稱念寺

大坂の幕末を歩く 2014年 春 夕陽丘

大坂の幕末を歩く

4月20日、幕末をテーマに夕陽丘の史跡をご案内します。

地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅に13時集合です。

詳細はこちら

案内箇所は下記の通りです。

土佐藩士遭難の地、土浦藩蔵屋敷、ボードウィン寓居跡、アーネスト・サトウ宿泊の地、アーネスト・サトウと西郷吉之助対談の地跡、水戸藩士ゆかりの地、新選組旅宿跡、司馬遼太郎「燃えよ剣」ゆかりの地、陸奥宗光墓所跡、小松帯刀墓所跡

など、非常に盛りだくさんです。すでに定員に達しているため、予約状況が×になっていますが、キャンセルが出るかもしれません。

この日は、13時に地下鉄松屋町駅改札出たところに集合です。

ぜひ、この機会をお見逃しなく!

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JASS秋のイベント 大坂の幕末を歩くシリーズ3 

JASS秋のイベント 大坂の幕末を歩くシリーズ3

夕陽丘周辺

JASS主催の秋のイベントに夕陽丘をご案内いたします。

JASS会員の皆様へのご案内が主となりますが、定員に余裕があるため、一般の方も参加できます。

ご都合の合う方は下記の日時に集合場所へお越しください。

地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘駅 北西改札出て2番出口上がったところに13時集合です。
参加費は2000円です。
行程は次の通りです。

・陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡/稱念寺 

・夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)/稱念寺 

・陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺) 

・陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺) 

・原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺) 

・陸奥家墓所に常夜燈の寄贈したおもな人物 岡崎邦輔、鍋島桂次郎、竹越与三郎、星 亨、アーネスト・サトウ 

・薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡 

・加賀藩大坂蔵屋敷ゆかりの石鳥居(太平寺) 

・小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西照庵(さいしょうあん)跡 

・赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所/吉祥寺 

・赤穂義士四十七士墓所/吉祥寺 

・大石内蔵助良雄像と赤穂義士四十七士像/吉祥寺 

・<兵庫県加東市にある赤穂義士の墓/観音寺 加東市家原(いえはら)14-4>  

・戦国武将 蜂須賀小六(正勝)顕彰之碑/吉祥寺 

・幕末期 関白太政大臣 二條斉敬邸 遺構/鳳林寺 

・上島鬼貫墓所/鳳林寺 

・赤松家の墓所/鳳林寺 

・大坂城代米倉丹後守種継父子墓碑/鳳林寺 

・米倉丹後守昌尹墓碑/鳳林寺 

・安部摂津守信勝墓碑/鳳林寺 

・松本重太郎墓所/鳳林寺 

・柴田勝家・お市供養墓碑/天鷲寺 

・愛染かつら/勝鬘院  

・多宝塔/勝鬘院 

・愛染坂 

・舊山口藩殉難諸士招魂之碑/大江護国神社 

<残念さん(山本文之助)と無念柳> 

<長州藩士切腹の地(東本願寺難波別院=南御堂)> 

・料亭 浮瀬(うかむせ)跡 

・蕉蕪園(しょうぶえん)  

・大江岸水記念碑 

・天王寺七名水 金 龍 水  

・天王寺七坂 清 水 坂  

・天王寺七名水 有栖の清水(土州御用水)跡  

<土佐藩専用の浴室 三橋楼>
・清 水 寺  

・天王寺七名水 増井の清水(増井弁財天)  

・天王寺七坂 天 神 坂 

・真田幸村戦死地跡(安居神社)  

<大坂冬の陣ゆかりの地 真田丸(真田の出丸)跡/真田山 心眼寺> 

<真田丸(真田の出丸)跡> 

・安井の清水(癇鎮めの井戸) 

・天王寺七坂 逢坂  

・大坂夏の陣 徳川家康陣所跡/一心寺   

・本多忠朝(ただとも)墓所/一心寺  

・明治戊辰戦役 会津藩士墓所/一心寺   

・明治戊辰戦役 東軍戦死者招魂碑/一心寺  

・水戸藩士 高橋多一郎・庄左衛門墓所/四天王寺  

・乾 十郎君之碑/四天王寺

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 8

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 8

 薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡    天王寺区夕陽丘町5-14

地名を「夕日岡」と創名した伊達宗広(陸奥宗光の父)が、「自在庵」に在住中、維新の功労者 薩摩藩元家老の小松帯刀が、明治3年(1870)大阪で病死し、夕陽丘に埋葬された。
【明治維新の國士小松帯刀の碣(いしぶみ)も此處(ここ)にあった】と田中吉太郎著「夕陽丘の回顧」に記載があり、伊達宗広の敷地一角に小松帯刀と帯刀の側室 琴 仙子(ことせんこ)の墓があった。

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両者の墓は明治9年(1876)10月3日、鹿児島県吉利村園林寺にある小松家墓地に改葬された。
小松帯刀は明治に入り、徴士参与と外国事務局判事に任命され、主に外交を主として新政府に出仕したが、従来の過労で体調が芳しくなかった。
明治2年(1869)7月、大阪にて蘭医ボードウィンの治療を受けた。
明治天皇は2度にわたり、小松に菓子・肴の見舞い品を贈り、病気全快次第に東京在住するよう示達されている。
昨今、脚気により病死したと思われていたが、死因は結核である可能性が高いといわれている。
息を引き取ったのは、小松家では代々「大阪病院・医学校」と伝わっているが、歴史作家・研究家の桐野作人氏による「さつま人国誌 幕末・明治編2」では、大阪大宝寺町にあった側室 琴 仙子の家と紹介されている。小松の同友だった「五代友厚秘史」が出典。
正室 近(ちか)や五代友厚などの薩摩藩関係者に看取られて静かに永眠した。(明治3年7月19日深夜1時頃)
小松の葬儀は21日、神葬祭で行われた。費用は800両かかった。
同年12月13日。小松の墓参りのため、大久保利通と五代友厚がここを訪れている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 7

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 7

陸奥家墓所に常夜燈の寄贈をしたおもな人物

                                                                       天王寺区夕陽丘町5-14

 
<岡崎邦輔>
立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。
生家の長坂家は紀州徳川家に仕える家系で町奉行、勘定奉行を務める家柄だった。
また、岡崎の母親は陸奥宗光の母親と姉妹で陸奥と岡崎は従兄弟の関係にある。
陸奥宗光の死後、自身と同じく宗光より引き立てを受けた星亨に接近し、星の快刀として隈板内閣倒閣、立憲政友会結成などに活躍した。明治33年(1900)、第4次伊藤内閣の逓信大臣となり、星亨のもとで逓信大臣官房長を務めた。

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<鍋島桂次郎>
貴族院議員

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<竹越与三郎>
慶応元年(1865)生まれ。明治14年(1881)、慶應義塾に入学して翌年中退。
明治維新を内外の危機的状況で国民の活力が発揮された「乱世的革命」と位置づけて、王政復古史観や佐幕・勤皇・藩閥論に対して強く批判した。
陸奥宗光、西園寺公望らの世話を受け、明治29年(1896)、『世界の日本』の主筆に迎えられた。同年開拓社より、代表作となる日本通史『二千五百年史』が刊行された。伴信友の『史籍年表』などを元にして古代から明治維新までの歴史を描き、神武天皇の東征を天孫人種と土着人種の民俗対立と捉え、南北朝正閏論(南北のどちらを正統とするかの論争)を論じるなど、文明史の立場から皇国史観とは違う視点から日本史を論じて版を重ねた。

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<星 亨>
嘉永3年(1850)4月8日、江戸の左官屋として生まれ、当初は医学を志していたが、英学を学び英語教師として身を立てる。
明治維新後、陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、一時横浜税関長となるが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張し一歩も譲らず、「女王事件」を引き起こし、引責辞任した。
第2代衆議院議長、第2代逓信大臣などを歴任している。

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<アーネスト・サトウ>
1834年ロンドンに生まれる。14歳の時、「支那日本訪問見聞録」を読んで、未知の日本に興味を持ち、外交官を志した。
大学を飛び級で卒業し、19歳で日本駐在通訳として文久2年(1862)9月8日に来日。
オールコック、パークスと2代にわたり通訳官、外交官として活躍した。
日本の政情を分析し匿名で「英国策論」という論文を発表。
内容は【「タイクン(将軍)」は大名達の盟主という存在であり、国の元首ではない。幕府は日本の公式な政府ではないので外交交渉を行うことは無意味である。イギリスとしては天皇を君主とする雄藩連合を援助し、日本の政治形態を一新させ、対日交易の円滑化を図るべきである。】というものであった。
そのため、サトウは幕閣にとどまらず薩摩藩を筆頭に幕末維新で活躍した著名な人物のほとんどに会っている。通訳官から書記官に昇格し、公使の補佐として活躍。日本語も抜群に上達し、候文まで読み書きができるようになっている。
明治16年(1883)離日したが、駐日公使として明治28年(1895)再来日し、明治33年(1900)まで勤めた。
日本の政治に大きく関わった外国人のうちの一人といえる。
昭和4年(1929)、86歳で生涯を終えた。

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<古川市兵衛>

古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。

古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。明治17年(1884)、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになる。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 6

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 6

原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺) 
                                                                       天王寺区夕陽丘町5-14

 
明治40年(1907)8月、当時、第一次西園寺公望内閣の内務大臣を務めていた原 敬は、陸奥宗光に恩恵を受けた。

原 敬は、宗光の死から10年後、陸奥家墓所に「陸奥宗光に追慕の意を表す碑」を建立した。碑の高さは「夕陽丘阡表」と同じくらいの高さで原 敬が宗光に対する追慕の辞が記載されている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 5

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 5

陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺)
                                                                       天王寺区夕陽丘町5-14

明治元年(1868)、陸奥宗光が大阪府権判事に就任した頃、蓮子と結婚した。

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宗光が神奈川県知事だった明治5年(1872)2月、蓮子は亡くなり、神奈川県の「豊顕寺(ぶげんじ)」に埋葬された。
父 宗広が明治10年(1877)に亡くなると蓮子の遺骨もこの地に埋葬された。あたらしく墓碑も建てられる。
昭和28年(1953)、陸奥家墓所が神奈川県鎌倉市の寿福寺に移葬された折、蓮子の墓碑だけ置き去りにされた(遺骨は寿福寺に移されている)。この墓碑の側面には、明治5年、蓮子は亡くなり、豊顕寺に埋葬されたことが記載されている。
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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 4

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 4

陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺)
                                                                       天王寺区夕陽丘町5-14

宗光は幼少期、父と兄が勤王活動をしたことで蟄居の刑を受け不遇な時期を過ごした。単身、大坂に出て藤沢東畡の泊園書院にて漢学を学ぶ。元治元年、師である藤沢東畡の死により、やむなく方向転換させられる。大坂在住時に懇意があった勝海舟の門をたたき、神戸海軍塾の塾生となる。しかしそれもつかの間、勝海舟が江戸蟄居の刑を受け、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾は解散となる。彼はまた途方に暮れることになる。海舟の口利きで薩摩藩が塾生の面倒を見ることとなり、坂本龍馬らとともに長崎で社中の隊士となる。隊長は薩摩藩の小松帯刀。このとき小松と陸奥との出会いが、ここ夕陽丘の同じ場所で永眠することになることとなる。

のちに社中は土佐海援隊となる。

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隊長は坂本龍馬。大政奉還により明治新政府ができた直後、隊長の坂本龍馬が暗殺されてしまう。

彼は、再度途方に暮れる。1か月後、当時暗殺したのは紀州藩士および新選組と考えられており、新選組と紀州藩士がいる「天満屋」を襲撃する事件を起こす。新選組が襲撃された珍しい事件である。

これが失敗に終わり、宗光は一時消息不明となる。

ところが大阪開市により川口に税関が置かれる際、ひょっこりと現れ、海援隊に尽力を尽くしたことのある五代友厚の側近として外国事務掛として活躍する。小松帯刀も大阪にいたので、陸奥の才能を見込んで抜擢されたと思われる。

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彼は、大阪府の北部にある摂津県の初代知事に就任する。その後豊崎県と改称され、さらに兵庫県と統合。陸奥は第4代兵庫県知事に就任する。

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そののち、政界の道を彼は進む。ところが、西南戦争時に「立志社陰謀事件」に加担し、その罪で明治11年から4年間牢獄生活を送る。

特赦で釈放後、留学し外国の事情を視察する。帰国後、外務省在勤弁理公使に任命される。

アメリカの公使を務め、明治23年、山県有朋内閣の農商務大臣に任命される。明治25年、第二次伊藤博文内閣で外務大臣に就任。

幕末期に各国と結んだ不平等条約の改正に尽力した。

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陸奥宗光は、明治30年(1897)、8月24日死去。享年54歳。

葬儀は浅草海善寺で執り行われ、11月、ここ夕陽丘に埋葬された。

その後、この地は伊達宗広と陸奥宗光をはじめとした陸奥家墓所となった。

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墓所には菩提樹や献納された常夜燈があり、現在の墓所跡にもそれらは残されている。昭和28年(1953)、陸奥家の遺族が墓所を寿福寺(神奈川県鎌倉市)に移葬した。しかし、現在でも稱念寺内には当時の面影が残されている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 3

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 3

清(さや)地蔵(稱念寺)
 

                                                                       天王寺区夕陽丘町5-14

陸奥宗光の最初の妻 蓮子が亡くなった明治5年(1872)に、亮子と再婚。

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亮子との間に生まれた長女 清子(さやこ)が翌年に生まれた。しかし、明治26年(1893)、清子が20歳のとき腸チフスにより若くして亡くなる。宗光と亮子はその死を悼み、等身大の地蔵尊を陸奥家墓所に設けた。

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大坂の幕末を歩く 3 ~夕陽丘周辺Vol.2~ 1

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 1

陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡/稱念寺
                                 天王寺区夕陽丘町5-14


伊達宗広は享和2年(1802)5月25日、紀州藩士の家に生まれた。
紀州藩主 徳川治宝(はるとみ)は宗広の才能を評価し18歳で藩の監察に任命する。
その後、宗広は勘定吟味役、勘定奉行、寺社奉行兼務と昇進して500石取りとなった。家老山中筑後守を補佐して藩政改革を推進する一方で、藩内の尊王論を主導した。
嘉永5年(1852)、山中筑後守、更には藩主 治宝が相次いで病死すると、改革に反対する派閥が推す家老水野忠央が実権を握った。
幕府からの信頼も厚かった水野は、藩内に危険な思想を広めたとして、宗広をは捕え10年近くにわたり紀伊国田辺に幽閉を命じた。
文久元年(1861)、その才能を惜しんだ土佐藩 山内容堂の口利きによって宗広が釈放されると、養子である宗興に家督を譲って隠居した。
翌年、宗興とともに脱藩して上洛、尊皇攘夷運動に参加した。これを知った紀州藩は激怒し、宗広・宗興は和歌山に連れ戻され、再び幽閉の身となった。
明治維新後、実子の陸奥宗光が新政府に出仕。宗光の功績が讃えられ、明治2年(1869)、宗広は幽閉が解かれ、宗興も和歌山藩執政に抜擢された。紀州藩は過酷な措置を行ってきたお詫びとして宗広に隠居料200石を与えた。
宗広はその後歌道に専念し、大阪夕陽丘にある歌人藤原家隆の荒廃していた墓を修理し、付近の土地千百数坪を購入し「自在庵(じざいあん)」を築き、余生を歌道に専念しようとした。
家隆の歌からこの地名を「夕日岡」と創名したのは伊達宗広である。
明治5年(1872)、宗広は病状が悪くなり宗光邸のある東京深川清川町に移り住むことになり、夕陽丘を離れることになった。
移る際、宗広は次のような句を詠んだ。

空蝉の 殻は何處に 朽ちぬとも
      我魂やどる かた岡ぞこれ

宗広は明治10年(1877年)5月18日に亡くなり、遺言により夕陽丘に埋葬された。
その後、陸奥家墓所跡に在住する稱念寺により宗広の句碑が建立された。

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2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

下記のとおり日程が決まり、受付が開始されました。

10月14日が早くも△になっているのに驚きです。

夕陽丘コースは、今回新ネタありです!

<夕陽丘コース>

・実施日時  10月14日(日)14:00   11月4日(日)14:00

http://www.osaka-asobo.jp/course68.html

<北浜コース>

・実施日時  11月3日(月)14:00   11月11日(日)14:00

  http://www.osaka-asobo.jp/course49.html

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