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幕末:祇園・東山
2015年3月29日、京阪三条駅からスタートをして、祇園・東山エリアの幕末史跡を訪ねます。定員があとわずかとなっております。ご都合の合う方はぜひ下記サイトをアクセスのうえお申し込みください。
ガイドブックに載っていない案内場所は次の場所です。
・英国公使ハリー・パークス襲撃の地
・高杉晋作寓居跡
・池田屋事件ゆかりの地 新選組集合の場所「祇園会所跡」
・芝居発祥の地
・西郷吉之助 馴染みの茶屋跡
・伊藤博文宿泊の地
・勤王僧月照寓居跡
・坂本龍馬墓所の墓守をした頃の妻 坂本龍の居住跡
・京都名所の地
・復元された彦根藩京都藩邸門(井伊美術館)
などをご案内いたします。申し込みはこちら。
勝小吉訪問の地 岡野孫一郎の所領地-5
切腹をしようとしたところ、一同が「仰せの儀、かしこまりました。家財を売ってでも金を用意します。」と言ったが、小吉はさらに「今になっては聞き入れぬ。介錯を頼む」 一同は大慌てとなり、代官の山田新右衛門が間に入り止めた。 小吉はここぞとばかりに「金を必ず用意する」という一文を書かせ。刻限も村人から翌日には用意するという答えを引き出した。 翌日550両を小吉に渡した。残り50両を3日間で作るようにと指示を出し、江戸への帰国のため出立をした。 江戸につき、岡野家へ訪ねると神様扱いにされるほど歓迎を受けた。 大川丈助に339両支払い、今後騒ぎを起こさないよう書付を書かせ、一件落着となった。
御願塚村は、息子の勝海舟が公用で赴いた際、つい立ち寄りたい場所だったと推察します。(完結)
勝小吉訪問の地 岡野孫一郎の所領地-4
(4)勝小吉 ここ一番の大勝負
能勢の妙見詣での出来事が御願塚村に帰ってから、村人たちの様子が変化しだした。
金を出そうという派と金を出さない派と別れだしてきた。
小吉は「しめた」と思いつつも、大坂へ芝居見物(仮名手本忠臣蔵)に出かけ、奉行所により、御願塚村へ肴等を運ばせた。
小吉は大いに村民たちに御馳走を振る舞ったところで、改めて「金策」を講じると、まだ準備ができていないという返事だった。
翌日、勝小吉は伊丹の呉服屋へ行き白装束を購入。
その夜、代官邸に村人を集めて、寛大な御馳走を振る舞った。
場が盛り上がり、落ち着いたところで、小吉は全員に「これまでの金策の事情、そもそもこの地は岡野江雪が家康から頂いた土地。その岡野家が断絶するかもしれない事態になって、恩を返そうとは思わないのか。俺は出来ぬからこうして江戸から御願塚村に来てお願いに来ているのだ。しかし、どうしても金を出さぬというので、このままでは江戸に帰れず、今晩自刃する。ついては亡骸を倅(海舟)に渡してくれ。」と言った。(つづく)
勝小吉訪問の地 岡野孫一郎の所領地-3
(3)勝小吉 能勢の妙見詣で
村民らが金を造る準備をしている、という情報を小吉がつかむ。
代官に「能勢の妙見詣で」に行くことを告げ、共はこれまで反対して来た村人を連れていくことにする。
小吉は代官に「共へ雨具を持参するよう」と言ったところ、代官は「この時期は日和がよく、5.6日は雨が降らないので不要」と返事した。
小吉は「これまで妙見に信仰しているので、俺が雨が降るといったら必ず大雨が降る」と返した。
出発するも天気がよく、妙見に近づいたとき雨具の駕籠持ちが怒りだし、その駕籠を麓の茶屋へ置いて登り出した。
山頂につき妙見詣でを済ませて下山の途中、大雨になった。
共の雨具は茶屋に置いてきているのでずぶ濡れになった。
その後、雨がおさまってから、村人たちが「自分たちは百日詣でても降らなかった雨が、
昨日の段階でご存知とは」と驚嘆した。(つづく)
勝小吉訪問の地 岡野孫一郎の所領地
岡野孫一郎(旗本1,500石)の祖先は小田原北条家の家臣。北条家没落後、秀吉、家康に仕える。家康から所領各地を与えられた。そのうちのひとつが御願塚村500余石だった。江戸にある所領地内に、勝小吉が転居し岡野家と関わることとなった。
岡野孫一郎、役をもらうが長続きせず、とうとう無役となる。岡野孫一郎は無役でありながら道楽者、多額の借金をする。借金の返済を勝小吉がの工面し面倒を見る。岡野家に奉公した悪玉大川丈助から、借金339両を返済しないと評定所へ訴えると脅され、岡野家断絶の危機となった。岡野孫一郎の依頼により、勝小吉は御願塚村へ出張し、400両を工面することとなる。(つづく)
徳川家康が豊臣家討伐のために造らせた大筒
徳川家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開府したものの、未だに豊臣健の存在が徳川家を脅かす存在だったのだろう。
家康は、およそ10年かけて3000m先の的を仕留める大筒、角度を測るための備品を某職人に造らせて1614年、大坂冬の陣に臨んだ。
多勢に無勢ながら、城のつくりが頑丈なため、攻め落とすには難しかった。
そこで新たに開発した大筒(おそらく100挺以上あったと思われる)を使い、備前島(現在の大坂城北東部)から天守閣をめがけて、砲弾した。
10年かけて作った甲斐があり、砲弾が淀殿の部屋に命中し、側近数人が瞬く間に被弾して倒れたという。
淀殿は目の前で起こったことを機に、家康と和睦することを決めたという。
家康の執念が実ったのである。
この時の大筒が奇跡的に残っており、大阪にある「真田幸村公資料館」に展示されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140621-00000007-wordleaf-l27
桜田門外の変の真説
いよいよ3月4日、NHK「歴史ヒストリア」で井伊大老が暗殺された桜田門外の変の真説が紹介されます。
キーワードは拳銃。
拳銃とその時代背景。そのようないきさつから、真実が後世に伝えられませんでした。
今回発見された、〇〇によって井伊大老が暗殺された大きな要因が紹介されると思われます。
この情報は、資料提供者であるS氏から直接伺ったものです。
大阪ガラス発祥の地 北区天神橋2-1-8
大阪天満宮の「えびす門」を出たすぐのところに石碑がある。これは、昭和54年(1979)、大阪硝子製品協同組合が同組合の設立30周年を記念して建てられた。
平成25年(2013)2月13日の日本経済新聞で取材を受けた天神橋筋商店街で著名な土居年樹氏は次のように述べている。
「今はマンションなどが立ち並ぶが「この辺りには戦前、数え切れないほどガラス関連工場があり、前を通ると炉の熱気を感じたものです。かいわいは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地。工房は江戸時代からあったそうですが、産業として本格的に発展したのは明治以降です。」
江戸期、長崎の商人である播磨屋清兵衛が天満宮前に工場を設けて「玉屋」を開業。
ガラスの商工人の始祖である。盛んになったのは明治期に入ってからで日本硝子製造会社が設立され、清酒やラムネの瓶が製造され、板ガラス、装飾ガラス、食器が次々に製造された。
平成26年(2014)8月、境内に井戸がわいたのを記念し、多くの方から寄進があり、「ガラスの祠」が誕生した。
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