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(再掲) 雙松岡 塾跡

平成24年度、顕彰を受けた大阪市の史跡のうち、№194の雙松岡(そうしょうこう) 塾跡は、このたび石碑が建立された(正しくは復帰)。

この塾の創設者3人(松林飯山、松本奎堂、岡鹿門)の一字ずつ取って「雙松岡(そうしょうこう)」という塾名で、田蓑橋北詰に漢学を教える塾として開塾された。

雙松岡塾が尊王攘夷思想を鼓舞して名声を高めたため、大坂町奉行所から倒幕拠点と危険視され半年で閉鎖に追い込まれた。

創設者3人のうちの松林飯山は、閉鎖後、大村藩の藩校「五教館」の学頭になり、勤王思想と藩政改革を説いていたが、凶刃により暗殺されてしまう。これを機に、大村藩は保守派を一掃し、勤王職として反論が統一することになり、のちに薩長土肥(肥は肥前大村藩)と言われるほどの功績を遺した。

この「五教館」は、現在の長崎県立大村高等学校として、現在も存続している。

「五教館」で飯山に教えを受けた楠本長三郎が、大坂帝国大学(現在の大阪大学)の第2代総長となり、楠本博士をはじめ長崎県人会により、当時大阪大学の地だった場所に「雙松岡」塾跡に石碑を昭和18年に建立した。

時代が変わり、この石碑は撤去され、大阪大学の吹田キャンパスの地に眠ることとなった。

石碑の復帰と新たに「大村藩蔵屋敷跡」の石碑建立を目指す「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を建立する会」が結成された。

復帰活動は3年間!

地道な活動の継続の甲斐があり、大阪市の指定する史跡として顕彰された。

石碑建立(復帰を含む)には、それぞれの熱い思いにより建てられていることを新たに知ることができた。

石碑は簡単に建っているのではなく、それぞれの石碑に熱い思いがあり今日存在していることをアナウンスするとともに、私自身も、各所にある石碑に対して丁寧に説明していくことが役割だと感じた。

一覧はこちら顕彰をうけた。

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