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「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 8

「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 8

 薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡    天王寺区夕陽丘町5-14

地名を「夕日岡」と創名した伊達宗広(陸奥宗光の父)が、「自在庵」に在住中、維新の功労者 薩摩藩元家老の小松帯刀が、明治3年(1870)大阪で病死し、夕陽丘に埋葬された。
【明治維新の國士小松帯刀の碣(いしぶみ)も此處(ここ)にあった】と田中吉太郎著「夕陽丘の回顧」に記載があり、伊達宗広の敷地一角に小松帯刀と帯刀の側室 琴 仙子(ことせんこ)の墓があった。

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両者の墓は明治9年(1876)10月3日、鹿児島県吉利村園林寺にある小松家墓地に改葬された。
小松帯刀は明治に入り、徴士参与と外国事務局判事に任命され、主に外交を主として新政府に出仕したが、従来の過労で体調が芳しくなかった。
明治2年(1869)7月、大阪にて蘭医ボードウィンの治療を受けた。
明治天皇は2度にわたり、小松に菓子・肴の見舞い品を贈り、病気全快次第に東京在住するよう示達されている。
昨今、脚気により病死したと思われていたが、死因は結核である可能性が高いといわれている。
息を引き取ったのは、小松家では代々「大阪病院・医学校」と伝わっているが、歴史作家・研究家の桐野作人氏による「さつま人国誌 幕末・明治編2」では、大阪大宝寺町にあった側室 琴 仙子の家と紹介されている。小松の同友だった「五代友厚秘史」が出典。
正室 近(ちか)や五代友厚などの薩摩藩関係者に看取られて静かに永眠した。(明治3年7月19日深夜1時頃)
小松の葬儀は21日、神葬祭で行われた。費用は800両かかった。
同年12月13日。小松の墓参りのため、大久保利通と五代友厚がここを訪れている。

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