アーネスト・サトウ

神戸史跡探訪 Vol.1

神戸史跡探訪 Vol.1

久しぶりに神戸の史跡ガイドを担当することとなりました。

詳細はこちら

神戸海軍操練所と神戸海軍塾は別物だった。

勝海舟の神戸に築いた邸跡(神戸海軍塾跡)はここだった。

兵庫県初代知事だった伊藤俊輔(伊藤博文)の寓居跡(吟松亭跡)はここだった。

上記がめだまとなります。ガイドブックには載っていません。ご都合が合う方はぜひはこちらまで。

2016 春の史跡探訪 その1

2016 春の史跡探訪

春の史跡探訪の日程が決まりました。
ご都合が合う方はぜひご参加ください。

1.幕末:祇園・東山
  3月27日(日) 13:00~ 京阪電鉄祇園四条駅南改札口前に集合。
 祇園・八坂・清水周辺の幕末史跡めぐりです。

 江戸時代の人々は必ず寺の宗派に属しなければならなかったのですが、勤皇を唱える志士たちはあえて(神道による葬儀にて)霊山に葬られることを望みました。その霊明神社を訪れます。

 坂本龍馬と中岡慎太郎の遺体が運ばれた維新葬送の道、明治初期、先立たれた夫の墓守のため、居住していた坂本龍馬の妻 お龍の住居跡をご案内。

 慶応3年11月15日、軍鶏を買いに行ったM。近江屋に帰ってきたら坂本龍馬と中岡慎太郎が賊徒に襲撃された後だった。Mとは誰か? 家に伝わる当時のMの体感をお伝えします。

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2.神戸史跡探訪

 4月2日(土) 13:00~ 阪急電鉄神戸三宮駅東改札口前

 神戸のガイドブックに記載のない箇所を含めた史跡を巡ります。
 兵庫県初代知事は誰か? その知事の神戸寓居跡を訪れる。

 神戸にあった勝海舟邸跡は現在のどの地に該当するか。意外な場所だった。
 勝海舟が、一大共有の海局、幕臣だけでなく各藩から訓練生を募り、日本の海軍を増強し、西洋の強国に屈しないための訓練所を神戸に定め、14代将軍徳川家茂に直談判を行い許可を得た「神戸海軍操練所」跡を巡る。兵庫が開港されたのは1868年1月1日(慶応3年12月7日)。明治新政府初外交の場、神戸税関発祥の地を訪れる。勝海舟、坂本龍馬、伊藤博文、東郷平八郎、荒木村重などのゆかりの地を訪れます。

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3.大阪史跡探訪Vol.19 

 4月17日(日) 二部制

 午前午後、午前のみ、午後のみ の参加が可能

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4.高槻

日時:4月29日(祝) 

集合場所:JR高槻駅中央改札口前

 10世紀末からあったとされる高槻城。戦国期以降高槻城の城主が次のように頻繁に入れ替わり統治してきました。入江春継、織田信長、和田惟政、高山友照・右近父子、新庄直頼、青山忠成、内藤信正、土岐定義、松平家信、岡部宣勝、松平康信、永井直清。高槻城とその城下町にある史跡をご案内します。
キリシタン大名高山右近ゆかりの地、江戸期は普代大名が治めた地、高槻を城下町中心にめぐります。

 JR高槻駅~山崎の合戦羽柴秀吉本陣跡~西国街道芥川宿~松永久秀鼓塚~高槻城出丸の門跡~高槻城三の丸・外堀跡~藤井竹外邸跡~高山右近像~高槻天主教会跡~陸軍工兵第四聯隊跡~高槻城跡~司馬遼太郎勉学の地~蔵屋敷跡~高槻藩校「菁莪堂」跡~森田無紘の生家、小倉邸跡~高槻城北大手門跡

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大坂の史跡探訪 Vol.4  大坂城

大坂の史跡探訪 Vol.4  大坂城

2015年6月14日に発刊。大阪龍馬会発刊の史跡ガイドブック連載のVol.4は「大坂城」です。

これまで以上にページ数が増え、115ページと史跡コースMAPの付録でついています。

詳しくは次のサイトへ  クリック

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大阪史跡探訪Vol.18 

大阪史跡探訪Vol.18

2015年6月14日、大阪龍馬会主催の「大阪史跡探訪Vo.18」を開催することとなりました。

今回は、大坂夏の陣400年の舞台となった大坂城。豊臣秀頼が亡くなって400年です。

また、来年は第14代将軍徳川家茂が大坂城で亡くなって150年となります。

政治の行方を左右した重要拠点である大坂城に注目し、歴史散策を行います。

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大坂の幕末を歩く 2014年 春 夕陽丘

大坂の幕末を歩く

4月20日、幕末をテーマに夕陽丘の史跡をご案内します。

地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅に13時集合です。

詳細はこちら

案内箇所は下記の通りです。

土佐藩士遭難の地、土浦藩蔵屋敷、ボードウィン寓居跡、アーネスト・サトウ宿泊の地、アーネスト・サトウと西郷吉之助対談の地跡、水戸藩士ゆかりの地、新選組旅宿跡、司馬遼太郎「燃えよ剣」ゆかりの地、陸奥宗光墓所跡、小松帯刀墓所跡

など、非常に盛りだくさんです。すでに定員に達しているため、予約状況が×になっていますが、キャンセルが出るかもしれません。

この日は、13時に地下鉄松屋町駅改札出たところに集合です。

ぜひ、この機会をお見逃しなく!

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JASS秋のイベント 大坂の幕末を歩くシリーズ3 

JASS秋のイベント 大坂の幕末を歩くシリーズ3

夕陽丘周辺

JASS主催の秋のイベントに夕陽丘をご案内いたします。

JASS会員の皆様へのご案内が主となりますが、定員に余裕があるため、一般の方も参加できます。

ご都合の合う方は下記の日時に集合場所へお越しください。

地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘駅 北西改札出て2番出口上がったところに13時集合です。
参加費は2000円です。
行程は次の通りです。

・陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡/稱念寺 

・夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)/稱念寺 

・陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺) 

・陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺) 

・原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺) 

・陸奥家墓所に常夜燈の寄贈したおもな人物 岡崎邦輔、鍋島桂次郎、竹越与三郎、星 亨、アーネスト・サトウ 

・薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡 

・加賀藩大坂蔵屋敷ゆかりの石鳥居(太平寺) 

・小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西照庵(さいしょうあん)跡 

・赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所/吉祥寺 

・赤穂義士四十七士墓所/吉祥寺 

・大石内蔵助良雄像と赤穂義士四十七士像/吉祥寺 

・<兵庫県加東市にある赤穂義士の墓/観音寺 加東市家原(いえはら)14-4>  

・戦国武将 蜂須賀小六(正勝)顕彰之碑/吉祥寺 

・幕末期 関白太政大臣 二條斉敬邸 遺構/鳳林寺 

・上島鬼貫墓所/鳳林寺 

・赤松家の墓所/鳳林寺 

・大坂城代米倉丹後守種継父子墓碑/鳳林寺 

・米倉丹後守昌尹墓碑/鳳林寺 

・安部摂津守信勝墓碑/鳳林寺 

・松本重太郎墓所/鳳林寺 

・柴田勝家・お市供養墓碑/天鷲寺 

・愛染かつら/勝鬘院  

・多宝塔/勝鬘院 

・愛染坂 

・舊山口藩殉難諸士招魂之碑/大江護国神社 

<残念さん(山本文之助)と無念柳> 

<長州藩士切腹の地(東本願寺難波別院=南御堂)> 

・料亭 浮瀬(うかむせ)跡 

・蕉蕪園(しょうぶえん)  

・大江岸水記念碑 

・天王寺七名水 金 龍 水  

・天王寺七坂 清 水 坂  

・天王寺七名水 有栖の清水(土州御用水)跡  

<土佐藩専用の浴室 三橋楼>
・清 水 寺  

・天王寺七名水 増井の清水(増井弁財天)  

・天王寺七坂 天 神 坂 

・真田幸村戦死地跡(安居神社)  

<大坂冬の陣ゆかりの地 真田丸(真田の出丸)跡/真田山 心眼寺> 

<真田丸(真田の出丸)跡> 

・安井の清水(癇鎮めの井戸) 

・天王寺七坂 逢坂  

・大坂夏の陣 徳川家康陣所跡/一心寺   

・本多忠朝(ただとも)墓所/一心寺  

・明治戊辰戦役 会津藩士墓所/一心寺   

・明治戊辰戦役 東軍戦死者招魂碑/一心寺  

・水戸藩士 高橋多一郎・庄左衛門墓所/四天王寺  

・乾 十郎君之碑/四天王寺

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 7

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 7

陸奥家墓所に常夜燈の寄贈をしたおもな人物

                                                                       天王寺区夕陽丘町5-14

 
<岡崎邦輔>
立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。
生家の長坂家は紀州徳川家に仕える家系で町奉行、勘定奉行を務める家柄だった。
また、岡崎の母親は陸奥宗光の母親と姉妹で陸奥と岡崎は従兄弟の関係にある。
陸奥宗光の死後、自身と同じく宗光より引き立てを受けた星亨に接近し、星の快刀として隈板内閣倒閣、立憲政友会結成などに活躍した。明治33年(1900)、第4次伊藤内閣の逓信大臣となり、星亨のもとで逓信大臣官房長を務めた。

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<鍋島桂次郎>
貴族院議員

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<竹越与三郎>
慶応元年(1865)生まれ。明治14年(1881)、慶應義塾に入学して翌年中退。
明治維新を内外の危機的状況で国民の活力が発揮された「乱世的革命」と位置づけて、王政復古史観や佐幕・勤皇・藩閥論に対して強く批判した。
陸奥宗光、西園寺公望らの世話を受け、明治29年(1896)、『世界の日本』の主筆に迎えられた。同年開拓社より、代表作となる日本通史『二千五百年史』が刊行された。伴信友の『史籍年表』などを元にして古代から明治維新までの歴史を描き、神武天皇の東征を天孫人種と土着人種の民俗対立と捉え、南北朝正閏論(南北のどちらを正統とするかの論争)を論じるなど、文明史の立場から皇国史観とは違う視点から日本史を論じて版を重ねた。

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<星 亨>
嘉永3年(1850)4月8日、江戸の左官屋として生まれ、当初は医学を志していたが、英学を学び英語教師として身を立てる。
明治維新後、陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、一時横浜税関長となるが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張し一歩も譲らず、「女王事件」を引き起こし、引責辞任した。
第2代衆議院議長、第2代逓信大臣などを歴任している。

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<アーネスト・サトウ>
1834年ロンドンに生まれる。14歳の時、「支那日本訪問見聞録」を読んで、未知の日本に興味を持ち、外交官を志した。
大学を飛び級で卒業し、19歳で日本駐在通訳として文久2年(1862)9月8日に来日。
オールコック、パークスと2代にわたり通訳官、外交官として活躍した。
日本の政情を分析し匿名で「英国策論」という論文を発表。
内容は【「タイクン(将軍)」は大名達の盟主という存在であり、国の元首ではない。幕府は日本の公式な政府ではないので外交交渉を行うことは無意味である。イギリスとしては天皇を君主とする雄藩連合を援助し、日本の政治形態を一新させ、対日交易の円滑化を図るべきである。】というものであった。
そのため、サトウは幕閣にとどまらず薩摩藩を筆頭に幕末維新で活躍した著名な人物のほとんどに会っている。通訳官から書記官に昇格し、公使の補佐として活躍。日本語も抜群に上達し、候文まで読み書きができるようになっている。
明治16年(1883)離日したが、駐日公使として明治28年(1895)再来日し、明治33年(1900)まで勤めた。
日本の政治に大きく関わった外国人のうちの一人といえる。
昭和4年(1929)、86歳で生涯を終えた。

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<古川市兵衛>

古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。

古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。明治17年(1884)、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになる。

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大坂城~大阪城の歴史

大坂城の歴史

浄土真宗総本山 石山本願寺                                                           ~城郭規模の寺院 大坂城の前身~    
①石山御坊
 明応5年(1496)本願寺8代目である法主 蓮如が82歳の時、石山御坊という隠居寺を建てたのが、大阪城の始まりといっても過言ではありません。
 石山御坊が建てられた地は『摂州東成郡生玉之庄内大坂』といわれており、工事の際、巨石がごろごろ出てきたことから、地名を「石山」と名づけられたと記録に残されています。

②石山本願寺
 山科本願寺焼き討ち事件が起こり、本坊をここ石山に移され石山本願寺と呼ばれるようになりました。
 11代目法主 顕如の時代、織田信長から石山本願寺の明け渡しをの要求を受けます。
 これに抵抗し、元亀9年(1570)9月より11年間に及ぶ石山合戦が始まります。

③石山本願寺炎上
 天正8年(1580)、本願寺側は信長に降参し、本願寺を明け渡します。
 ところが明け渡し直前、不審火により本願寺の城郭が3昼夜にわたり炎上し焼失してしまいます。
 この石山本願寺のあった場所は、いくつかの説がありますが、現在の大阪城桜門近くにある修道館前に「石山本願寺推定地」の碑があります。また、NHK大阪の東南あたりともいわれています。

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大坂城の築城 ~初代城主 織田信長~    

初代城主 織田信長
 

 天正8年(1580)8月、石山合戦に勝利した織田信長は、石山本願寺の跡地に応急修理を行い大坂城を築き、重臣丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。
 天正10年(1582)6月、本能寺で明智光秀に襲撃を受け、信長は最期を遂げますが、それまでの2年間、大坂城の城主でした。

豊臣期の大坂城 ~天下統一の拠点として本格的な築城へ~    
 
①第2代城主 池田恒興
 本能寺の変後、すぐに山崎の合戦により羽柴(のちの豊臣)秀吉が明智光秀をやぶります。
 天正10年(1582)6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行いました。会議の結果、池田恒興が摂津国を領することになり、大坂城主となります。
 池田恒興が第2代大坂城主ということになります。
 恒興が城主だった期間は1年未満であったため、応急に造られた大坂城の修復工事はしなかったようです。

 その後の池田恒興:秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となります。小牧・長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき、長久手の合戦で討ち死にします。

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②第3代城主 羽柴(豊臣)秀吉
 秀吉は柴田勝家をやぶり、名実ともに信長の後継者となります。天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。

③本格的な大坂城の築城
 秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年(1583)9月1日から工事を開始します。天正13年(1585)に第一期工事が終了。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)です。

 約15年にも及ぶ工事は、想像を絶するほどの力の入れようでした。豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり、千 利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸(現在の国立大阪病院の裏通り辺り)から成り、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
 天守閣の高さは約39mだったようです。大坂築城に伴う町づくりでは、その後の日本の都市のモデルにもなります。
特に下水溝は現在でも使用されています。建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので、「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。本丸天守閣のあった場所は、現在の大阪城天守閣がある場所と若干異なり、北東方面(約100メートル)にありました。

秀吉死後の大坂城 ~2つの天守閣 大坂城落城~
 
①第4代城主 豊臣秀頼
 秀吉の死後、子の秀頼が後を継ぎ、第4代大坂城主に就きます。秀頼は年が若く、秀吉のような影響力がないため、五大老のひとりである徳川家康が、次第に勢力を拡大させます。
 同じく五大老のひとりであった前田利家が、秀吉の後を追うように亡くなり、ますます家康の力が強大化していきます。

②徳川家康の台頭
  慶長4年(1599)3月、秀吉の居城であった伏見城を自分の居城としてしまいます。同年9月9日、秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため、伏見から大坂城に入ります。
 この頃、北の政所(秀吉の正妻)は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し、京都の高台寺に移り住んでしまいました。家康は節句のお祝いが済んでも伏見に帰ろうとせず、西の丸に居座ります。

③大坂城に2つの天守閣が並び立つ
  慶長5年(1600)2月~3月にかけて、家康は西の丸に天守閣の築城工事を開始します。
  姫路城も天守閣が2つ以上ありますが、大天守を中心に小天守があるといった造りです。
  しかしこの時の大坂城は、本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つあることになります。
  家康が2つ目の天守に居座る事で、豊臣の勢力と互角であることを天下に知らしめる事を狙ったのではないかと思われます。
  状況は異なりますが、徳川家康も城主に就いたといえるかも知れません。重要文化財に指定されている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の右隻ですが、2つの天守が建っていた様子が窺えます。

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④徳川家康と石田三成の対立
 「大坂城主はわしである。」と言わんばかりに、本丸の大天守閣に対抗し、西の丸にもう一つ別の天守閣を建てた家康に対し、石田三成などが対抗します、慶長5年(1600)9月、関ケ原で家康の東軍と三成の西軍がぶつかり、わずか1日で家康は勝利を収めます。
 慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた家康は、江戸に幕府を開きます。
   
⑤大坂城落城
 一大名に成り下がったとはいえ、豊臣家は依然として難攻不落の大坂城を持ち、他の大名に影響力がある存在でした。
 慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、外堀を埋めることで和睦。翌年の元和元年(1615)5月に大坂夏の陣が起こり、5月7日ついに大坂城が炎上。
 5月8日、焼け残った山里曲輪の櫓に潜んでいた淀君、豊臣秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡します。
 徳川政権は安泰となり、江戸幕府はこの後250年間続きますが、それを決定づけたのは、織田信長の時(石山本願寺の炎上)と同様、大坂城の炎上でした。

(追記)徳川家康討死説
  大阪府堺市に南宗寺というお寺がありますが、ここには奇妙にも徳川家康の墓があります。言い伝えによりますと、大阪夏の陣の折、豊臣方の武将(後藤又兵衛との説あり)が家康本陣近くに攻め入り、あわてて籠で逃げる家康を槍で刺し、虫の息で堺に辿り着いた家康はそこで息絶えた。そして南宗寺に葬られた。というのです。
 それを裏付けるものとして、元和9年(1623)7月に第2代将軍徳川秀忠が、また、8月に後の第3代将軍徳川家光が、わざわざこの寺を訪れています。
 明治期に入ってから、旧幕臣 山岡鉄舟が家康の墓の横に「無銘ノ塔 家康諾ス」と刻んだ石碑を残しています。
 (昭和期になり松下幸之助ら有志の皆さんが、立派な家康の墓碑を建立していますが、その墓碑と本当の墓碑 と間違わないよう注意してください。)

徳川期の大坂城 ~西国大名監視の拠点~
 
①第5代城主 松平忠明
 幕府は、大坂夏の陣で灰になった大坂城の焼け跡を整理する一方、伊勢亀山5万石の領主だった松平忠明(ただあき)に大坂城主に起用します。(第5代大坂城主となります。)
 松平忠明の母は徳川家康の長女亀姫で、家康から見ると忠明は孫にあたります。   
 忠明は、大坂城付近にあった寺院を現在の中央区中寺や天王寺区下寺町に移転させるなど、城よりも城下町の整理と復興に力を注ぎました。忠明は大坂城主に約4年間在任しましたが、大和郡山へ転封となります。その後は大坂城は大名が統治するのではなく、幕府の直轄領となります。
   
②大坂城の再建
 元和6年(1620)1月、第2代将軍 徳川秀忠の命により、65家の外様大名を中心に、大坂城の再建が進めらることになりました。およそ10年間工事を行い、寛永6年(1629)に完成します。
 徳川秀忠は大坂城を単に復興するのではなく、豊臣期のものよりも2倍の規模にしようとし、築城の練達者 藤堂高虎に基本設計を任せます。
   
③豊臣期の大坂城と徳川期の大坂城の違い
 徳川期の天守閣は、現在の大阪城天守閣の位置に建てられました。
 豊臣期の天守閣は前述のとおり、現在の位置よりもやや北東に建てられていました。石垣や堀の深さは、豊臣期のものより規模が2倍大きいものでした。
 現在残っている石垣は、この時期のものです。
 徳川の威信をかけた築城で、豊臣期の天守閣の高さが約39mだったのに対し、新しい天守閣の高さは約58mでした。

④過酷な「割普請」
 大坂築城は外様大名を中心にあたらせ、大名間を競わせる方式を取りました。そのため、地元から運んだ石がわかるよう、石に家紋等の刻印をつけました。今でもそれは確認することができます。
 場内第一の巨石は「蛸石」と呼ばれる石で、高さ5.5m・横幅11.7m、36畳敷分の面の大きさとなります。(運んだ大名は、備前岡山城主池田忠雄です。)
 
⑤大坂城代の設置
 幕府は、西国大名の監視をする役割として、大坂城に城代を置きます。
 初代大坂城代は高槻城主 内藤信正で、元和5年(1619)に着任しています。内藤信正は、再建工事中に病没し、寛永3年(1626)、第2代城代に武蔵岩槻城主 阿部正次が着任し21年間務めます。
 幕末までで合計70名の大名が大坂城代を務めています。
 初代大坂城代が着任した元和5年(1619)の将軍は、第2代目 徳川秀忠であり、秀忠が大坂城の第6代目城主になります。
 以降、15代将軍 徳川慶喜まで、将軍が大坂城の城主ということになります。

⑥天守閣、落雷による焼失
 寛永6年(1629)の完成からわずか36年後の、寛文5年(1665)1月、珍しい冬の落雷により天守閣は焼失します。
 (天災による焼失の場合、政権交代等時代は動かなかったようです。)
 この頃、江戸城も天守閣を失っていましたので修復する余力がなく、この焼失後、大坂城の天守閣は昭和6年(1931)まで、再建されませんでした。(約300年)

幕末期の大坂城① ~第14代将軍 徳川家茂終焉の地~
    
①黒船ディアナ号大坂湾に来航
 嘉永7年(1854)、プチャーチン率いるロシア船ディアナ号が開国を求めて大坂の天保山沖に姿を現しました。
 当時の大坂城代(第66代)土浦藩主 土屋采女正(うねめのかみ)寅直は、在藩の諸藩邸や隣国の諸大名に出兵を催促します。

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 61藩、14000名の兵が集まりました。ディアナ号が下田へ向かった後、黒船の再来に備え、土屋寅直は安治川・木津川の両河口に西洋式砲台を築きます。

②将軍 徳川家茂の大坂城入城 (230年ぶりの将軍の入城)
 列強国の圧力により、幕府は大老 井伊直弼の断行で開国をしたものの、全国で尊皇攘夷が激化します。異人嫌いであった孝明天皇が幕府に対し攘夷の実行を迫るようになりました。
 そのため文久3年(1863)3月、第14代将軍徳川家茂が第3代将軍徳川家光以来、230年ぶりに将軍自らが上洛をします。
 このとき「攘夷実行期限を5月15日」と約束させられることになります。
 家茂は4月21日京を後にし大坂城に入ります。将軍の大坂城入城は、これも家光以来となります。
 約2ヶ月間大坂城に滞在し6月13日、幕府の蒸気船順動丸で江戸に帰ります。
   

  勝 海舟日記
  (文久3年4月21日)
  「(前文省略)京橋口御船着場まで 御迎えの為参上。夜五ツ時、(家茂が)御船着、御入城、(海舟が)深夜退出。」
  
  (文久3年4月22日)
  「(大坂城へ)登城。明日、(家茂が)順動船にて兵庫西宮辺へ成らせらる旨仰せ出され、夜に入り御治定。」

  (文久3年4月23日)
  「(前文省略)天保山へ到り、順動船に到る。端舟にて同所へ(家茂を)御出迎え、御先きへ漕返す。四ツ時ごろ、御本船順動
 へ御乗船、即刻出帆。船間悉く御巡覧、御満足の由、度々上意これあり。当将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり、且、御勇気盛んなるに恐服す。(途中省略)神戸へ成らせらる旨命あり。御供同断。同所にて操練局御開き、且、土着の者置くべき事を言上、直ちに英断あり、御前に於て仰せ出され、議悉く成る。(途中省略)夕刻、天保山沖へ御帰船。直ちに御登岸、御供にて(大坂城へ)登城。深夜退出。」

③将軍 徳川家茂 2回目の大坂城入城 (新年の祝賀返上)
  1回目の来坂の翌年、文久4年(1864)正月8日に2回目となる大坂城入城を果たします。
  この時は海路で幕府艦隊8隻を率いて来坂します。
  前年の12月27日翔鶴丸に乗船。元旦を下田の宿泊先である海善寺で迎えます。船旅途中で新年を迎える異例さで、将軍であるだけに尋常でないことがわかります。
  恐らく歴代の将軍で、新年を江戸で迎えなかったのは家茂だけではないでしょうか。
  家茂は正月14日に上京。長期間滞在後、5月7日大坂城へ帰城します。
  勝 海舟の案内により天保山より幕府艦隊3隻で兵庫~友ケ島~堺を巡廻しています。同月16日、海路で江戸に帰ります。

 勝 海舟日記
  (元治元年5月7日)
  「登営。(家茂が)七ツ時御着城、御目見え。(以下省略)」
  
  (元治元年5月8日)
  「登営。閣老并びに御側衆へ、御船々の事を申す。○一橋様(一橋慶喜)御下坂、明日頃との説を聞く。」

  

④将軍 徳川家茂 3回目の大坂城入城 (第二次長州征伐総指揮)
 慶応元年(1865)閏5月25日に3回目の大阪城に入城します。
 これまでは上京するのが目的だったのに対して、今回の来坂は、第二次長州征伐の総大将として将軍自ら出陣することが目的でした。
 目的地は大坂ではなく姫路城でしたが、朝廷からの勅許が降りず大坂城で長期間滞在する事となってしまいます。
 家茂の大坂滞在中に天神祭の船渡御が中止となり、民衆から不評を買ってしまいます。

⑤将軍 徳川家茂 病死
 慶応2年(1866)6月7日、第二次長州征伐の戦端がようやく切られますが、7月20日、家茂は大坂城内本丸御殿で病気のため息を引き取ります。21歳でした。

⑥将軍 徳川家茂 終焉の地
 家茂が大阪城内でなくなったことは非常に有名ですが、大阪城内のどこかについては、どの書物にも紹介がありません。
 天守閣は、寛文5年(1665)1月に焼失して以来再建されていませんので、天守閣内でないことだけは確実にいえます。
 この当時天守とともに壮大な規模を有する本丸御殿が築かれていました。寛永3年(1626)の創建で、天守閣焼失の際も焼けずに幕末期まで残っていました。この本丸御殿内に「銅御殿」と呼ばれる将軍の私的居間・寝所がありましたが、家茂が亡くなった部屋はここであるという可能性が非常に高いと思われます。銅御殿の場所は下記図面を参照ください。図面に樟樹とありますが、現在、それに関する碑と樟樹(幕末の兵火で失いましたが、明治32年に植樹された木)があります。その位置から銅御殿の場所はやや北西になり、座石が置かれている辺りになります。

幕末期の大坂城② 
         ~第15代将軍 徳川慶喜・外国公使謁見の地~

    
①将軍 徳川慶喜・フランス公使 レオン・ロッシュとの会見
 兵庫開港問題に対する幕府の意図を確認するため、また、幕府軍の編成と「フランス士官の雇用」「横須賀海軍工廠の監督」に対し、了解を得るためフランス公使 レオン・ロッシュは来坂します。
 それにあわせて、就任間もない将軍徳川慶喜も京都から来坂します。
 慶応3年2月6日・7日(1867年3月11日・12日)大坂城内で両者は会見します。

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 儀礼抜きの会見となり、老中 板倉勝静が同席しています。
 慶喜はロッシュに「統治の全権は天皇ではなく自分にある」ことを主張し、ロッシュから了承を得ています。
 また、板倉は「将軍が、長州との戦争を継続する事を全く放棄し、この撤退は一時的なものではない。将軍家と薩摩藩は良好な関係である。」と告げています。
 慶応3年2月20日(1867年3月26日)、慶喜はロッシュと3回目の会見を行います。

 このとき慶喜は、ロッシュからローズ提督を紹介されています。
   

②将軍 徳川慶喜・外国公使との謁見
 慶応3年(1867)3月、将軍 徳川慶喜と外国公使との謁見が大坂城でわれました。
 3月25日にイギリス公使ハリー・パークスとの内謁見(非公式)。
 26日にオランダ総領事ポルスブルックとの内謁見(非公式)。
 27日にフランス公使レオン・ロッシュとの内謁見(非公式)。
 28日にイギリス・フランス・オランダの3カ国代表との公式の会見。
 29日に遅れて到着したアメリカ公使ファルケンバーグとの内謁見
 (非公式)。4月1日にアメリカ公使との公式の会見。
 慶喜の希望により、29日イギリス第九連隊の分遣隊の調練を大坂城で見学します。その際、特別に許可されウィリアム・サットンが慶喜の写真を撮影しています。この写真はワーグマンの描く数枚の(大坂城の)絵とともに本国に送られ、1867年8月10日号の「ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」に紹介されました。
    

 パークスより英国外相スタンレーへの報告(1867年5月4日付)
       
           イギリス公使 ハリー・パークス

[慶応3年3月25日(1867年4月29日)] 
  「城の玄関で、われわれ(パークス、ロコック、ミットフォード、サトウ、アプリン)は多くの役人や外国奉行などの出迎えをうけ、
 つづいて大きな控えの間に案内された。われわれが通る廊下や部屋などには、ヨーロッパ風の装備を身につけた護衛兵がところ狭しとばかり立ちならんでいた。
  少し待たされてから、謁見の間(御白書院)に案内され、そこで老中板倉伊賀守(勝静)と三人の若年寄に迎えられた。
  テーブルの一方の側にはわれわれの席、他方の側には幕府側の席が用意され、テーブルの上手には装飾をこしらえた小さな椅子が将軍用に置かれてあった。

(途中省略)

 低く押し殺したような声で将軍(徳川慶喜)の入室が告げられた。

 老中と三人の若年寄をのぞき、部屋にいたすべての幕府側の役人はただちにひれ伏した。将軍が部屋に入ってきた。平服であったが、色彩ゆたかな異称を身につけていた。 (途中省略)将軍はまず(イギリスの)女王陛下の健康についてたずね、これにたいしてわたし(パークス)も、日本における権威の最高の源泉である天皇の健康について、同様のことばを返し、かくして会話がはじまった。

 将軍はただちにわたしの挨拶にたいして謝意を表し、わたしはつづいて殿下(His Highness)の健康についてたずねるとき、同様に起立して敬意を表した。

(途中省略) ※会話が1時間半経過 
 つづいて、将軍が公使館の騎馬護衛兵を見たいと希望したので、かれら(騎馬護衛兵)は内廷(大広間前広場)に案内され、アプリン大尉の指揮の下に、見事な乗馬を披露した。殿下はこれまで西洋の騎兵を見たことがなかったので、たいへん満足した様子であった。
  (途中省略) ※食事となり「御白書院」につづく「御次の間」に案内される
 それはまったくの洋風の食事であった。(途中省略)将軍が起ち上り、女王陛下のために乾杯した。(途中省略)
  ※食事の献立
   ・鶏肉スープ ・魚 ・牛のフィレ肉 ・ローストビーフ ・さやいんげん ・トリュフ入りハム ・鶏のささみ ・うずら ・グリンピースバター・ソテ ・鶏のパテ ・ベシャメルソース入りパイ ・つぐみのワイン煮 ・マッシュルームのパイケース詰め ・アスパラガス ・ババロワ ・キルシュ酒風味ゼリ ・アーモンド菓子 ・オレンジ ・マスカットぶどう ・すもも ・紙包ボンボン ・ジュリエンヌ・ド・フリュイ ・メレンゲ ・アイスクリーム ・洋梨 ・いちじく ・糖衣菓子 ・シェリー酒 ・ボルドーワイン ・赤ワイン ・シャンパン ・デザートワイン
  食事後、将軍はわれわれを別室に招じ、そこでコーヒーが出された。
  食事をまじえてのなごやかな会話は、約一時間つづいた。食事の時間を利用し、将軍はわたしとわたしに同行した公使館員にそれぞれ贈り物をしてくれた。(以下省略)」
  ※パークスへの贈り物
   ・御写真 ・大坂写真 ・蒔絵置箪笥 ・毛栽猿 ・毛栽兎 ・人形
   ・鞍置馬の手翫 ・三十六歌仙のうち伊勢の額 ・銀きせる煙草入筒共

   
 
  「一外交官の見た明治維新」/アーネスト・サトウ
        
         イギリス通訳官 アーネスト・サトウ

 「将軍は、私(アーネスト・サトウ)がこれまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりした鼻つきの立派な紳士であった。(途中省略)会談が終わってから、一同は洋式の晩餐が用意されている小室へ席を移した。将軍は、食卓の上座についたが、その態度はきわめて慇懃であった。周囲の壁に、三十六歌仙の絵がかけてあった。ハリー卿(パークス)がそれをほめると、将軍はその中の一枚を卿に贈った。(途中省略) われわれが退出したのは、もう夕暮れ時だった。」

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幕末期の大坂城③ ~賊軍となった幕府方の拠点~

①大政奉還・王政復古の大号令により徳川慶喜 大坂城に入城
 徳川慶喜は大政奉還で政権を朝廷に返上し、王政復古の大号令で辞官、納地を命じられます。京都は薩摩・長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが一触即発の事態となります。
 慶喜は二条城から大坂城へ拠点を移すため、慶応3年12月13日(1868年1月7日)大坂城へ入城します。
   

 「アーネスト・サトウの日記」
     
 イギリス書記官 アーネスト・サトウ ※1867年末に通訳官から書記官に昇進 [慶応3年12月13日(1868年1月7日)] 「(前文省略)午後二時頃、ミットフォードと連れ立ってふたたび外出し、京橋の向こうまでいった。(途中省略)ちょうど城の壕に沿った通りの端まで来たとき、進軍ラッパが鳴りひびき、伝習隊が長い列をつくって行進して来た。われわれは通りの片側に寄り、赤い豪華な陣羽織をまとった男と向き合って、部隊が通過するのを見送った。(途中省略)つづいて、あたりが静かになった。騎馬の一隊が近づいてきて、日本人はみなひざまづいた。
 一橋(徳川慶喜)と、かれに従うひとびとであった。われわれは、この転落した偉人に脱帽した。かれは黒い頭巾で顔をつつみ、軍帽をかぶっていた。その顔はやつれていて、悲しげに見えた。
 これに反して、伊賀守(老中 板倉勝静)と豊前守(若年寄 松平正質)は、われわれの挨拶に気づき、快活に会釈を返した。(以下省略)」

②徳川慶喜・英仏公使との謁見
 慶応3年12月14日(1868年1月8日)、徳川慶喜はイギリス公使ハリー・パークス、フランス公使レオン・ロッシュとの謁見を行います。慶応3年12月7日すなわち西暦1868年1月1日は兵庫開港と大坂開市が施行されるため、各国の外交官が大坂に来ていました。そのような中、慶喜が偶然に大坂城に入城したため、両国は謁見を、慶喜はそれを受け入れたのでした。
 謁見は、大坂城本丸御殿内御白書院で行われました。慶喜は、これまで京都で起こった出来事について説明し、領地返還には従わないことや大坂に移った理由などを明らかにしています。
  
③徳川慶喜・外国公使との謁見
 慶応3年12月16日(1868年1月10日)午後3時、大坂城本丸御殿内御白書院にて徳川慶喜と外国公使との謁見が行われました。

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 外国側の参加国はイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシアです。幕府側は、慶喜をはじめ松平容保、松平定敬、板倉勝静(老中)、松平正質(若年寄)、牧野貞明(大坂城代)と多くの目付けでした。
 慶喜は、①自分の政策、②京都からの撤退理由、③列藩会議の決定
 事項に従う意思表示、④外交事務は自分が担当する 等を伝えました。
 このとき、パークスは、慶喜の決断力の欠如を感じ、指導者としての適格性に疑問を覚えたようです。

④鳥羽伏見の戦い
 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都で鳥羽伏見の戦いが始まります。1月4日に大坂土佐堀にある薩摩藩蔵屋敷が焼き払われます。
 1月6日には旧幕府軍の敗北が確実となり、兵が大坂城を目指して退却 してきます。
 新選組も最初は八軒屋の京屋忠兵衛方に入っていましたが、1月7日大坂城二の丸に入り、負傷者の治療を受けています。

⑤大坂城を脱出
 敗北が決定的となった慶応4年1月6日(1868年1月30日)午後10時頃、徳川慶喜は重臣(松平容保、松平定敬ら)を従わせ、大坂城を脱出します。
 天満八軒屋から舟で天保山沖へ向かいます。開陽丸に乗り込み、1月8日夜に投錨し江戸へ向かいました。
 各国の外交官たちは危険を感じ、大坂開市に合せて作られた外国人居留地(川口居留地)に非難します。

⑥大坂城の焼失
 旧幕府軍は慶喜の逃亡により総崩れとなり、大坂城で立てこもって一戦する事は避けられました。城代監察と官軍代表の尾張藩への城明け渡しの儀式が予定されていたようですが、慶応4年1月9日(1868年2月2日)、不審火が上がり、火は2日間止まらず、大坂城は焼失してしまいます。
 豊臣期の大坂城焼失では徳川政権が安泰となり、徳川期の大坂城焼失では、薩摩・長州を中心とする天皇政権の安泰とつながっていきます。

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      「アーネスト・サトウの日記」

[慶応4年1月23日(1868年2月16日)] 
  「(前文省略)門を通りすぎると、あたり一面荒涼たる景色であった。内濠のところの櫓と壁はなくなっていた。南側の外壁のところにあった兵舎と櫓もすっかりなくなっていて、残っているのは城の右側に出る門のところの石だけであった。(途中省略)
  巨大な石を敷いた門をくぐって、本丸に入ってみた。ここでも残っているのは石造りの部分だけで、(途中省略)本丸の建物自体
 は跡形もなく姿を消し、ここにかつて建物があったことを示すのは、崩れた瓦で厚くおおわれた平らかな地面だけであった。(以下省略)」

明治期の大阪城 ~陸軍の軍事拠点~
    
①大阪鎮台の設置
 明治2年(1869)5月、五稜郭の戦いが終わり戊辰の役が終結します。兵部大輔に任じられた大村益次郎(長州藩出身)は、8月中旬京阪地区に出張し、新政府の基盤となる軍事施設を精力的に定めていきます。

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 大阪城内には、陸軍施設(大阪鎮台・兵学寮・兵器工場)を設置するよう命じ、早速8月に大阪鎮台が設置されます。
 この施設が、後に起こる西南の役において、鹿児島氏族の反乱を鎮圧する根拠地となります。
 鎮台は明治21年(1888)の兵制改革により、第四師団と改称されます。

②兵学寮(陸海軍の士官学)の開校
 明治2年11月に客死した大村益次郎の遺志を継ぎ、明治3年4月、大阪城内の二の丸京橋口内側に兵学寮青年学舎(陸海軍の士官学校)が開校されます。

③造兵司(のちの大阪砲兵工廠)の設置
 陸軍直属の兵器製造工場で、大砲などの重兵器、爆弾などを造る施設です。大阪城内の青屋口付近に設置されました。

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④西南戦争勃発
 明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発すると、大阪鎮台兵が初めて戦闘に参加します。
 前線基地となったこの地に、負傷兵が次々と運び込まれてきます。
 大阪陸軍臨時病院を設立し、負傷兵の治療を行います。
 同年3月31日、明治天皇が内閣顧問官である木戸孝允を従えて訪れ、入院患者を見舞いました。

⑤紀州御殿
 明治18年(1885)、和歌山城二の丸にあった御殿の一部が大阪城内に移築されました。陸軍の兵舎として使用され、通称紀州御殿と呼ばれました。 昭和8年天皇の行在所となり「天臨閣」と改称されています

⑥時報を告げる大砲
 大阪天保山砲台にあった大砲が、明治維新後大阪城へ移されてきました。明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられるようになりました。
 最初は1日に3回でしたが、明治7年(1874)以降は正午のみ空砲が大阪市内に轟きました。
 「お城のドン」「お午(ひる)のドン」という名で親しまれていましたが、大正期になり火薬の節約等の理由から空砲は中止となりました。
 今でも勤務(仕事)が午前中のみの場合「半ドン」という言葉が使用されています。

大阪城天守閣の再建 ~大阪市民の寄付金により再建~

①大大阪記念博覧会の第二会場
 大正14年(1925)3月15日~4月30日に「大大阪(だいおおさか)記念博覧会が開催され、天王寺公園を第一会場に、大阪城を第二会場として開催されました。
 ※大阪市は隣接する東成・西成両郡の町村と合併し、人口200万人を超える国内随一の大都市となり、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれました。

②豊公館
 上記①のとおり、博覧会の第二会場が大阪城で開催されました。
 このとき、天守台に二層の仮説建物が建てられ、「豊公館」と名づけられました。
 豊公館の外観は、桃山様式に則って造られました。
 1階は豊臣秀吉の遺品や、その時代の歴史資料が展示され、2階は展望台となっていました。
 豊公館には、わずか45日間の会期中にもかかわらず、69万8386人の入場者がありました。豊公館の人気が、のちの天守閣復興につながっていきます。

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③天守閣の復興が議会で可決
 昭和3年(1930)11月、昭和天皇即位の式典が行われるにあたり、大阪市の記念事業として、寛文5年(1665)1月落雷で焼失して以来約270年間なかった天守閣の復興が、第7代大阪市長 関 一(せき はじめ)より大阪市会に提案され、満場一致で可決されました。(昭和3年8月)
   
④寄付金の募集
 昭和3年8月から寄付金を募集し、早くも翌年の2月に目標額の150万円に到達しました。
 最も多く寄付をした人は、住友財閥の住友吉右衛門氏で25万円。
 続いて、三菱財閥の岩崎小弥太氏で5万円でした。

⑤天守閣再建の問題点
 大阪城内は明治以降、陸軍の軍用地となっており、あらゆる施設が所狭しと建っていたため、一般の市民や観光客が、自由に出入りすることが困難であると予想されました。
 そのため陸軍からいくつかの条件が出され、それを認めるということで再建が進められました。
 その条件とは、募金額の6割を新庁舎の新築に充て、残りの4割を天守閣再建・大阪城公園の整備に充てること。
 また、いざという時は天守閣を軍部に明け渡すということでした。
 新築された第四師団司令部の庁舎は、戦後、進駐軍の本部、大阪市警察本部と移り変わり、大阪市立博物館として2002年 3月31日まで利用されていました。 

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⑥大阪城天守閣の再建
 天守閣の建設は昭和5年(1932)5月6日に起工し、翌年の10月30日に竣工しました。(約270年ぶりに天守閣が復興しました。)
 豊臣期の天守閣の復興が望まれ、数少ない資料から現在の天守閣が設計されました。
 竣工式典は、昭和6年(1931)11月7日に行われ、同月16日から一般公開が始まりました。

第二次世界大戦中の大阪城 ~陸軍により閉鎖された大阪城~
    
①観光客入場の規制
 昭和12年(1937)に日中戦争が開戦となり、これ以降は戦時体制となったため、大阪城の観光客に対し、規制が強まってきます。
 昭和15年(1940)、大手門で写真機が取り上げられるようになりました。
 次第に規制が強化され、天守閣の展望台を閉鎖し、窓はすべて鎧戸で覆い隠されてしまい、館内の展示品以外は見る事ができなくなりました。
 これにより一般客は大阪城内の軍事施設や軍需工場をまったく見る事ができなくなります。

②天守閣の一般公開を閉鎖
 昭和17年(1942)9月25日、ついに市民の寄付により復興された天守閣が軍部に取り上げられることになり、市民への公開は閉鎖となりました。
 その後、敗戦により進駐軍に明け渡すまでの期間中、この天守閣をどのように使用していたかは不明のままです。

敗戦直後の大阪城  ~進駐軍に占領された大阪城~

①8・14の大空襲
 昭和20年(1945)8月14日午後1時ごろ、アメリカ軍のB29戦闘機145機が、大阪城とその周辺にある軍の施設・砲兵工廠を空襲しました。
 1トン爆弾をばらまいたため、民間人も含め大きな打撃を蒙りました。京橋駅にも5つの爆弾が落ち、700~800名の死者が出たといわれます。

②天守閣の被弾
 この時の空襲で、大阪城天守閣は奇跡的に壊滅せず残りました。
 しかし、2発の1トン爆弾を近くに落とされ、石垣が相当ずれました。
 また、雨あられのように放たれた焼夷弾により、天守閣の屋根もずいぶん傷みました。
 天守閣は、石垣に重みをかけないという特殊な工法で建てられていたため、大きな打撃を受けずに済みました。

③砲兵工廠・櫓・門などの被弾
 砲兵工廠破壊が主目的であったため、砲兵工廠の施設は壊滅状態になりました。
 また、大阪城の貴重な建物も破壊されました。
 破壊されたのは、徳川期に創建された二の丸二番櫓・三番櫓、伏見櫓、坤櫓、京橋門などです。

④進駐軍により占領された大阪城
 昭和20年(1945)8月15日終戦となり、9月下旬和歌山に進駐軍が上陸します。進駐軍は大阪城の明け渡しを命じます。
 展示資料や書物を天守閣に残したまま進駐軍が入場します。
 以後3年間、大阪城は進駐軍に占領されました。
 昭和23年(1948)の夏、アメリカ軍から大阪市へ返還されました。
 返還された天守閣内はさんざんに荒らされていたようです。
 返還される前年(昭和22年)には、米軍の失火により紀州御殿が焼失しています。
 少し意味合いが違いますが、石山本願寺から数えて4度目の落城となります。
 これまでの落城は、政治・政権が大きく変化しましたが、(この時の大阪城落城が直接関与していませんが)軍国主義が廃され、日本国憲法のもとに民主主義へ変化しています。

⑤応急復旧
 返還後、応急に復旧作業がなされて、大阪市の管理のもとで、昭和24年7月より一般公開が再開されました。

現在の大阪城   ~大阪のシンボル「大阪城」~
    
①一般公開の再開
 昭和24年(1949)7月より一般公開が再開され、現在に至ります。また近年、平成の大改修が行われ、より一層豪華で美しい城となりました。これからも大阪のシンボルとして、後世に歴史を語り続けてくれる事と思います。  

 

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

下記のとおり日程が決まり、受付が開始されました。

10月14日が早くも△になっているのに驚きです。

夕陽丘コースは、今回新ネタありです!

<夕陽丘コース>

・実施日時  10月14日(日)14:00   11月4日(日)14:00

http://www.osaka-asobo.jp/course68.html

<北浜コース>

・実施日時  11月3日(月)14:00   11月11日(日)14:00

  http://www.osaka-asobo.jp/course49.html

夕陽丘史跡探訪 原点に戻って

大阪史跡探訪 夕陽丘

1月28日(土)、「大阪歴史散歩の会」から2回目のご依頼をいただき、夕陽丘周辺をご案内いたしました。

平均年齢が70歳以上。でもなんとお元気で明るい方々ばかり。

1/25のNHKの「歴史ヒストリア」で井原西鶴について取り上げられたばかり。

生國魂神社境内にある井原西鶴像では、これまでにない時間を費やし、井原西鶴について語らせていただきました。

今年初めてのガイドでしたが、ところどころ人物の名が出てこなかったりし、年齢を感じましたが、参加いただいた方の皆様には、初めて聞く内容も多く満足をいただいて、ほっとしました。

ご案内箇所は以下のとおりです。

・大仙寺 臨済宗の寺で、淀屋常安の墓があり、淀屋一族の菩提寺でもある。幕臣である伊庭八郎が、将軍家茂の上洛に伴って、大坂にやって来た際に宿泊している。21歳のとき、元治元年(1864)1月14日の江戸出発から、6月15日に江戸に帰るまで、「征西日記」を表した。幕臣の日常や公務についても記されている。伊庭八郎は心形刀流の宗家の息子で、遊撃隊の隊長になる。剣術に天性の才が有り、「伊庭の小天狗」と言われた。江戸に居た頃の土方歳三の遊び仲間で、土方が吉原田圃で大喧嘩をしたときには、助っ人に来たというエピソードが残されている。箱館戦争にも共に参加し、木古内の戦いで重症を負い、明治2年(1869)5月、五稜郭開城前夜、服毒自殺をする。

・法性寺 法性寺は日蓮宗のお寺で、維新時のオランダ人医師、ボードウインの宿舎となった。現在もガラスの菓子入れや、ボードウインの写真など遺品が残されている。ボードウインは浪華仮病院のお雇い医師で、負傷した大村益次郎や労咳だった小松帯刀の主治医であった。また、ここは薩摩藩出入りの御用商人薩摩屋半兵衛の菩提寺でもあり、その縁か、坂本龍馬が新選組に追われた際に、匿って潜伏したという言い伝えが残されている。

・福泉寺 赤穂義士のうち、父子で仇討ちに参加した堀部弥兵衛・安兵衛の墓が福泉寺にあります。全国各所に両名の墓があります。

・薬王寺 赤穂義士47士のうちの一人である大高源吾の墓を天川屋利兵衛(天野屋利兵衛のモデルと伝えられる人物)によって建てられました。墓碑の土台には大高源吾が切腹時に詠んだ句が記載されています。 梅でのむ茶屋もあるべし 死出の山

・英国公使ハリー・パークス宿泊の地 正法寺 幕末期、英国公使ハリー・パークスが来坂の際宿泊した。

・英国外交官アーネスト・サトウ宿泊の地 法雲寺、本覚寺跡 アーネスト・サトウが初めて来坂したのは、慶応3年(186717日。来坂の目的は、将軍徳川慶喜が公使ハリー・パークスとの謁見を控え下見と大坂町民の観察だった。1月9日午後に薩摩藩士 吉井幸輔(のちの友実)が、サトウの宿泊所 本覚寺を訪れた。11日には、再び吉井幸輔が小松帯刀を伴って本覚寺を訪ね、朝食を共に摂った。小松と吉井は、パテ・ド・フォアグラとビールが大いに気に入ったとサトウは書き残している。同年7月、3回目の来坂。パークス・慶喜との大坂城での謁見当日の早朝、727日、薩摩藩士 西郷吉之助が本覚寺にいるアーネスト・サトウを訪ね会談を行った。5回目の来坂は、慶応4(1868)2月。本覚寺ではなく法雲寺に宿泊。この来坂中に「堺事件」が勃発している。

(前文省略)大坂商社仏人(フランス人)と取り結び、大いに利を計り、候趣委敷(くわしく)申し聞け、仏人のつかわれものと御話しの通り言い掛け、些(いささ)か腹を立てさせて見たき賦(つもり)に御座候故、仏に憤激いたし候様説き込み候処、大いによく乗り、思い通りに怒らせ候処、段々意底を咄(はな)し出し候間、左の通りに御座候。

・梶井 基次郎墓所(常国寺) 梶井基次郎は、明治34(1901)大阪市西区土佐堀通五丁目(現西区土佐堀三丁目)に生まれ、昭和7年(1932)324日死去しました。昭和3年(1928)、「蒼穹」「冬の蝿」「ある崖上の感情」などを発表しましたが、病気が悪化となり、臥床するときが多くなりました。その後、昭和6年(1931)には、三好達治、淀野隆三らの尽力で創作集「檸檬」を出版し、翌年の昭和7年(1932)には、「のんきな患者」を「中央公論」に発表後、病状が悪化し、31歳の短い生涯を閉じました。

・藤次寺(高野山真言宗) 藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人を開基とする。摂関家である藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、「藤冶寺」と称していたが、明治時代から「藤次寺」と改称。俗称「融通さん」と称されている。(願い事を1つだけ叶えてくれる)

 ・オセロ(中島知子、松嶋尚美)・今田耕司がこの付近に住んでいて、境内のブランコでよく遊んでいた。

・生國魂神社 「難波大社(なにわのおおやしろ)」とも呼ばれ、国土の守護神、大阪の総鎮守として崇敬されている神社。神武天皇が難波の津に上陸し、国土の神である生島神・足島神を現在の大阪城付近に祀ったのが始まりと伝えられています。織田信長の石山本願寺攻めの際、社殿は焼失します。当初は石山本願寺に隣接していたが、織田信長との戦で焼失。豊臣秀吉が大坂城築城のため現在地に移転。

・八軒家船着場常夜燈① 生國魂神社北側にある門の左右と「米澤彦八の碑」の北側に対となった八軒家に建てられていた常夜燈2種類が生國魂神社境内に移されています。そのうちのひとつが、真言坂を上がった神社の門の左右に設置されています。門にある常夜燈は、万延元年の建立された常夜燈で、呉服屋連合の寄進によるものです。

・井原西鶴像 井原西鶴は寛永10(1642)に大坂の裕福な家に生まれました。本名は平山藤五といい、井原姓は母方の姓になります。43歳の時、住吉大社で開かれた「矢数俳諧興行」で23,500句をわずか一昼夜で詠むという驚異的な記録を残しています。換算すると1分間に平均16句を詠んだ事になります。生國魂神社境内においても「大矢数俳諧」を行い、一昼夜通して4000句を詠みました。そのほか、「日本永代蔵」「世間胸算用」などの作品を残しています。元禄6(1693)52歳の時、亡くなりました。

・八軒家船着場常夜燈② 「米澤彦八の碑」の北側に対となった八軒家船着場に建てられていた常夜燈が生國魂神社境内に移されています。寛保年間(17411744)に建立されたものです。天満八軒家船宿の皆さんが寄贈されたものです。中には、幕末期、新選組の定宿「京屋忠兵衛」や伏見寺田屋と業務提携をしていた「堺屋源兵衛」などの名前が確認できます。

・水戸藩士 川崎孫四郎 自刃の所  笠間藩士 島 男也 旧居跡 

安政7年(186033日、江戸の桜田門外で、水戸、薩摩の脱藩浪士により、大老 井伊直弼が暗殺されるという大事件がおこりましたが、このとき、江戸だけではなく大坂でも並行して、水戸、薩摩藩を中心とした挙兵計画がありました。挙兵を計画したのは、水戸藩士 高橋多一郎、川崎孫四郎ら水戸藩士です。ところが、薩摩藩が慎重策に変じ、計画が進まなくなったところで、幕吏(大坂町奉行所)に漏れてしまいます。桜田門外の変後、間もない万延元年(1860[318日より改元]、生國魂神社境内にあった笠間藩士  男也宅に水戸藩の志士たちが協議のため集まっているところを幕吏が取り囲みます。川崎孫四郎は自刃し死に切れないでいるところを捕らえられ、翌日死亡します。

島 男也は捕らえられた後、江戸の伝馬町の牢に送られ、文久元年(1861115日牢死します。そのほか、高橋多一郎、庄左衛門父子は、囲みを破り四天王寺まで逃れますが、ついに観念し、同寺内で自刃します。(高橋父子の墓が四天王寺境内にあります。

佐久良東雄も捕えられ、江戸伝馬町の牢獄に送ら6月獄死します。

・土佐藩ゆかりの寺 齢延寺 武市半平太(瑞山)の妻 富子の弟で武市半平太の義弟にあたる島村寿太郎(洲平)は、武市半平太が切腹する際、小笠原忠五郎とともに介錯人を命じられ、辛い役目を果たしている。戊辰の役では従軍し活躍するが、明治6年(1873122日、大阪で死亡しこの寺に埋葬された。土佐藩刀工の佐(さの) (ゆき)(ひで)や、同藩郷士 安岡恒之進の墓所もある。安岡恒之進の従兄弟にあたる安岡嘉助は、武市半平太の密命により、大石団蔵、那須信吾の3人で土佐藩参政吉田東洋を暗殺している。

  南門に「見ザル・聞かザル・言わザル」、対の仁王像は左が白鳳、右が朝青龍がモデル

・萬福寺(新選組旅宿跡) 萬福寺は西山浄土宗のお寺で、ある。文禄3年(1594年)前田利家の弟 前田利信と僧開導によって開創された。慶応元年(1865年)5月に将軍家茂の上洛に備えて、大坂の警備のため新選組は萬福寺、会津藩は一心寺に屯営を振り分けられる。新選組は谷三十郎以下、20人ばかりが本堂(宝暦年間に創設。間口9間、奥行8間)で寝起きしていたと伝わる。5月26日、尊攘派浪士と交流があったと疑われた藤井藍田が萬福寺に連行される。藤井は尋問に答えようとせず、押収書類から藤井の潜伏浪士との交遊関係を察知した隊士らは、これに激昴し、藤井を獄中で刺殺したものと思われる。また、6月15日には新選組が警備するので、中止される予定だった天神祭を実施しないかと、大坂天満宮に持ちかけた。その返答を下寺町の「我等旅宿」まで持ってくるようにと回状が回ってきて、下寺町まで届けたと、天満宮の宮司が日記に記している。

・小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西昭庵(さいしょうあん)跡 

「浮瀬(うかむせ)」、「福家席」と並んで大坂を代表する料亭「西昭庵」が夕陽丘にありました。場所は、現在でいうと夕陽丘学園(旧大阪女子学園)のあたりになります。

司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」では、土方歳三が口縄坂を上って「西昭庵」に行く場面があります。(参考:新潮文庫「燃えよ剣」下巻P195~)

・織田作之助文学碑 織田作之助は、大正2年(1913)、大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐町4丁目27)にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれました。作家活動を始め、「夫婦善哉」を発表し著名になります。「木の都」は、昭和19年(1944)「新潮」に発表された作品は、織田作之助が大阪に在住していた最後の小説で、大阪的庶民気質や大阪人情への深い共感が読み取れる作品です。文学碑には次のような記載があります。

・松尾芭蕉墓所と芭蕉堂(梅旧院) 生涯松尾芭蕉の顕彰に尽力した俳人 不二庵二柳(ふじあんじりゅう)が、朽ちていた松尾芭蕉の墓を修復し、その横には自身の墓が並んでいます。不二庵二柳は、俳諧の低俗化や遊戯化を憂い、芭蕉の精神に戻り芸術性を持たせようと運動を起こします。天明期、梅旧院に芭蕉堂を建てました。大正期、朽ちてきたところを松瀬青々が復元をしています。

・陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡(稱念寺) 伊達宗広は享和2年(1802525日、紀州藩士の家に生まれます。紀州藩主 徳川治宝(はるとみ)は宗広の才能を評価し18歳で藩の監察に任じます。その後、勘定吟味役、勘定奉行、寺社奉行兼務と昇進して500石取りとなります。家老山中筑後守を補佐して藩政改革を推進する一方で、藩内の尊王論を主導していきました。嘉永5年(1852)に山中筑後守、更には藩主 治宝が相次いで病死すると、改革に反対する派が推す家老水野忠央が実権を握ります。幕府からの信頼も厚かった水野は、藩内に危険な思想を広めたとして宗広は捕えられ、10年近くにわたって紀伊国田辺に幽閉されました。文久元年(1861)、その才能を惜しんだ土佐藩 山内容堂の口利きによって宗広が釈放されると、養子である宗興に家督を譲って隠居します。紀州藩は激怒し元治2年(1865)に和歌山に連れ戻され、再び幽閉の身となります。明治維新後、実子の陸奥宗光が新政府に出仕すると、明治2年(1869)には幽閉が解かれ、宗興も和歌山藩執政に抜擢されました。紀州藩は過酷な措置を行ってきたお詫びとして隠居料200石を与えました。宗広はその後歌道に専念し、大阪夕陽丘にある歌人藤原家隆の荒廃していた墓を修理し、付近の土地千百数坪を購入し「自在(じざい)(あん)」を築き、余生を歌道に専念しました。家隆の歌からこの地名を「夕日岡」と創名したのは伊達宗広です。明治5年(1872)頃、宗広は病状が悪くなり、子の宗光邸のある東京深川清川町に移り住むことになり、夕陽丘を離れることとなりました。移る際、宗広は次のような句を読んでいます。

空蝉の 殻は何處に 朽ちぬとも

      我魂やどる かた岡ぞこれ

 

宗広は明治10年(1877年)518日に亡くなり、遺言により夕陽丘に埋葬されました。

・夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)(稱念寺) 

陸奥宗光は、明治10年(18775月に亡くなった父 伊達宗広の遺言に従い、夕陽丘に墓所を建て、さらにその傍らに宗広の生涯と事績を顕彰する「夕陽丘阡表」という碑を建てました。この地に移転してきた稱念寺さんによって、陸奥家墓所が鎌倉へ移転後、平成元年(1989)邸宅内から門前に移され、外部から見ることができるように配慮していただきました。

・清(さや)地蔵(稱念寺) 陸奥宗光の最初の妻 蓮子が亡くなった明治5年(1872)に、亮子と再婚をします。亮子との間に生まれた長女 清子(さやこ)が翌年に生まれました。しかし、明治26年(1893)、清子20歳のとき腸チフスにより若くして亡くなります。宗光と亮子は非常に悲しんだと思われます。その死を悼み、等身大の地蔵尊を陸奥家墓所に設けました。

・陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺) 伊達宗広は明治10年(18775月に病死し、遺言により宗広が隠棲した「自在庵」の地(夕陽丘)に墓を建て埋葬されました。その後、陸奥宗光をはじめとして陸奥家の墓所となりました。 昭和28年(1953)、遺族が墓所を寿福寺(神奈川県鎌倉市)に移葬することとなりました。 しかし、現在でも稱念寺内には当時の面影が残されています。

・陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺) 明治元年(1868)、陸奥宗光が大阪府権判事に就任した頃、蓮子と結婚しました。宗光が神奈川県知事だった明治5年(18722月、蓮子は亡くなり、神奈川県の「豊顕寺(ぶげんじ)」に埋葬されました。父 宗広が明治10年(1877)に亡くなると蓮子の遺骨もこの地に埋葬されました。昭和28年(1953)、陸奥家墓所が神奈川県鎌倉市の寿福寺に移葬された折、蓮子の墓碑だけ置き去りにされました(遺骨は寿福寺に移されています)。

・原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺) 明治40年(19078月、当時、第一次西園寺公望内閣の内務大臣を務めていた原 敬は、陸奥宗光に恩恵を受けました。原 敬は、宗光の死から10年後、陸奥家墓所に「陸奥宗光に追慕の意を表す碑」を建立しました。碑の高さは「夕陽丘阡表」と同じくらいの高さで原 敬が宗光に対する追慕の辞が記載されています。

・薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡 地名を「夕日岡」と創名した伊達宗広(陸奥宗光の父)が、「自在庵」に在住中、維新の功労者 薩摩藩元家老の小松帯刀が、明治3(1870)大阪で病死し、夕陽丘に埋葬されました。【明治維新の國士小松帯刀の碣(いしぶみ)も此處(ここ)にあった】と田中吉太郎著「夕陽丘の回顧」に記載があり、伊達宗広の敷地一角に小松帯刀と帯刀の側室 琴 仙子(ことせんこ)の墓がありました。明治9(1876)103日、鹿児島県吉利村園林寺にある小松家墓地に改葬されました。小松帯刀は明治に入り、徴士参与と外国事務局判事に任命され、主に外交を主として新政府に出仕しましたが、体調が芳しくなく、明治2年(18697月、大阪にて蘭医ボードウィンの治療を受けました。明治天皇は2度にわたり菓子・肴の見舞い品を贈り、病気全快次第に東京在住するよう示達されています。昨今、脚気により病死したと思われていましたが、死因は肺病である可能性が高いと思われます。息を引き取ったのも「大阪病院・医学校」ではなく、側室  仙子の家で正室 近(ちか)や五代友厚などの薩摩藩関係者に看取られて静かに永眠しました。

・舊山口藩殉難諸士招魂之碑(大江護国神社) 元治元年(1864)718日「蛤御門の変」が起こり、敗戦した長州藩兵 宍戸久之進ら62名の兵士たちは、伏見から舟で淀川を下ってきます。大坂の桜宮付近で高松藩に捕えられ、千日前刑場の獄舎へ投獄されました。

ここでは幕府による極めて残酷な扱いを受けたようです。半年以内に刑死者6名、牢死者39名を数え、一説には一人ずつ毒殺したともいわれています。ここで亡くなった45名の死骸は、犬猫同様無造作に、刑場片隅に埋められたそうです。明治期に入り、賊として扱われたこの長州兵士らは、勤王の志士として評価されます。明治2(1869)夏、夕陽丘にある大江神社一角に招魂社を建て慰霊・顕彰を行いました。同じく蛤御門の変で敗走中、尼崎で捕えられ、自刃した山本文之進(残念さん)と「薩摩藩御用船を焼き討ち事件」で、大坂南御堂前で切腹した水井精一、山本誠一郎の計3名と千日前でなくなった45名で、計48名が祀られました。その後、千日前で眠っていた45名の遺骨を掘り起こし、前記3名とともに阿倍野墓地に改葬されました。この「舊山口藩殉難諸士招魂之碑」は、明治23年(1890)11月に建立され、裏面に48名の名が5段にわたり記載されています。

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