「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 4
陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺)
天王寺区夕陽丘町5-14
宗光は幼少期、父と兄が勤王活動をしたことで蟄居の刑を受け不遇な時期を過ごした。単身、大坂に出て藤沢東畡の泊園書院にて漢学を学ぶ。元治元年、師である藤沢東畡の死により、やむなく方向転換させられる。大坂在住時に懇意があった勝海舟の門をたたき、神戸海軍塾の塾生となる。しかしそれもつかの間、勝海舟が江戸蟄居の刑を受け、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾は解散となる。彼はまた途方に暮れることになる。海舟の口利きで薩摩藩が塾生の面倒を見ることとなり、坂本龍馬らとともに長崎で社中の隊士となる。隊長は薩摩藩の小松帯刀。このとき小松と陸奥との出会いが、ここ夕陽丘の同じ場所で永眠することになることとなる。
のちに社中は土佐海援隊となる。

隊長は坂本龍馬。大政奉還により明治新政府ができた直後、隊長の坂本龍馬が暗殺されてしまう。
彼は、再度途方に暮れる。1か月後、当時暗殺したのは紀州藩士および新選組と考えられており、新選組と紀州藩士がいる「天満屋」を襲撃する事件を起こす。新選組が襲撃された珍しい事件である。
これが失敗に終わり、宗光は一時消息不明となる。
ところが大阪開市により川口に税関が置かれる際、ひょっこりと現れ、海援隊に尽力を尽くしたことのある五代友厚の側近として外国事務掛として活躍する。小松帯刀も大阪にいたので、陸奥の才能を見込んで抜擢されたと思われる。

彼は、大阪府の北部にある摂津県の初代知事に就任する。その後豊崎県と改称され、さらに兵庫県と統合。陸奥は第4代兵庫県知事に就任する。

そののち、政界の道を彼は進む。ところが、西南戦争時に「立志社陰謀事件」に加担し、その罪で明治11年から4年間牢獄生活を送る。
特赦で釈放後、留学し外国の事情を視察する。帰国後、外務省在勤弁理公使に任命される。
アメリカの公使を務め、明治23年、山県有朋内閣の農商務大臣に任命される。明治25年、第二次伊藤博文内閣で外務大臣に就任。
幕末期に各国と結んだ不平等条約の改正に尽力した。

陸奥宗光は、明治30年(1897)、8月24日死去。享年54歳。
葬儀は浅草海善寺で執り行われ、11月、ここ夕陽丘に埋葬された。
その後、この地は伊達宗広と陸奥宗光をはじめとした陸奥家墓所となった。

墓所には菩提樹や献納された常夜燈があり、現在の墓所跡にもそれらは残されている。昭和28年(1953)、陸奥家の遺族が墓所を寿福寺(神奈川県鎌倉市)に移葬した。しかし、現在でも稱念寺内には当時の面影が残されている。



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