記事に掲載された三橋楼について】
朝日新聞では、創刊号(明治12年1月25日)以降、三橋楼に関わる記事や広告の記載件数が65件にも及んでいる。
○明治12年1月25日創刊号
2月2日に大来吟会が開催されることが紹介されている。
○明治12年2月4日号
一昨日の2月2日石町三橋楼での大来吟会にて、大阪府知事渡邊昇が出席し、その場で詠んだ詩を紹介している。
○明治12年3月11日号
医事会同社の集会の様子と陸軍少将 三好重臣、中佐 高島鞆之助、少佐 白井胤良が臨席したことを紹介している。
○明治12年11月13日号
右大臣 岩倉具視が大坂に来ることになり、その際の旅宿は三橋楼に決まったことを紹介している。
○明治15年4月26日号
朝鮮の賓客 金玉均一行が来阪。
大阪造幣局、大阪城を見学し三橋楼に投宿したことを報じている。
<金玉均>
明治維新を模範とし清朝から独立・朝鮮近代化を目指した李氏朝鮮後期の政治家。
クーデター(甲申事変)を起こしたが、清朝の介入により、わずか3日間の政権で終了した。
○明治15年7月18日号
移転広告。(6月、大阪ハリストス正教会に5,800円で転売。)
三橋楼は本町橋西詰に移転。
天満橋ニュースカイハイツの管理組合元理事長であるH氏からご教示いただいた内容を紹介する。
現在、天満橋ニュースカイハイツの北側には石垣と石崖がある。
上半分は江戸期のものできれいに石が切られて詰まれている。下半分は野面積みで丸い石を重ねていったもの。その上半分の石垣の東側に空洞があり、現在はコンクリートで蓋をしている。この空洞は、防空壕に使われた形跡は無く、戦国期から残る抜け穴という説があるようである。
洞穴は東西と南北にあって、マンションを建てた際、工事を手がけた業者が手を抜いたのか、空洞に丸い筒のようなものをはめ込み、中には雑用品を詰め込んであった。抜け穴は何のために掘られたのかが不明である。
蓮如上人の隠居先として建てられた御坊が、やがて総本山石山本願寺(大坂本願寺)と移っていくわけだが、本願寺時代の遺構ではないか。本願寺の遺構は天満橋付近にあったのではないか。という考えがあったようである。
H氏は、「三橋楼」の経営者とそのご子孫を探したいという考えになり、随分と調査をされたようである。
「三橋楼」に関わる新聞記事や広告などが40数件あったなかで、三橋楼の経営者は、江戸期は「丸屋恒七」。
その後「鈴木」姓を名乗った。
「石町水帳(壱丁目)」にも記載があり、寸法を換算すると、ほぼ「天満橋ニュースカイハイツ」の土地にあてはまる。
幕末の大坂を歩く(八重の桜編)
11月10日(日)、天満橋~北浜の幕末維新の史跡案内を行います。
今年の大河ドラマにあわせて、大阪にある新島八重のゆかりの地も訪ねます。
これまでの天満橋編をマイナーチェンジしての史跡案内です。
もちろん、復帰した「八軒家船着場の常夜燈」もコースに入ります。
さらに、明らかになった大阪会議ゆかりの地「三橋楼」跡も、存分に紹介させていただきます。
BRIDGE e-よこ会(東横堀川水辺再生協議会) JASS NHK「龍馬伝」関連 NHK大河ドラマ主人公関連 NHK大河ドラマ関連 OSAYAN osayan クイズコーナー osayanの取材日記 TSビル あすなろ お龍 こめんと アントニウス・ボードウィン アーネスト・サトウ オリジナルソング クイズ シーボルト ハリー・パークス プリンセストヨトミ レトロ建築 三条実美 三橋楼跡 上島鬼貫 上町学プロジェクト 中岡慎太郎 乾 十郎 五代友厚 井上馨 井伊直弼 井原西鶴 京街道 京都の史跡関連 仁 伊藤博文 伊達宗城 伊達宗広 会津藩 住友関連 佐久良東雄 佐賀藩関連 八軒家船着場跡 兵庫県知事 加藤清正 勝 海舟 勝小吉 北畠顕家 南方熊楠 原敬 句碑 司馬遼太郎 吉田松陰 和歌山の史跡関連 和歌山市の史跡 喜多俊之 土佐勤王党 土佐海援隊 土佐藩関連 土佐陸援隊 土居通夫 土方歳三 土浦藩 坂の上の雲 坂本龍馬 坂本龍馬の豆知識 堺事件 堺屋太一 夕陽丘 大久保利通 大坂の史跡紹介 大坂ゆかりの地 大坂城 大坂城代 大坂定番 大坂蔵屋敷関連 大坂銀座跡 大坂銅座跡 大塩平八郎 大村益次郎 大村藩関連 大石内蔵助 大阪あそ歩 大阪まちあるきCUP 大阪ハリストス正教会 大阪会議ゆかりの地 大阪城 大阪天満宮 大阪府知事 大阪旅めがね 大阪歴史塾 大阪珍百景 大阪砲兵工廠 大阪龍馬会 天満橋 天誅組 天誅組関連 学生時代 宇和島藩関連 安藤忠雄 宣教師ニコライ 専崎楼 専称寺 専稱寺 小松帯刀 尾張藩関連 山南 敬助 岩倉具視 岩崎彌太郎 岸和田の史跡関連 岸和田市の史跡 岸和田藩 島津久光 幕末の志士が歩いた大坂 幕臣関連 平 将門 平 清盛 彦根藩 後藤象二郎 後醍醐天皇 徳川光圀 徳川吉宗 徳川家光 徳川家康 徳川家茂 徳川慶喜 徳川斉昭 戦国大名 抜け穴 文化・芸術 文学碑 新婚旅行 新選組 旧街道・城下町を歩く 明治以降の大阪 明治天皇 明治天皇碑 昭憲皇太后 東久世通禧 東海道五十七次 東郷平八郎 松尾芭蕉 松平容保 松平春嶽 松本重太郎 板垣退助 柴田勝家・お市の方 桂小五郎 桂小五郎・木戸孝允 桑名藩関連 楠木正成 楠木正行 武市半平太 歴史 歴史こぼれ話 水戸藩関連 江戸川乱歩 池内大学 沢辺琢磨 河井継之助 法性寺 浜口儀兵衛 海軍塾 清河八郎 源 義経 演劇 演劇集団キャラメルボックス 濱﨑太平次 熊野街道 甲斐よしひろ 真田幸村(信繁) 石垣 石山本願寺 石田三成 砲台 神戸の史跡関連 神戸事件 神戸史跡 神戸史跡関連 神戸海軍塾 福澤諭吉 稱念寺 稲畑勝太郎 竜馬がゆく 築地蟹島 紀州藩関連 紀州街道 緒方洪庵 織田信長 茶川一郎 蓮如上人 薩万 薩摩屋半兵衛 薩摩藩御用商人 薩摩藩関連 藤原家隆 西国街道 西大寺観音院 西郷吉之助 豊臣期の大坂 豊臣期の大坂を歩く 豊臣秀吉 豊臣秀頼 赤穂義士ゆかりの地 足利尊氏 近藤 勇 近藤長次郎 追手門学院 追手門学院 大阪城スクエア 適塾 金田一耕助 長岡藩関連 長州藩関連 関西大学 陸上競技部 陸奥宗光 雙松岡塾 難波宮 高島鞆之助 高杉晋作 高槻 高橋泥舟 黒田如水 黒田清隆 齢延寺 龍谷大学
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