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外山脩造

外山脩造

越後長岡藩出身 外山脩造 所有の地   中央区北浜3丁目2-16

明治末期の「大阪地籍地図」によると盛岡藩蔵屋敷跡地は、実業界で活躍した外山脩造の主有する地だった。
外山脩造は越後小貫村に生まれ幼名を寅太。17歳のとき江戸へ出て、清河八郎の「経学文章指南所」に入塾した。
わずかの期間学んだ後、すぐに帰郷することとなった。
帰郷後、外山脩造の人生に大きく影響を与えた河井継之助に出会う。
外山脩造は河井継之助に師事し、勉学に励んだ。やがて戊辰戦争が始まり、長岡藩の軍事総督となった河井継之助に従い、行動を共にした。

新政府軍に敗戦し、河井継之助は受けた傷が元で戦死する。
臨終の際、河井継之助は外山修三を枕元へ呼び、次のような遺言を残したという。竹田十岐生著の「阪神の百年を創った男 外山脩造伝」(文芸社)から引用する。
「寅や、おみしゃんは商人になりやい、これからの世はおもしろくなるだで、もう士分は駄目だ。」
河井は外山脩造の能力を高く評価し、商人になることを薦めた。
明治に入り、河井継之助の遺志を継ぐため、継之助の推挙状を持って福沢諭吉の紙幣寮の翻訳家に勤務することとなった。
簿記学の翻訳に携わっている時に渋沢栄一の目にとまる。
明治12年(1879)1月、大阪にある第三十二国立銀行の総監役に就任し、悪化していた経営の建て直しを見事成功させ、一躍名を挙げることとなった。
明治15年(1882)、日本銀行大阪支店長に就任し3年間務め、明治20年(1887)、欧米の商工業を視察するため外遊に出かけた。
特に学んだことは、石油事業、電気鉄道事業、麦酒醸造事業だった。
帰国後は、大阪貯蓄銀行頭取、更には衆議院議員を務めながら本格的に起業家として力を発揮していった。
堺の醸造家であった鳥居駒吉と協力し、明治22年(1889)11月、発起人の一人として「大阪麦酒会社」の設立を実現させる。設立した場所は、当時の地番で「大阪府島下郡吹田村八百六番屋敷」。現在の大阪府吹田市西の庄町にあるアサヒビール株式会社吹田工場にあたる。
このアサヒビールは、現在誰もが知る大企業に成長している。
神戸大阪間の鉄道敷設計画のあった電気鉄道会社2社を、外山脩造の尽力により合併することになり、明治32(1899)年6月12日、新しい電気鉄道会社を設立させる。設立当初の社名は、「摂津電気鉄道株式会社」だったが、同年7月に社名変更し、現在の「阪神電気鉄道株式会社」となる。
外山脩造は、第1回目の取締役会において互選により、初代社長に就任。
6年後の明治38年(1905)4月12日、大阪の出入橋と神戸の加納町の間が開業し、出入橋駅から第1号車が発車させた。
念願の開業だったが、外山脩造は、前年より病に倒れていたため開業式には出席できず、堂島の自邸で打ち上げ花火の音を聞き、第1号車の発車を確認した。
同鉄道は関西五大私鉄のうちの1社として発展し、現在も走り続けている。
昭和10年(1935)には、プロ野球大阪タイガースが設立。
これが現在の阪神タイガース。関西だけでなく全国に及ぶ人気のある球団である。
「タイガース」は外山脩造の幼名「寅太」からつけられたと言われている。

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