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JASS秋のイベント 大坂の幕末を歩くシリーズ3
夕陽丘周辺
JASS主催の秋のイベントに夕陽丘をご案内いたします。
JASS会員の皆様へのご案内が主となりますが、定員に余裕があるため、一般の方も参加できます。
ご都合の合う方は下記の日時に集合場所へお越しください。
地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘駅 北西改札出て2番出口上がったところに13時集合です。
参加費は2000円です。
行程は次の通りです。
・陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡/稱念寺
・夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)/稱念寺
・陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺)
・陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺)
・原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺)
・陸奥家墓所に常夜燈の寄贈したおもな人物 岡崎邦輔、鍋島桂次郎、竹越与三郎、星 亨、アーネスト・サトウ
・薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡
・加賀藩大坂蔵屋敷ゆかりの石鳥居(太平寺)
・小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西照庵(さいしょうあん)跡
・赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所/吉祥寺
・赤穂義士四十七士墓所/吉祥寺
・大石内蔵助良雄像と赤穂義士四十七士像/吉祥寺
・<兵庫県加東市にある赤穂義士の墓/観音寺 加東市家原(いえはら)14-4>
・戦国武将 蜂須賀小六(正勝)顕彰之碑/吉祥寺
・幕末期 関白太政大臣 二條斉敬邸 遺構/鳳林寺
・上島鬼貫墓所/鳳林寺
・赤松家の墓所/鳳林寺
・大坂城代米倉丹後守種継父子墓碑/鳳林寺
・米倉丹後守昌尹墓碑/鳳林寺
・安部摂津守信勝墓碑/鳳林寺
・松本重太郎墓所/鳳林寺
・柴田勝家・お市供養墓碑/天鷲寺
・愛染かつら/勝鬘院
・多宝塔/勝鬘院
・愛染坂
・舊山口藩殉難諸士招魂之碑/大江護国神社
<残念さん(山本文之助)と無念柳>
<長州藩士切腹の地(東本願寺難波別院=南御堂)>
・料亭 浮瀬(うかむせ)跡
・蕉蕪園(しょうぶえん)
・大江岸水記念碑
・天王寺七名水 金 龍 水
・天王寺七坂 清 水 坂
・天王寺七名水 有栖の清水(土州御用水)跡
<土佐藩専用の浴室 三橋楼>
・清 水 寺
・天王寺七名水 増井の清水(増井弁財天)
・天王寺七坂 天 神 坂
・真田幸村戦死地跡(安居神社)
<大坂冬の陣ゆかりの地 真田丸(真田の出丸)跡/真田山 心眼寺>
<真田丸(真田の出丸)跡>
・安井の清水(癇鎮めの井戸)
・天王寺七坂 逢坂
・大坂夏の陣 徳川家康陣所跡/一心寺
・本多忠朝(ただとも)墓所/一心寺
・明治戊辰戦役 会津藩士墓所/一心寺
・明治戊辰戦役 東軍戦死者招魂碑/一心寺
・水戸藩士 高橋多一郎・庄左衛門墓所/四天王寺
・乾 十郎君之碑/四天王寺
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 8
薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡 天王寺区夕陽丘町5-14
地名を「夕日岡」と創名した伊達宗広(陸奥宗光の父)が、「自在庵」に在住中、維新の功労者 薩摩藩元家老の小松帯刀が、明治3年(1870)大阪で病死し、夕陽丘に埋葬された。 両者の墓は明治9年(1876)10月3日、鹿児島県吉利村園林寺にある小松家墓地に改葬された。
【明治維新の國士小松帯刀の碣(いしぶみ)も此處(ここ)にあった】と田中吉太郎著「夕陽丘の回顧」に記載があり、伊達宗広の敷地一角に小松帯刀と帯刀の側室 琴 仙子(ことせんこ)の墓があった。
小松帯刀は明治に入り、徴士参与と外国事務局判事に任命され、主に外交を主として新政府に出仕したが、従来の過労で体調が芳しくなかった。
明治2年(1869)7月、大阪にて蘭医ボードウィンの治療を受けた。
明治天皇は2度にわたり、小松に菓子・肴の見舞い品を贈り、病気全快次第に東京在住するよう示達されている。
昨今、脚気により病死したと思われていたが、死因は結核である可能性が高いといわれている。
息を引き取ったのは、小松家では代々「大阪病院・医学校」と伝わっているが、歴史作家・研究家の桐野作人氏による「さつま人国誌 幕末・明治編2」では、大阪大宝寺町にあった側室 琴 仙子の家と紹介されている。小松の同友だった「五代友厚秘史」が出典。
正室 近(ちか)や五代友厚などの薩摩藩関係者に看取られて静かに永眠した。(明治3年7月19日深夜1時頃)
小松の葬儀は21日、神葬祭で行われた。費用は800両かかった。
同年12月13日。小松の墓参りのため、大久保利通と五代友厚がここを訪れている。
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 7
陸奥家墓所に常夜燈の寄贈をしたおもな人物
天王寺区夕陽丘町5-14
<岡崎邦輔>
立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。
生家の長坂家は紀州徳川家に仕える家系で町奉行、勘定奉行を務める家柄だった。
また、岡崎の母親は陸奥宗光の母親と姉妹で陸奥と岡崎は従兄弟の関係にある。
陸奥宗光の死後、自身と同じく宗光より引き立てを受けた星亨に接近し、星の快刀として隈板内閣倒閣、立憲政友会結成などに活躍した。明治33年(1900)、第4次伊藤内閣の逓信大臣となり、星亨のもとで逓信大臣官房長を務めた。
<竹越与三郎>
慶応元年(1865)生まれ。明治14年(1881)、慶應義塾に入学して翌年中退。
明治維新を内外の危機的状況で国民の活力が発揮された「乱世的革命」と位置づけて、王政復古史観や佐幕・勤皇・藩閥論に対して強く批判した。
陸奥宗光、西園寺公望らの世話を受け、明治29年(1896)、『世界の日本』の主筆に迎えられた。同年開拓社より、代表作となる日本通史『二千五百年史』が刊行された。伴信友の『史籍年表』などを元にして古代から明治維新までの歴史を描き、神武天皇の東征を天孫人種と土着人種の民俗対立と捉え、南北朝正閏論(南北のどちらを正統とするかの論争)を論じるなど、文明史の立場から皇国史観とは違う視点から日本史を論じて版を重ねた。
<星 亨>
嘉永3年(1850)4月8日、江戸の左官屋として生まれ、当初は医学を志していたが、英学を学び英語教師として身を立てる。
明治維新後、陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、一時横浜税関長となるが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張し一歩も譲らず、「女王事件」を引き起こし、引責辞任した。
第2代衆議院議長、第2代逓信大臣などを歴任している。
<アーネスト・サトウ>
1834年ロンドンに生まれる。14歳の時、「支那日本訪問見聞録」を読んで、未知の日本に興味を持ち、外交官を志した。
大学を飛び級で卒業し、19歳で日本駐在通訳として文久2年(1862)9月8日に来日。
オールコック、パークスと2代にわたり通訳官、外交官として活躍した。
日本の政情を分析し匿名で「英国策論」という論文を発表。
内容は【「タイクン(将軍)」は大名達の盟主という存在であり、国の元首ではない。幕府は日本の公式な政府ではないので外交交渉を行うことは無意味である。イギリスとしては天皇を君主とする雄藩連合を援助し、日本の政治形態を一新させ、対日交易の円滑化を図るべきである。】というものであった。
そのため、サトウは幕閣にとどまらず薩摩藩を筆頭に幕末維新で活躍した著名な人物のほとんどに会っている。通訳官から書記官に昇格し、公使の補佐として活躍。日本語も抜群に上達し、候文まで読み書きができるようになっている。
明治16年(1883)離日したが、駐日公使として明治28年(1895)再来日し、明治33年(1900)まで勤めた。
日本の政治に大きく関わった外国人のうちの一人といえる。
昭和4年(1929)、86歳で生涯を終えた。
<古川市兵衛>
古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。
古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。明治17年(1884)、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになる。
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 5
陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺)
天王寺区夕陽丘町5-14
明治元年(1868)、陸奥宗光が大阪府権判事に就任した頃、蓮子と結婚した。
宗光が神奈川県知事だった明治5年(1872)2月、蓮子は亡くなり、神奈川県の「豊顕寺(ぶげんじ)」に埋葬された。
父 宗広が明治10年(1877)に亡くなると蓮子の遺骨もこの地に埋葬された。あたらしく墓碑も建てられる。
昭和28年(1953)、陸奥家墓所が神奈川県鎌倉市の寿福寺に移葬された折、蓮子の墓碑だけ置き去りにされた(遺骨は寿福寺に移されている)。この墓碑の側面には、明治5年、蓮子は亡くなり、豊顕寺に埋葬されたことが記載されている。
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 4
陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺)
天王寺区夕陽丘町5-14
宗光は幼少期、父と兄が勤王活動をしたことで蟄居の刑を受け不遇な時期を過ごした。単身、大坂に出て藤沢東畡の泊園書院にて漢学を学ぶ。元治元年、師である藤沢東畡の死により、やむなく方向転換させられる。大坂在住時に懇意があった勝海舟の門をたたき、神戸海軍塾の塾生となる。しかしそれもつかの間、勝海舟が江戸蟄居の刑を受け、神戸海軍操練所ならびに神戸海軍塾は解散となる。彼はまた途方に暮れることになる。海舟の口利きで薩摩藩が塾生の面倒を見ることとなり、坂本龍馬らとともに長崎で社中の隊士となる。隊長は薩摩藩の小松帯刀。このとき小松と陸奥との出会いが、ここ夕陽丘の同じ場所で永眠することになることとなる。
のちに社中は土佐海援隊となる。
隊長は坂本龍馬。大政奉還により明治新政府ができた直後、隊長の坂本龍馬が暗殺されてしまう。
彼は、再度途方に暮れる。1か月後、当時暗殺したのは紀州藩士および新選組と考えられており、新選組と紀州藩士がいる「天満屋」を襲撃する事件を起こす。新選組が襲撃された珍しい事件である。
これが失敗に終わり、宗光は一時消息不明となる。
ところが大阪開市により川口に税関が置かれる際、ひょっこりと現れ、海援隊に尽力を尽くしたことのある五代友厚の側近として外国事務掛として活躍する。小松帯刀も大阪にいたので、陸奥の才能を見込んで抜擢されたと思われる。
彼は、大阪府の北部にある摂津県の初代知事に就任する。その後豊崎県と改称され、さらに兵庫県と統合。陸奥は第4代兵庫県知事に就任する。
そののち、政界の道を彼は進む。ところが、西南戦争時に「立志社陰謀事件」に加担し、その罪で明治11年から4年間牢獄生活を送る。
特赦で釈放後、留学し外国の事情を視察する。帰国後、外務省在勤弁理公使に任命される。
アメリカの公使を務め、明治23年、山県有朋内閣の農商務大臣に任命される。明治25年、第二次伊藤博文内閣で外務大臣に就任。
幕末期に各国と結んだ不平等条約の改正に尽力した。
陸奥宗光は、明治30年(1897)、8月24日死去。享年54歳。
葬儀は浅草海善寺で執り行われ、11月、ここ夕陽丘に埋葬された。
その後、この地は伊達宗広と陸奥宗光をはじめとした陸奥家墓所となった。
墓所には菩提樹や献納された常夜燈があり、現在の墓所跡にもそれらは残されている。昭和28年(1953)、陸奥家の遺族が墓所を寿福寺(神奈川県鎌倉市)に移葬した。しかし、現在でも稱念寺内には当時の面影が残されている。
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 2
夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)/稱念寺
天王寺区夕陽丘町5-14
陸奥宗光は、明治10年(1877)5月に亡くなった父 伊達宗広の遺言に従い、夕陽丘に墓所を建て、さらにその傍らに宗広の生涯と事績を顕彰する「夕陽丘阡表」という碑を建てた。
この顕彰碑は漢文で書かれており、陸奥宗光がかつて藤沢東畡の泊園書院で学んでいた才能がここに披露されている。
陸奥家墓所が鎌倉へ移転直前、この地に移転してきた稱念寺により、夕陽岡阡表は、平成元年(1989)邸宅内から門前に移され、外部からも見ることができるように配慮された。
「大坂の幕末を歩く 3」~夕陽丘周辺Vol.2~ 1
陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡/稱念寺
天王寺区夕陽丘町5-14
伊達宗広は享和2年(1802)5月25日、紀州藩士の家に生まれた。
紀州藩主 徳川治宝(はるとみ)は宗広の才能を評価し18歳で藩の監察に任命する。
その後、宗広は勘定吟味役、勘定奉行、寺社奉行兼務と昇進して500石取りとなった。家老山中筑後守を補佐して藩政改革を推進する一方で、藩内の尊王論を主導した。
嘉永5年(1852)、山中筑後守、更には藩主 治宝が相次いで病死すると、改革に反対する派閥が推す家老水野忠央が実権を握った。
幕府からの信頼も厚かった水野は、藩内に危険な思想を広めたとして、宗広をは捕え10年近くにわたり紀伊国田辺に幽閉を命じた。
文久元年(1861)、その才能を惜しんだ土佐藩 山内容堂の口利きによって宗広が釈放されると、養子である宗興に家督を譲って隠居した。
翌年、宗興とともに脱藩して上洛、尊皇攘夷運動に参加した。これを知った紀州藩は激怒し、宗広・宗興は和歌山に連れ戻され、再び幽閉の身となった。
明治維新後、実子の陸奥宗光が新政府に出仕。宗光の功績が讃えられ、明治2年(1869)、宗広は幽閉が解かれ、宗興も和歌山藩執政に抜擢された。紀州藩は過酷な措置を行ってきたお詫びとして宗広に隠居料200石を与えた。
宗広はその後歌道に専念し、大阪夕陽丘にある歌人藤原家隆の荒廃していた墓を修理し、付近の土地千百数坪を購入し「自在庵(じざいあん)」を築き、余生を歌道に専念しようとした。
家隆の歌からこの地名を「夕日岡」と創名したのは伊達宗広である。
明治5年(1872)、宗広は病状が悪くなり宗光邸のある東京深川清川町に移り住むことになり、夕陽丘を離れることになった。
移る際、宗広は次のような句を詠んだ。
空蝉の 殻は何處に 朽ちぬとも
我魂やどる かた岡ぞこれ
宗広は明治10年(1877年)5月18日に亡くなり、遺言により夕陽丘に埋葬された。
その後、陸奥家墓所跡に在住する稱念寺により宗広の句碑が建立された。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 26
復活した八軒家船着場常夜燈
中央区北浜東1-2(川の駅はちけんや)
八軒家浜船着場の常夜燈が復帰した。除幕式は平成24年(2012)7月24日。
その常夜燈は古文書の図面を参考に新たに復元させたものである。
寄贈者は、近畿大学名誉教授の湯浅富一氏と禮子氏の夫妻。湯浅富一氏は以前にも「ふるさと納税」で、多額なお金を大阪府に寄付されておられる。
新しい常夜燈二基の側面には「八軒家の古写真」「八軒家浜 籠篭の由来」「八軒家の歴史」「京屋と堺屋」などの説明書きがある。
当時の船着場は、夜、明かりがなく、荷物の積み下ろしや慣れていない旅人を気遣い、常夜燈を設置したいという文書も保存されている。
大坂城の歴史
浄土真宗総本山 石山本願寺 ~城郭規模の寺院 大坂城の前身~
①石山御坊
明応5年(1496)本願寺8代目である法主 蓮如が82歳の時、石山御坊という隠居寺を建てたのが、大阪城の始まりといっても過言ではありません。
石山御坊が建てられた地は『摂州東成郡生玉之庄内大坂』といわれており、工事の際、巨石がごろごろ出てきたことから、地名を「石山」と名づけられたと記録に残されています。
②石山本願寺
山科本願寺焼き討ち事件が起こり、本坊をここ石山に移され石山本願寺と呼ばれるようになりました。
11代目法主 顕如の時代、織田信長から石山本願寺の明け渡しをの要求を受けます。
これに抵抗し、元亀9年(1570)9月より11年間に及ぶ石山合戦が始まります。
③石山本願寺炎上
天正8年(1580)、本願寺側は信長に降参し、本願寺を明け渡します。
ところが明け渡し直前、不審火により本願寺の城郭が3昼夜にわたり炎上し焼失してしまいます。
この石山本願寺のあった場所は、いくつかの説がありますが、現在の大阪城桜門近くにある修道館前に「石山本願寺推定地」の碑があります。また、NHK大阪の東南あたりともいわれています。
大坂城の築城 ~初代城主 織田信長~
初代城主 織田信長
天正8年(1580)8月、石山合戦に勝利した織田信長は、石山本願寺の跡地に応急修理を行い大坂城を築き、重臣丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。
天正10年(1582)6月、本能寺で明智光秀に襲撃を受け、信長は最期を遂げますが、それまでの2年間、大坂城の城主でした。
豊臣期の大坂城 ~天下統一の拠点として本格的な築城へ~
①第2代城主 池田恒興
本能寺の変後、すぐに山崎の合戦により羽柴(のちの豊臣)秀吉が明智光秀をやぶります。
天正10年(1582)6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行いました。会議の結果、池田恒興が摂津国を領することになり、大坂城主となります。
池田恒興が第2代大坂城主ということになります。
恒興が城主だった期間は1年未満であったため、応急に造られた大坂城の修復工事はしなかったようです。
その後の池田恒興:秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となります。小牧・長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき、長久手の合戦で討ち死にします。
②第3代城主 羽柴(豊臣)秀吉
秀吉は柴田勝家をやぶり、名実ともに信長の後継者となります。天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。
③本格的な大坂城の築城
秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年(1583)9月1日から工事を開始します。天正13年(1585)に第一期工事が終了。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)です。
約15年にも及ぶ工事は、想像を絶するほどの力の入れようでした。豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり、千 利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸(現在の国立大阪病院の裏通り辺り)から成り、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
天守閣の高さは約39mだったようです。大坂築城に伴う町づくりでは、その後の日本の都市のモデルにもなります。
特に下水溝は現在でも使用されています。建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので、「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。本丸天守閣のあった場所は、現在の大阪城天守閣がある場所と若干異なり、北東方面(約100メートル)にありました。
秀吉死後の大坂城 ~2つの天守閣 大坂城落城~
①第4代城主 豊臣秀頼
秀吉の死後、子の秀頼が後を継ぎ、第4代大坂城主に就きます。秀頼は年が若く、秀吉のような影響力がないため、五大老のひとりである徳川家康が、次第に勢力を拡大させます。
同じく五大老のひとりであった前田利家が、秀吉の後を追うように亡くなり、ますます家康の力が強大化していきます。
②徳川家康の台頭
慶長4年(1599)3月、秀吉の居城であった伏見城を自分の居城としてしまいます。同年9月9日、秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため、伏見から大坂城に入ります。
この頃、北の政所(秀吉の正妻)は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し、京都の高台寺に移り住んでしまいました。家康は節句のお祝いが済んでも伏見に帰ろうとせず、西の丸に居座ります。
③大坂城に2つの天守閣が並び立つ
慶長5年(1600)2月~3月にかけて、家康は西の丸に天守閣の築城工事を開始します。
姫路城も天守閣が2つ以上ありますが、大天守を中心に小天守があるといった造りです。
しかしこの時の大坂城は、本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つあることになります。
家康が2つ目の天守に居座る事で、豊臣の勢力と互角であることを天下に知らしめる事を狙ったのではないかと思われます。
状況は異なりますが、徳川家康も城主に就いたといえるかも知れません。重要文化財に指定されている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の右隻ですが、2つの天守が建っていた様子が窺えます。
④徳川家康と石田三成の対立
「大坂城主はわしである。」と言わんばかりに、本丸の大天守閣に対抗し、西の丸にもう一つ別の天守閣を建てた家康に対し、石田三成などが対抗します、慶長5年(1600)9月、関ケ原で家康の東軍と三成の西軍がぶつかり、わずか1日で家康は勝利を収めます。
慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた家康は、江戸に幕府を開きます。
⑤大坂城落城
一大名に成り下がったとはいえ、豊臣家は依然として難攻不落の大坂城を持ち、他の大名に影響力がある存在でした。
慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、外堀を埋めることで和睦。翌年の元和元年(1615)5月に大坂夏の陣が起こり、5月7日ついに大坂城が炎上。
5月8日、焼け残った山里曲輪の櫓に潜んでいた淀君、豊臣秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡します。
徳川政権は安泰となり、江戸幕府はこの後250年間続きますが、それを決定づけたのは、織田信長の時(石山本願寺の炎上)と同様、大坂城の炎上でした。
(追記)徳川家康討死説
大阪府堺市に南宗寺というお寺がありますが、ここには奇妙にも徳川家康の墓があります。言い伝えによりますと、大阪夏の陣の折、豊臣方の武将(後藤又兵衛との説あり)が家康本陣近くに攻め入り、あわてて籠で逃げる家康を槍で刺し、虫の息で堺に辿り着いた家康はそこで息絶えた。そして南宗寺に葬られた。というのです。
それを裏付けるものとして、元和9年(1623)7月に第2代将軍徳川秀忠が、また、8月に後の第3代将軍徳川家光が、わざわざこの寺を訪れています。
明治期に入ってから、旧幕臣 山岡鉄舟が家康の墓の横に「無銘ノ塔 家康諾ス」と刻んだ石碑を残しています。
(昭和期になり松下幸之助ら有志の皆さんが、立派な家康の墓碑を建立していますが、その墓碑と本当の墓碑 と間違わないよう注意してください。)
徳川期の大坂城 ~西国大名監視の拠点~
①第5代城主 松平忠明
幕府は、大坂夏の陣で灰になった大坂城の焼け跡を整理する一方、伊勢亀山5万石の領主だった松平忠明(ただあき)に大坂城主に起用します。(第5代大坂城主となります。)
松平忠明の母は徳川家康の長女亀姫で、家康から見ると忠明は孫にあたります。
忠明は、大坂城付近にあった寺院を現在の中央区中寺や天王寺区下寺町に移転させるなど、城よりも城下町の整理と復興に力を注ぎました。忠明は大坂城主に約4年間在任しましたが、大和郡山へ転封となります。その後は大坂城は大名が統治するのではなく、幕府の直轄領となります。
②大坂城の再建
元和6年(1620)1月、第2代将軍 徳川秀忠の命により、65家の外様大名を中心に、大坂城の再建が進めらることになりました。およそ10年間工事を行い、寛永6年(1629)に完成します。
徳川秀忠は大坂城を単に復興するのではなく、豊臣期のものよりも2倍の規模にしようとし、築城の練達者 藤堂高虎に基本設計を任せます。
③豊臣期の大坂城と徳川期の大坂城の違い
徳川期の天守閣は、現在の大阪城天守閣の位置に建てられました。
豊臣期の天守閣は前述のとおり、現在の位置よりもやや北東に建てられていました。石垣や堀の深さは、豊臣期のものより規模が2倍大きいものでした。
現在残っている石垣は、この時期のものです。
徳川の威信をかけた築城で、豊臣期の天守閣の高さが約39mだったのに対し、新しい天守閣の高さは約58mでした。
④過酷な「割普請」
大坂築城は外様大名を中心にあたらせ、大名間を競わせる方式を取りました。そのため、地元から運んだ石がわかるよう、石に家紋等の刻印をつけました。今でもそれは確認することができます。
場内第一の巨石は「蛸石」と呼ばれる石で、高さ5.5m・横幅11.7m、36畳敷分の面の大きさとなります。(運んだ大名は、備前岡山城主池田忠雄です。)
⑤大坂城代の設置
幕府は、西国大名の監視をする役割として、大坂城に城代を置きます。
初代大坂城代は高槻城主 内藤信正で、元和5年(1619)に着任しています。内藤信正は、再建工事中に病没し、寛永3年(1626)、第2代城代に武蔵岩槻城主 阿部正次が着任し21年間務めます。
幕末までで合計70名の大名が大坂城代を務めています。
初代大坂城代が着任した元和5年(1619)の将軍は、第2代目 徳川秀忠であり、秀忠が大坂城の第6代目城主になります。
以降、15代将軍 徳川慶喜まで、将軍が大坂城の城主ということになります。
⑥天守閣、落雷による焼失
寛永6年(1629)の完成からわずか36年後の、寛文5年(1665)1月、珍しい冬の落雷により天守閣は焼失します。
(天災による焼失の場合、政権交代等時代は動かなかったようです。)
この頃、江戸城も天守閣を失っていましたので修復する余力がなく、この焼失後、大坂城の天守閣は昭和6年(1931)まで、再建されませんでした。(約300年)
幕末期の大坂城① ~第14代将軍 徳川家茂終焉の地~
①黒船ディアナ号大坂湾に来航
嘉永7年(1854)、プチャーチン率いるロシア船ディアナ号が開国を求めて大坂の天保山沖に姿を現しました。
当時の大坂城代(第66代)土浦藩主 土屋采女正(うねめのかみ)寅直は、在藩の諸藩邸や隣国の諸大名に出兵を催促します。
61藩、14000名の兵が集まりました。ディアナ号が下田へ向かった後、黒船の再来に備え、土屋寅直は安治川・木津川の両河口に西洋式砲台を築きます。
②将軍 徳川家茂の大坂城入城 (230年ぶりの将軍の入城)
列強国の圧力により、幕府は大老 井伊直弼の断行で開国をしたものの、全国で尊皇攘夷が激化します。異人嫌いであった孝明天皇が幕府に対し攘夷の実行を迫るようになりました。
そのため文久3年(1863)3月、第14代将軍徳川家茂が第3代将軍徳川家光以来、230年ぶりに将軍自らが上洛をします。
このとき「攘夷実行期限を5月15日」と約束させられることになります。
家茂は4月21日京を後にし大坂城に入ります。将軍の大坂城入城は、これも家光以来となります。
約2ヶ月間大坂城に滞在し6月13日、幕府の蒸気船順動丸で江戸に帰ります。
勝 海舟日記
(文久3年4月21日)
「(前文省略)京橋口御船着場まで 御迎えの為参上。夜五ツ時、(家茂が)御船着、御入城、(海舟が)深夜退出。」
(文久3年4月22日)
「(大坂城へ)登城。明日、(家茂が)順動船にて兵庫西宮辺へ成らせらる旨仰せ出され、夜に入り御治定。」
(文久3年4月23日)
「(前文省略)天保山へ到り、順動船に到る。端舟にて同所へ(家茂を)御出迎え、御先きへ漕返す。四ツ時ごろ、御本船順動
へ御乗船、即刻出帆。船間悉く御巡覧、御満足の由、度々上意これあり。当将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり、且、御勇気盛んなるに恐服す。(途中省略)神戸へ成らせらる旨命あり。御供同断。同所にて操練局御開き、且、土着の者置くべき事を言上、直ちに英断あり、御前に於て仰せ出され、議悉く成る。(途中省略)夕刻、天保山沖へ御帰船。直ちに御登岸、御供にて(大坂城へ)登城。深夜退出。」
③将軍 徳川家茂 2回目の大坂城入城 (新年の祝賀返上)
1回目の来坂の翌年、文久4年(1864)正月8日に2回目となる大坂城入城を果たします。
この時は海路で幕府艦隊8隻を率いて来坂します。
前年の12月27日翔鶴丸に乗船。元旦を下田の宿泊先である海善寺で迎えます。船旅途中で新年を迎える異例さで、将軍であるだけに尋常でないことがわかります。
恐らく歴代の将軍で、新年を江戸で迎えなかったのは家茂だけではないでしょうか。
家茂は正月14日に上京。長期間滞在後、5月7日大坂城へ帰城します。
勝 海舟の案内により天保山より幕府艦隊3隻で兵庫~友ケ島~堺を巡廻しています。同月16日、海路で江戸に帰ります。
勝 海舟日記
(元治元年5月7日)
「登営。(家茂が)七ツ時御着城、御目見え。(以下省略)」
(元治元年5月8日)
「登営。閣老并びに御側衆へ、御船々の事を申す。○一橋様(一橋慶喜)御下坂、明日頃との説を聞く。」
④将軍 徳川家茂 3回目の大坂城入城 (第二次長州征伐総指揮)
慶応元年(1865)閏5月25日に3回目の大阪城に入城します。
これまでは上京するのが目的だったのに対して、今回の来坂は、第二次長州征伐の総大将として将軍自ら出陣することが目的でした。
目的地は大坂ではなく姫路城でしたが、朝廷からの勅許が降りず大坂城で長期間滞在する事となってしまいます。
家茂の大坂滞在中に天神祭の船渡御が中止となり、民衆から不評を買ってしまいます。
⑤将軍 徳川家茂 病死
慶応2年(1866)6月7日、第二次長州征伐の戦端がようやく切られますが、7月20日、家茂は大坂城内本丸御殿で病気のため息を引き取ります。21歳でした。
⑥将軍 徳川家茂 終焉の地
家茂が大阪城内でなくなったことは非常に有名ですが、大阪城内のどこかについては、どの書物にも紹介がありません。
天守閣は、寛文5年(1665)1月に焼失して以来再建されていませんので、天守閣内でないことだけは確実にいえます。
この当時天守とともに壮大な規模を有する本丸御殿が築かれていました。寛永3年(1626)の創建で、天守閣焼失の際も焼けずに幕末期まで残っていました。この本丸御殿内に「銅御殿」と呼ばれる将軍の私的居間・寝所がありましたが、家茂が亡くなった部屋はここであるという可能性が非常に高いと思われます。銅御殿の場所は下記図面を参照ください。図面に樟樹とありますが、現在、それに関する碑と樟樹(幕末の兵火で失いましたが、明治32年に植樹された木)があります。その位置から銅御殿の場所はやや北西になり、座石が置かれている辺りになります。
幕末期の大坂城②
~第15代将軍 徳川慶喜・外国公使謁見の地~
①将軍 徳川慶喜・フランス公使 レオン・ロッシュとの会見
兵庫開港問題に対する幕府の意図を確認するため、また、幕府軍の編成と「フランス士官の雇用」「横須賀海軍工廠の監督」に対し、了解を得るためフランス公使 レオン・ロッシュは来坂します。
それにあわせて、就任間もない将軍徳川慶喜も京都から来坂します。
慶応3年2月6日・7日(1867年3月11日・12日)大坂城内で両者は会見します。
儀礼抜きの会見となり、老中 板倉勝静が同席しています。
慶喜はロッシュに「統治の全権は天皇ではなく自分にある」ことを主張し、ロッシュから了承を得ています。
また、板倉は「将軍が、長州との戦争を継続する事を全く放棄し、この撤退は一時的なものではない。将軍家と薩摩藩は良好な関係である。」と告げています。
慶応3年2月20日(1867年3月26日)、慶喜はロッシュと3回目の会見を行います。
このとき慶喜は、ロッシュからローズ提督を紹介されています。
②将軍 徳川慶喜・外国公使との謁見
慶応3年(1867)3月、将軍 徳川慶喜と外国公使との謁見が大坂城でわれました。
3月25日にイギリス公使ハリー・パークスとの内謁見(非公式)。
26日にオランダ総領事ポルスブルックとの内謁見(非公式)。
27日にフランス公使レオン・ロッシュとの内謁見(非公式)。
28日にイギリス・フランス・オランダの3カ国代表との公式の会見。
29日に遅れて到着したアメリカ公使ファルケンバーグとの内謁見
(非公式)。4月1日にアメリカ公使との公式の会見。
慶喜の希望により、29日イギリス第九連隊の分遣隊の調練を大坂城で見学します。その際、特別に許可されウィリアム・サットンが慶喜の写真を撮影しています。この写真はワーグマンの描く数枚の(大坂城の)絵とともに本国に送られ、1867年8月10日号の「ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」に紹介されました。
パークスより英国外相スタンレーへの報告(1867年5月4日付)
イギリス公使 ハリー・パークス
[慶応3年3月25日(1867年4月29日)]
「城の玄関で、われわれ(パークス、ロコック、ミットフォード、サトウ、アプリン)は多くの役人や外国奉行などの出迎えをうけ、
つづいて大きな控えの間に案内された。われわれが通る廊下や部屋などには、ヨーロッパ風の装備を身につけた護衛兵がところ狭しとばかり立ちならんでいた。
少し待たされてから、謁見の間(御白書院)に案内され、そこで老中板倉伊賀守(勝静)と三人の若年寄に迎えられた。
テーブルの一方の側にはわれわれの席、他方の側には幕府側の席が用意され、テーブルの上手には装飾をこしらえた小さな椅子が将軍用に置かれてあった。
(途中省略)
低く押し殺したような声で将軍(徳川慶喜)の入室が告げられた。
老中と三人の若年寄をのぞき、部屋にいたすべての幕府側の役人はただちにひれ伏した。将軍が部屋に入ってきた。平服であったが、色彩ゆたかな異称を身につけていた。 (途中省略)将軍はまず(イギリスの)女王陛下の健康についてたずね、これにたいしてわたし(パークス)も、日本における権威の最高の源泉である天皇の健康について、同様のことばを返し、かくして会話がはじまった。
将軍はただちにわたしの挨拶にたいして謝意を表し、わたしはつづいて殿下(His Highness)の健康についてたずねるとき、同様に起立して敬意を表した。
(途中省略) ※会話が1時間半経過
つづいて、将軍が公使館の騎馬護衛兵を見たいと希望したので、かれら(騎馬護衛兵)は内廷(大広間前広場)に案内され、アプリン大尉の指揮の下に、見事な乗馬を披露した。殿下はこれまで西洋の騎兵を見たことがなかったので、たいへん満足した様子であった。
(途中省略) ※食事となり「御白書院」につづく「御次の間」に案内される
それはまったくの洋風の食事であった。(途中省略)将軍が起ち上り、女王陛下のために乾杯した。(途中省略)
※食事の献立
・鶏肉スープ ・魚 ・牛のフィレ肉 ・ローストビーフ ・さやいんげん ・トリュフ入りハム ・鶏のささみ ・うずら ・グリンピースバター・ソテ ・鶏のパテ ・ベシャメルソース入りパイ ・つぐみのワイン煮 ・マッシュルームのパイケース詰め ・アスパラガス ・ババロワ ・キルシュ酒風味ゼリ ・アーモンド菓子 ・オレンジ ・マスカットぶどう ・すもも ・紙包ボンボン ・ジュリエンヌ・ド・フリュイ ・メレンゲ ・アイスクリーム ・洋梨 ・いちじく ・糖衣菓子 ・シェリー酒 ・ボルドーワイン ・赤ワイン ・シャンパン ・デザートワイン
食事後、将軍はわれわれを別室に招じ、そこでコーヒーが出された。
食事をまじえてのなごやかな会話は、約一時間つづいた。食事の時間を利用し、将軍はわたしとわたしに同行した公使館員にそれぞれ贈り物をしてくれた。(以下省略)」
※パークスへの贈り物
・御写真 ・大坂写真 ・蒔絵置箪笥 ・毛栽猿 ・毛栽兎 ・人形
・鞍置馬の手翫 ・三十六歌仙のうち伊勢の額 ・銀きせる煙草入筒共
「一外交官の見た明治維新」/アーネスト・サトウ
イギリス通訳官 アーネスト・サトウ
「将軍は、私(アーネスト・サトウ)がこれまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりした鼻つきの立派な紳士であった。(途中省略)会談が終わってから、一同は洋式の晩餐が用意されている小室へ席を移した。将軍は、食卓の上座についたが、その態度はきわめて慇懃であった。周囲の壁に、三十六歌仙の絵がかけてあった。ハリー卿(パークス)がそれをほめると、将軍はその中の一枚を卿に贈った。(途中省略) われわれが退出したのは、もう夕暮れ時だった。」
幕末期の大坂城③ ~賊軍となった幕府方の拠点~
①大政奉還・王政復古の大号令により徳川慶喜 大坂城に入城
徳川慶喜は大政奉還で政権を朝廷に返上し、王政復古の大号令で辞官、納地を命じられます。京都は薩摩・長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが一触即発の事態となります。
慶喜は二条城から大坂城へ拠点を移すため、慶応3年12月13日(1868年1月7日)大坂城へ入城します。
「アーネスト・サトウの日記」
イギリス書記官 アーネスト・サトウ ※1867年末に通訳官から書記官に昇進 [慶応3年12月13日(1868年1月7日)] 「(前文省略)午後二時頃、ミットフォードと連れ立ってふたたび外出し、京橋の向こうまでいった。(途中省略)ちょうど城の壕に沿った通りの端まで来たとき、進軍ラッパが鳴りひびき、伝習隊が長い列をつくって行進して来た。われわれは通りの片側に寄り、赤い豪華な陣羽織をまとった男と向き合って、部隊が通過するのを見送った。(途中省略)つづいて、あたりが静かになった。騎馬の一隊が近づいてきて、日本人はみなひざまづいた。
一橋(徳川慶喜)と、かれに従うひとびとであった。われわれは、この転落した偉人に脱帽した。かれは黒い頭巾で顔をつつみ、軍帽をかぶっていた。その顔はやつれていて、悲しげに見えた。
これに反して、伊賀守(老中 板倉勝静)と豊前守(若年寄 松平正質)は、われわれの挨拶に気づき、快活に会釈を返した。(以下省略)」
②徳川慶喜・英仏公使との謁見
慶応3年12月14日(1868年1月8日)、徳川慶喜はイギリス公使ハリー・パークス、フランス公使レオン・ロッシュとの謁見を行います。慶応3年12月7日すなわち西暦1868年1月1日は兵庫開港と大坂開市が施行されるため、各国の外交官が大坂に来ていました。そのような中、慶喜が偶然に大坂城に入城したため、両国は謁見を、慶喜はそれを受け入れたのでした。
謁見は、大坂城本丸御殿内御白書院で行われました。慶喜は、これまで京都で起こった出来事について説明し、領地返還には従わないことや大坂に移った理由などを明らかにしています。
③徳川慶喜・外国公使との謁見
慶応3年12月16日(1868年1月10日)午後3時、大坂城本丸御殿内御白書院にて徳川慶喜と外国公使との謁見が行われました。
外国側の参加国はイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシアです。幕府側は、慶喜をはじめ松平容保、松平定敬、板倉勝静(老中)、松平正質(若年寄)、牧野貞明(大坂城代)と多くの目付けでした。
慶喜は、①自分の政策、②京都からの撤退理由、③列藩会議の決定
事項に従う意思表示、④外交事務は自分が担当する 等を伝えました。
このとき、パークスは、慶喜の決断力の欠如を感じ、指導者としての適格性に疑問を覚えたようです。
④鳥羽伏見の戦い
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都で鳥羽伏見の戦いが始まります。1月4日に大坂土佐堀にある薩摩藩蔵屋敷が焼き払われます。
1月6日には旧幕府軍の敗北が確実となり、兵が大坂城を目指して退却 してきます。
新選組も最初は八軒屋の京屋忠兵衛方に入っていましたが、1月7日大坂城二の丸に入り、負傷者の治療を受けています。
⑤大坂城を脱出
敗北が決定的となった慶応4年1月6日(1868年1月30日)午後10時頃、徳川慶喜は重臣(松平容保、松平定敬ら)を従わせ、大坂城を脱出します。
天満八軒屋から舟で天保山沖へ向かいます。開陽丸に乗り込み、1月8日夜に投錨し江戸へ向かいました。
各国の外交官たちは危険を感じ、大坂開市に合せて作られた外国人居留地(川口居留地)に非難します。
⑥大坂城の焼失
旧幕府軍は慶喜の逃亡により総崩れとなり、大坂城で立てこもって一戦する事は避けられました。城代監察と官軍代表の尾張藩への城明け渡しの儀式が予定されていたようですが、慶応4年1月9日(1868年2月2日)、不審火が上がり、火は2日間止まらず、大坂城は焼失してしまいます。
豊臣期の大坂城焼失では徳川政権が安泰となり、徳川期の大坂城焼失では、薩摩・長州を中心とする天皇政権の安泰とつながっていきます。
「アーネスト・サトウの日記」
[慶応4年1月23日(1868年2月16日)]
「(前文省略)門を通りすぎると、あたり一面荒涼たる景色であった。内濠のところの櫓と壁はなくなっていた。南側の外壁のところにあった兵舎と櫓もすっかりなくなっていて、残っているのは城の右側に出る門のところの石だけであった。(途中省略)
巨大な石を敷いた門をくぐって、本丸に入ってみた。ここでも残っているのは石造りの部分だけで、(途中省略)本丸の建物自体
は跡形もなく姿を消し、ここにかつて建物があったことを示すのは、崩れた瓦で厚くおおわれた平らかな地面だけであった。(以下省略)」
明治期の大阪城 ~陸軍の軍事拠点~
①大阪鎮台の設置
明治2年(1869)5月、五稜郭の戦いが終わり戊辰の役が終結します。兵部大輔に任じられた大村益次郎(長州藩出身)は、8月中旬京阪地区に出張し、新政府の基盤となる軍事施設を精力的に定めていきます。
大阪城内には、陸軍施設(大阪鎮台・兵学寮・兵器工場)を設置するよう命じ、早速8月に大阪鎮台が設置されます。
この施設が、後に起こる西南の役において、鹿児島氏族の反乱を鎮圧する根拠地となります。
鎮台は明治21年(1888)の兵制改革により、第四師団と改称されます。
②兵学寮(陸海軍の士官学)の開校
明治2年11月に客死した大村益次郎の遺志を継ぎ、明治3年4月、大阪城内の二の丸京橋口内側に兵学寮青年学舎(陸海軍の士官学校)が開校されます。
③造兵司(のちの大阪砲兵工廠)の設置
陸軍直属の兵器製造工場で、大砲などの重兵器、爆弾などを造る施設です。大阪城内の青屋口付近に設置されました。
④西南戦争勃発
明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発すると、大阪鎮台兵が初めて戦闘に参加します。
前線基地となったこの地に、負傷兵が次々と運び込まれてきます。
大阪陸軍臨時病院を設立し、負傷兵の治療を行います。
同年3月31日、明治天皇が内閣顧問官である木戸孝允を従えて訪れ、入院患者を見舞いました。
⑤紀州御殿
明治18年(1885)、和歌山城二の丸にあった御殿の一部が大阪城内に移築されました。陸軍の兵舎として使用され、通称紀州御殿と呼ばれました。 昭和8年天皇の行在所となり「天臨閣」と改称されています
⑥時報を告げる大砲
大阪天保山砲台にあった大砲が、明治維新後大阪城へ移されてきました。明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられるようになりました。
最初は1日に3回でしたが、明治7年(1874)以降は正午のみ空砲が大阪市内に轟きました。
「お城のドン」「お午(ひる)のドン」という名で親しまれていましたが、大正期になり火薬の節約等の理由から空砲は中止となりました。
今でも勤務(仕事)が午前中のみの場合「半ドン」という言葉が使用されています。
大阪城天守閣の再建 ~大阪市民の寄付金により再建~
①大大阪記念博覧会の第二会場
大正14年(1925)3月15日~4月30日に「大大阪(だいおおさか)記念博覧会が開催され、天王寺公園を第一会場に、大阪城を第二会場として開催されました。
※大阪市は隣接する東成・西成両郡の町村と合併し、人口200万人を超える国内随一の大都市となり、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれました。
②豊公館
上記①のとおり、博覧会の第二会場が大阪城で開催されました。
このとき、天守台に二層の仮説建物が建てられ、「豊公館」と名づけられました。
豊公館の外観は、桃山様式に則って造られました。
1階は豊臣秀吉の遺品や、その時代の歴史資料が展示され、2階は展望台となっていました。
豊公館には、わずか45日間の会期中にもかかわらず、69万8386人の入場者がありました。豊公館の人気が、のちの天守閣復興につながっていきます。
③天守閣の復興が議会で可決
昭和3年(1930)11月、昭和天皇即位の式典が行われるにあたり、大阪市の記念事業として、寛文5年(1665)1月落雷で焼失して以来約270年間なかった天守閣の復興が、第7代大阪市長 関 一(せき はじめ)より大阪市会に提案され、満場一致で可決されました。(昭和3年8月)
④寄付金の募集
昭和3年8月から寄付金を募集し、早くも翌年の2月に目標額の150万円に到達しました。
最も多く寄付をした人は、住友財閥の住友吉右衛門氏で25万円。
続いて、三菱財閥の岩崎小弥太氏で5万円でした。
⑤天守閣再建の問題点
大阪城内は明治以降、陸軍の軍用地となっており、あらゆる施設が所狭しと建っていたため、一般の市民や観光客が、自由に出入りすることが困難であると予想されました。
そのため陸軍からいくつかの条件が出され、それを認めるということで再建が進められました。
その条件とは、募金額の6割を新庁舎の新築に充て、残りの4割を天守閣再建・大阪城公園の整備に充てること。
また、いざという時は天守閣を軍部に明け渡すということでした。
新築された第四師団司令部の庁舎は、戦後、進駐軍の本部、大阪市警察本部と移り変わり、大阪市立博物館として2002年 3月31日まで利用されていました。
⑥大阪城天守閣の再建
天守閣の建設は昭和5年(1932)5月6日に起工し、翌年の10月30日に竣工しました。(約270年ぶりに天守閣が復興しました。)
豊臣期の天守閣の復興が望まれ、数少ない資料から現在の天守閣が設計されました。
竣工式典は、昭和6年(1931)11月7日に行われ、同月16日から一般公開が始まりました。
第二次世界大戦中の大阪城 ~陸軍により閉鎖された大阪城~
①観光客入場の規制
昭和12年(1937)に日中戦争が開戦となり、これ以降は戦時体制となったため、大阪城の観光客に対し、規制が強まってきます。
昭和15年(1940)、大手門で写真機が取り上げられるようになりました。
次第に規制が強化され、天守閣の展望台を閉鎖し、窓はすべて鎧戸で覆い隠されてしまい、館内の展示品以外は見る事ができなくなりました。
これにより一般客は大阪城内の軍事施設や軍需工場をまったく見る事ができなくなります。
②天守閣の一般公開を閉鎖
昭和17年(1942)9月25日、ついに市民の寄付により復興された天守閣が軍部に取り上げられることになり、市民への公開は閉鎖となりました。
その後、敗戦により進駐軍に明け渡すまでの期間中、この天守閣をどのように使用していたかは不明のままです。
敗戦直後の大阪城 ~進駐軍に占領された大阪城~
①8・14の大空襲
昭和20年(1945)8月14日午後1時ごろ、アメリカ軍のB29戦闘機145機が、大阪城とその周辺にある軍の施設・砲兵工廠を空襲しました。
1トン爆弾をばらまいたため、民間人も含め大きな打撃を蒙りました。京橋駅にも5つの爆弾が落ち、700~800名の死者が出たといわれます。
②天守閣の被弾
この時の空襲で、大阪城天守閣は奇跡的に壊滅せず残りました。
しかし、2発の1トン爆弾を近くに落とされ、石垣が相当ずれました。
また、雨あられのように放たれた焼夷弾により、天守閣の屋根もずいぶん傷みました。
天守閣は、石垣に重みをかけないという特殊な工法で建てられていたため、大きな打撃を受けずに済みました。
③砲兵工廠・櫓・門などの被弾
砲兵工廠破壊が主目的であったため、砲兵工廠の施設は壊滅状態になりました。
また、大阪城の貴重な建物も破壊されました。
破壊されたのは、徳川期に創建された二の丸二番櫓・三番櫓、伏見櫓、坤櫓、京橋門などです。
④進駐軍により占領された大阪城
昭和20年(1945)8月15日終戦となり、9月下旬和歌山に進駐軍が上陸します。進駐軍は大阪城の明け渡しを命じます。
展示資料や書物を天守閣に残したまま進駐軍が入場します。
以後3年間、大阪城は進駐軍に占領されました。
昭和23年(1948)の夏、アメリカ軍から大阪市へ返還されました。
返還された天守閣内はさんざんに荒らされていたようです。
返還される前年(昭和22年)には、米軍の失火により紀州御殿が焼失しています。
少し意味合いが違いますが、石山本願寺から数えて4度目の落城となります。
これまでの落城は、政治・政権が大きく変化しましたが、(この時の大阪城落城が直接関与していませんが)軍国主義が廃され、日本国憲法のもとに民主主義へ変化しています。
⑤応急復旧
返還後、応急に復旧作業がなされて、大阪市の管理のもとで、昭和24年7月より一般公開が再開されました。
現在の大阪城 ~大阪のシンボル「大阪城」~
①一般公開の再開
昭和24年(1949)7月より一般公開が再開され、現在に至ります。また近年、平成の大改修が行われ、より一層豪華で美しい城となりました。これからも大阪のシンボルとして、後世に歴史を語り続けてくれる事と思います。
慶応3年11月15日坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)
この日は坂本龍馬が刺客に襲われ落命した日。
河原町通りにあった坂本龍馬と中岡慎太郎が遭難した醤油商・近江屋だった。現在立っている石碑は近江屋跡の隣の家屋前に該当する。(水島善三郎邸跡)。
坂本龍馬は、寓居先を酢屋(のちに後述)から近江屋へ変更したのが、慶応3年10月13日。
折しも二条城に各藩の重臣を集め15代将軍 徳川慶から「大政奉還」受諾の諮問書が示された日である。翌日、朝廷へ「大政奉還」を上奏した。
龍馬は大政奉還が成ったことをここ近江屋で聞いた。
龍馬は、徳川慶喜の英断を大きく評価した。
大政奉還を朝廷が受理して以来、會津藩では大政奉還に尽力した薩摩藩や土佐藩に敵意を感じ不穏な動きを始める。岩倉具視はこの不穏な動きを察知し、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵らに一刻も早く京都から退去するよう警告の手紙を出している。
西郷らは岩倉の忠告に従い、小松、大久保と共に帰国をした。會津では標的に逃げられ、矛先が変更され、ガードの甘かった坂本龍馬に向けられることとなる。龍馬の友人である薩摩藩 吉井幸輔は身の危険を手紙で知らせているが、龍馬は寓居先を変えなかった。
慶応3年11月15日(西暦1867年12月10日火曜日)。近江屋の母屋で龍馬と中岡慎太郎が対談していた。腹が減ったのでたまたま近江屋に来ていた菊屋峯吉に軍鶏を買いに走らせた。峯吉が出てすぐに京都見廻組に数名が、「十津川郷士」と偽って名乗り、龍馬に面会を求めた。取り次いだ下僕 藤吉は2人がいる2階へ上がっていった。1階に見張りを残し実行犯たちはそのまま彼に気づかれず追いていった。藤吉は来客があり面会求めていることを龍馬に告げ、下に戻ろうしたところ、実行犯の侵入と遭遇し、藤吉は不意打ちにより斬られる。体が大きい藤吉が倒れたことにより大きな物音がした。
これに対して龍馬が「ほたえな!」と注意したといわれる。
声の出所が分かった実行犯は、部屋に入り「坂本さん、お久しぶりです」と言ったという。「はて、どなたでしたか?」と龍馬が聞き返したので、この者が龍馬と判断し、刀を抜き龍馬の前額を抜き打ちざまに真横に払った。実行犯の一人が「こなくそ!」と言って、中岡の後頭部を斬りつけた。
龍馬は初太刀を深く受けながらも床の間にあった刀を取ろうとし、身をひねったところに右肩先から袈裟懸けに斬られた。続けざまに降りかかる次の太刀を取った刀を鞘のまま受け止めた。実行犯の刀勢はあり余って龍馬の前額を薙ぎ払った。このため脳漿が噴出した。「石川(中岡の変名)、刀はないか」と叫びつつ倒れこんだ。
中岡も短刀で鞘のまま切り込んでくるのを必死に防ごうとしたが、初太刀が深手で、その後手や足をさらに薙ぎ払われた。
実行犯は最後の止めを刺さず退去した。
龍馬はその後蘇生したが、中岡に容態はどうか声をかけ、自分は「脳をやられたのでもういかん」と言い残し絶命した。享年33歳。
軍鶏を買いに行っていた峯吉が戻り、惨事に気づき、凶報を知らせるため各所へまわった。駆け付けた谷干城らに中岡は、襲撃の経緯を語った。
中岡も2日後に亡くなった。享年30歳
当初の犯行は新選組説が高かった。明治3年、元京都見廻組隊士今井信郎の自供により京都見廻組説となった。薩摩藩黒幕説をなぜかテレビ。映画で取り上げられるが、根拠のない説である。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 25
熊野かいどう碑 熊野街道の起点
中央区天満橋京町3
天満八軒家船着場を起点とする熊野街道についての碑があり、碑文には次の内容が記載されている。
熊野街道は、このあたりを起点にして熊野山に至る道である。京から淀川を船でくだりこの地で上陸、上町台地の西側 脊梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられ、平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」といわれる情景がつづいた。また、江戸時代には京・大坂間を結ぶ三十石船で八軒家の船宿があったことから「八軒家」の地名が生まれたという。平成二年
【熊野参詣】
平安時代中期ごろから、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集め、皇族・女院・貴族の参詣が相次ぐようになった。
室町時代以降、皇族・貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになった。
その様子を「蟻の行列」に例えて「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだった。江戸時代には伊勢詣と並び、庶民が数多く詣でた。明治以降は熊野への参拝が減少し、街道は鉄道の発達や近代的道路の整備などによりその道筋や機能を失っていった。熊野への信仰は現在も衰えていない。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 24
新選組定宿 船宿 京屋忠兵衛跡
中央区天満橋京町3-6(福助ビル~フロマージュ天満橋店)
「八軒家船着場」は、古くから「窪の津」「渡辺の津」といわれ、平安時代から四天王寺や熊野詣の人々の上陸地であった。
江戸期にはこの辺りに船宿が8軒あったことから八軒家と呼ばれた。京・大坂を淀川で結ぶ場として非常に賑わっていた。
新選組定宿「京屋忠兵衛」は、現在の土佐堀通南側フロマージュ満橋店から福助ビルに該当する。間口は「京橋弐街目」の水帳によると11間(11×1.8182=20.002m)ほどあった。
文久3年(1863)4月21日、将軍徳川家茂護衛のため新選組(当時は壬生浪士組)が下坂し京屋に宿泊した。
6月2日にも芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、平山五郎、野口健司、永倉新八、斎藤一、島田魁、井上源三郎が宿泊した。このとき大坂相撲力士との乱闘事件を起こす。9月にも宿泊。元治元年(1864)7月に
は禁門の変後の大坂で残党狩りのため23日より宿泊した。
慶応2年(1866)1月19日には龍馬の護衛をしていた三吉慎蔵が八軒家で検問している新選組を目撃している。
鳥羽伏見の戦後、慶応4年(1868)1月6日、京屋へ投宿し、翌日大坂城へ入城したが、火災のため再度京屋へ戻ってくる。「京橋弐街目」の水帳(江戸期の土地台帳)には、船宿 京屋忠兵衛並びに船宿 堺屋源兵衛が記載されており、京屋忠兵衛の次の代が、京屋小次郎。そして明治期になって転売された。水帳は道主が変わればその上に紙が貼り付けられる仕組みである。
京屋の表口が11間(約20m)。奥野氏が、近年、フロマージュ天満橋店の許可を得て「京屋忠兵衛跡」の銘板を実費で建てられた。
【楢崎龍ゆかりの地 天満八軒屋 船屋 京屋忠兵衛跡】
明治期に発刊されたお龍の回顧録では、大坂の女郎に売り飛ばされた妹の光枝の救出劇が語られている。
お龍の回顧録『続反魂香(四)』で次のような記録がある。
『お良は還って見ると、妹の光枝が居ませむから、如何したのかと母に聞くと、これこれと訳を話しましたので、そりゃ大変です。(途中省略)お良は、宜しいお母さん、御心配なさいますな、妾(わた)しが行って取り返して来ますからと、金子を調へて、先ずお吉(光枝をさらって売り飛ばそうとする狼婆)の家へゆき、此処で亭主と言ひ争った末に、愈大坂の居処が知れて、お良は大坂へ渡り、ドブ池といふ処に、お吉と他に男が三人無頼漢(ごろつき)風の奴が、光枝を取りかこむで何か言って居ります処へ、突然坐りこむで白眼(にら)み廻すと、流石の四人も不意にお良が来たので、唯、呆然と仕て居りました。軈(やが)て口を開き、おいお前さん方は、何たつて妹をこんな処へ連れてきたんです。母に聞けば大家へ小間使ひにやるとかいふそうですが、妾(わた)し眼の黒い内は、めつたに妹を他処へは遣りませむよ、さあ、妾(わた)しが妹を連れて帰りますから、其積りで居て下さいと、立上がって妹の手を執ると、一人の男が、矢庭にお良の腕を捉へて、やい阿魔(あま)、何でい、此女を如何するといふんでい、と眼を怒らせて今にも飛かゝらむ勢ひ。お良は平気で、何だとい、此女を如何する、フン自分の妹を自分が連れてゆくに何が如何したとお言ひだい、ふざけた事を言ひなさむな。(途中省略) 傍らにあった火鉢を執って投げつけますと、ぱつと上る灰神楽。即意即妙の目つぶしに、三人とも目をやられて、言ひ合したやうに台所へ馳せゆく隙を窺ひ、光枝の手を執って表へ出ますと、お吉婆が、背後から帯を捉えて引戻そうとするやつを、エイッと蹴飛ばして逃げ出し、八軒家の京屋といふ船宿に飛び込むで、三十石船に乗り京都へ帰って我が家へ着きました。帰ると妹の君江も連れて行かれたと聞き、母を叱咤し急いで連れ帰りました。』
軒
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 23
八軒家船着場 船宿堺屋源兵衛跡
中央区天満橋京町2-22-6付近
八軒家の船宿で東端にあったのが「堺屋源兵衛」。「堺屋源兵衛」は、京都伏見の船宿「寺田屋」(龍馬の定宿で伏見奉行に襲撃を受けた場所)と業務提携していたので、坂本龍馬が利用していた可能性が高いと思われる。
「京橋弐街目」の水帳を基に実測したところ、フロマージュ天満橋店(世界屋チーズ商会株式会社)の東端から東へ26間(約47m)の範囲が船宿堺屋源兵衛の間口となる。
水帳には「内幅弐間(2間=3.6304m)の大道有」と記載がある。敷地内に2間(3.6304m)の道(高倉筋に該当する)を挟んだ店構えと考えられる。
間口が47mあることから、間貸ししていた可能性もある。
下記の絵は八軒家船着場と高倉筋が描かれている貴重な絵であるが、船宿が1軒ではなく数件あったとことを示していると思われる。
安政3年(1856)、東から西へ堺屋、京屋、有田屋、天王寺屋、伏見屋、播磨屋、小川屋、長浜屋という順に船宿が並んでいた。
坂本龍馬が姉の乙女、おやべに宛てた慶応元年9月9日の手紙を紹介する。
『(前文省略)
伏見ニておやしきのそばニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。此両家なれバちょふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおりよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。』
西郷伊三郎は龍馬の変名。坂本龍馬は、ほかに才谷梅太郎、高坂龍次郎、大浜濤次郎、取巻の抜六、自然堂と変名を使用していた。
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三橋楼跡 中央区石町1-1-1
中央区石町1丁目「天満橋ニュースカイハイツ」がある場所は、江戸期から明治期にかけて「三橋楼」という料亭があった。
高台にあったため「天神橋」「天満橋」「難波橋」三つの橋を眺望することができたところから三橋楼と名づけられた。
元治元年(1864)11月16日、新選組隊長 近藤勇の名による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。
勤王派、佐幕派の武士をはじめ町人たちが利用したと思われる。
慶応4年(1868)4月、大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、大久保は小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所 篤を招き、三橋楼で祝宴をあげている。
最も有名なのは、明治7年(1874)~8年(1875)にかけ、大阪で繰り広げられた「大阪会議」の開催地のうちのひとつだったことである。
明治6年の政変後、大久保利通が政治の実権を握ったものの、不平士族の勢いが強まるばかりで、大久保が困り果てていた。そのような時期、井上馨、伊藤博文が、大久保利通に働きかけ、下野した木戸孝允の政界復帰の画策を行った。
木戸孝允、板垣退助、大久保利通が大阪で話し合いを行い、政界立て直しを目的で話し合いが数回行われた。
明治8年(1875)1月8日、木戸の宿泊先「加賀伊」に大久保が来訪。同伴にて「三橋楼」に場所を変え、10時間以上に及ぶ対談を行った。途中、黒田清隆が「三橋楼」に来訪。黒田は泥酔により両者の話をぶち壊してしまい、木戸は激怒し破談かと思われた。
しかし、軌道修正され「国会開設」に向けて話し合いが行われるようになった頃、同年1月26日、木戸孝允の呼びかけで、「三橋楼」において「囲碁会」が開催された。
参加者は井上 馨、中野梧一、鳥尾小彌太、伊藤博文、大久保利通、五代友厚、税所 篤、内海忠勝(大阪府参事)、渡邊昇、山尾庸三などが参加した。
その後、伊藤博文の宿泊先である「専崎楼」、木戸孝允の宿泊先である「加賀伊」で何度も話し合われた結果、同年2月11日「加賀伊」において三者(大久保、木戸、板垣)の和解が成立し、木戸孝允、板垣退助は条件付きで政界に復帰することとなった。
これを「大阪会議」という。
【陸軍参謀部を三橋楼に設置】
○明治10年3月、西南戦争における陸軍参謀部を「三橋楼」に設置。
3月は西郷軍と官軍と「田原坂の戦い」で激闘している。
「電報綴」「發翰(はっかん)日記」「電信其他原稿」などの史料が残っており、その史料には、参謀部が大阪三橋楼に設置されていたことが記載されている。
「電報綴」4月1日には、山県有朋が賊軍との戦について鳥尾小弥太に戦況報告を行っている。また、同日、西郷従道が案件に対し、至急、大久保利通に返答の手続きをとってほしい旨の電報を発信している。
【新聞記事に掲載された三橋楼について】
朝日新聞では、創刊号(明治12年1月25日)以降、三橋楼に関わる記事や広告の記載件数が65件にも及んでいる。
○明治12年1月25日創刊号
2月2日に大来吟会が開催されることが紹介されている。
○明治12年2月4日号
一昨日の2月2日石町三橋楼での大来吟会にて、大阪府知事渡邊昇が出席し、その場で詠んだ詩を紹介している。
○明治12年3月11日号
医事会同社の集会の様子と陸軍少将 三好重臣、中佐 高島鞆之助、少佐 白井胤良が臨席したことを紹介している。
○明治12年11月13日号
右大臣 岩倉具視が大坂に来ることになり、その際の旅宿は三橋楼に決まったことを紹介している。
○明治15年4月26日号
朝鮮の賓客 金玉均一行が来阪。
大阪造幣局、大阪城を見学し三橋楼に投宿したことを報じている。
<金玉均>
明治維新を模範とし清朝から独立・朝鮮近代化を目指した李氏朝鮮後期の政治家。
クーデター(甲申事変)を起こしたが、清朝の介入により、わずか3日間の政権で終了した。
○明治15年7月18日号
移転広告。(6月、大阪ハリストス正教会に5,800円で転売。)
三橋楼は本町橋西詰に移転。
天満橋ニュースカイハイツの管理組合元理事長であるH氏からご教示いただいた内容を紹介する。
現在、天満橋ニュースカイハイツの北側には石垣と石崖がある。
上半分は江戸期のものできれいに石が切られて詰まれている。下半分は野面積みで丸い石を重ねていったもの。その上半分の石垣の東側に空洞があり、現在はコンクリートで蓋をしている。この空洞は、防空壕に使われた形跡は無く、戦国期から残る抜け穴という説があるようである。
洞穴は東西と南北にあって、マンションを建てた際、工事を手がけた業者が手を抜いたのか、空洞に丸い筒のようなものをはめ込み、中には雑用品を詰め込んであった。抜け穴は何のために掘られたのかが不明である。
蓮如上人の隠居先として建てられた御坊が、やがて総本山石山本願寺(大坂本願寺)と移っていくわけだが、本願寺時代の遺構ではないか。本願寺の遺構は天満橋付近にあったのではないか。という考えがあったようである。
H氏は、「三橋楼」の経営者とそのご子孫を探したいという考えになり、随分と調査をされたようである。
「三橋楼」に関わる新聞記事や広告などが40数件あったなかで、三橋楼の経営者は、江戸期は「丸屋恒七」。
その後「鈴木」姓を名乗った。
「石町水帳(壱丁目)」にも記載があり、寸法を換算すると、ほぼ「天満橋ニュースカイハイツ」の土地にあてはまる。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 21-2
もう一人の勤王僧げっしょう(月照) 中央区平野町2丁目6
勤王僧 月照生誕の地(佛光寺大坂別院跡)
安政の大獄が始まり、月照も幕府より厳しい追及を受け、同じく追われていた薩摩藩 西郷吉之助と共に京を離れ鹿児島へ逃れる。薩摩藩は月照の入国を許さず追放処分。
「これまで」と感じた月照は覚悟を決め、日向へ向かう船の上で辞世の句を詠み西郷と共に海に身を投げます。(西郷は奇跡的に蘇生)
『曇りなき心の月と薩摩潟(さつまがた)沖の波間にやがて入りぬる』
『大君のためには何かをしからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも 』
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 21
勤王僧 月性(げっしょう)寓居跡 中央区島町2-2-19(長光寺)
長光寺の前に「維新史蹟 贈正四位 僧月性 龍護遺跡 長光寺」と記載の石碑が建っている。
月性は文化4年(1817)周防国玖珂郡遠崎にある浄土真宗西本願寺派の光福寺で、僧侶の子として生まれた。早くから京都で僧侶の勉強を始め、そのほか江戸・大坂・長崎など遊学した。25歳に西洋文明に目覚め、自分の活躍の場を京・大坂と決め、叔父にあたる長光寺の住職 龍護を頼って来坂した。
長光寺は八軒家船着場から近く、当時は四階建ての庫裡を有する大きな寺だった。
龍護の紹介と思われるが、来坂後すぐに梅花社を開塾していた篠崎小竹に入門します。
月性が長光寺に居たのはわずか3ヶ月間で、難波橋の南詰にある書店 河内屋吉兵衛方へ転居した。
その後月性は、攘夷論を唱え、海防論を編纂し長州藩福原越後に上申して評価されています。それが縁で、吉田松陰とも親交を重ねることとなった。
在坂中に著した「仏法護国論」が西本願寺第20代法主 広如上人に認められ、京都での逗留が許され、在京の梅田雲浜、梁川星巌らと尊王攘夷運動に奔走した。
安政の大獄以降、郷里の周防に潜伏するが過労のため病死した。月性の果たせなかったことを長州の桂 小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らに引き継がれていった。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 20
釣鐘屋敷跡 中央区釣鐘町2-2-11
寛永11年(1634)、第3代将軍 徳川家光が大坂城へ入城した時、大坂町中の地子銀(じしぎん ※固定資産税)の永久免除を約束した。
大坂の町民は、その恩恵に感謝して、釣鐘を造り町中に時報を知らせることにした。
この鐘楼を持つ屋敷は三郷惣年寄の会合などに利用され、また火の見櫓でもあった。
明治3年(1870)撤去されたが、釣鐘は大阪府庁屋上に「大坂町中時報鐘」として保存されていた。昭和60年(1985)、地元の有志の努力により、再び元の釣鐘屋敷があった場所に戻され、1日に3回(8時、12時、日の入り)、自動的に鐘が鳴り時を知らせてくれている。
「大坂町中時報鐘」は大阪府有形文化財に指定されている。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 19
日限(ひぎり)地蔵院 中央区平野町3丁目6-1
いい伝えによると平清盛、平重盛の守り本尊だったようである。
平家滅亡後、京都の知恩院に泰安されていた。
萬延元年(1860)、石田阿波守が蔵屋敷鎮護のために知恩院の出張所だったこの地に移した。
豪商鴻池屋が深く信仰し、同家の幼児が高熱で苦しんでいたのを三日間の日限を切って昼夜問わず祈願したところ、満願の日に平熱に戻った。
これが噂となり「日限地蔵」を名付けられた。
明治4年(1871)、知恩院の出張所は閉鎖され、地蔵も知恩院に戻ることになったところ、信者たちの懇願で長光寺に安置された。同12年新たに地蔵院としてこの場所に小堂を設けられた。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 18
米屋(殿村)平右衛門邸跡 中央区平野町3丁目6-1
江戸時代の大坂の代表的両替商で,屋号は米屋。
幼名平吉、長じて茂兵衛、諱 は茂述、一家を興して米屋平右衛門と称した。
摂津国島下郡(大阪府茨木市)殿村の生まれ。のち大坂に出て、内淡路町米屋弥次右衛門方に奉公、正徳5(1715)年36歳のとき独立して両替商を始めた。
初代米屋平右衛門の没後、享保8(1723)年2代目のとき、諸藩大坂蔵屋敷から江戸藩邸へ送る資金と、江戸商人が大坂商人に送る資金を為替により相殺する江戸為替の方法を案出したと伝えられる。
のち十人両替となり、龍野藩や宇和島藩の蔵屋敷蔵元あるいは掛屋を務め、大坂の大両替商のひとつとなった。
幕末まで8代続き、8代目平右衛門は有力富商として各種御用金を拠出したほか、兵庫商社や明治政府が設立を勧めた大坂通商・為替会社にも鴻池善右衛門家などと共に協力した。
第8代殿村平右衛門は(1833-1874 )幕末-明治時代の商人で慶応3年兵庫が開港した際、商社御用となる。
新政府による会計基立金の募集に対しても鴻池善右衛門らとともに協力した。
明治7年9月14日死去。43歳。名は茂晴。屋号は米屋。参考文献は宮本又次『大阪町人』
米屋平右衛門の別家である米喜(米屋喜兵衛)が米屋の副業で酒を造り始めたのが、享保2年(1717)のこと。
これが酒造製造業である「沢の鶴」の始まりとなる。
米喜の屋根には、※マークの入った城櫓があり、店舗からは※マーク入りの菰(こも)樽が数多く運び出された。
現在は沢の鶴ビル(中央区平野町2-1-2)となっている。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 17
伏見寺田屋ゆかりの船宿 河内屋与次兵衛跡
中央区瓦町1周辺
江戸期、大坂と京都を結ぶ大事な交通機関として淀川を上下する三十石船があった。
大坂と伏見の船宿間同士で提携が取られていた。
三十石船は、京都の伏見、大坂の天満八軒家、東横堀、淀屋橋、道頓堀を往来していました。
坂本龍馬が姉の乙女、おやべさんに宛てた慶応元年9月9日の手紙には、次のような記載がある。
前文省略 伏見ニておやしきのそばニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。
これハはたごやニて候。此両家なれバちょふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおりよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。
吉田酔痴氏著による「伏見史話」では、伏見「日野屋孫兵衛」の提携先は、大坂東横堀川思案橋西詰「河内屋与次兵衛」だったと記載されている。
坂本龍馬が、日野屋孫兵衛から出る三十石船で大坂の河内屋与次兵衛の船宿に到着し、或いは投宿した可能性がある。下記の地図を見ると「河内屋与次兵衛」から勝海舟の寓居先及び大坂海軍塾だった「専稱寺」に行くには、わずか400m程度で到着できる。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 15
大手湯跡 中央区大手通2-3-8
かつてビジネス街の中に営業していた銭湯。
2011年に廃業。
営業時間は16:30~22:30、入浴料は410円だった。
現在は、新たな建物の建設中である。
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 13
宇野浩二文学碑 中央区糸屋町2(中大江公園内)
作家 宇野浩二の作品で大阪を題材にしたロマンチックな散文詩風小説集「清二郎 夢見る子」の一節が記載された文学碑がある。
<文学碑>
私は私の過去の小さい生活を思ひ浮べる時その何処からが私の夢であるかを判ずる事が出来ない。さういふ私は、凡ての事実を夢と見る事が出来、凡ての夢を事実と見る事が出来る様に思はれる
宇野浩二 「清二郎 夢見る子」より
<宇野浩二>
明治24年(1891)7月26日~昭和36年(1961)9月21日
福岡県福岡市に生まれ、4歳のときに大阪に移住、現在の大阪市中央区糸屋町1丁目、次いで花柳界に近い同区宗右衛門町に住んだ。
大正2年(1913)4月に小説集『清二郎 夢見る子』を白羊社から出版。同8年(1919)に『蔵の中』を『文章世界』に発表、さらに同年、『苦の世界』を『解放』に発表し、新進作家として文壇で認められた。
代表作には「蔵の中」「山恋ひ」「子の来歴」「器用貧乏」「思ひ川」などがある。
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