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2013年12月

2013年を振り返って

2013年を振り返って

今年もオファーをいただき、大阪の史跡案内を実施することができました。

昨年より半減しましたが、13回の史跡ガイドを実施することができました。

Ⅰ.大阪龍馬会

  大阪龍馬会主催の「大阪史跡探訪」Vol.13、Vol.14の2回、ガイドを実施させていただきました。2000年のVol.1から継続中です。

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 Vol.14は、今年発刊の「大坂の史跡探訪 vol.2」をテキストとして実施し、肥後橋から淀屋橋まで中之島周辺にかつてあった各諸藩の蔵屋敷跡をご紹介しました。佐賀藩蔵屋敷跡ではこの地が舞台となったドラマの1シーンを音声でご紹介させていただきました。

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ガイドブックすべてをご紹介できなかったため、2014年4月に続編(大阪史跡探訪Vol.15)を実施させていただく予定です。

また、2014年に「大坂の史跡探訪 vol.3」を発刊する予定です。その本をテキストにして「大阪史跡探訪Vol.16」を5月に実施する予定です。

日程は、大阪龍馬会のHPで公表されます。一般参加も可能ですので是非ご参加ください。HPはこちら

Ⅱ.大阪あそ歩

大阪あそ歩の「幕末天満橋」「幕末北浜」「幕末夕陽丘」を各2回、計6回実施いたしました。

男性より女性の参加者数が多く感じました。また、関西地区以外からも多数ご参加いただけました。毎回、新ネタを提供できるよう努めています。

この大阪あそ歩コースについては、私と結城詩さんとのダブルガイドです。

2014年の春は実施日時がすでに決まりました。

①幕末天満(天満橋)コース:3月23日(日)13時~(集合は地下鉄谷町線天満橋駅北改札口出たところ)

②幕末北浜コース:4月5日(土)13時~(集合は北浜駅から地上に上がり、大阪証券取引所1階)

③幕末夕陽丘:4月20日(日)13時~(集合は地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅改札口出たところ)

④戦国・幕末大阪城コース:5月3日(祝)13時~(集合は地下鉄谷町線天満橋駅北改札口出たところ)

⑤幕末大村益次郎コース:5月18日(日)13時~(集合は地下鉄先筋本町中北改札口出たところ)

⑥戦国・幕末森ノ宮・玉造コース:6月1日13時~(集合は地下鉄森ノ宮駅西改札口出たところ)

既存の3コースに加え、新コースが3コース採択されました。

①~⑥はいずれも参加費用は1,500円、定員は15名です。

案内箇所の詳細および申し込みは、大阪あそ歩のHPをご覧ください。

※現在はまだ2013年秋のままですが、そのうち2014年春(上記を含み100コース)が公開されます。

HPはこちら

Ⅲ.大阪歴史散歩の会

  10月と12月の例会にガイドとしてお声かけいただき、2回実施させていただきました。2011年より、年に1~2回ガイドを務めさせていただいております。

  大阪歴史散歩の会は永年活動されている会で、毎月1回、関西地区を中心に歴史散策のイベントを開催されておられます。毎回、35名から45名の参加があり、9割以上が女性です。

 10月のイベントでは、大阪商工会議所にある3名の銅像のうち稲畑勝太郎氏のご子孫とおっしゃる方の参加がありました。その方は銅像があることをご存じなく、案内した甲斐がありました。

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 また、12月のイベントでは、八軒家船着場にかつてあった船宿「京屋忠兵衛」。新選組の定宿だったことで有名です。明治期になり、京屋があった土地を購入された牧野氏。その姪にあたる方が参加されておられました。今回は、坂本龍馬の妻 お龍の武勇伝を音声入りでご案内させせていただきました。

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Ⅳ.JASS(日本セカンドライフ協会)

 4月と11月2回にわたり「大坂の幕末を歩く」夕陽丘周辺を実施させていただきました。

 1回目の4月は谷町九丁目駅~四天王寺前夕陽丘駅。2回目の11月は、四天王寺前夕陽丘駅~一心寺~四天王寺。

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 昨年からJASSの運営委員であるS氏からのお声かけで、2010年より年1~2回ガイドを務めさせていただいております。

 参加いただく方のほとんどがリピーターで、これほどうれしいことはありません。また、参加される方皆様の知識が豊富で、私の知らない点をいつもご教示いただいております。

 めぐりあわせかもしれませんが、これまで実施していない個所をガイドさせていただいています。

 例:天下茶屋、阿部野神社、心斎橋、新町など

JASSについてはこちら

Ⅴ.長崎県立長崎西高等学校同窓会

  関西地区の同窓会のイベントの一つとして、散策時の歴史ガイドとして昨年からお声かけいただき、今年も10月に1回実施をさせていただきました。

  昨年は、天満橋から大阪城。今年は四条河原町~三条河原町で自身初となる京都の史跡ガイドをさせていただきました。

  京都は、ガイドブックに掲載されている箇所が多く、容易に務めることができるため、京都でもガイドブックに載っていない、真説を披露いたしました。皆さん、興味深く聞いていただいたの印象的です。坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地の石碑、池田屋騒動址の石碑。いずれも該当箇所からずれている点を強調させていただきました。

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<その他>

Ⅰ.リーディング

  大阪龍馬会25周年記念式典で、いくつかあるうち「リーディング」を行うこととなり、稽古3回実施のうえ、本番に臨みました。

  演出・指導は劇団潮流の代表であり大阪龍馬会会長でもある藤本先生。10周年の折、お芝居の際も藤本先生に稽古をつけていただきました。あの時の緊張感を思い出しました。

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Ⅱ.「大阪歴史塾」出演

  テレビというより動画 Urstream (動画共有サービ)です。

  FBで親しくしていただいたK氏から、出演依頼がありました。

  「Sweet Osaka.tv」の第2回目の配信でした。

  K氏を中心に私とユキミさん(女性)が大阪の歴史スポットを紹介するという「大阪歴史塾」というコーナーでした。

  ほんのわずか10分程度の出演でしたが、スタジオ入りから本番まで待っていると、久しぶりに味わうおおきな緊張感でした。

  3回目も依頼があったのですが、仕事と重なってしまい残念ながら辞退となってしまい、コーナーもそれっきりとなってしまいました。

   今は、You Tubeで観ることができます。

  http://www.youtube.com/watch?v=gCKndQ1Q9IY

  私は50分過ぎからの出演となります。

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Ⅲ.恋するフォーチュンクッキー追手門学院大学Ver.

  AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」の歌に合わせて踊り、You Tube に配信する取り組みが、宣伝やイメージアップのために企業や自治体で行われています。

  勤務先も行うことになり、大変躊躇しましたが、所属する課が出演すると決まったたため、何度か練習して本番に臨みました。

  こちらから

  You Tubeはこちら

Ⅳ.知野文哉氏の講演

  「坂本龍馬の誕生」の著者である知野氏の講演会が2回関西で実施され、2回とも拝聴することができました。

 1回目は、歴史地理学者 中村武生 先生 主催による京都の霊明神社で講演。2回目は大阪龍馬会主催の龍馬大学校で市内の某会議室で行われました。

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 なんといいましても、坂本龍馬の船中八策は明治以降に創作されたものであることを、史料にもとづきながら実証されたことです。

 また、TBSにご勤務されていることから「倍返し饅頭」をいただきました。

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来年もよろしくお願いします。

2013年12月31日   osayan

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 26

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 26

乾 十郎君之碑/四天王寺     
                                                                             天王寺区四天王寺1

乾 十郎は大和の五條にて文政11年(1828)に生まれた。
梅田雲浜や森田節斎らに学問を学んだ。文久3年(1863)中山忠光に従って藤本鐵石らと天誅組の挙兵に加わる。
敗退により、吉野から脱走し、大坂の江口に隠れましたが、幕吏に捕えられ六角獄舎に入牢された。元治元年(1864)7月に禁門の変がおこり、その際、処刑される。
この顕彰碑は、大正5年(1916)乾十郎先妻の遺児大井まつによって建碑された。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 25

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 25

水戸藩士 高橋多一郎・庄左衛門墓所/四天王寺
     

                                                                             天王寺区四天王寺1

水戸藩士 高橋多一郎は、安政の大獄で藩主 徳川斉昭が蟄居を命じられた際、勅諚を大老 井伊直弼へ強硬に返納を要求したといわれる。
井伊大老による強圧な政治が始まってから、江戸で井伊大老を倒し、大坂で挙兵し、天朝を奉じて幕政改革を行おうとする計画が立てられた。高橋多一郎らは大坂でその準備をすすめた。
安政7年(1860)3月3日、江戸桜田門外にて井伊大老が水戸・薩摩の浪士により暗殺され計画は成功した。
一方、大坂では薩摩藩が呼応せず、20日後、(元号が3月18日に変わる)万延元年(1860)3月23日、計画が幕吏の知るところとなり、生國魂神社前にあった島 男也宅で会合をしているところを高橋らは取り囲まれてしまう。
密儀に参加していた水戸藩士 川崎孫四郎は自刃。水戸藩の支藩である笠間藩士 島 男也(おのや)は捕獲される。
高橋多一郎とその子庄左衛門は、幕吏に囲まれながらも堂々と四天王寺まで歩いた。
しかし、覚悟を決め、四天王寺門前の茶店「春日屋」にて短刀を腹に突き立てた。
驚いた店主は、立ち退きを要求したため、短刀を突き刺したまま更に歩き出した。
四天王寺門内に入り、大黒堂の寺侍 小川欣司兵衛宅の玄関に立ち、事情を話し、切腹する場の提供を要求し受け入れられた。
父子はここで自刃し、次の辞世の句を腹から流れる血で、かたわらの襖に書いたそうである。

2010年(平成22)に「桜田門外の変」という映画のロードショーがあったが、大坂での計画が露見され、幕吏に追われる場面があった。

下記写真は高橋多一郎・庄左衛門父子の逃亡するシーン。

高橋多一郎は生瀬勝久氏が演じた。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 24

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 24

明治戊辰戦役 東軍戦死者招魂碑/一心寺
       

                                                 天王寺区逢阪2丁目8-69

戊辰戦争で戦死した徳川方の武士の魂を祀るもので、明治31年(1898)6月、在阪の旧幕臣の人たちによって建てられたものです。書は高橋泥舟によるものです。

<高橋泥舟>
天保6年(1835)2月17日- 明治36年(1903)2月13日
「幕末三舟」のうちの一人。旗本山岡正業の次男として生まれ、幼名を謙三郎、後に精一郎。通称 精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号です。
母方を継いで高橋包承の養子となり、山岡家に婿養子として迎えた小野鉄太郎が、後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたります。
勝海舟が、徳川家処分の交渉のため、官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟でした。
泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができないと辞退し、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦しました。鉄舟が見事にこの大役を果たします。
後に徳川家が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務め、一時田中城を預かります。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送りました。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 23

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 23

明治戊辰戦役 会津藩士墓所/一心寺       

                                                 天王寺区逢阪2丁目8-69

一心寺に白井五郎太夫ほか12名の会津藩士の墓がある。
白井五郎太夫(胤忠)は、林 権助とともに会津藩砲術師範である山本覚馬から砲術を学んだ。鳥羽伏見の戦いに大砲隊頭として鳥羽街道を進み、勝ちに乗じて前進してくる西軍に対し弾丸の下をくぐって戦い、別選隊の援助を得て西軍を撃退した。
翌日、白井は隊を率いて戦ったが銃弾に当たって負傷、診療先の淀で死去。享年37歳。一心寺にある白井五郎太夫の墓は、子の白井新太郎によって建立された。白井五郎太夫のほかには、白井隊の小池勝吉、林 権助隊の高橋金兵衛、大本左門など鳥羽伏見の戦いでの死者の墓碑がある。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 22

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 22

天王寺七名水 有栖の清水(土州御用水)跡  

 

                   天王寺七名水 有栖の清水(土州御用水)跡  

摂津名所図会の「浮瀬」が紹介されている絵の中に井戸の柵が描かれている。
この井戸が「有栖清水」である。
「有栖清水」は、土佐藩主(山内氏)が大坂に滞在した時の用水として使用された井戸で「土佐清水」とも呼ばれ、清水寺の北西下にあった。
土佐藩がこの井戸のある地面を購入し、柵を設け「土州御用水」の標札を掲げていた。場所は清水寺の北西あたりに該当し、昭和初期には、民家の床下に残っていたそうであるが、現在は存在しない。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 21

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 21

料亭 浮瀬(うかむせ)跡   

          天王寺区伶人町1-6(大阪星光学院内)

「浮瀬」は、「西照庵」と並び江戸時代の大坂を代表する料亭だった。
明治20年(1887)頃まで店があった。大阪星光学院の西南隅に該当する。
2階建てだった「浮瀬」の座敷からは、瀬戸内海の往き交う船の白帆や、淡路島などが眺望できた。松尾芭蕉、与謝蕪村、滝沢馬琴などがここを訪れている。
「浮瀬」という名称は、この楼にあった杯の銘「浮瀬」に因んだものである。
7合半の酒が入るアワビの貝殻でできた巨大な大杯「浮瀬」に酒を満たして、それを飲み干した人は、「暢酣帳(ちょうかんちょう)」という名簿に記帳された。

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・蕉蕪園(しょうぶえん)               (大阪星光学院内)
<大阪星光学院内にある史跡>
現在、大阪星光学院がある西南隅には、江戸期に料亭「浮瀬」があり、近松門左衛門、松尾芭蕉、与謝蕪村、滝沢馬琴、十返舎一九など著名人が訪れた。
料亭「浮瀬」はいくつかの浄瑠璃や物語に登場するほどの有名な店だった。
これを記念して「大阪星光学院」では松尾芭蕉を中心とする句碑を整備し、「蕉蕪園」とした。見学は可能であるが、大阪星光学院に事前予約が必要である。

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・大江岸水記念碑                 (大阪星光学院内)
「蕉蕪園」と同様に大阪星光学院内にある史跡。
「大江岸水」は、明治24年(1891)、山本佐兵衛が開削した井戸で、茶の湯、酒の元水、ラムネ用水などに使用され評判があった。
現在では、上水道の普及で井戸の活用がほとんどなくなってしまった。
ここにある石碑の石は井戸に使用していた石で造られている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 20

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 20

舊山口藩殉難諸士招魂之碑/大江護国神社        

                                   天王寺区夕陽丘町5

元治元年(1864)7月18日「蛤御門の変」が起こり、敗戦した長州藩兵 宍戸久之進ら62名の兵士たちは伏見から舟で淀川を下り逃げた。
大坂の桜宮付近で高松藩に捕えられ、千日前刑場の獄舎へ投獄された。
幕府による極めて残酷な扱いを受け、半年以内に刑死者6名、牢死者39名を数え、一説には一人ずつ毒殺したともいわれている。
亡くなった45名の死骸は、犬猫同様無造作に刑場片隅に埋められた。
明治期に入り、賊として扱われたこの長州兵士らは、勤王の志士として評価される。
明治2年(1869)夏、夕陽丘にある大江神社一角に招魂社を建て慰霊・顕彰が行われた。同じく蛤御門の変で敗走中、尼崎で捕えられ、自刃した山本文之進と薩摩藩御用船を焼き討ちした事件で、大坂南御堂前で切腹した水井精一、山本誠一郎の3名と千日前でなくなった45名の計48名が祀られることとなった。
その後、千日前で眠っていた45名の遺骨を掘り起こし、前記3名とともに阿倍野墓地に改葬された。
「舊山口藩殉難諸士招魂之碑」は、明治23年(1890)11月に建立され、裏面に48名の名が5段にわたり記載されている。

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<残念さん(山本文之助)と無念柳>
元治元年(1864)7月19日に勃発した「禁門の変」で長州藩は大敗し、参戦していた長州藩士 山本文之助は京都を脱出し、西国街道を通って西へ水路を使い敗走した。
尼崎藩は幕府の親藩にあたりながらも尊王派であったため、尼崎藩領にある大物北ノ口で上陸。しかし、山本は期待に反して尼崎藩に捕えられ投獄された。
山本は裏切られた思いで「残念、残念」を繰り返し、その日のうちに自害。
元治元年7月20日、山本文之助 享年29歳だった。
翌年の元治2年(1865)2月(※同年の4月8日から慶応元年に変更)頃から山本文之助の墓が「残念さん」と呼ばれるようになり、大坂の町人に信仰が深まった。
参拝し願いをかけると叶えられるという噂が広まる。それも同年の5月にはピークになり、大坂から尼崎の道には参列者の列が続いたそうである。
長州征伐のため将軍(第14代将軍 徳川家茂)自ら大坂城に入城する予定になっていたため、幕府は5月17日以降残念さん参りを禁じた。
大坂町人平野屋武兵衛の書いた諸記録のうち「日加栄」の慶応元年5月16日に次のような記載がある。

五月一六日、未明より尼ヶ崎町家之墓所ニ、昨年京都より長州江之落武者、尼ヶ崎入口ニて横死の霊魂残り、いつとなく此墓所江立願すれバ、病氣にかきらず、残念なることさへ立願すれバ、願成就のよしにて、諸方より大くんじゅのよし、珍ら敷、忰駿七召連見物に参り候處、野里の渡しにて早くも日光御上りに、最早六拾人の余も渡り候よし、渡し守の咄しに、朝五ツ時よりハ所より番人出候よし、始め青竹にて誠にていねひきれいにかきいたし、土墓にいたし有之候へとも、あまり多人数参詣にて、かきを取のけ、セいし候へとも、中ゝ左様いたすほどさかんに相成り、塚もなく、少々おぼひ候上、土砂の高ふに相成候土砂を持帰り、
(途中省略)
長州の横死の人の名前わかり不申候、年比ハ弐拾三四才位のよし  
(途中省略)
人こぞりて、残念様 唱へて立願のよし、
(以下省略)

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<無念柳参り>
残念さん参りが禁じられても、大坂町人は次の手を考えた。いずれも幕府に対する反感からくるものである。
慶応元年(1865)5月25日に将軍徳川家茂が大坂城に入城。その日の夜から禁門の変直後に取り壊された長州藩大坂蔵屋敷跡にある柳の木が信仰の対象となり、「無念柳」と呼ばれるようになった。
柳の葉を煎じて飲むとどんな病でも治ると広まったのである。しかし、残念さんと同様に、すぐに幕府から禁止令が出された。
この柳の木は、昭和期まで残っていた。

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阿倍野墓地にも長州藩士48人の墓がある。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 19

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 19

柴田勝家・お市供養墓碑/天鷲寺

                                 天王寺区六万体町3-18


柴田勝家は尾張に生まれ、織田信長の弟信行に仕えるが、織田信長排斥に失敗。のちに謝罪し許されて信長の臣となった。
天正3年(1575)越前北庄城の城主となり、北陸の統治にあたった。
天正10年、本能寺の変が起こる。勝家はその悲報を受け、明智光秀追討に赴こうとしたが、北陸の形勢が不安定なため様子をうかがっていた。
羽柴秀吉に先んじられ、以後、秀吉の名声が高まるにつれて秀吉と対立するようになった。
天正11年、越前にて秀吉討伐の兵を挙げたが、賤ヶ岳の戦に敗れ、居城北庄城で自刃した。お市の方は、織田信長の妹にあたり、永禄10年(1567)、21歳で近江の浅井長政に嫁いだ。長男、万福丸をはじめ、長女茶々(のちの淀君)、二女初、三女小督(のちの徳川秀忠正妻お江与)を生んだ。浅井長政と織田信長の同盟が崩れ、浅井長政は織田信長に敗れる。
お市の方と茶々、初、小督は救助された。
本能寺の変後、羽柴秀吉が清須会議にて織田家後継者を信長の孫、三法師を立て、自身も盛り役として勢力を拡大した。
お市の方は、織田信長の三男信孝の勧めを受け、柴田勝家と再婚。柴田勝家の居城 北ノ庄城が秀吉軍に包囲され落城。柴田勝家とお市の方は自害した。
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福井県にある両者の銅像

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 18

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 18

松本重太郎墓所/鳳林寺
                              天王寺区六万体町2-10


松本重太郎は、京都府丹後半島間人(たいざ)の出身。
京都・大坂の呉服問屋に奉公後、24歳で独立し明治元年(1868)、今橋に洋反物雑貨店「丹重」を創業した。明治10年におこった西南の役で巨利を得、高麗橋に第百三十銀行を創立する。
明治18年、日本最初の私鉄である阪堺電鉄(後の南海電鉄)を設立し初代社長となる。
その他大阪紡績(現東洋紡績)・大阪麦酒(現アサヒビール)・山陽鉄道(現JR西日本)・(日本火災保険(現 日本興亜損害保険))等多くの企業の設立・経営に参画し、明治期大阪財界の重鎮として、日本の近代産業興起に多大な役割を果たした。
またミナミの宗右衛門の料亭「大和屋」の良き庇護者としても知られ、城山三郎の伝記小説「気張る男」のモデルである。
 大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区本町1ー4ー5 大阪産業創造館B1)が発行するガイドブックは大阪で活躍した実業界105人を紹介しているが、松本重太郎は、TOPの五代友厚の次に紹介されている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 17

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 17

安部摂津守信勝墓碑/鳳林寺

                              天王寺区六万体町2-10


安部信勝は武蔵国岡部藩主。
戦国時代徳川家康に仕え軍功のあった武将。慶長5年(1600)大坂に没した。
この石塔は、その子摂津豊島藩22,000石藩主摂津守信盛が大坂定番であった慶安年間(1650)、父信勝の菩提を弔って建立したものである。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 16

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 16

大坂城代米倉丹後守種継父子墓碑/鳳林寺

                                                           天王寺区六万体町2-10

米倉氏は武蔵金沢藩15,000石の藩主で、代々丹後守に任ぜられ、種継以後大坂城代を務めた。
寛永年間、第3代将軍徳川家光は、大坂の陣で荒れ果てた大坂市街の整備と大坂城の復興を計り、奉行を務めたのが種継だった。
種継父子は信仰心が篤く、鳳林寺住職 2世明岩和尚・4世中興万源和尚に深く帰依し、総欅造りの仏殿を中心とした七堂伽藍を建立し中興の檀那となった。
種継の五輪塔は、寛永13年(1636)に建立。左右に曾孫昌尹の建てた元禄6年銘の石燈がある。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 15

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 15

上島鬼貫墓所/鳳林寺

                                                                     天王寺区六万体町2-10

上島鬼貫は、松尾芭蕉と並ぶ俳人で「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた。
鬼貫は1661年(万治4年)、伊丹の酒造家上島宗次の三男として生まれた。
鬼貫の遠い祖先は武士の名家だったため、武士になりたいと熱望した鬼貫は、諸藩への短期間の武家奉公を繰り返した。
8歳で初めての句「こいこいといへと蛍がとんでゆく」を詠み、13歳で松江維舟(いしゅう)の門に入った。16歳ごろには芭蕉にも影響を与えた西山宗因を尊敬するようになった。25歳ごろ、大坂に移り住む。以後、鬼貫は主に大坂と近郊の福島に住み、一時、京都へも移住した。元禄12年(1699)には伊丹の領主である近衛家から家来分に取り立てられた。
享保9年(1724)3月、大坂で起きた大火災で自宅が焼けてしまい、その年の10月まで伊丹に疎開した。元禄13年1月、長男の永太郎を亡くした。
「土に埋て子の咲花もある事か」と嘆いた。
鬼貫が江戸へ下る際、「富士の姿を詳しく知らせてほしい」と言いつつ、帰りを待たずに没した友人、鸞動(らんどう)の墓前で報告したのが、代表句
「にょっぽりと秋の空なる富士の山」である。
大阪市西区の四ツ橋跡にも彼の句碑が建立されている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 14

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 14

幕末期 関白太政大臣 二條斉敬邸 

紫宸殿の遺構 /鳳林寺                            天王寺区六万体町2-10

本堂は山門とともに幕末期 関白太政大臣だった二條斉敬の紫宸殿(天皇・皇太子の元服など大小各種の儀式や公事(くじ)が行われ、天皇が病気、大極殿(だいごくでん)の焼失などの特別の場合には、即位式が行われる御殿)の遺構である。

鳳林寺の本殿は、昭和20年3月の大空襲により焼失の被害にあった。

昭和34年京都二條家の紫宸殿が本堂として移築された。
文久3年(1863)、二條斉敬が関白太政大臣に就任。
叔父にあたる徳川斉昭(斉昭は万延元年(1860)に死亡)の水戸徳川家が就任の祝いに紫宸殿を建立した。
「関白御殿」「銅駝御殿」とよばれた。二條斉敬の従兄弟にあたる第15代将軍徳川慶喜、會津藩主松平容保、土佐藩 山内容堂などこの御殿を訪れ、政情について会談したと伝えられている。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 13

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 13

戦国武将 蜂須賀小六(正勝)顕彰之碑/吉祥寺
                                                                      天王寺区六万体町1-20

蜂須賀正勝は尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)の出身で、木曽川筋の川並衆(かわなみしゅう)と呼ばれる集団を率い、犬山城主の織田信清、岩倉城主の織田信賢、さらに美濃(岐阜県)の斎藤道三に仕えた後、織田信長に属し、信長から秀吉に与力として付けられ、やがて秀吉の家臣となった。
天正10年(1582)、備中高松城攻めの際に毛利方の使僧安国寺恵瓊と講和交渉をまとめ、城将清水宗治切腹の検使を務めた。
同年の明智光秀との山崎合戦、翌11年の柴田勝家との賤ケ岳合戦など、秀吉の天下取り合戦でも活躍し、同13年四国平定の後にこれまでの功績が賞され、阿波一国を賜った。しかし、正勝はこれを辞し、かわって嫡子家政が拝領することとなった。蜂須賀家は以降、明治維新に至るまで、阿波を領する徳島藩主として続いた。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 12

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 12

<兵庫県加東市にある赤穂義士の墓/観音寺       加東市家原(いえはら)14-4>

赤穂義士の寺として知られる観音寺(加東市家原)境内の四十七士の菩提所の入口脇に大きな石碑「薦誠碑(せんせいひ)」がある。
この碑文は、弘化4年(1858)、150回忌に合わせて赤穂義士の墓碑が観音寺に建立されたが、家原浅野氏の当主である浅野長祚(ながよし)が書いたものである。
家原浅野氏は、赤穂浅野家の分家(3500石)。
赤穂藩が滅びた後も、家原浅野氏は残り、明治維新まで7代、200年続いた。
加東市家原の観音寺に赤穂義士の墓碑が建てられたのもこうした浅野家の領地だったという経緯がある。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 11

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赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所/吉祥寺

                      天王寺区六万体町1-20

浅野内匠頭長矩は、寛文7年(1667)、浅野長友の長男として江戸に生まれた。寛文11年(1671)3月、父・長友が藩主に就任して3年後の延宝3年(1675年)1月19日に死去。同年3月25日、長矩は9歳で播州浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となった。
同年4月7日、第4代将軍徳川家綱に拝謁。延宝8年(1680)8月18日に従五位下に叙任し、さらに21日には祖父である長直と同じ内匠頭の官職を賜った。
天和3年(1683)2月、勅使饗応役を拝命し、高家吉良上野介義央が勅使饗応指南役として付いたが、無事に役目を果たした。
元禄14年(1701)2月4日、2回目の勅使饗応役に任じられた。
3月14日、幕府の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日、儀式直前、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)において、長矩が吉良上野介義央に対して脇差でもって刃傷に及んだ。
第5代将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即断した。
身柄は田村右京大夫(陸奥一関藩主)の屋敷に預けられ、同屋敷の庭先において、夕方、幕府検死役の立会いのもと切腹した。享年35。
遺骸は高輪泉岳寺に埋葬された。
さて、ここ吉祥寺は、浅野家の菩提寺で、参勤交代の際はこの寺に立ち寄ったといわれる。

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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 10

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 10

 加小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西照庵(さいしょうあん)跡

                      天王寺区六万体町1-20


「浮瀬(うかむせ)」、「福家席」と並んで大坂を代表する料亭「西照庵」が夕陽丘にあった。

場所は、現在の夕陽丘学園(旧大阪女子学園)のあたりである。
司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」では、土方歳三が口縄坂を上って「西照庵」に行く場面がある。

ただし、小説では「西照庵」を「西昭庵」に変更している。(司馬氏は意図的に「龍馬」を「竜馬」に変更した経緯もある。)

小説では、西昭庵から西に景色を眺めると、五輪塚に「家隆塚」と記載しているのが見える設定になっている。

現実は、西照庵から「家隆塚」のある個所は確認できても、「家隆」と時までもとても見えない。

小説では下記のとおりである。

「森に冠木門があり、粋な軒行燈がかかげられている。西昭庵料亭である。
「へい、ここでございます」と、駕籠かきが駕籠をおろし、相棒のひとりが門からの小径(こみち)を駆けて行った。客が来たことを報らせるつもりであろう。
「ご苦労だった」と歳三は酒代をはずんでやった。(途中省略)
西昭庵では、西側の部屋へ通された。(いい部屋だな)歳三は、すわった。(途中省略)
はるかな眼の下に、浪華の町がひろがっていた。そのむこうは、海。北摂、兵庫の山々が見える。陽がたったいま、赤い雲を残して落ちてゆこうとしている。「大変な夕陽ですな」と歳三も立ち上がった。「だからこのあたりを夕陽ケ丘というのでしょうか」

(新潮文庫「燃えよ剣」下巻 P195より)

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