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川口居留地跡

川口居留地跡

・木津川橋 慶応4年(1868)に川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた。当時、大阪開市、開港に備えて運上所が設置され、続いて居留地が設けられた。

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・ファーブル・ブラント商会跡 (居留地10番地、11番地)
ファーブル・ブラント商会を設立したファーブル・ブラントは、スイス特派使節団の書記として文久3年(1863)に渡日。1年後、日・瑞(スイス)条約が締結された後も、特派使節団の職を辞して、横浜へ残った。
主にスイスの特産品である時計や、武器を商う店(商館)を横浜の居留地175番地に建てた。薩摩藩や長岡藩の河合継之助にガットリング砲を含む武器を大量に売っている。
その後、川口居留地10番地にも商館を新設した。ファーブル・ブラントの兄に託され、その後がファーブル・ブラントの次男に託されている。関東大震災で横浜にある商館が倒壊したため、大阪で営業を続けた。

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・オラメル・ギューリック邸跡 (居留地26番地) 明治5年(1872)、アメリカの宣教師として来阪。26番地に居住した。同国のマークウィス・ラフェイエット・ゴードンと共に大阪教会の創設に尽力した。明治6年、神戸へ移転。
・聖バルナバ病院発祥の地 (居留地8番地)明治6年(1873)、アメリカ聖公会から派遣されたヘンリー・ラニング医師が、アメリカ伝道会社施療院という施療行を始めた。同16年(1883)9月、川口町8番地に木造二階建ての病院が新築落成され、ラニング医師はそこの院長となった。この病院が聖バルナバ病院である。大正2年(1913)、ラニング医師が帰国し2代目の院長にラニング医師の息子が就任する。同12年(1923)、川口町から現在の天王寺区細工谷に移転した。

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・ジョン・マキム邸跡 (居留地7番地) 明治13年(1880)に来日、照暗女学校(現在の平安女学院)のチャプレン(教会、寺院に属しない聖職者)となる。大阪、大和地方一体に伝道活動を行った。堺聖テモテ教会、奈良キリスト教会等の伝道もジョン・マキムによって精力的に行なった。同27年(1893)、東京主教として按手され、東京・京都・関東をはじめとした広範な地域における諸教会の創立、学校・病院等の創立・発展に尽力した。瀧廉太郎に堅信礼を授けたとされている。学校教育の面では、当時の日本における欧化の流行の終焉や、米国聖公会・英国聖公会からの資金援助の不足という困難な情勢下にあって、立教学校(現立教大学等の母体)の維持・発展に努めた。日本に正教を伝道したロシア人主教ニコライ・カサートキン(のちに亜使徒として正教会で列聖)、およびニコライの後継者となった府主教セルギイ・チホミーロフと親交があった。当時、ニコライおよび彼の指導下にあった日本の正教会は、聖公会と比較的良好な関係にあった。関東大震災で崩落したニコライ堂の再建後、昭和4年(1929)年のセルギイ府主教司祷の大聖堂成聖式には、マキムも祭服着用の上で参加している。

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・平安女学院発祥の地 (居留地6番地)平安女学院は、明治8年(1875)、米国聖公会から派遣されたアメリカ人教師のミス・エレン・ガードルード・エディが、当時手伝っていた男子学校に英語を習いに来た女子生徒を引き取って始めたMiss Eddy’s School(エディの学校、またはエディ女学院)である。明治13年(1880)、「照暗女学校」(英語名セント・アグネス・スクール)と称する。
<年表>
明治7年(1874)3月 米国聖公会がミス・エディの派遣を決定する。11月17日、ミス・エディが大阪の旧川口居留地に到着する。
明治8年(1875)9月 Miss Eddy's Schoolを開く。
明治13年(1880) 学校名を照暗女学校(英語名:St. Agnes' School)とする。
明治14年(1881)6月 ミス・エディが帰国し、後任の校長にミス・キー(後に聖バルナバ病院を創設したラニングと結婚)が就任する。
明治17年(1884) 男子の受け入れをしないことを決定する。
明治19年(1886)1月 ミセス・ラニングが辞任し、立教学校(後の立教大学)に勤めていたミス・エマ・ウィリアムソンが3代目の校長に就任する。
明治24年(1891) ミス・ウィリアムソンが立教学校に戻ることになったため、沢村繁太郎が4代目の校長に就任し平安女学院最初の日本人の校長となる。
明治25年(1892)  学校の京都移転を決定する。
明治27年(1894)  移転のため16人の生徒を立教女学校(後の立教女学院中学校・高等学校)へ
転校させる。
明治28年(1895)4月 校名を平安女学院として開校する。6月、明治館が完成する。
明治31年(1898) 聖三一大聖堂(現京都教区主教座聖堂聖アグネス教会)が完成する。
大正4年(1915)  聖三一幼稚園を開園する。
大正9年(1920)  日本で初めて制服としてセーラー服を採用。
大正10年(1921) 幼稚園を平安幼稚園とする。
昭和16年(1941)2月 ニコルス主教が帰国する。4月、財団法人となる。
昭和22年(1947) 平安女学院中学校を開校する。
昭和23年(1948) 平安女学院高等学校を開校する。
昭和25年(1950) 平安女学院短期大学を開学する
昭和26年(1951) 学校法人平安女学院となる。
昭和52年(1987) 短期大学と幼稚園を高槻市へ移転する。
平成12年(2000) 平安女学院大学を滋賀県守山市に開学する。
平成17年(2005) 平安女学院大学を大阪府高槻市に移転する。守山の建物・土地を立命館へ譲渡。
平成19年(2007) 平安女学院大学国際観光学部を京都府京都市上京区に開学する。

・プール学院発祥の地 (居留地4番地)プール学院は、明治12年(1879)、英国聖公会宣教協会派遣婦人宣教師の組織する東洋女子教育協会のミス・オクスラドにより永生学校が創立。のちに永生女学校と改称。
明治12年(1879)  大阪市西区の川口外国人居留地にて、永生女学校として創立(居留地4番地)。英国聖公会から派遣されたミス・オクスラドにより設立。
明治23年(1890)  プール女学校と改称。居留地12番地に移転(後に17番地も追加される)。
大正6年(1917)   プール女学校を大阪府東成郡鶴橋天王寺村(現・大阪市生野区の勝山キャンパス)に移転。
昭和22年(1947)  学制実施とともに、プール学院中学校・高等学校を設置。

昭和25年(1950)  プール学院短期大学(英文科)を開学。
昭和55年(1980)  創立100周年事業として泉ヶ丘キャンパスの用地を購入。
昭和57年(1982)  短期大学を移転。
平成8年(1996)   短期大学英文科を改組してプール学院大学(国際文化学部)を開学、短期大学をプール学院大学短期大学部(秘書科)に改称。
平成30年(2018)  大学を学校法人桃山学院に譲渡予定。

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・安治川橋跡  貞享元年(1684)、河村瑞賢の安治川を開削。元禄11年(1698)に富島、古川の新地開発が完成。安治川橋は新地開発に伴い架設。明治6年(1873)、居留地の交通の便を図るため新しく安治川橋が架設。高いマストの船が航行するときは、橋桁が旋回する「可動橋」だった。磁石橋とも称され名物となった。明治18年(1885)、大洪水が起こり、大阪市内の洪水を防ぐため工兵隊により爆破撤去された。

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・桃山学院発祥の地、聖三一教会・三一小学校跡(居留地12番地) 明治8年(1875)、英国国教会の宣教師チャールズ・フレデリック・ワレンの自宅(居留地3番地)により日本語礼拝が開始。明治10年(1878)、大阪聖三一教会(現:大阪市東住吉区)として命名される。明治14年、ワレン邸から分離され、居留地12番地に教会が移転となる。
明治17年(1884)、教会の一室で桃山学院の前身である「三一小学校」(男子校)が開始される。生徒数はわずか11人だったそうである。また、居留地18番地に「三一神学校」も開校される。
明治18年(1885)、「三一小学校」は居留地23番地に移転した。現在の大阪聖三一教会には、貴重な史料が残されている。ワレン愛用の聖書(1959年に、ワレンの孫のC. K. W. ワレン氏から聖三一教会に贈られた)。桃山学院のルーツのひとつである「三一神学校」の校友会記念名簿(1917年)、大阪教区が大阪地方部と呼ばれていた頃の常置委員会記録(1894年~)の原本など。
明治17年(1884)  イギリス人宣教師たちによって現在の大阪市西区の川口外国人居留地に「三一小学校(Boys' School)」を開学。
明治23年(1890)  大阪市西区江戸堀に高等英学校を創立。翌年東成郡天王寺村に移転。
明治28年(1895)  現在の名称である「桃山学院」に改称。翌年に「桃山学校」と改称。
明治35年(1902)  当時の中学校令に基づく(旧制)桃山中学校に改称。男子校。
明治45年(1912)  現在も桃山学院中学校・高等学校がある昭和町キャンパス(東成郡天王寺村・1925年から大阪市住吉区・1943年から大阪市阿倍野区)に移転
昭和22年(1947)  新制桃山中学校を発足する。男子校。
昭和23年(1948)  財団法人桃山学院となる。新制桃山高等学校を発足する。男子校。
昭和24年(1949)  桃山学院中学校・高等学校と改称
昭和26年(1951)  学校法人桃山学院となる。
昭和34年(1959)  昭和町キャンパスに桃山学院大学を開学。共学。
昭和41年(1966)  桃山学院大学第2のキャンパスとなる堺市の登美丘キャンパス完成
昭和46年(1971)  桃山学院大学が堺市の登美丘キャンパスに完全移転
平成6年(1994)   桃山学院中学校を閉学。→平成10年再開(共学)
平成7年(1995)  桃山学院大学第3のキャンパスとなる和泉市の和泉キャンパスが完成し、大学が全面移転
平成30年(2018年) 学校法人プール学院が運営するプール学院大学を引き受け、桃山学院教育大学と改称予定。学校法人桃山学院2つ目の4年制大学。所在地は現在プール学院大学が所在する泉ヶ丘キャンパス。共学。

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・英国国教会の宣教師チャールズ・フレデリック・ワレン邸跡(居留地3番地) 
  明治6年(1873)12月、英国国教会の宣教師であるチャールズ・フレデリック・ワレンが、3番地に居住することとなり、聖三一教会ならびに桃山学院の前身となる「三一小学校」を居留地12番地に創設した。

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・大阪信愛女学院発祥の地 (居留地1番地、2番地)大阪信愛女学院は、明治10年(1877)修道会会員シスター・マリー・ジュスティヌによって子どもたちの養育事業を開始し、明治17年(1884)、信愛女学校が川口居留地に開設。
明治10年(1877)  シスター・マリー・ジュスティヌにより子どもたちへの養育事業を開始。
明治17年(1884)  信愛女学校として川口外国人居留地に開設。
明治41年(1908)  大阪信愛高等女学校として開校。
昭和7年(1932)   校舎を現在地(大阪市城東区古市2)に移転。
昭和19年(1944)  幼稚園を開園。
昭和22年(1947)  大阪信愛女学院中学校開校。
昭和23年(1948)  学制改革にともない大阪信愛女学院高等学校を設置。
昭和27年(1952)  大阪信愛女学院小学校を開設。
昭和34年(1959)  短期大学が開学し、幼稚園から短期大学までの総合学院に発展。
平成29年(2017)  小学校新校舎完成

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・イギリス領事館跡(居留地33番地)
・居留地事務所跡 (居留地34番地) 
・川口居留地跡碑 明治新政府は、徳川幕府が結んだ「安政の条約」に基づき、この地に川口運上所を設置。慶応4年(1868)7月より、外国人の居留地として、この地が競売され、イギリス、アメリカ、フランスの人々が住み始めた。一時期最大で99人が居住した。
居留地として長崎、横浜、神戸に続いてでき、「川口居留地」という名称となった。川口居留地は、道路が舗装され、煉瓦造りやガラス窓の建物が建てられた。しかし、神戸と比べ、大型船の出入りが不便であり、また鉄道が、大阪神戸間で開通されたため、さびれていった。そのうち宗教関係者が住み始め、学校、孤児院、病院等が建てられた。明治32年(1899)7月、治外法権の撤廃により居留地は消滅し、大阪市西区に編入された。
川口居留地の歩み
慶応3年12月(1868年1月)  大阪開市、兵庫開港
慶応4年(1868)9月  大阪開港、川口居留地競売(26区画)
明治2年(1869)  第1回居留地会議開催
             C.M.ウィリアムズ(PE)大阪に着任J.クーザン(パリ)、富島に会堂建設
明治3年(1870)  C.M.ウィリアムズ、与力町に礼拝堂を設ける
明治4年(1871)  A.R.モリス師(PE)来阪、12  古川町に英語塾
明治5年(1872)  O.H.ギューリック、M.L.ゴードン、J.D.ディビス(AB)の来阪               
明治6年(1873)  切支丹禁制の高札撤去。古川町の英語塾、聖提摩太学校となる。H.ラニング(PE)、与力町で施療院開設。C.F.ワレン(CMS)、川口居留地3番に居住
明治7年(1874)  梅本町公会開設。大阪府庁(江之子島政府)開庁。
明治8年(1875)  エディー(PE)の学校開校(照暗女学校と改称、居留地6番に移転)。
             C.F.ワレン、居留地3番に小会堂開設
明治10年(1877)  J.B.ヘール(CPC)来阪、兄A.D.ヘールは翌年10月来阪。オクスラド(FES)、女学校開校(居留地4番)。C.F.ワレン、居留地3番に新会堂(1878.6大阪聖三一教会と命名)。
明治11年(1878)  梅花女学校開校(土佐堀裏町)。 
明治12年(1879)  富島に川口教会開設。永生学校開校(居留地4番、のち永生女学校)。
英和学舎、北区上福島村に開校。
明治14年(1881)  G.H.ポール(CMS)来日。英和学舎、川口居留地21番に新築。9月授業開始。大阪聖三一教会、川口居留地12番に移転。
明治15年(1882)  聖提摩太教会落成(居留地21番)。
明治16年(1883)  日本プロテスタント宣教師会議。聖バルナバ病院新築落成(居留地8番)。
明治17年(1884)  ウヰルミナ女学校開校(居留地22番)。信愛女学校開校(居留地1・2番)
             三一小学校開校(居留地12番)、三一神学校開校(居留地18番)
明治18年(1885)  三一小学校移転(居留地23番)。淀川大洪水、居留地も水没。安治川橋爆破。
明治19年(1886)  居留地10区画増設 ※1883宣教師たちから要望書。大阪一致女学校開校(居留地16番、PCUSA)。
明治20年(1887)  日本聖公会組織成立。在日米国ミッション常置委員会、英和学舎の閉鎖を決定。英和学舎、立教大学校に合併。大阪聖三一教会、西区京町堀に移転。泰西学館、居留地21番に移転。
明治21年(1888)  木津川橋、鉄橋に架け替え。
明治23年(1890)  高等英学校設立(西区江戸堀南通5丁目)、 翌年1月、「桃山」にて開校式。プール監督記念女学校開校(居留地12番)。
明治24年(1891)  聖提摩太教会と聖慰主教会が合併し川口基督教会となる。
明治28年(1895)  照暗女学校、京都に移転。平安女学院と改称。
条約改正により川口居留地廃止。

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・大阪製氷所跡 (居留地20番地)
・三一神学校跡 (のちの桃山学院 居留地18番地) 明治18年(1885)、桃山学院の前身である「三一神学校」が居留地18番地に創設された。
・ハンター商会跡 (居留地16番地) 神戸市中央にある北野坂の1本西にある坂を「ハンター坂」という。この坂を上りきったところにハンター邸があった(旧番地:北野町3-130)。エドワード・ハズレット・ハンター(E・Hハンター)「はアイルランドで生れ、22歳で来日。横浜で雑貨やマッチの輸入商を営むキルビーのもとで働いた。慶応3年12月7日(陽暦:1868年1月1日)兵庫開港を機にキルビーが神戸に移ると、ハンターも大阪(川口)居留地18番地に移り住んだ。小野浜にできた造船所で働き、大坂の薬問屋の娘平野愛子と知り合い、結婚する。明治7年(1873)、神戸居留地に「E・H・ハンター商会」を設立。西南戦争で鹿児島軍の軍需物資を取扱い、商会の基礎を固めた。明治14年、息子の龍太郎名義で大阪鉄工所を大阪に創設する。この鉄工所が発展し日立造船所となる。そのほか機械精米所や煉瓦会社や損害保険などを手掛け「範田財閥」を築いた。近代産業の草分けに貢献をした。
晩年は神戸北野に3,000坪もの土地を譲り受け、日本式家屋と洋館の邸宅を建て、庭に植樹した桜を眺めながら余生を送った。この桜は「愛子桜」と呼ばれている。日本家屋は中央区北野町2-13-1に移築され「神戸北野ハンター迎賓館」として結婚式場として使用されている。
洋館は灘区青谷町1-1-4にある王子動物園内に移築されている。その洋館は、昭和41年(1966)6月11日に国の重要文化財に指定された。ハンターの日本家屋はハンター邸跡とは違う場所に移築され、ブライダル業者が経営している。 

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・大坂船手会所跡 大坂船手会所は元和6年(1620)に設立。大阪湾から木津川・淀川への船舶の出入りを管理し、掌握すること。さらには大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役所。配下の施設として、船の出入りの管理を実際に行なう船番所が、会所の北側と春日出、三軒家の3箇所に置かれた。また、船蔵が会所の脇と四貫島にあった。1700年代(江戸中期)には船手頭が小豆島などの代官を兼ねることもあり、大坂における幕府の重要な役職だった。文久3年(1863)に設立された「神戸海軍操練所」の管轄下となった。元治元年(1864)、神戸海軍操練所とともに、船手会所も廃止された。大阪市此花区梅香1丁目26番には「初代大阪船奉行所跡」の石碑が平成23年(2011)に建立されている。
・大阪女学院発祥の地(居留地22番地) 大阪女学院は、明治17年(1884)、「ウヰルミナ女学校」が米国カンバーランド長老教会外国宣教局(mission)のミッションスクールとして創設。また、明治19年(1886)、「大阪一致女学校」が、米国北長老教会宣教局のミッション スクールとして、居留地16番地に教育宣教師のAnn E. Garvin校長を創設者として宣教師館で開校。
明治37年(1904)4月1日に両校が含併。
明治17年(1884)1月  ウヰルミナ女学校(維耳美那女学校)を開校(居留地22番地)。
明治19年(1886)9月  大阪一致女学校開校(居留地16番地)。
明治21年(1888)1月  大阪一致女学校は、西成群清堀村へ移転(現在の校地で、地名は幾度か変更した 現在地は大阪市中央区玉造2丁目26番54号)
明治25年(1892)4月  大阪一致女学校の校名を浪華女学校と改称。
明治37年(1904)4月  ウヰルミナ女学校と浪華女学校が含併。キャンパスは浪華女学校に統一され、学校名はウヰルミナ女学校となった。
昭和14年(1939)  学校名を大阪女学院高等女学部に改称。
昭和22年(1947)4月  学制改革で「大阪女学院中学校」を設置
昭和23年(1948)4月  「大阪女学院高等学校」を設置
昭和43年(1968)4月  大阪女学院短期大学開学。
平成16年(2004)4月  大阪女学院大学開学。

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・川口基督教会・英和学舎・聖テモテ教会跡(居留地21番地) 「川口居留地」と呼ばれたここ川口町では多くの来日宣教師たちが伝道をはじめ、いくつものミッションスクールや病院などが建てられた。明治2年(1869)、長崎から大阪にやってきた米国聖公会宣教師C.M.ウィリアムズ主教は川口の地に移住した。
明治3年(1870)、英学講義所(大阪英和学舎)を開校するとともに英語による礼拝を始めた。これがこの地でのキリスト教宣教の最初であり、当教会の第一歩となった。
明治14年(1881)には教会が設立され、大正9年(1920)に現在の礼拝堂が建設された。昭和25年(1950)に大阪教区主教座聖堂となりました。平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災ではこの教会も塔が倒れ、礼拝堂も被害を受けた。平成10年(1998)に礼拝堂が復元された。また、大阪英和学舎は明治20年(1887)、立教大学教授のモリノーが校長を務めていたが、夫人の病気のためアメリカへ帰国した。その後、大阪英和学舎は閉鎖され、生徒の一部は東京の立教大学へ移された。

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・オランダ領事館跡
・カッフェー・キサラギ跡 明治の末期、大阪に初めてできたカフェが「カッフェー・キサラギ」である。多くの著名人がが通った。
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・飯田家邸跡 本田小学校の南隣(本田変電所)の敷地内にかつては「飯田家邸の跡」という説銘板があった。現在は見当たらない。このあたりは飯田直好の邸跡に該当する。
 田直好は、商家に生まれ「苫屋」という廻船問屋の5代目の店主だった。若い頃から海運業を始め、数十艘の船を持っていた。商いで得た巨額の私財を、安治川の修復や大坂の商業発展のために投じ、貢献したといわれる。晩年、当時の江戸幕府老中の田沼意次に巨額のお金を貸したものの、田沼意次の没落で回収不能となり、不遇の生涯を閉じた。墓は西区本田3にある「九島院」にある。

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・古川跡

・外人雑居地の跡 大阪中華街跡 川口居留地とは別に、日本人や中国人が住んでいた雑居地跡。中国人の料理店や理髪店があったことから、この地域一帯は、川口居留地の外人だけでなく長く居住した中国人の文化の影響を多大に受けた場所でもある。特に明治32年(1899)、居留地が廃止され大阪市に編入された後は、中国人が3,000人住むようになった。日中戦争勃発後は次第に減少。大阪大空襲で壊滅し倉庫の町と変わっていった。
   ※文久3年(1863)、草野丈吉は長崎において、日本最初の西洋料理専門店である良林亭を開店。6畳1間で一度に6名の客が入れば満席という小さな料理屋だった。ところが、五代友厚、後藤象二郎などの尽力により大阪に出店。最初は川口で開業したが、店が発展し中之島にホテル併設の自由亭を開設。その後、京都・神戸にも支店を開設。そして長崎にも自由亭を開設したが、丈吉は47歳で早世し、その建屋は検事の官舎に転用され、今ではグラバー園に移設され保存されている。

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・富島天主堂跡 フランス副領事レックの請願に基づき、明治12年(1879)、ここ富島に完成したカトリック礼拝堂が設立された。本格的な赤レンガ造りのゴシック様式の建物を大阪府庁江之子島庁舎とともに、当時を代表する洋風建築だった。

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・川口運上所跡(大阪税関発祥の地) 慶応3年(1867)、この地川口に大阪税関の前身である「運上所」が設置された。日米修好通商条約調印の際、アメリカ側が江戸と大坂の開港を希望したが、幕府は拒否し、慶応3年(1867)12月7日、「開港」ではなく「開市」となった。新政府の外国事務局判事として大阪在勤となった薩摩藩の五代才助(友厚)や海援隊出身 陸奥陽之助(宗光)の働きかけにより、この地が開港の場と決定。

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慶応4年(1868)5月1日、川口運上所(のちの税関)が開設され五代友厚が初代大阪税関長となった。同年7月15日、大阪港が開港。
明治5年(1872)5月28日、明治天皇が 大阪巡幸の際、川口運上所で休息された。   

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・新島 襄 寓居跡 元治元年(1864)6月14日、箱館から新知識を求めてアメリカへ密航した新島七五三太は、明治4年(1871)、に岩倉使節団一行とアメリカで偶然出逢った。特に木戸孝允と親しくなり、彼の通訳を務めた。その後、正式な留学生となった新島は、アマースト(アーモスト)大学、アンドーバー神学校で学び、明治7年(1874)11月、10年ぶりに帰国する。アメリカン・ボードのジャパン・ミッションの一員として、新島襄が始めて赴任した先が、大阪だった。「襄・ジョー」はジョゼフに由来している。

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新島襄は、居留地の南側の雑居地にあったアメリカ人宣教師マークウィス・ラフェイエット・ゴードンの家に同居することになる。ゴードン家は川口与力町3にあった。新島が父 民治に宛てた明治8年(1875)6月8日付けの書状に、
 「(略)ご返事の義は旧により、大阪与力丁三番(ゴードン邸)まで御遣わし下さるべく候。(略)」とある。西区川口3-3-21、繁中製作所が該当地である。
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・江島橋跡 百間堀川に架かっていた橋で立売堀川との合流間際にあった。

・薩摩御用商人 濱﨑太平次の経営する「ヤマキ」大坂支店跡 濱﨑太平次は、薩摩の指宿で商売を行い、屋号を「ヤマキ」と呼ぶ船問屋で、日本の年商ベスト10に入るぐらいの豪商だった。第5代目の濱﨑太平次のときに店が栄え、寛政年間の長者番付には263名のうちで1位になっている。7代目のとき事業が思わしく行かなくなり、傾いたところ、次いだ第8代目濱﨑太平次は14歳で店主となり、家業の復興に全力を注いだ。当時財政難だった薩摩藩は、家老に調所広郷を起用し、財政再建を命じた。調所は濱﨑太平次(8代目)を薩摩藩の財政難を立て直すため、薩摩藩の御用商人に任命した。
家老 調所広郷より鹿児島に呼び出され、薩摩藩御用商人に任命された。唐物を密輸入し、琉球や奄美の砂糖を大坂方面に売りさばき、膨大な利益を上げた。濱﨑太平次の店「ヤマキ」は、藩の財政に貢献しながら店の事業拡大を図り、持ち船が34隻以上となり、函館、琉球、長崎、大坂、薩摩の甑島、鹿児島、指宿港に店を持った。「海上王 濱﨑太平次傳」によると、大坂では現在の西区立売堀北通六丁目に、店を構え、肥後孫左衛門を支配人として起用した。また、「濱﨑太平次翁之略伝」には、店の所在地は、立売堀川と木津川の交差点のあたりにあり、「薩摩藩邸」のすぐ隣に居を構えたと記されている。この薩摩藩邸は、薩摩藩蔵屋敷の中の下屋敷に該当する。
文久3年(1863)、濱﨑太平次は用務で大坂の店に来たが、滞在中に、病で倒れてしまう。
小松帯刀がこのことを奏上したのが、孝明天皇の耳に入り、天皇の侍医を派遣させ、治療に当たらせたものの、同年6月15日、50歳で亡くなった。死去の知らせを聞いた島津久光も嘆いたといわれている。遺骸は荼毘にふされ、ここ竹林寺(大阪市西区)に密葬された。その1ヵ月後、従兄弟の清八郎も大坂で亡くなっている。
清八郎の曾孫にあたる、俳優の浜畑賢吉氏は、自身の祖父から「太平次と清八郎は暗殺されたと思う」と聞かされたようである。遺骸はその後、指宿に持ち帰り、本葬式を行なった後、現在の墓所に葬られた(鹿児島県)。現在は錦江湾の指宿港に太平次公園があり、8代目の濱﨑太平次の銅像が建立されている。

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・薩摩藩蔵屋敷(下屋敷)跡 薩摩藩の大坂蔵屋敷には、上屋敷・中屋敷・下屋敷があった。上屋敷は西区土佐堀2-3(現 三井倉庫)、中屋敷は、西区江戸堀3-6-49(現 マンション)で、両方とも石碑が建っている。下屋敷は、西区立売堀西の町(現在は西区立売堀5丁目)にあり、日生病院より南に100mほど行ったところにあった。以前、この付近に立売堀川が流れていて、その川に架かった橋が「高橋」という。古地図によると高橋南詰に薩摩藩蔵屋敷下屋敷があったとされている。

・イギリス公使ラザフォード・オールコック宿泊の地(顔教寺)  イギリス公使ラザフォード・オールコックは初代駐日総領事とした。安政6年(1859)6月に来日。同年11月に駐日公使に昇任。元治元年(1864)9月、攘夷の不可能を示すため、4カ国連合艦隊でもって下関の砲撃を指揮した。しかし、本国イギリスからオールコックのとった行動に非難を浴びることとなった。後に正当だったと評価されたが、本国へ召還となった。

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