吉田松陰訪問の地 儒者 相馬九方住居跡・岸和田藩講習館跡
嘉永6年(1853)2月23日、岸和田に到着した吉田松陰と森田節斎は、その日の夜、岸和田藩に招かれている儒者 相馬九方(そうまきゅうほう)の寓居先である岸和田藩校「講習館」を訪問しました。
松陰は「発丑遊歴日録」には次のような記載があります。
二十三日
晴。十四日より今日に至るまで富田林に滞まる。又節斎に従ひ和泉の岸和田に至る。岸和田は戸数三千許り。富田林を発し小阪を越え、左に篠山第を観て過ぎ、南野田村を経、館林領なり。福町に至り午食す。
制令に云はく、小出伊織と。土生(はぶ)を経て岸和田に至る。行程六里。四面皆菜畦麥畝(さいけいばくほ)、土地肥沃にして生色蒼々たり。是の日、節斎は輿中に詩あり、云はく。
人情反覆雨耶雲 人情反覆雨か雲か、
気似吾樓獨有君 木吾樓(ごろう)に似たるもの獨り君あり。
他日勿忘河内路 他日忘るるなかれ河内の路、
輿中輿外共論文 輿中輿外共に文を論ぜしを。
夜、相馬一郎を訪ふ、名は肇、字は元基。帰りし時は夜巳に丑(午前2時)なり。相馬は教習館居り、館は官新たに造営し、以て一郎を居き、士農工商皆至りて業を受くるを許す。約140日間に及ぶ旅を終え、同5年(1852)4月、江戸藩邸に戻りましたが、「萩へ帰国・脱藩罪として7ヶ月間の自宅謹慎(その後士籍剥奪)の処分を受けました。
しかし、嘉永6年(1853)1月、「十ヶ年の遊学」の許可が出ます。嘉永6年(1853)1月26日、吉田松陰は長州萩を出発します。
萩から江戸に至るまでの旅を日記「発丑遊歴日録」として書き残しました。
2月23日から3月3日まで岸和田に逗留し、岸和田藩の志士、儒者など多くの人物と会っています。
3月3日~5日は熊取にある中左近邸に。3月5日~17日まで泉州岡田にある山田文英の邸にて逗留。
岸和田に滞在中、吉田松陰は城下町の藩士や儒者を訪ねまわりました。宿所に帰ったのは午前2時でした。翌日、相馬九方が松陰の宿所を訪ね会談後、その夜、再度相馬九方の寓居先を訪問しました。この時は夜を徹し、松陰が宿所に戻ったのが午前10時だったと「発丑遊歴日録」に書き記しています。2月26日にも相馬九方を訪ねています。その時に梅谷卓司著の「渦潮の譜 岸和田藩儒・相馬九方と幕末の学者群像」(朱鷺書房)のP113よりは、岸和田藩の七人庄屋のうちの一人で、岸和田城下に住む岸 長太郎に出会います。松陰が相馬九方を訪れたときの模様が詳しく書かれています。
相馬九方 岸和田藩講習館跡
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