「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 20
舊山口藩殉難諸士招魂之碑/大江護国神社
天王寺区夕陽丘町5
元治元年(1864)7月18日「蛤御門の変」が起こり、敗戦した長州藩兵 宍戸久之進ら62名の兵士たちは伏見から舟で淀川を下り逃げた。
大坂の桜宮付近で高松藩に捕えられ、千日前刑場の獄舎へ投獄された。
幕府による極めて残酷な扱いを受け、半年以内に刑死者6名、牢死者39名を数え、一説には一人ずつ毒殺したともいわれている。
亡くなった45名の死骸は、犬猫同様無造作に刑場片隅に埋められた。
明治期に入り、賊として扱われたこの長州兵士らは、勤王の志士として評価される。
明治2年(1869)夏、夕陽丘にある大江神社一角に招魂社を建て慰霊・顕彰が行われた。同じく蛤御門の変で敗走中、尼崎で捕えられ、自刃した山本文之進と薩摩藩御用船を焼き討ちした事件で、大坂南御堂前で切腹した水井精一、山本誠一郎の3名と千日前でなくなった45名の計48名が祀られることとなった。
その後、千日前で眠っていた45名の遺骨を掘り起こし、前記3名とともに阿倍野墓地に改葬された。
「舊山口藩殉難諸士招魂之碑」は、明治23年(1890)11月に建立され、裏面に48名の名が5段にわたり記載されている。
<残念さん(山本文之助)と無念柳>
元治元年(1864)7月19日に勃発した「禁門の変」で長州藩は大敗し、参戦していた長州藩士 山本文之助は京都を脱出し、西国街道を通って西へ水路を使い敗走した。
尼崎藩は幕府の親藩にあたりながらも尊王派であったため、尼崎藩領にある大物北ノ口で上陸。しかし、山本は期待に反して尼崎藩に捕えられ投獄された。
山本は裏切られた思いで「残念、残念」を繰り返し、その日のうちに自害。
元治元年7月20日、山本文之助 享年29歳だった。
翌年の元治2年(1865)2月(※同年の4月8日から慶応元年に変更)頃から山本文之助の墓が「残念さん」と呼ばれるようになり、大坂の町人に信仰が深まった。
参拝し願いをかけると叶えられるという噂が広まる。それも同年の5月にはピークになり、大坂から尼崎の道には参列者の列が続いたそうである。
長州征伐のため将軍(第14代将軍 徳川家茂)自ら大坂城に入城する予定になっていたため、幕府は5月17日以降残念さん参りを禁じた。
大坂町人平野屋武兵衛の書いた諸記録のうち「日加栄」の慶応元年5月16日に次のような記載がある。
五月一六日、未明より尼ヶ崎町家之墓所ニ、昨年京都より長州江之落武者、尼ヶ崎入口ニて横死の霊魂残り、いつとなく此墓所江立願すれバ、病氣にかきらず、残念なることさへ立願すれバ、願成就のよしにて、諸方より大くんじゅのよし、珍ら敷、忰駿七召連見物に参り候處、野里の渡しにて早くも日光御上りに、最早六拾人の余も渡り候よし、渡し守の咄しに、朝五ツ時よりハ所より番人出候よし、始め青竹にて誠にていねひきれいにかきいたし、土墓にいたし有之候へとも、あまり多人数参詣にて、かきを取のけ、セいし候へとも、中ゝ左様いたすほどさかんに相成り、塚もなく、少々おぼひ候上、土砂の高ふに相成候土砂を持帰り、
(途中省略)
長州の横死の人の名前わかり不申候、年比ハ弐拾三四才位のよし
(途中省略)
人こぞりて、残念様 唱へて立願のよし、
(以下省略)
<無念柳参り>
残念さん参りが禁じられても、大坂町人は次の手を考えた。いずれも幕府に対する反感からくるものである。
慶応元年(1865)5月25日に将軍徳川家茂が大坂城に入城。その日の夜から禁門の変直後に取り壊された長州藩大坂蔵屋敷跡にある柳の木が信仰の対象となり、「無念柳」と呼ばれるようになった。
柳の葉を煎じて飲むとどんな病でも治ると広まったのである。しかし、残念さんと同様に、すぐに幕府から禁止令が出された。
この柳の木は、昭和期まで残っていた。
阿倍野墓地にも長州藩士48人の墓がある。
最近のコメント