2016 春の史跡探訪
春の史跡探訪の日程が決まりました。
ご都合が合う方はぜひご参加ください。
1.幕末:祇園・東山
3月27日(日) 13:00~ 京阪電鉄祇園四条駅南改札口前に集合。
祇園・八坂・清水周辺の幕末史跡めぐりです。
江戸時代の人々は必ず寺の宗派に属しなければならなかったのですが、勤皇を唱える志士たちはあえて(神道による葬儀にて)霊山に葬られることを望みました。その霊明神社を訪れます。
坂本龍馬と中岡慎太郎の遺体が運ばれた維新葬送の道、明治初期、先立たれた夫の墓守のため、居住していた坂本龍馬の妻 お龍の住居跡をご案内。
慶応3年11月15日、軍鶏を買いに行ったM。近江屋に帰ってきたら坂本龍馬と中岡慎太郎が賊徒に襲撃された後だった。Mとは誰か? 家に伝わる当時のMの体感をお伝えします。
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2.神戸史跡探訪
4月2日(土) 13:00~ 阪急電鉄神戸三宮駅東改札口前
神戸のガイドブックに記載のない箇所を含めた史跡を巡ります。
兵庫県初代知事は誰か? その知事の神戸寓居跡を訪れる。
神戸にあった勝海舟邸跡は現在のどの地に該当するか。意外な場所だった。
勝海舟が、一大共有の海局、幕臣だけでなく各藩から訓練生を募り、日本の海軍を増強し、西洋の強国に屈しないための訓練所を神戸に定め、14代将軍徳川家茂に直談判を行い許可を得た「神戸海軍操練所」跡を巡る。兵庫が開港されたのは1868年1月1日(慶応3年12月7日)。明治新政府初外交の場、神戸税関発祥の地を訪れる。勝海舟、坂本龍馬、伊藤博文、東郷平八郎、荒木村重などのゆかりの地を訪れます。
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3.大阪史跡探訪Vol.19
4月17日(日) 二部制
午前午後、午前のみ、午後のみ の参加が可能
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4.高槻
日時:4月29日(祝)
10世紀末からあったとされる高槻城。戦国期以降高槻城の城主が次のように頻繁に入れ替わり統治してきました。入江春継、織田信長、和田惟政、高山友照・右近父子、新庄直頼、青山忠成、内藤信正、土岐定義、松平家信、岡部宣勝、松平康信、永井直清。高槻城とその城下町にある史跡をご案内します。
キリシタン大名高山右近ゆかりの地、江戸期は普代大名が治めた地、高槻を城下町中心にめぐります。
JR高槻駅~山崎の合戦羽柴秀吉本陣跡~西国街道芥川宿~松永久秀鼓塚~高槻城出丸の門跡~高槻城三の丸・外堀跡~藤井竹外邸跡~高山右近像~高槻天主教会跡~陸軍工兵第四聯隊跡~高槻城跡~司馬遼太郎勉学の地~蔵屋敷跡~高槻藩校「菁莪堂」跡~森田無紘の生家、小倉邸跡~高槻城北大手門跡
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幕末・大坂の龍馬② 西区
大坂の龍馬史跡探訪を行います。
実施日 2014年11月15日(土)
集合場所 南海電気鉄道「粉浜駅」改札口出たところ
集合時間 13時00分
案内箇所
・土佐藩住吉陣屋跡・弾薬製造所跡
・土佐藩住吉陣屋遺構の石垣(生根神社)
・赤穂義士(大石内蔵助他)の墓(一運寺)
・坂本龍馬宿泊の地「三文字屋」跡
・住吉陣屋ゆかりの興善寺跡・薩摩藩祖 島津忠久誕生の地(誕生石)
・土佐藩住吉陣屋撤去時献納の常夜燈
南海電鉄住吉大社駅→南海電鉄なんば駅→大阪市地下鉄御堂筋線なんば駅→大阪市地下鉄御堂筋線本町駅 《移動》
・北御堂・近藤長次郎挙式(大和屋弥七邸)跡
・坂本お龍 独身時代の武勇伝
・勝海舟寓居(専称寺、大坂海軍塾)跡
・船宿 河内屋与次兵衛跡
・坂本龍馬訪問の地 大坂西町奉行所跡
・五代友厚像・土居通夫像
・大村益次郎寓居(漏月庵)跡
・新選組定宿京屋忠兵衛跡
・船宿堺屋源兵衛跡・八軒家常夜燈
解散場所:京阪電鉄、大阪市地下鉄天満橋駅
勝海舟・西郷吉之助の初会談
元治元年、9月11日。長州問題、兵庫開港問題を問い詰めるため、薩摩藩 西郷吉之助は大坂に居る勝海舟の旅宿先である専稱寺を訪問。
勝海舟を打ちたたくつもりで臨んだ西郷は、勝海舟に頓と頭を下げ、佐久間象山亡きあと、第一の人物は勝海舟といわしめた会談の場所が大坂専稱寺です。
4月5日はこの場所を訪問します。
詳細はこちら
大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜
今春は、4月5日(土)に行います。
見どころは下記の通りです。こちらです。
<勝海舟 寓居(専稱寺)跡>
文久2年(1862)閏8月17日、軍艦奉行並に就任した勝 海舟は、同年12月、軍艦順動丸で大坂天保山に投錨し来坂しました。
その後、大坂を基盤に兵庫、泉州、紀州などを訪れ、砲台の設置場所を吟味しています。
坂本龍馬の幼馴染だった望月亀弥太(のちに「池田屋の変」で闘死)の手紙には、次のような記載があります。
(前文省略)
私も今七日京都出足その夜伏見より船に乗り、八日朝7ツ半(五時)頃大坂八軒家に着き申し、御屋敷(藩邸)の近へ宿をとり、夕方勝先生(海舟)の御旅宿へ参り候処先生にはいまだ御用之有る趣にて船出延引、同九日本町三丁目先生の御旅宿に逗留、住吉の陣屋に行き申し候。同十一日大坂より船にて兵庫に参り申し候。(以下省略)
(望月亀弥太が母に送った手紙)
文久三年正月廿一日
勝 海舟の日記にも文久3年(1863)正月九日、土州の数輩、わが門に入り、坂本龍馬と時勢を論じたことが書かれています。
文久3年(1863)1月の段階では「本町三丁目」に逗留していたと思われますが、正確な場所は不明です。
「海舟日記」によりますと、次のような記載があります。
文久3年2月27日
朝、上陸。
安治川一丁目順正寺旅館に到る。(以下省略)
日記にあるように同年2月には「順正寺」を大坂の寓居先にしていました。順正寺の場所は、現在の大阪市福島区野田1丁目、中央卸売市場のあたりにありました。勝 海舟は寓居先をすぐに別の場所に変更しています。
「海舟日記」の文久3年(1863)3月朔日には、次のような記載があります。
(前文省略)
大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。
坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。
この日より、元治元年(1864)11月10日、軍艦奉行を罷免され、江戸にて蟄居を命ぜられるまでの間、この場所を大坂の寓居先としていました。
一時期、文久3年(1863)6月13日より、約3ヶ月間江戸へ帰っていました。しかし、すぐに大坂へ呼び戻されます。
文久3年(1863)9月9日の「海舟日記」には、次のような記載があります。
朝、上陸。天保山沖へ入津。
同日、雅楽頭(姫路藩主 大老 酒井忠(ただ)惇(あつ))殿はじめ役々、上陸、専修寺旅宿へ入る。
「海舟日記」にある「北溜屋町」や「真正寺」は実際に存在しませんでした。
「専修寺」は此花区酉島3丁目に同名のお寺が存在しますが、幕末当時、この「専修寺」は堺にあり、明治になってから此花区に移っています。
従って、勝 海舟の寓居先とはまったく関係ないことがわかりました。
勝 海舟は、寺名や町名を誤って日記に記載したのではないかと考えられます。
「順正寺」は誤記ではなく、実際に存在していました。
「慶応四年目録」(川口居留地開設直後の外国人との応対や外国事務局の動静を記す資料)に次のような記載があります。
(慶応4年)九月二日 亥 晴 (途中省略)安治川上壱丁目 順正寺へ丸亀人数旅宿申付置候処、
(以下省略)
他の資料においても実存が確認されています。
「順正寺」はその後、大阪市西区京町堀、さらに東淀川区と移転し、昭和34年(1959)廃寺になりました。
勝 海舟の順正寺の次の寓居先は、当時の北鍋屋町にあった「浄土真宗 専稱寺」です。
北鍋屋町はその後の町名変更で、淡路町3丁目になり、区画整理などで更に変更し、現在の淡路町2丁目5~6、同3丁目1~2あたりが、北鍋屋町に該当します。
専稱寺があった場所の確証が取れる資料はなかったのですが、大阪市史を研究されている先生に助言をいただいたところ、「北鍋屋町水帳」(安政3年作成)と「大阪地籍地図」(明治44年作成の大阪市地図)の2つの資料を照らして判断すると、現在の淡路町3丁目2-13(スワン大阪第一ビル)及び、2-14(ノリタケビル)あたりだという結論にいたりました。
「北鍋屋町水帳」は北鍋屋町にあった全ての建物の横幅・奥行きの寸法、及び持ち主が記載されており、それらの建物一つ一つの寸法と地図を見比べますと、この場所だということになります。
「専稱寺」は、「東区史」において北鍋屋町にあったことが記載されています。また、専稱寺は神戸市葺合区吾妻町に移転したことも確認することができました。
葺合区は今の神戸市中央区で、ちょうど葺合警察署がある付近となります。
平成12年(2002)2月、現在の専稱寺を訪れてみました。ご住職のお話によりますと、勝 海舟や坂本龍馬の話が語り継がれているとの事で、それを裏付ける資料も残っていたそうです。
その資料の中には、坂本龍馬が専稱寺でお世話になった記念に、絵のようなものを残していたそうです。
しかし、昭和20年(1945)の空襲による戦災で、貴重な資料は全て焼失してしまいました。
「専稱寺」は、浄土真宗本派本願寺門下で、慶長13年(1608)12月28日、祐性という僧が、北鍋屋町にて開山します。
明治31年(1898)10月に、同じ大阪市内で旧東区中本大字森(現、中央区森之宮中央)に移転します。明治33年(1900)9月3日に、神戸市葺合区吾妻町(現、葺合警察署付近)に移転します。戦災により更に、現在の場所である中央区南本町通4丁目5に移転し、今日に至ります。
勝 海舟は文久3年(1863)3月より9月24日までの約半年間、大坂の寓居先である専稱寺にて海舟の私塾である海軍塾を開いていました。
その後、神戸海軍操練所開設に向け、海軍塾も神戸へ移転しています。
大坂海軍塾だった専稱寺の現在の場所と、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾(勝塾)の跡地との距離が、目と鼻の先というのも不思議なものを感じます。
第14代将軍 徳川家茂の江戸東帰に伴い、勝 海舟は供として、文久3年(1863)6月13日に大坂を出発し、16日に江戸に到着します。
同年6月26日の「海舟日記」には次のような記載があります。
大坂より、俵次郎、半兵衛、来る。聞く、大坂の塾へ、長藩五十人程来たり、図書殿を打つ企を告げ同志を募ると云う。龍馬子、これを説解し、敢えて同ずる者なし。
文中に「大坂の塾」という文字が出てきます。
勝 海舟は、大坂の寓居先である専稱寺に海軍塾を開いていました。
門地に拘らず、能力のある人材の発掘、海軍士官の養成を目的として「日本の海軍」いわゆる「一大共有の海局」を目指し、自身の私塾として海軍塾を開塾したのでした。
塾生には坂本龍馬をはじめとした土佐脱藩浪士、各藩から教育の要請を受けた紀州藩士、鳥取藩士、福井藩士などがいました。
塾頭は、海舟の片腕として活躍した庄内藩出身の佐藤与之助でした。
文久3年(1863)9月24日、勝 海舟は神戸海軍操練所の開所準備のため神戸に移り、私塾も大坂から神戸の海舟邸に移します。
勝 海舟は同年10月に上京し、福井藩松平春嶽を訪ね、次のように述べたと「海舟日記」にあります。
神戸操練所の事、并びに天下の海軍を立て、普ねく諸藩と士民とを論ぜず、人物を集め、その器に応じ将となし、士となし、門地の旧弊を止め、学術を以て募り、皇国興起の一大海局と成さんことを申す。
勝 海舟の門下生 坂本龍馬も専稱寺へ頻繁に訪ねています。
坂本龍馬と勝 海舟との出会いについて、同じく門下生だった杉 亨二が、勝 海舟の亡くなった後、追憶談で次のように語っています。
その頃、勝は大坂に出張していまして、帰ってきた時、見舞に行ってどうで御座いましたと尋ねますと、ウム 色々浪人などを取締っておった所が、旅館に菰(こも)を被って会いたいという者があるから、遇って、己を斬りに来たかと申しますと、斬りに来たと答えたそうで、それからどうしてか懇意になったそうですが、確か、これは坂本龍馬であったと承りました。
この場所が大坂で正しければ、専稱寺、或は前記の順正寺のどちらかだと思われます。
しかし、勝 海舟日記に初めて龍馬の名が出たのは、海舟が神戸の寓居先である生島四郎別邸に居る文久2年(1862)12月29日でした。初めて会ったのは神戸の寓居先という説もあります。
文久二年十二月二十九日
千葉十(重)太郎来る。同時、坂下(本)龍馬子来る。
京師の事を聞く。(以下省略)
そのほかに同年12月9日、江戸の勝 海舟邸の説もあります。
十二月九日
此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり。
海舟の門下生になった坂本龍馬は、文久3年(1863)2月25日に1回目の脱藩罪赦免を受け、京都の土佐藩邸にて7日間もの謹慎処分を受けますが、謹慎を終えた3月朔日(1日)に来坂し、寓居先を移したばかりの専稱寺に居る勝 海舟を訪ねています。
三月朔日
陸行、御願村に到る。同所より、西宮海岸に到り、地所を定む。即日、大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。
次の手紙は坂本龍馬が姉の乙女に宛てた有名な手紙で、この時期に書かれています。
扠もさても 人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハうんがつよくなにほど死ぬるバへでゝもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねばならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
其故に私年四十歳になるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだん(相談)いたし候所、このごろハおゝきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。
どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。
(文久三年)三月廿日 龍
乙様
御つきあいの人ニも、極(ごく)御心安き人ニハ内ゝ御見せ、かしこ。
此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先(まず)きやくぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、お々きに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私((マ)初(マ))栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近々のうち、土佐の方へも参り申候。そのせつ御見(目)にかゝり可申候。
私の存じ付きハ、このせつ兄上にもおゝきに御どふい(同意)なされ、それわおもしろい、やれやれと御もふしのつがふ((都合))ニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ夫までの命ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいゝし事を御引合なされたまへ。すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。
猶エヘンエヘン
かしこ。
(文久三年)五月十七日 龍馬
乙大姉御本
かしこ。
右の事ハ、まづまづあいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがうひとあるからは、をひとりニて御聞おき、
かしこ。
北浜~本町史跡ツアー
2014年4月5日に北浜~本町の史跡案内を行います。
お申し込みはかきURLへ
http://www.osaka-asobo.jp/course49.html
見どころは、勝海舟の大坂旅宿だった専稱寺跡。
ここは文久3年3月1日から勝海舟が大坂の寓居先と定めました。
その日に偶然、脱藩の罪が許され京都土佐藩邸にて謹慎が解け、晴れて大坂にいる勝海舟のいる専稱寺に訪ねてきたのが坂本龍馬でした。
この年の秋、勝塾は神戸に移転しますが、依然として大坂の旅宿先が専稱寺でした。
元治元年9月11日、勝海舟をぎゃふんと言わせるために乗り込んだ大物が大島吉之助。
昨年の大河ドラマでは、舞台セットが組まれ放映されました。
そのほか、大阪慶應義塾跡。五代友厚座像。適塾などをご案内します。
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 4
陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺)
天王寺区夕陽丘町5-14
宗光は幼少期、父と兄が勤王活動をしたことで蟄居の刑を受け不遇な時期を過ごした。単身、大坂に出て藤沢東畡の泊園書院にて漢学を学ぶ。元治元年、師である藤沢東畡の死により、やむなく方向転換させられる。大坂在住時に懇意があった勝海舟の門をたたき、神戸海軍塾の塾生となる。しかしそれもつかの間、勝海舟が江戸蟄居の刑を受け、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾は解散となる。彼はまた途方に暮れることになる。海舟の口利きで薩摩藩が塾生の面倒を見ることとなり、坂本龍馬らとともに長崎で社中の隊士となる。隊長は薩摩藩の小松帯刀。このとき小松と陸奥との出会いが、ここ夕陽丘の同じ場所で永眠することになることとなる。
のちに社中は土佐海援隊となる。
隊長は坂本龍馬。大政奉還により明治新政府ができた直後、隊長の坂本龍馬が暗殺されてしまう。
彼は、再度途方に暮れる。1か月後、当時暗殺したのは紀州藩士および新選組と考えられており、新選組と紀州藩士がいる「天満屋」を襲撃する事件を起こす。新選組が襲撃された珍しい事件である。
これが失敗に終わり、宗光は一時消息不明となる。
ところが大阪開市により川口に税関が置かれる際、ひょっこりと現れ、海援隊に尽力を尽くしたことのある五代友厚の側近として外国事務掛として活躍する。小松帯刀も大阪にいたので、陸奥の才能を見込んで抜擢されたと思われる。
彼は、大阪府の北部にある摂津県の初代知事に就任する。その後豊崎県と改称され、さらに兵庫県と統合。陸奥は第4代兵庫県知事に就任する。
そののち、政界の道を彼は進む。ところが、西南戦争時に「立志社陰謀事件」に加担し、その罪で明治11年から4年間牢獄生活を送る。
特赦で釈放後、留学し外国の事情を視察する。帰国後、外務省在勤弁理公使に任命される。
アメリカの公使を務め、明治23年、山県有朋内閣の農商務大臣に任命される。明治25年、第二次伊藤博文内閣で外務大臣に就任。
幕末期に各国と結んだ不平等条約の改正に尽力した。
陸奥宗光は、明治30年(1897)、8月24日死去。享年54歳。
葬儀は浅草海善寺で執り行われ、11月、ここ夕陽丘に埋葬された。
その後、この地は伊達宗広と陸奥宗光をはじめとした陸奥家墓所となった。
墓所には菩提樹や献納された常夜燈があり、現在の墓所跡にもそれらは残されている。昭和28年(1953)、陸奥家の遺族が墓所を寿福寺(神奈川県鎌倉市)に移葬した。しかし、現在でも稱念寺内には当時の面影が残されている。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 17
伏見寺田屋ゆかりの船宿 河内屋与次兵衛跡
中央区瓦町1周辺
江戸期、大坂と京都を結ぶ大事な交通機関として淀川を上下する三十石船があった。
大坂と伏見の船宿間同士で提携が取られていた。
三十石船は、京都の伏見、大坂の天満八軒家、東横堀、淀屋橋、道頓堀を往来していました。
坂本龍馬が姉の乙女、おやべさんに宛てた慶応元年9月9日の手紙には、次のような記載がある。
前文省略 伏見ニておやしきのそばニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。
これハはたごやニて候。此両家なれバちょふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおりよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。
吉田酔痴氏著による「伏見史話」では、伏見「日野屋孫兵衛」の提携先は、大坂東横堀川思案橋西詰「河内屋与次兵衛」だったと記載されている。
坂本龍馬が、日野屋孫兵衛から出る三十石船で大坂の河内屋与次兵衛の船宿に到着し、或いは投宿した可能性がある。下記の地図を見ると「河内屋与次兵衛」から勝海舟の寓居先及び大坂海軍塾だった「専稱寺」に行くには、わずか400m程度で到着できる。
2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ
下記のとおり日程が決まり、受付が開始されました。
10月14日が早くも△になっているのに驚きです。
夕陽丘コースは、今回新ネタありです!
<夕陽丘コース>
・実施日時 10月14日(日)14:00 11月4日(日)14:00
http://www.osaka-asobo.jp/course68.html
<北浜コース>
・実施日時 11月3日(月)14:00 11月11日(日)14:00
「大坂の幕末を歩く」を3コースでオーダーをあわせて10回開催しました。
毎回、私と奥野さんが新しいネタを披露し、毎回変化があるコース案内となり、ほぼ定員15名で実施する事ができました。
1.幕末 天満
天満橋-現八軒家船着場-八軒家船着場跡石碑-三橋楼跡(大久保利通祝宴の地、木戸孝允主催囲碁の会開催地、大久保利通・木戸孝允会談の地)-坂本龍馬ゆかりに船宿堺屋源兵衛跡-新選組定宿京屋忠兵衛跡-紀州藩蔵屋敷跡--内山彦次郎暗殺の地-大阪銀座跡-高麗橋-山南敬助奮闘の地岩城升屋跡-平野屋五兵衛邸跡-大阪会議開催地花外楼-築地蟹島料亭跡(河井継之助宿泊の地竹式楼跡、清河八郎宿泊の地瓢箪屋跡)-大阪会議開催地専崎楼跡-池内大学暗殺の地-五代友厚像-北浜
2.幕末 北浜
北浜-五代友厚像-鴻池屋邸宅跡-大阪慶應義塾跡-彦根藩蔵屋敷跡-盛岡藩蔵屋敷跡-新選組吉村貫一郎終焉の地-緒方洪庵像-適塾-愛珠幼稚園-銅座跡-除痘館跡-勤王僧月照生誕の地-勝 海舟寓居(専稱寺)跡-坂本龍馬訪問の地-大坂海軍塾跡-勝 海舟・西郷吉之助初会見の地-近藤長次郎挙式跡-楢崎龍武勇伝-北御堂-本町
3.幕末 夕陽丘
松屋町-新選組ゆかりの地 ぜんざい屋事件跡-大利鼎吉終焉の地-土浦藩蔵屋敷跡-蘭医ボードウィン寓居跡-薩摩屋半兵衛墓所-坂本龍馬潜伏の地-英国公使ハリーパークス宿泊の地-アーネストサトウ宿泊の地-小松帯刀・西郷吉之助訪問の地-伊庭八郎宿泊の地-真言坂-天満八軒家船着場の常夜燈-井原西鶴像-水戸藩士川崎孫四郎自刃の地(桜田門外の大坂編)-土佐藩士(武市半平太の甥島村寿太郎ほか)墓所-源聖寺坂-新選組大坂旅宿跡-口縄坂-司馬遼太郎「燃えよ剣」舞台地-織田作之助文学碑-夕陽丘創名の地碑-陸奥宗光ほか陸奥家墓所跡-小松帯刀墓所跡-四天王寺夕陽丘
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日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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