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2014年5月

吉田松陰の血縁者 杉 道助

<杉 道助>(1884年2月20日 - 1964年12月14日)   杉 道助の曽祖父は、吉田松陰の父である杉 常道。通称は百合之助。 祖父は吉田松陰の兄にあたる杉 民(みん)治(じ)。民治は明治13年(1880)ごろ松下村塾を再興させている。塾は明治25年頃まで存続していたようである。 道助は山口市に生まれ、杉家の郷里である萩市で幼少期を過ごした。 中学卒業後、上京して慶應義塾大学に入学。明治32年、大学卒業後、久原鉱業所に入社。現在は統合や社名変更により、ブランド名「ENEOS」で知られるJXホールディングス株式会社に該当する。 翌年、大阪・船場の綿糸問屋・「八木商店」(現:繊維の専門商社である株式会社ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結婚した。翌年には久原鉱業所が大阪に支店を設けることになり、大阪へ勤務することとなった。 同社の承諾を得て、明治35年より「八木商店」の仕事にも関わるようになった。 第二次世界大戦の終戦後、昭和21年(1946)、杉 道助は第16代大阪商工会議所の会頭に就任した。 大阪経済の立て直しに尽力。大阪国際空港の拡張整備、地下鉄網の整備、阪神高速道路公団の設立促進、新幹線の新大阪駅の位置を決定、都市基盤整備や重化学工業化などはその成果である。 昭和25年、大阪初となる民間放送局・「新日本放送」(現・毎日放送)が設立され、同社の社長に就任した。翌年、貿易振興を図るため「海外市場調査会」(現・日本貿易振興機構)を設立し、理事長となった。また、大正3年(1914)に設立された大阪貿易学院高等学校(現在の学校法人大阪貿易学院 開明中学校、高等学校)の再建に力を注ぎ、昭和25年に理事長・校長に就任した。 昭和39年に永眠し、山口県萩市杉家墓地に埋葬された、するが、生涯敬慕していた吉田松陰の墓より大きくしないようにという遺言を残した。墓には「杉家第八代。生涯松陰を敬慕。『祖先の墓より大きくしない』と遺言を残した」と書かれている。 大村益次郎卿殉難報國之碑の発起人、発起人兼賛助者の名前の中に、杉道助の名がある。

豊臣家の家紋の謎

豊臣家の家紋の謎

ガイドをしているこのような質問を受けました。

五山桐や五七桐の家紋が豊臣家のゆかりの地で散見されるが、どちらが正しいのでしょうか?と

お客様からの質問は本当に勉強になります。

調べてみますと次のpdfデータをご覧ください。

「kirinomon.pdf」をダウンロード

現存する豊臣期大坂城石垣を見学できるツアーのご案内

現存する豊臣期大坂城石垣を見学できるツアーのご案内

大阪史跡探訪Vol.16

通常公開はお断りをされている一般非公開の箇所。

私が企画するツアーのコンセプト「地下に眠る豊臣期の大坂城石垣」にご賛同いただき、一般非公開である箇所に見学の許可をいただきました。

2回チャンスがありましたが、1回目は定員超過率1.67で満足していただきました。また、怪我なく無事終了することができました。

残すところあと1回(5/25)となりました。

恐らく、5月25日で、私として今回限りとしたいと思っています。

→2014年5月25日 大阪史跡探訪Vol.16 大阪龍馬会主催イベント

申し込みはこちら   

行程は次の通り

1. 復活した八軒家船着場常夜燈→2. 渡辺の津跡→3. 三橋楼跡→4. 大阪ハリストス正教会跡→5. 豊臣期大坂城三の丸の石垣→6. 大阪衛戍病院跡→7. 大阪偕行社跡→8. 明治紀念標跡→9. 大阪偕行社附属小学校(追手門学院小学校)→10. 大坂東町奉行所址→11.明治新政府外国事務局跡→12.キリシタン寺跡→13. 石田三成邸跡→14. 大阪英語学校跡→15. 舎密局跡→16. K・W・ハラタマ博士像→17. 大阪憲兵隊本部跡→18. 難波宮跡の遺跡→19. 5世紀後期の高床式倉庫→20. 豊臣秀次邸跡→21. 難波宮大極殿跡→22. 歩兵第八聨隊跡→23. 歩兵第三十七聨隊跡→24. 大村益次郎終焉の地→25. 司馬遼太郎終焉の地→26. 兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑→27. 安国寺恵瓊邸跡→28. 忠臣蔵長屋跡推定地→29. 井原西鶴終焉の地→30. 月山貞一旧居跡→31. 大村益次郎寓居(漏月庵)跡→32. 五代友厚像→33. 土居通夫像→34. 稲畑勝太郎像→35. 英照皇太后・昭憲皇太后 行啓之所→36. 大坂西町奉行所跡→37. 大阪府庁跡→38. 牢屋跡→39.大阪活版所跡→40.義侠 天野屋利兵衛之碑→41.本町橋→42. 三橋楼跡→43. 曲り淵地蔵尊

ご希望の方は、定員オーバーになる前に常にチェックくださいますようお願いいたします。

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大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト

http://www.toyotomi-ishigaki.com/

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豊臣期の大坂城天守閣跡 

大阪城配水池

天守閣の最上階の東から下を見ると芝生の空き地が見えます。

しかし、ここは空き地ではなく配水池なのです。

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配水池ができた経緯を、お世話になった宮本先生の産経新聞寄稿文を抜粋してご紹介いたします。

【上町に学ぶ 古都おおさか再生】大阪城内の配水池 宮本直和
2009年09月08日 産経新聞 大阪夕刊 経済面

 ◆市民にもたらす命の水

 大阪城のある上町台地は、大阪の人々にさまざまな恩恵をもたらした。

 明治以降、兵部省役庁、兵学寮、教導隊、軍事病院、造兵司などの陸軍関係諸施設ができた。1日3度の「号砲ドン」が鳴り響き、東京より4カ月早く洋式の定時法が始まった。また、ここから日曜休日制も始まったという。
 大阪城内(本丸)には配水池が建設され、大阪市民の安全な“命の水”が確保された。このことでコレラ、腸チフス、赤痢などの伝染病発生率が激減。近代消防スタートの契機ともなり、大阪人の暮らしの近代化を大いに推進したことは、今日、忘れられがちだ。
 配水池建設の背景には、文政5年、明治10年、12年、18年の淀川大洪水後の19年、23年のコレラの大流行があった。同じ23年には「新町焼け」(西区)もあり、その防疫・防災対策の要として、水道建設の声が高まった。それまでは、淀川の水を売り歩く「水屋」や井戸に頼る日々だった。
 当初、桜の宮水源地に巨大水塔を築く案があったが、最終的に軍用地・大阪城内の天守台隣接地に自然流下式の配水池(約1万7100平方メートル)の建設を決定した。大阪市の年間予算の3倍、250万円の巨費をつぎ込み、明治25年に着工。3年3カ月の歳月をかけて28年に完成した。
 この時、大阪市の要請に対して、高島鞆之助・陸軍大臣は、陸軍用地の一部を「無償で貸与する」と許可している。これによって大阪は、横浜、函館、長崎につぎ、全国で4番目に水道をもつに至った。
 オーストリア皇太子フェルディナントが来日した際、大阪城を訪れ、この工事中の配水池を見て、「大いなる歴史の地に、いま平和の施設が建設されている」(『日本日記』)と、高い評価を残している。
 あの“20世紀最高の産業人”松下幸之助が、船場ででっち奉公に励み、後年、新世界の通天閣近くで水道の水を飲む大八車の男の姿を見て、「水道哲学」に気づき、松下電器を世界的企業に育てたのも、大阪に水道の恩恵が行き渡っていたからであろう。
 配水池建設を可能にしたものは、公のノブレス・オブリージュの精神であった。高島陸軍大臣は大阪偕行社附属小学校(現追手門学院)の創設者でもある。
                  ◇

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