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2014年3月

豊臣期の大坂城石垣(野面積み)の現存地を見学

現存する豊臣期大坂城石垣を見学するツアーのご案内

通常公開はお断りをされている箇所をご案内。

私が企画するツアーのコンセプト「地下に眠る豊臣期の大坂城石垣」にご賛同いただき、一般非公開である箇所に見学の許可をいただきました。

2回チャンスがあります。ご希望される方は、下記主催する団体に申し込み手続きをお願いいたします。

①2014年5月3日 大阪あそ歩「戦国・幕末・大坂(現場監督は黒田官兵衛!天下の要塞・大坂城)」

もはやキャンセル待ちのようです。

どうしても参加を希望される場合は、下記URLのしゅうごうばしょにご参集ください。(秋は実施できない可能性があります)

http://www.osaka-asobo.jp/course273.html

行程 :集合場所 地下鉄谷町線天満橋駅北改札出たところ

http://www.kotsu.city.osaka.lg.jp/station-guide/T/t22/

京橋→大阪砲兵工廠跡→豊臣期の大坂城石垣(野面積み)→大阪衛戍病院跡→大阪偕行社跡→陸軍柱石→明治紀念標跡→地下に眠る豊臣期の大坂城石垣(野面積み)(非公開ですが特別に許可をいただきました)→大阪城京橋口→肥後石→明朝期の中国製狛犬→映画「プリンセストヨトミ」のロケ地→極楽橋→豊臣秀頼・淀殿自刃の地碑→豊国廟跡→山里曲輪跡→真心碑(女子防空通信隊宿舎跡)→刻印石→機銃掃射の跡→大坂夏の陣殉死者三十二名忠霊塔→帯曲輪→残念石→第14代将軍徳川家茂終焉の地→豊臣期 奥御殿跡→豊臣期の大坂城天守閣跡→金蔵→豊公お手植樟樹碑→本丸ヒューム管→明治期 第四師団司令部庁舎跡→大阪臨時軍事病院跡→徳川慶喜と各国公使との謁見地跡→紀州御殿跡→蛸石・振袖石→豊國神社→豊臣秀吉像→石山本願寺推定地碑→江戸期 大坂城代上屋敷跡→豊臣秀長邸跡→徳川家康築城の天守跡→千貫櫓→多門櫓→大手門→石田三成邸跡→豊臣期 キリシタン寺跡→江戸期 大坂東町奉行所跡→明治期 外国事務局跡

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②2014年5月25日 大阪史跡探訪Vol.16 大阪龍馬会主催イベント

申し込みはこちら (大阪龍馬会の非会員でも参加可能です)

時期的には、まだ申し込みの受付が開始されていません。

行程は次の通り

1. 復活した八軒家船着場常夜燈→2. 渡辺の津跡→3. 三橋楼跡→4. 大阪ハリストス正教会跡→5. 豊臣期大坂城三の丸の石垣→6. 大阪衛戍病院跡→7. 大阪偕行社跡→8. 明治紀念標跡→9. 大阪偕行社附属小学校(追手門学院小学校)→10. 大坂東町奉行所址→11.明治新政府外国事務局跡→12.キリシタン寺跡→13. 石田三成邸跡→14. 大阪英語学校跡→15. 舎密局跡→16. K・W・ハラタマ博士像→17. 大阪憲兵隊本部跡→18. 難波宮跡の遺跡→19. 5世紀後期の高床式倉庫→20. 豊臣秀次邸跡→21. 難波宮大極殿跡→22. 歩兵第八聨隊跡→23. 歩兵第三十七聨隊跡→24. 大村益次郎終焉の地→25. 司馬遼太郎終焉の地→26. 兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑→27. 安国寺恵瓊邸跡→28. 忠臣蔵長屋跡推定地→29. 井原西鶴終焉の地→30. 月山貞一旧居跡→31. 大村益次郎寓居(漏月庵)跡→32. 五代友厚像→33. 土居通夫像→34. 稲畑勝太郎像→35. 英照皇太后・昭憲皇太后 行啓之所→36. 大坂西町奉行所跡→37. 大阪府庁跡→38. 牢屋跡→39.大阪活版所跡→40.義侠 天野屋利兵衛之碑→41.本町橋→42. 三橋楼跡→43. 曲り淵地蔵尊

ご希望の方は、定員オーバーになる前に常にチェックくださいますようお願いいたします。

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大坂の幕末を歩く 北浜~本町

大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

今春は、4月5日(土)に行います。

見どころは下記の通りです。こちらです。

<勝海舟 寓居(専稱寺)跡>

文久2年(1862)閏8月17日、軍艦奉行並に就任した勝 海舟は、同年12月、軍艦順動丸で大坂天保山に投錨し来坂しました。
その後、大坂を基盤に兵庫、泉州、紀州などを訪れ、砲台の設置場所を吟味しています。
坂本龍馬の幼馴染だった望月亀弥太(のちに「池田屋の変」で闘死)の手紙には、次のような記載があります。

(前文省略)
私も今七日京都出足その夜伏見より船に乗り、八日朝7ツ半(五時)頃大坂八軒家に着き申し、御屋敷(藩邸)の近へ宿をとり、夕方勝先生(海舟)の御旅宿へ参り候処先生にはいまだ御用之有る趣にて船出延引、同九日本町三丁目先生の御旅宿に逗留、住吉の陣屋に行き申し候。同十一日大坂より船にて兵庫に参り申し候。(以下省略)
(望月亀弥太が母に送った手紙) 
                   文久三年正月廿一日

勝 海舟の日記にも文久3年(1863)正月九日、土州の数輩、わが門に入り、坂本龍馬と時勢を論じたことが書かれています。
文久3年(1863)1月の段階では「本町三丁目」に逗留していたと思われますが、正確な場所は不明です。

「海舟日記」によりますと、次のような記載があります。

文久3年2月27日
朝、上陸。
安治川一丁目順正寺旅館に到る。(以下省略)

日記にあるように同年2月には「順正寺」を大坂の寓居先にしていました。順正寺の場所は、現在の大阪市福島区野田1丁目、中央卸売市場のあたりにありました。勝 海舟は寓居先をすぐに別の場所に変更しています。
「海舟日記」の文久3年(1863)3月朔日には、次のような記載があります。

(前文省略)
大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。
坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。

この日より、元治元年(1864)11月10日、軍艦奉行を罷免され、江戸にて蟄居を命ぜられるまでの間、この場所を大坂の寓居先としていました。
一時期、文久3年(1863)6月13日より、約3ヶ月間江戸へ帰っていました。しかし、すぐに大坂へ呼び戻されます。
文久3年(1863)9月9日の「海舟日記」には、次のような記載があります。

朝、上陸。天保山沖へ入津。
同日、雅楽頭(姫路藩主 大老 酒井忠(ただ)惇(あつ))殿はじめ役々、上陸、専修寺旅宿へ入る。

「海舟日記」にある「北溜屋町」や「真正寺」は実際に存在しませんでした。
「専修寺」は此花区酉島3丁目に同名のお寺が存在しますが、幕末当時、この「専修寺」は堺にあり、明治になってから此花区に移っています。
従って、勝 海舟の寓居先とはまったく関係ないことがわかりました。
勝 海舟は、寺名や町名を誤って日記に記載したのではないかと考えられます。
 「順正寺」は誤記ではなく、実際に存在していました。
「慶応四年目録」(川口居留地開設直後の外国人との応対や外国事務局の動静を記す資料)に次のような記載があります。

(慶応4年)九月二日 亥 晴 (途中省略)安治川上壱丁目 順正寺へ丸亀人数旅宿申付置候処、
(以下省略)

他の資料においても実存が確認されています。
「順正寺」はその後、大阪市西区京町堀、さらに東淀川区と移転し、昭和34年(1959)廃寺になりました。

勝 海舟の順正寺の次の寓居先は、当時の北鍋屋町にあった「浄土真宗 専稱寺」です。
北鍋屋町はその後の町名変更で、淡路町3丁目になり、区画整理などで更に変更し、現在の淡路町2丁目5~6、同3丁目1~2あたりが、北鍋屋町に該当します。
専稱寺があった場所の確証が取れる資料はなかったのですが、大阪市史を研究されている先生に助言をいただいたところ、「北鍋屋町水帳」(安政3年作成)と「大阪地籍地図」(明治44年作成の大阪市地図)の2つの資料を照らして判断すると、現在の淡路町3丁目2-13(スワン大阪第一ビル)及び、2-14(ノリタケビル)あたりだという結論にいたりました。
「北鍋屋町水帳」は北鍋屋町にあった全ての建物の横幅・奥行きの寸法、及び持ち主が記載されており、それらの建物一つ一つの寸法と地図を見比べますと、この場所だということになります。
「専稱寺」は、「東区史」において北鍋屋町にあったことが記載されています。また、専稱寺は神戸市葺合区吾妻町に移転したことも確認することができました。
葺合区は今の神戸市中央区で、ちょうど葺合警察署がある付近となります。
平成12年(2002)2月、現在の専稱寺を訪れてみました。ご住職のお話によりますと、勝 海舟や坂本龍馬の話が語り継がれているとの事で、それを裏付ける資料も残っていたそうです。
その資料の中には、坂本龍馬が専稱寺でお世話になった記念に、絵のようなものを残していたそうです。
しかし、昭和20年(1945)の空襲による戦災で、貴重な資料は全て焼失してしまいました。
「専稱寺」は、浄土真宗本派本願寺門下で、慶長13年(1608)12月28日、祐性という僧が、北鍋屋町にて開山します。
明治31年(1898)10月に、同じ大阪市内で旧東区中本大字森(現、中央区森之宮中央)に移転します。明治33年(1900)9月3日に、神戸市葺合区吾妻町(現、葺合警察署付近)に移転します。戦災により更に、現在の場所である中央区南本町通4丁目5に移転し、今日に至ります。
勝 海舟は文久3年(1863)3月より9月24日までの約半年間、大坂の寓居先である専稱寺にて海舟の私塾である海軍塾を開いていました。
その後、神戸海軍操練所開設に向け、海軍塾も神戸へ移転しています。
大坂海軍塾だった専稱寺の現在の場所と、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾(勝塾)の跡地との距離が、目と鼻の先というのも不思議なものを感じます。

第14代将軍 徳川家茂の江戸東帰に伴い、勝 海舟は供として、文久3年(1863)6月13日に大坂を出発し、16日に江戸に到着します。
同年6月26日の「海舟日記」には次のような記載があります。

大坂より、俵次郎、半兵衛、来る。聞く、大坂の塾へ、長藩五十人程来たり、図書殿を打つ企を告げ同志を募ると云う。龍馬子、これを説解し、敢えて同ずる者なし。

文中に「大坂の塾」という文字が出てきます。
勝 海舟は、大坂の寓居先である専稱寺に海軍塾を開いていました。
門地に拘らず、能力のある人材の発掘、海軍士官の養成を目的として「日本の海軍」いわゆる「一大共有の海局」を目指し、自身の私塾として海軍塾を開塾したのでした。
塾生には坂本龍馬をはじめとした土佐脱藩浪士、各藩から教育の要請を受けた紀州藩士、鳥取藩士、福井藩士などがいました。
塾頭は、海舟の片腕として活躍した庄内藩出身の佐藤与之助でした。
文久3年(1863)9月24日、勝 海舟は神戸海軍操練所の開所準備のため神戸に移り、私塾も大坂から神戸の海舟邸に移します。

勝 海舟は同年10月に上京し、福井藩松平春嶽を訪ね、次のように述べたと「海舟日記」にあります。

神戸操練所の事、并びに天下の海軍を立て、普ねく諸藩と士民とを論ぜず、人物を集め、その器に応じ将となし、士となし、門地の旧弊を止め、学術を以て募り、皇国興起の一大海局と成さんことを申す。

勝 海舟の門下生 坂本龍馬も専稱寺へ頻繁に訪ねています。
坂本龍馬と勝 海舟との出会いについて、同じく門下生だった杉 亨二が、勝 海舟の亡くなった後、追憶談で次のように語っています。

その頃、勝は大坂に出張していまして、帰ってきた時、見舞に行ってどうで御座いましたと尋ねますと、ウム 色々浪人などを取締っておった所が、旅館に菰(こも)を被って会いたいという者があるから、遇って、己を斬りに来たかと申しますと、斬りに来たと答えたそうで、それからどうしてか懇意になったそうですが、確か、これは坂本龍馬であったと承りました。

この場所が大坂で正しければ、専稱寺、或は前記の順正寺のどちらかだと思われます。
  しかし、勝 海舟日記に初めて龍馬の名が出たのは、海舟が神戸の寓居先である生島四郎別邸に居る文久2年(1862)12月29日でした。初めて会ったのは神戸の寓居先という説もあります。

文久二年十二月二十九日
千葉十(重)太郎来る。同時、坂下(本)龍馬子来る。
京師の事を聞く。(以下省略)

そのほかに同年12月9日、江戸の勝 海舟邸の説もあります。

十二月九日
此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり

海舟の門下生になった坂本龍馬は、文久3年(1863)2月25日に1回目の脱藩罪赦免を受け、京都の土佐藩邸にて7日間もの謹慎処分を受けますが、謹慎を終えた3月朔日(1日)に来坂し、寓居先を移したばかりの専稱寺に居る勝 海舟を訪ねています。

三月朔日
陸行、御願村に到る。同所より、西宮海岸に到り、地所を定む。即日、大坂へ船行。此日、旅宿を北溜屋町 真正寺に定む。坂下[本](坂本龍馬)、新宮(新宮馬之助)、京師より来る。

次の手紙は坂本龍馬が姉の乙女に宛てた有名な手紙で、この時期に書かれています。

扠もさても 人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハうんがつよくなにほど死ぬるバへでゝもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねばならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
其故に私年四十歳になるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだん(相談)いたし候所、このごろハおゝきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。

どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。
 (文久三年)三月廿日          龍
 乙様
御つきあいの人ニも、極(ごく)御心安き人ニハ内ゝ御見せ、かしこ。

此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先(まず)きやくぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、お々きに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私((マ)初(マ))栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近々のうち、土佐の方へも参り申候。そのせつ御見(目)にかゝり可申候。
私の存じ付きハ、このせつ兄上にもおゝきに御どふい(同意)なされ、それわおもしろい、やれやれと御もふしのつがふ((都合))ニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ夫までの命ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいゝし事を御引合なされたまへ。すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。
猶エヘンエヘン
                                    かしこ。
(文久三年)五月十七日         龍馬
乙大姉御本


                                    かしこ。

右の事ハ、まづまづあいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがうひとあるからは、をひとりニて御聞おき、
                                    かしこ。



 

大坂銅座跡とシーボルトの大坂旅宿先

大坂銅座跡                   中央区今橋3-1

 

明治13(1880)6月に設立された大阪市立愛殊幼稚園(「愛殊」の命名者は藤澤南岳)の正門前に石碑が建っている。

大坂の銅座は、開設・閉所の変遷があった。

第一期は「元禄14年(1701)~正徳2年(1712)」で、銀座の加役として現在の中央区東高麗橋2にあった「大坂銀座」に開設された。

正徳2年に閉鎖されたが、26年後の元文2年(1738)に再度同じ場所に開設された(第二期の銅座)。

寛延3年(1750)、経営不振を理由に再度閉所となった。

第三期となる銅座が明和3年(1776)、中央区今橋に開設され、慶応4年(1868)4月まで運営されていた。
幕府の勘定奉行は、大坂銅吹組頭として泉屋吉左衛門(友芳)、大坂屋久左衛門、大塚屋甚右衛門、丸銅次郎兵衛の四名を指名し、交代で江戸詰めを命じた。(「銅吹由来書より」

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○フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの滞在場所 大坂銅座跡

ドイツ人で医者だったフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(以下、シーボルト)は、オランダ商館医として来日し、文政9年(1826)1月9日、江戸に参府するため長崎から江戸に向かった。往路で同年、2月6日~9日、大坂に滞在した。また、江戸からの帰路、同じくその年の5月2日~9日、再度、大坂に滞在した。
宿泊先が「大坂銅座」であった。
この期間、心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺を見学したり、芝居を観劇したりしている。

ニコライと正教会

ニコライと正教会

文久元年(1861)6月6日、ロシアから日本に正教を伝道するために来日した。一時期、日本語を新島譲から教わった。

正教の日本人初の沢辺琢磨は、土佐出身者で、坂本龍馬の従兄弟にあたる。

ロシアが国を挙げてニコライを支援したのも、ニコライの布教活動と熱意ある祖国への募金や支援を呼びかけたからである。

昨年、発刊した下記書籍は、ニコライの大きな功績を世に知らしめるための発刊である。

不幸にもロシアの皇太子が大津で遭難にあったり、日露戦争があったり、ニコライは懸命に紛争したいきさつが詳細に紹介されています。

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大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜

今春は、3月23日に行います。

見どころは下記の通りです。詳しくはこちら

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・復帰した八軒家船着場の常夜燈

・大阪市の史跡に顕彰された「三橋楼跡」(大阪会議ゆかりの地)

・新選組の定宿「京屋忠兵衛」跡

・坂本龍馬ゆかりの船宿「堺屋源兵衛」跡

・新選組ゆかりの地 平野屋跡、岩城升屋跡

・花外楼

・大坂銀座跡

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などなど。

ぜひ、ご参加ください!

続きを読む "大坂の幕末を歩く 天満橋~北浜" »

「幕末 大村益次郎」ツアー

「幕末 大村益次郎」ツアー

2014年5月18日(日)に大阪にある大村益次郎の史跡を中心としたツアーのガイドを行います。

ツアーの申し込みはこちら

周防の鋳銭司村で生まれた村田良庵。百姓医者の息子として生まれ、青年期に大坂の緒方洪庵の適塾に入門します。大阪には非常に縁のある人物。大阪市内には適塾時代に下宿先だった場所2か所に石碑が建てられました。1か所は大空襲により消滅いたしました。

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明治新政府樹立後、木戸孝允から刺客に襲われる危険があるため自嘲するようにという注意を受けながら、明治2年、京都・大阪を巡回し、のちの陸軍の要所を築きました。

京都で賊徒の襲撃に遭い、大阪病院に入院。

右足を切断する手術を受け、切断した右足は緒方先生のお墓の傍らに埋葬してほしいと言い残す。

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手術の甲斐なく、大阪で永眠することになった。

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第二次世界大戦に入り、大村益次郎が急に崇められることとなり、終焉の地や寓居跡の史跡が顕彰されることとなった。

東京の靖国神社に銅像が建てられていて、陸軍の父と称されているが、彼は適塾で蘭語を体得し、蘭書から兵法を学んだにすぎなかった。

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大阪に陸軍の拠点を置いたのも、明治新政府に対する反乱軍が、西から現れるのを予想していたためといわれる。

大村益次郎は、NHK大河ドラマの主人公として抜擢された。

司馬遼太郎の作品「花神」である。

司馬遼太郎が亡くなった場所は大村益次郎が亡くなった場所でもある。

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豊臣期の大坂城石垣 詰ノ丸

豊臣期の大坂城石垣 詰ノ丸

2014年3月7~9日、現在調査中の箇所で一般公開されており、見学に行ってきました。

現在展開中の「太閤 なにわの夢募金」により、豊臣期の大坂城遺蹟である石垣を見ることができる施設の箇所をさきがけて一般公開。

鉄骨があり肉眼では確認できるものの、写真となるとうまく撮影できず、ストレスがたまるところである。

算木積みの工夫をされているが、石垣には何も細工されていないところが、徳川期の石垣と違うところであることが確認できました。

今回も石垣を間近に観ることができても触ることができない距離感でした。

地下に埋もれた石垣に触れることができる箇所は、未だに1箇所しかないこともわかりました。

触れてみませんか?

詳しくはこちらです。

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追手門学院内にある残念石

追手門学院内にある残念石

大阪城の石垣に用意されたが、石垣に使用されなかった石を「残念石」といわれる。

細川家が用意した石垣の石が、大坂城の石垣に使用されず、そのまま放置されているのが下記の写真。

大阪城乾櫓に最も近い、追手門学院内のある箇所にその意思が置かれています。

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