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2014年4月

後藤象二郎 大阪旅宿跡

住友鰻谷邸(中央区島之内1-16-7)に宿泊した土佐藩士と土佐藩出身者

① 川田小一郎
 天保7年(1836)、土佐藩郷士の川田家に生まれた。理財の才能が認められ、土佐藩の会計方に登用された。

 維新直後、別子銅山の接収を任されたが、住友の広瀬宰平の強い説得に耳を傾け「住友が幕府から得た稼行権をこのまま認めるべき」と判断し、明治新政府にその旨を進言した。

 住友財閥の隆盛は、川田の決断にあったといって過言ではなく、住友家と広瀬は、川田を大恩人として敬い、別子産銅で寿像を建立して顕彰した。
 川田は広瀬と同行し来坂し、住友鰻谷邸の濱屋敷に逗留した。

 川田は、その後、岩崎彌太郎のもとで三菱の発展に尽力し、第三代日本銀行総裁を務めた。

②後藤象二郎 
 住友家では川田の尽力を機に土佐藩を頼るようになった。
 慶応4年7月から第2代大阪府知事に就任した後藤象二郎の世話をした。
 後藤象二郎は、幕末期、土佐藩で参政を務め「大政奉還」に貢献し、明治新政府では参与職を兼ねて大坂府知事に就任した。

 住友家では、後藤の旅宿先として、住友本邸(鰻谷邸)の東座敷を提供した。このことが、広瀬宰平の自伝「半世物語」に記されている。

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(再掲) 雙松岡 塾跡

平成24年度、顕彰を受けた大阪市の史跡のうち、№194の雙松岡(そうしょうこう) 塾跡は、このたび石碑が建立された(正しくは復帰)。

この塾の創設者3人(松林飯山、松本奎堂、岡鹿門)の一字ずつ取って「雙松岡(そうしょうこう)」という塾名で、田蓑橋北詰に漢学を教える塾として開塾された。

雙松岡塾が尊王攘夷思想を鼓舞して名声を高めたため、大坂町奉行所から倒幕拠点と危険視され半年で閉鎖に追い込まれた。

創設者3人のうちの松林飯山は、閉鎖後、大村藩の藩校「五教館」の学頭になり、勤王思想と藩政改革を説いていたが、凶刃により暗殺されてしまう。これを機に、大村藩は保守派を一掃し、勤王職として反論が統一することになり、のちに薩長土肥(肥は肥前大村藩)と言われるほどの功績を遺した。

この「五教館」は、現在の長崎県立大村高等学校として、現在も存続している。

「五教館」で飯山に教えを受けた楠本長三郎が、大坂帝国大学(現在の大阪大学)の第2代総長となり、楠本博士をはじめ長崎県人会により、当時大阪大学の地だった場所に「雙松岡」塾跡に石碑を昭和18年に建立した。

時代が変わり、この石碑は撤去され、大阪大学の吹田キャンパスの地に眠ることとなった。

石碑の復帰と新たに「大村藩蔵屋敷跡」の石碑建立を目指す「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を建立する会」が結成された。

復帰活動は3年間!

地道な活動の継続の甲斐があり、大阪市の指定する史跡として顕彰された。

石碑建立(復帰を含む)には、それぞれの熱い思いにより建てられていることを新たに知ることができた。

石碑は簡単に建っているのではなく、それぞれの石碑に熱い思いがあり今日存在していることをアナウンスするとともに、私自身も、各所にある石碑に対して丁寧に説明していくことが役割だと感じた。

一覧はこちら顕彰をうけた。

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住吉楼はどこ?

大阪史跡探訪Vol.15  住吉楼跡近辺

今回のコースは、堂島(江戸期は島だった)がコースの中に入っており、蜆川などを紹介。

幕末のエピソードと言えば、壬生浪士による「大坂力士騒動」。

住吉楼周辺が第3回戦、蜆橋跡付近が第2回戦、佐賀藩蔵屋敷前の鍋島河岸が第1回戦でした。

薩摩藩士による5人斬りの事件が芝居になりましたが、江戸期がもう少し延命していたならば、壬生浪士と大坂力士による騒動も芝居になっていたかもしれません。

もちろん、大河ドラマ「新選組!」ではしっかりと描かれていました。

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大阪史跡探訪Vol.15を実施

大阪史跡探訪Vol.15を実施

13時00分から~16時40分、中之島、堂島の史跡箇所をご案内いたしました。

本日のサプライズは、「脱藩大名居住跡」でした。

幕末維新期でたくさんの脱藩者がいた中で、藩主の座を捨て脱藩した上総請西藩主 林 忠崇が、明治20年代、大阪府の西区職員として堂島北町に経済的に苦しいながら生活をしていました。「脱藩大名の戊辰戦争/中村彰彦著」をより

林 忠崇の父である林 忠交は、伏見奉行を務めていたが、慶応3年(1867)病死をする。子である忠崇が19歳で藩主となりました。

戊辰戦争が広がる中、慶応4年閏4月、忠崇は、徳川家再考を掲げて藩兵70名を連れて脱藩します。

仙台で降伏。

官軍に反発した諸藩さえ存続(特に會津藩も)したにもかかわらず、

請西藩は全国で唯一お取り潰しとなりました。

明治5年、禁固刑が解け請西に戻って農業を行いました。

その後、東京府に出仕しますが、知事であった楠本正隆(大村藩出身)と折り合いが合わず、辞職します。(明治8年)

その後、各地転々として大阪府に出仕します。明治23年2月26日、旧請西藩の関係者に手紙を送り、「大坂堂嶋北町」に住んでいることを伝えています。

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その後、林家の家格再興となり、明治27年3月20日、従五位に叙せられた。

昭和16年、93歳で永眠。

大阪史跡探訪Vol.16を開催(2014.5.25)

大阪史跡探訪Vol.16

2000年から継続して実施してきました大阪龍馬会主催「大阪史跡探訪」が5月25日で16回目を迎えることとなりました。

お申し込みはこちらまで

夕陽丘を紹介したVol.1の2000年以降、新発見があればその箇所を目玉として実施してきましたが、今年も継続して実施することができることとなりました。

これまで数回紹介いたしました「三橋楼」が、ついに大阪市の顕彰史跡となりました。2014年1月には説明板が設置され、石碑建立を待つだけとなりました。私が永田屋昆布店(店前に八軒家船着場の石碑が建立されている)に「三橋楼跡は現在どこに該当するのでしょうか?」と問いかけたことから、平成24年度、大阪市が顕彰史跡として№189「三橋楼跡」が登録されました。

奇跡としか言いようがありません。私以外に尽力された方による功績です。この内容は今年、大阪龍馬会から発刊される「大坂の史跡探訪vol.3」で執筆させていただきました。

三橋楼跡にお住いになっている某マンションH氏の尽力によるものです。

三橋楼は本町橋西詰に移転しますが、そのいきさつを東横堀川界隈で結成されているe-よこ会(東横堀川水辺再生協議会)から原稿依頼があり、投稿させていただいた内容が下記URLでアップされておりますのでご覧ください。

http://e-yokobori.jp/docs/news11.pdf

大阪市の顕彰史跡については下記URLをご覧ください。

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000243650.html

5月25日までに石碑が建立されればいうことがないのですが、H氏にお伺いすると、別の案件があるため、もう少し時間がかかるようです。

このブログ記事をご覧になっているガイドをされている方にお願いがあります。

<お願い事項>

史跡箇所がマンションであるため、マイクなどの拡声器を使って説明するがゆえに、住民に迷惑がかかるため、ぜひともマンション前でのご説明は差し控えてください。H氏からのご要望でもあります。

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幕末期のグルメ本に該当する「花の下影」に「三橋楼」が掲載されています。

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大阪会議の舞台の地となった場所のうちのひとつに「三橋楼」が該当します。

大久保利通日記から明治8年1月8日と1月26日の記載内容が下記の画像です。

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海上王 濱﨑太平次

海上王 濱﨑太平次

平成21年(2009)3月29日、大阪史跡探訪Vol.8(大阪検定連携事業)を実施した際、有名でありながら現在においては忘れられている人物が、大坂にかかわりがあった事を紹介いたしました。

「vol.8 コース.pdf」をダウンロード

昨年、「太平次の旅立ち」という映画が上映されましたが、ついに観る機会がありませんでした。

私が大阪龍馬会の会報「龍馬速報」の第127号で執筆した内容をアップいたします。

薩摩藩御用商人 濱﨑太平次墓所跡  (竹林寺)
大阪市西区本田1-9-3 

鹿児島県にある指宿市において「指宿まるごと博物館構想推進実行委員会」が発足され、2012年秋から制作を進めていた、薩摩藩の財政立て直しに貢献した指宿出身の海運商・濱﨑太平次を紹介する映画「太平次旅立ち」を完成させました。

2013年8月より上映されました。
濱﨑太平次は、薩摩の指宿で商売を行い、屋号を「ヤマキ」と呼ぶ船問屋で、日本の豪商、年商ベストテンに入るぐらいの豪商でした。

当時財政難だった薩摩藩は、藩の家老に調所広郷を起用し、財政再建を命じました。
調所は濱﨑太平次(八代目)を鹿児島に呼び、薩摩藩御用商人に任命し、唐物の密輸入や琉球・奄美の砂糖を大坂方面に売りさばき、膨大な利益を上げることに成功しました。
濱﨑太平次の店「ヤマキ」は、藩の財政に貢献しながら店の事業拡大を図り、持ち船が34隻以上を保有いたしました。

店が繁盛し、函館、琉球、長崎、大坂、薩摩の甑島、鹿児島、指宿港に店を構えました。

書物「海上王 濱﨑太平次傳」によると、大阪市西区立売堀北通6丁目(現在は西区立売堀6-5-6、立売堀6-6-15~17、立売堀5-8-25・27周辺)に店を構えていました。大坂店には肥後孫左衛門を支配人として起用しました。
また、「濱﨑太平次翁之略伝」には、店の所在地は、同じことが書かれていますが、更に、立売堀川と木津川の交差点のあたりに店を構え、「薩摩藩邸」すぐ隣に居を構えたと記されています。

この薩摩藩邸は、薩摩藩蔵屋敷の下屋敷(西区新町4-12-19)に該当いたします。
文久3年(1863)、濱﨑太平次は用務で大坂の店に来ましたが滞在中に病で倒れました。
薩摩藩士 小松帯刀の働きかけで孝明天皇の耳に入り、天皇の侍医を派遣させ治療に当たりましたが、その甲斐もなく、同年6月15日、50歳で亡くなりました。
遺骸は荼毘にふされ、近くにあった竹林寺に密葬されました。
その1ヵ月後、従兄弟の清八郎も大坂で亡くなっています。

清八郎の曾孫にあたる、俳優の浜畑賢吉氏は、自身の祖父から「太平次と清八郎は暗殺されたと思う」と聞かされたようです。

その後、遺骨は指宿に送られ現在の墓所に永眠。その場所からおよそ六百メートルの地に太平次公園があり、八代目の濱﨑太平次の銅像が建立されています。

竹林寺は、江戸期に十二回に及ぶ朝鮮通信使のゆかりの寺でも有名である。十一回目の通信使で客死した 金 漢重(キム ハンジュン)、崔 天宗(チェ チョンジョン)の墓(韓人墳)がある。

幕末 大村益次郎

幕末 大村益次郎

今春の新コースです。5月18日(日)堺筋本町駅中北改札口を出たところに13時です。

NHK大河ドラマ「花神」の主人公だった大村益次郎をメインとして、堺筋本町から谷町四丁目までの史跡ガイドを行います。

戦前、大阪市内に大村益次郎寓居跡の石碑が2か所建立されました。空襲により、現在は大阪市西区の1か所のみとなりましたが、大阪城近くにあった「大村益次郎寓居(漏月庵)跡をご案内します。

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そして、大村益次郎終焉の地。

「花神」の著者である司馬遼太郎氏も偶然同じ場所で永眠することとなった。

病院内には「花神賞」という銘板が掲げられている。

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大坂の幕末を歩く 2014年 春 夕陽丘

大坂の幕末を歩く

4月20日、幕末をテーマに夕陽丘の史跡をご案内します。

地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅に13時集合です。

詳細はこちら

案内箇所は下記の通りです。

土佐藩士遭難の地、土浦藩蔵屋敷、ボードウィン寓居跡、アーネスト・サトウ宿泊の地、アーネスト・サトウと西郷吉之助対談の地跡、水戸藩士ゆかりの地、新選組旅宿跡、司馬遼太郎「燃えよ剣」ゆかりの地、陸奥宗光墓所跡、小松帯刀墓所跡

など、非常に盛りだくさんです。すでに定員に達しているため、予約状況が×になっていますが、キャンセルが出るかもしれません。

この日は、13時に地下鉄松屋町駅改札出たところに集合です。

ぜひ、この機会をお見逃しなく!

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元治元年9月11日 勝海舟・西郷吉之助の初会談

勝海舟・西郷吉之助の初会談

元治元年、9月11日。長州問題、兵庫開港問題を問い詰めるため、薩摩藩 西郷吉之助は大坂に居る勝海舟の旅宿先である専稱寺を訪問。

勝海舟を打ちたたくつもりで臨んだ西郷は、勝海舟に頓と頭を下げ、佐久間象山亡きあと、第一の人物は勝海舟といわしめた会談の場所が大坂専稱寺です。

4月5日はこの場所を訪問します。

詳細はこちら

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