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新たな挑戦 旧街道・城下町を歩く 4
松永久秀の鼓塚
諸説あるが、松永久秀の出生地は高槻市内五百住あたりともいわれている。織田信長に従ったり裏切ったりを繰り返した。石山合戦の時、久秀は織田軍から無断で離脱し、信貴山上で立てこもった。信長の嫡男信忠に攻められ、天守に碑をかけ自害した。天保11年(1840)の「高槻城絵図」には小丘に堤塚が描かれている。この鼓塚は久秀が埋めたという伝承がある。
新たな挑戦 旧街道・城下町を歩く 3
西国街道芥川宿
芥川宿は「芥川一里塚」から始まり、西へ400m行った「芥川橋」までであった。西国大名の参勤交代や旅人が多く行き交った場所である。天保期(1830年ころ)は、旅籠が33軒、みんかが253軒あった。宿札を家臣が前もって宿へ行き、それを掲げた。現在「高槻しろあと歴史館」で宿札を見ることができる。文久3年(1863)8月18日に政変が京で起こり、京を追放された三条実美ら七卿は、芥川宿に宿泊した。
旧街道・城下町を歩く 1
1.高槻
〇山崎の合戦 羽柴秀吉本陣跡(上宮(じょうぐう)天満宮) 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀を討伐するため、中国の毛利攻めから大急ぎでこの地まで引き返した。天王山での山崎の合戦が始まろうとしたとき、秀吉は上宮天満宮下の馬場に本陣を構えて采配を振るった。
旧街道・城下町を歩く 2
〇芥川仇討の辻 江戸時代の初期、石見国吉永(島根県大田市)の城下町で、稚児の争奪で争ったことがきっかけで藩士が1名殺されたその殺された息子(助三郎)が仇討を深く決め、諸国を歩き、敵を探し求めた。探すこと2年半、ようやくこの芥川宿の旅籠に居ることを突き止めた。助三郎は本会を遂げ、討たれた侍(八之丞)の懐中から、「自分は二人も殺した人間であるため討たれて当然であり、且、討つ方には咎はない」という書状が出てきた。この仇討は双方が武士道のモラルを貫いた美談として全国にとどろいた。
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