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中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 17

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 17

伏見寺田屋ゆかりの船宿 河内屋与次兵衛跡

                           中央区瓦町1周辺

江戸期、大坂と京都を結ぶ大事な交通機関として淀川を上下する三十石船があった。
大坂と伏見の船宿間同士で提携が取られていた。

三十石船は、京都の伏見、大坂の天満八軒家、東横堀、淀屋橋、道頓堀を往来していました。
坂本龍馬が姉の乙女、おやべさんに宛てた慶応元年9月9日の手紙には、次のような記載がある。

前文省略 伏見ニておやしきのそばニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。
これハはたごやニて候。此両家なれバちょふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおりよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。

吉田酔痴氏著による「伏見史話」では、伏見「日野屋孫兵衛」の提携先は、大坂東横堀川思案橋西詰「河内屋与次兵衛」だったと記載されている。
坂本龍馬が、日野屋孫兵衛から出る三十石船で大坂の河内屋与次兵衛の船宿に到着し、或いは投宿した可能性がある。下記の地図を見ると「河内屋与次兵衛」から勝海舟の寓居先及び大坂海軍塾だった「専稱寺」に行くには、わずか400m程度で到着できる。

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