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大坂銅座跡とシーボルトの大坂旅宿先

大坂銅座跡                   中央区今橋3-1

 

明治13(1880)6月に設立された大阪市立愛殊幼稚園(「愛殊」の命名者は藤澤南岳)の正門前に石碑が建っている。

大坂の銅座は、開設・閉所の変遷があった。

第一期は「元禄14年(1701)~正徳2年(1712)」で、銀座の加役として現在の中央区東高麗橋2にあった「大坂銀座」に開設された。

正徳2年に閉鎖されたが、26年後の元文2年(1738)に再度同じ場所に開設された(第二期の銅座)。

寛延3年(1750)、経営不振を理由に再度閉所となった。

第三期となる銅座が明和3年(1776)、中央区今橋に開設され、慶応4年(1868)4月まで運営されていた。
幕府の勘定奉行は、大坂銅吹組頭として泉屋吉左衛門(友芳)、大坂屋久左衛門、大塚屋甚右衛門、丸銅次郎兵衛の四名を指名し、交代で江戸詰めを命じた。(「銅吹由来書より」

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○フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの滞在場所 大坂銅座跡

ドイツ人で医者だったフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(以下、シーボルト)は、オランダ商館医として来日し、文政9年(1826)1月9日、江戸に参府するため長崎から江戸に向かった。往路で同年、2月6日~9日、大坂に滞在した。また、江戸からの帰路、同じくその年の5月2日~9日、再度、大坂に滞在した。
宿泊先が「大坂銅座」であった。
この期間、心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺を見学したり、芝居を観劇したりしている。

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