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緒方洪庵

幕末 大村益次郎

幕末 大村益次郎

今春の新コースです。5月18日(日)堺筋本町駅中北改札口を出たところに13時です。

NHK大河ドラマ「花神」の主人公だった大村益次郎をメインとして、堺筋本町から谷町四丁目までの史跡ガイドを行います。

戦前、大阪市内に大村益次郎寓居跡の石碑が2か所建立されました。空襲により、現在は大阪市西区の1か所のみとなりましたが、大阪城近くにあった「大村益次郎寓居(漏月庵)跡をご案内します。

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そして、大村益次郎終焉の地。

「花神」の著者である司馬遼太郎氏も偶然同じ場所で永眠することとなった。

病院内には「花神賞」という銘板が掲げられている。

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大坂の幕末を歩く 北浜~本町

大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

今春は、4月5日(土)に行います。

見どころは下記の通りです。こちらです。

<勝海舟 寓居(専稱寺)跡>

文久2年(1862)閏8月17日、軍艦奉行並に就任した勝 海舟は、同年12月、軍艦順動丸で大坂天保山に投錨し来坂しました。
その後、大坂を基盤に兵庫、泉州、紀州などを訪れ、砲台の設置場所を吟味しています。
坂本龍馬の幼馴染だった望月亀弥太(のちに「池田屋の変」で闘死)の手紙には、次のような記載があります。

(前文省略)
私も今七日京都出足その夜伏見より船に乗り、八日朝7ツ半(五時)頃大坂八軒家に着き申し、御屋敷(藩邸)の近へ宿をとり、夕方勝先生(海舟)の御旅宿へ参り候処先生にはいまだ御用之有る趣にて船出延引、同九日本町三丁目先生の御旅宿に逗留、住吉の陣屋に行き申し候。同十一日大坂より船にて兵庫に参り申し候。(以下省略)
(望月亀弥太が母に送った手紙) 
                   文久三年正月廿一日

勝 海舟の日記にも文久3年(1863)正月九日、土州の数輩、わが門に入り、坂本龍馬と時勢を論じたことが書かれています。
文久3年(1863)1月の段階では「本町三丁目」に逗留していたと思われますが、正確な場所は不明です。

「海舟日記」によりますと、次のような記載があります。

文久3年2月27日
朝、上陸。
安治川一丁目順正寺旅館に到る。(以下省略)

日記にあるように同年2月には「順正寺」を大坂の寓居先にしていました。順正寺の場所は、現在の大阪市福島区野田1丁目、中央卸売市場のあたりにありました。勝 海舟は寓居先をすぐに別の場所に変更しています。
「海舟日記」の文久3年(1863)3月朔日には、次のような記載があります。

(前文省略)
大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。
坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。

この日より、元治元年(1864)11月10日、軍艦奉行を罷免され、江戸にて蟄居を命ぜられるまでの間、この場所を大坂の寓居先としていました。
一時期、文久3年(1863)6月13日より、約3ヶ月間江戸へ帰っていました。しかし、すぐに大坂へ呼び戻されます。
文久3年(1863)9月9日の「海舟日記」には、次のような記載があります。

朝、上陸。天保山沖へ入津。
同日、雅楽頭(姫路藩主 大老 酒井忠(ただ)惇(あつ))殿はじめ役々、上陸、専修寺旅宿へ入る。

「海舟日記」にある「北溜屋町」や「真正寺」は実際に存在しませんでした。
「専修寺」は此花区酉島3丁目に同名のお寺が存在しますが、幕末当時、この「専修寺」は堺にあり、明治になってから此花区に移っています。
従って、勝 海舟の寓居先とはまったく関係ないことがわかりました。
勝 海舟は、寺名や町名を誤って日記に記載したのではないかと考えられます。
 「順正寺」は誤記ではなく、実際に存在していました。
「慶応四年目録」(川口居留地開設直後の外国人との応対や外国事務局の動静を記す資料)に次のような記載があります。

(慶応4年)九月二日 亥 晴 (途中省略)安治川上壱丁目 順正寺へ丸亀人数旅宿申付置候処、
(以下省略)

他の資料においても実存が確認されています。
「順正寺」はその後、大阪市西区京町堀、さらに東淀川区と移転し、昭和34年(1959)廃寺になりました。

勝 海舟の順正寺の次の寓居先は、当時の北鍋屋町にあった「浄土真宗 専稱寺」です。
北鍋屋町はその後の町名変更で、淡路町3丁目になり、区画整理などで更に変更し、現在の淡路町2丁目5~6、同3丁目1~2あたりが、北鍋屋町に該当します。
専稱寺があった場所の確証が取れる資料はなかったのですが、大阪市史を研究されている先生に助言をいただいたところ、「北鍋屋町水帳」(安政3年作成)と「大阪地籍地図」(明治44年作成の大阪市地図)の2つの資料を照らして判断すると、現在の淡路町3丁目2-13(スワン大阪第一ビル)及び、2-14(ノリタケビル)あたりだという結論にいたりました。
「北鍋屋町水帳」は北鍋屋町にあった全ての建物の横幅・奥行きの寸法、及び持ち主が記載されており、それらの建物一つ一つの寸法と地図を見比べますと、この場所だということになります。
「専稱寺」は、「東区史」において北鍋屋町にあったことが記載されています。また、専稱寺は神戸市葺合区吾妻町に移転したことも確認することができました。
葺合区は今の神戸市中央区で、ちょうど葺合警察署がある付近となります。
平成12年(2002)2月、現在の専稱寺を訪れてみました。ご住職のお話によりますと、勝 海舟や坂本龍馬の話が語り継がれているとの事で、それを裏付ける資料も残っていたそうです。
その資料の中には、坂本龍馬が専稱寺でお世話になった記念に、絵のようなものを残していたそうです。
しかし、昭和20年(1945)の空襲による戦災で、貴重な資料は全て焼失してしまいました。
「専稱寺」は、浄土真宗本派本願寺門下で、慶長13年(1608)12月28日、祐性という僧が、北鍋屋町にて開山します。
明治31年(1898)10月に、同じ大阪市内で旧東区中本大字森(現、中央区森之宮中央)に移転します。明治33年(1900)9月3日に、神戸市葺合区吾妻町(現、葺合警察署付近)に移転します。戦災により更に、現在の場所である中央区南本町通4丁目5に移転し、今日に至ります。
勝 海舟は文久3年(1863)3月より9月24日までの約半年間、大坂の寓居先である専稱寺にて海舟の私塾である海軍塾を開いていました。
その後、神戸海軍操練所開設に向け、海軍塾も神戸へ移転しています。
大坂海軍塾だった専稱寺の現在の場所と、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾(勝塾)の跡地との距離が、目と鼻の先というのも不思議なものを感じます。

第14代将軍 徳川家茂の江戸東帰に伴い、勝 海舟は供として、文久3年(1863)6月13日に大坂を出発し、16日に江戸に到着します。
同年6月26日の「海舟日記」には次のような記載があります。

大坂より、俵次郎、半兵衛、来る。聞く、大坂の塾へ、長藩五十人程来たり、図書殿を打つ企を告げ同志を募ると云う。龍馬子、これを説解し、敢えて同ずる者なし。

文中に「大坂の塾」という文字が出てきます。
勝 海舟は、大坂の寓居先である専稱寺に海軍塾を開いていました。
門地に拘らず、能力のある人材の発掘、海軍士官の養成を目的として「日本の海軍」いわゆる「一大共有の海局」を目指し、自身の私塾として海軍塾を開塾したのでした。
塾生には坂本龍馬をはじめとした土佐脱藩浪士、各藩から教育の要請を受けた紀州藩士、鳥取藩士、福井藩士などがいました。
塾頭は、海舟の片腕として活躍した庄内藩出身の佐藤与之助でした。
文久3年(1863)9月24日、勝 海舟は神戸海軍操練所の開所準備のため神戸に移り、私塾も大坂から神戸の海舟邸に移します。

勝 海舟は同年10月に上京し、福井藩松平春嶽を訪ね、次のように述べたと「海舟日記」にあります。

神戸操練所の事、并びに天下の海軍を立て、普ねく諸藩と士民とを論ぜず、人物を集め、その器に応じ将となし、士となし、門地の旧弊を止め、学術を以て募り、皇国興起の一大海局と成さんことを申す。

勝 海舟の門下生 坂本龍馬も専稱寺へ頻繁に訪ねています。
坂本龍馬と勝 海舟との出会いについて、同じく門下生だった杉 亨二が、勝 海舟の亡くなった後、追憶談で次のように語っています。

その頃、勝は大坂に出張していまして、帰ってきた時、見舞に行ってどうで御座いましたと尋ねますと、ウム 色々浪人などを取締っておった所が、旅館に菰(こも)を被って会いたいという者があるから、遇って、己を斬りに来たかと申しますと、斬りに来たと答えたそうで、それからどうしてか懇意になったそうですが、確か、これは坂本龍馬であったと承りました。

この場所が大坂で正しければ、専稱寺、或は前記の順正寺のどちらかだと思われます。
  しかし、勝 海舟日記に初めて龍馬の名が出たのは、海舟が神戸の寓居先である生島四郎別邸に居る文久2年(1862)12月29日でした。初めて会ったのは神戸の寓居先という説もあります。

文久二年十二月二十九日
千葉十(重)太郎来る。同時、坂下(本)龍馬子来る。
京師の事を聞く。(以下省略)

そのほかに同年12月9日、江戸の勝 海舟邸の説もあります。

十二月九日
此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり

海舟の門下生になった坂本龍馬は、文久3年(1863)2月25日に1回目の脱藩罪赦免を受け、京都の土佐藩邸にて7日間もの謹慎処分を受けますが、謹慎を終えた3月朔日(1日)に来坂し、寓居先を移したばかりの専稱寺に居る勝 海舟を訪ねています。

三月朔日
陸行、御願村に到る。同所より、西宮海岸に到り、地所を定む。即日、大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。

次の手紙は坂本龍馬が姉の乙女に宛てた有名な手紙で、この時期に書かれています。

扠もさても 人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハうんがつよくなにほど死ぬるバへでゝもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねばならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
其故に私年四十歳になるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだん(相談)いたし候所、このごろハおゝきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。

どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。
 (文久三年)三月廿日          龍
 乙様
御つきあいの人ニも、極(ごく)御心安き人ニハ内ゝ御見せ、かしこ。

此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先(まず)きやくぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、お々きに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私((マ)初(マ))栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近々のうち、土佐の方へも参り申候。そのせつ御見(目)にかゝり可申候。
私の存じ付きハ、このせつ兄上にもおゝきに御どふい(同意)なされ、それわおもしろい、やれやれと御もふしのつがふ((都合))ニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ夫までの命ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいゝし事を御引合なされたまへ。すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。
猶エヘンエヘン
                                    かしこ。
(文久三年)五月十七日         龍馬
乙大姉御本


                                    かしこ。

右の事ハ、まづまづあいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがうひとあるからは、をひとりニて御聞おき、
                                    かしこ。



 

「幕末 大村益次郎」ツアー

「幕末 大村益次郎」ツアー

2014年5月18日(日)に大阪にある大村益次郎の史跡を中心としたツアーのガイドを行います。

ツアーの申し込みはこちら

周防の鋳銭司村で生まれた村田良庵。百姓医者の息子として生まれ、青年期に大坂の緒方洪庵の適塾に入門します。大阪には非常に縁のある人物。大阪市内には適塾時代に下宿先だった場所2か所に石碑が建てられました。1か所は大空襲により消滅いたしました。

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明治新政府樹立後、木戸孝允から刺客に襲われる危険があるため自嘲するようにという注意を受けながら、明治2年、京都・大阪を巡回し、のちの陸軍の要所を築きました。

京都で賊徒の襲撃に遭い、大阪病院に入院。

右足を切断する手術を受け、切断した右足は緒方先生のお墓の傍らに埋葬してほしいと言い残す。

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手術の甲斐なく、大阪で永眠することになった。

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第二次世界大戦に入り、大村益次郎が急に崇められることとなり、終焉の地や寓居跡の史跡が顕彰されることとなった。

東京の靖国神社に銅像が建てられていて、陸軍の父と称されているが、彼は適塾で蘭語を体得し、蘭書から兵法を学んだにすぎなかった。

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大阪に陸軍の拠点を置いたのも、明治新政府に対する反乱軍が、西から現れるのを予想していたためといわれる。

大村益次郎は、NHK大河ドラマの主人公として抜擢された。

司馬遼太郎の作品「花神」である。

司馬遼太郎が亡くなった場所は大村益次郎が亡くなった場所でもある。

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大坂海軍塾跡をはじめとした北浜~本町史跡ツアーのご案内

北浜~本町史跡ツアー

2014年4月5日に北浜~本町の史跡案内を行います。

お申し込みはかきURLへ

http://www.osaka-asobo.jp/course49.html

見どころは、勝海舟の大坂旅宿だった専稱寺跡。

ここは文久3年3月1日から勝海舟が大坂の寓居先と定めました。

その日に偶然、脱藩の罪が許され京都土佐藩邸にて謹慎が解け、晴れて大坂にいる勝海舟のいる専稱寺に訪ねてきたのが坂本龍馬でした。

この年の秋、勝塾は神戸に移転しますが、依然として大坂の旅宿先が専稱寺でした。

元治元年9月11日、勝海舟をぎゃふんと言わせるために乗り込んだ大物が大島吉之助。

昨年の大河ドラマでは、舞台セットが組まれ放映されました。

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そのほか、大阪慶應義塾跡。五代友厚座像。適塾などをご案内します。

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ご都合が合えばぜひご参加ください。

「大坂の史跡探訪 vol.3」

「大坂の史跡探訪 vol.3」

今年、発刊するシリーズものの「大坂の史跡探訪 vol.3」の原稿ができました。

発刊まで大阪龍馬会の編集スタッフにより、ページの校正や写真の配置、地図などを工夫していただき、5月25日の「大阪史跡探訪Vol.16」にあわせて発刊いたします。

史跡案内箇所は下記の写真のとおりです。

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幕末の大坂を歩く 2013 秋

幕末の大坂を歩く 2013 秋

10月より「幕末の大坂を歩く」を行います。

最初は6日(日)13時~

北浜から本町までオフィス街を歩きますが、歴史ネタが豊富にあります。ガイドブックに載っていない箇所をご案内いたします。

ご面倒ですが受付はこちらまで

大阪の歴史は京都よりも古い。

歴史のある大坂をぜひ知っていただきたく存じます。

勝海舟寓居跡=大坂海軍塾のあった場所が最大の案内箇所だと思います。文久3年3月1日、海舟が専稱寺というお寺を大坂の宿所と定めた日に坂本龍馬が専稱寺を訪れました。

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11月24日 大坂史跡探訪 ~緒方洪庵ゆかりの地~

大坂史跡探訪 ~緒方洪庵ゆかりの地~

11月24日(土)14時から史跡案内を行います。

テーマは緒方洪庵。

初めての試みですが、船場は商売の町であり学問の町でもありました。

淀屋橋~北浜にかけて緒方洪庵を主に史跡ガイドを行います。

これまでは茶谷さん、陸奥さんがガイドをされていましたが、今年は私が担当することになりました。私が担当する以上「osayan」のカラーを出したいと思います。

これまで紹介されていないスポットも紹介したいと思います。

応募はこちらから

大坂の幕末を歩く 北浜コース 11月11日

大坂の幕末を歩く 北浜コース 11月11日

11月11日、14時に大阪証券取引所五代友厚銅像前に集合(14時までに)。

2012年最後の「大坂幕末を歩く」の史跡案内を行います。案内箇所は下記のとおりです。

大阪慶応義塾跡

五代友厚座像

大坂海軍塾跡

坂本龍馬訪問の地

勝海舟・西郷吉之助 初めての会見の地

明治天皇御在所 北御堂

来年の大河ドラマゆかりの地

今年発刊した「大坂の史跡探訪 Vol.1」を販売いたします!

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

下記のとおり日程が決まり、受付が開始されました。

10月14日が早くも△になっているのに驚きです。

夕陽丘コースは、今回新ネタありです!

<夕陽丘コース>

・実施日時  10月14日(日)14:00   11月4日(日)14:00

http://www.osaka-asobo.jp/course68.html

<北浜コース>

・実施日時  11月3日(月)14:00   11月11日(日)14:00

  http://www.osaka-asobo.jp/course49.html

大村益次郎終焉の地 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(5)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(5)

大村益次郎終焉の地 

 大村益次郎は、文政7年(1824)、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村にて医者 村田孝益の子として生まれた。弘化3年(1846)、23歳の時、大坂に出てきて、緒方洪庵の適塾に入門。入門後、成長著しく、3年後には塾頭を務めた。
 塾頭になったその年に、橋本左内、杉 亨二が入門している。
 27歳で塾を辞め、帰郷し医業を開業。
 その後、才能を買われて宇和島藩に招かれ、藩主 伊達宗城より蒸気船の建造を命じられ、それを実現させた。
 安政3年(1856)、幕府から招かれ蕃書調所(洋書を翻訳する役所)に出仕し、併せて講武所(幕府の学校)の教授を務めた。
 2年後、長州藩 桂小五郎の薦めにより長州藩の藩校教授となる。幕府による第二次長州征伐の時は、参謀として指揮を取り、勝利に導いた。新政府樹立後は、大参謀 薩摩藩 西郷吉之助の下で軍監兼参謀を務め、上野の彰義隊との戦いの総指揮を命じられ、僅か1日で終わらせた。
 明治元年(1868)、維新に散った人たちを祀る招魂社(現在の靖国神社)を九段に創建する。
 明治2年9月4日、京都の三条木屋町の定宿にいるところを刺客に襲われ、瀕死の重傷を負った。大阪病院(浪華仮病院)に治療のため運ばれる。敗血症を併発し、右足の切断手術を受けたが、その甲斐なく同年11月5日、46歳で永眠。
 墓は故郷の鋳銭司村にあるが、切断した右足は、大村益次郎の遺志により、師である緒方洪庵の墓がある龍海寺に、洪庵の墓の横に埋められた。

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