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京都史跡探訪

京都史跡ガイド

坂本龍馬は、天保6年11月、土佐藩士 坂本八平の次男として高知城下に生まれる。
嘉永6年(1853)、江戸の北辰一刀流千葉定吉に入門。剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。
安政3年(1856)、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請し、1年間の修業が許される。
(さらに1年の修行延長が許される。)盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨(龍馬の従兄弟にあたる。後に日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる)を逃がす。
安政5年(1858)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。同年9月に土佐へ帰国した。
文久元年(1861)、土佐藩士 武市半平太(龍馬とは親戚にあたる)は、長州藩 久坂玄瑞、薩摩藩 樺山三円と朝廷を助け、幕府に対抗する盟約を交わした。武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成。
武市は土佐に戻り、勤王党の同志を募るが、地元で最初に加盟したのが坂本龍馬である(9番目の加盟者となる)。土佐勤王党に加盟したのは総勢192名となった。
文久元年(1861)、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出た。文久2年(1862)1月に長州萩を訪れて久坂玄瑞(吉田松陰の松下村塾の優等生)と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。「維新土佐勤王史」では久坂に会った後、大坂にある土佐藩住吉陣屋に赴任している同志と密かに会ったとされる。

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龍馬は、久坂との対談がその後の大きな影響力を与えることとなった。
土佐藩の藩論を尊皇攘夷にすることにこだわる武市の考えとは異にし、脱藩を考え、文久2年3月24日、龍馬は脱藩。
文久2年(1862)8月、江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。
12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝 海舟への紹介状を受けた龍馬は海舟の屋敷を訪問して門人となった。
海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することも許可を得た。

京都にある土佐藩邸にて謹慎の刑を受けた。

その土佐藩邸跡には土佐四天王像があったが、現在は撤去され嵐山に移転している。

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龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。

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元治元年(1864)2月、龍馬は「土佐に戻れ」という藩命を無視し、再度の脱藩をする。
同年、6月5日に池田屋事件が起きた。池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。望月亀弥太は神戸海軍塾の塾生であった。翌月には禁門の変(蛤御門の変)が起き、長州勢は敗北し賊軍となる。混乱の中、龍馬は楢崎将作の娘である龍と内祝言を挙げている。

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海舟の塾生が禁門の変に参陣していたことから、海舟は江戸蟄居を命じられ、龍馬ら海軍塾の塾生は薩摩藩に身を寄せることとなる。
塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は、家老 小松帯刀を主とする社中を結成。
長崎に本拠を置き、薩摩藩から一人当たり金3両2分が給与として龍馬らに支払われた。
拠点を亀山に置いたことから「亀山社中」と称されている。社中の設立は、商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、薩摩藩と長州藩の両藩和解の目的も含まれていた。
龍馬は大村藩士 渡邉 昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡邉は練兵館(斎藤弥九郎道場)で塾頭経験があり、桂小五郎と昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋し、長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
慶応元年(1865)5月、土佐の土方楠左衛門と龍馬が協同で桂を説諭し、下関で薩摩の西郷吉之助と会談することを承服させた。
また、同時に同じ考えを持っていた土佐の中岡慎太郎は、薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、中岡しか現れず、西郷は京都へ向かってしまった。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取引の実行と貨物の搬送は亀山社中が担当し、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功した。これは薩長和解の最初の契機となった。
また、近藤長次郎(上杉宗次郎と改名)の働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
薩長両藩は、慶応2年(1866)1月22日、薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、薩長同盟と呼ばれることになる盟約が締結された。
盟約成立直後、1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士 三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。この時、のちに「寺田屋遭難事件」称される事件が起こる。

伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めており、深夜、一階で入浴していたお龍が窓外の異常を察知し、袷(あわせ)一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。捕り手が屋内に押し入り、龍馬は拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。
寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告している。
同じ1月23日、長崎では同じ志を持って活動してきた近藤長次郎が自刃している。享年29歳。(これまで1月14日とされてきたが、史料などから23日だったことが判明)
西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、お龍を伴い2月29日に薩摩藩船 三邦丸に便乗。3月10日に薩摩に到着し、初日の宿は「茶会」というところだった。その日の深夜、また、龍馬を襲う者が現れる。
龍馬とお龍が睡眠中、お龍が不審な気配に察知。昼間、龍馬と口論した大藤太郎が刀を抜いて、襲うタイミングを計っていた。お龍は龍馬を揺り起こして危急を告げた。龍馬も迎え撃つ姿勢で待機していると大藤も察知し引き上げた。このことを西郷に告げると宿泊先の変更と警護を付ける便宜を図った。その後、日当山温泉、塩浸温泉、霧島温泉などを巡り83日間逗留した。

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薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が五島列島付近で遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。
6月16日、「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより幕府と長州との戦に参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。しかし、ユニオン号を長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまう。
一方、土佐藩では、航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬ら亀山社中に注目した。土佐藩は溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取った。
慶応3年(1867)1月13日に龍馬と参政 後藤象二郎が会談(清風亭会談)した。結果、土佐藩は龍馬と中岡慎太郎の脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「土佐海援隊」と改称した。一方、中岡慎太郎は「土佐陸援隊」組織することになる。
土佐海援隊の主要目的は、土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士 (千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎) および他藩出身者 (陸奥陽之助 (紀州藩) ・白峰駿馬 (長岡藩)) など16~28人、水夫を加えて約50人から成っていた。一人あたりの給与も5両となった。
薩摩藩 五代才助(のちの五代友厚)の尽力により、伊予大洲藩は蒸気船「いろは丸」を購入。

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さらに、この船を土佐海援隊が借りて運航する賃貸借契約を結んだ。さっそく「いろは丸」で武器や食料などを積み込み長崎から大坂へ出航。
4月23日晩、「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突。
「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没する。
龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求し談判となる。談判の舞台となった長崎で、紀州藩を批判する流行歌まで流行らせた。後藤ら土佐藩も支援した結果、五代才助の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。
今後の具体策として龍馬は、「建議案十一箇条」を後藤に提案。
後藤は直ちに長崎から京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、「建議案十一箇条」に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、その場で切腹する覚悟で臨むよう。下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討つ。」という手紙を送り、決死の覚悟を促した。
一方、徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
京都守護職の任に当たっていた會津藩は大政奉還に不満を持った。
大政奉還の功労者である薩摩藩、小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵は、會津藩から標的にされたため即座に京都を去った。
龍馬は、徳川政権崩壊後の新政府への意見書「新政府綱領八策」をまとめた。しかし、この「新政府綱領八策」は、後藤象二郎を通じて山内容堂から建白させるためのメモ書きであった。(以下の「政府綱領八策」は、第五義以降の文面である。)

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○○○は山内容堂に提言するため、慶喜公とはっきり書けず、遠慮したとみるのが良いと思われる。

坂本龍馬は酢屋(中川嘉兵衛)を寓居先とした。酢屋は材木業、運送業を営む店だった。

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ここを京都の土佐海援隊京都の詰所とした。長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬らが宿泊した。この酢屋から土佐海援隊が手掛けた「カステラ製造」に係るレシピが、屋根裏から見つかっている。酢屋には、二階から坂本龍馬がピストルを放ったことなどの言い伝えが残っている。
土佐海援隊は本部を長崎(小曽根邸)に置き、京都(酢屋)、下関(伊藤助太夫邸)、大坂(薩万)に詰所を置いた。

坂本龍馬は、寓居先を酢屋(のちに後述)から近江屋へ変更したのが、慶応3年10月13日。

河原町通りにあった坂本龍馬と中岡慎太郎が遭難した醤油商・近江屋跡(本当は水島善三郎邸跡)。

折しも二条城に各藩の重臣を集め15代将軍 徳川慶から「大政奉還」受諾の諮問書が示された日である。翌日、朝廷へ「大政奉還」を上奏した。
龍馬は大政奉還が成ったことをここ近江屋で聞いた。
龍馬は、徳川慶喜の英断を大きく評価した。
大政奉還を朝廷が受理して以来、會津藩では大政奉還に尽力した薩摩藩や土佐藩に敵意を感じ不穏な動きを始める。岩倉具視はこの不穏な動きを察知し、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵らに一刻も早く京都から退去するよう警告の手紙を出している。
西郷らは岩倉の忠告に従い、小松、大久保と共に帰国をした。會津では標的に逃げられたので、矛先が坂本龍馬に向けられることとなる。
慶応3年11月15日(西暦1867年12月10日火曜日)。近江屋の母屋で龍馬と中岡慎太郎が対談していた。腹が減ったのでたまたま近江屋に来ていた菊屋峯吉に軍鶏を買いに走らせた。峯吉が出てすぐに京都見廻組に数名が、「十津川郷士」と偽って名乗り、龍馬に面会を求めた。取り次いだ下僕 藤吉は2人がいる2階へ上がっていった。1階に見張りを残し実行犯たちはそのまま彼に気づかれず追いていった。藤吉は来客があり面会求めていることを龍馬に告げ、下に戻ろうしたところ、実行犯の侵入と遭遇し、藤吉は不意打ちにより斬られる。体が大きい藤吉が倒れたことにより大きな物音がした。
これに対して龍馬が「ほたえな!」と注意したといわれる。
声の出所が分かった実行犯は、部屋に入り「坂本さん、お久しぶりです」と言ったという。「はて、どなたでしたか?」と龍馬が聞き返したので、この者が龍馬と判断し、刀を抜き龍馬の前額を抜き打ちざまに真横に払った。実行犯の一人が「こなくそ!」と言って、中岡の後頭部を斬りつけた。
龍馬は初太刀を深く受けながらも床の間にあった刀を取ろうとし、身をひねったところに右肩先から袈裟懸けに斬られた。続けざまに降りかかる次の太刀を取った刀を鞘のまま受け止めた。実行犯の刀勢はあり余って龍馬の前額を薙ぎ払った。このため脳漿が噴出した。「石川(中岡の変名)、刀はないか」と叫びつつ倒れこんだ。
中岡も短刀で鞘のまま切り込んでくるのを必死に防ごうとしたが、初太刀が深手で、その後手や足をさらに薙ぎ払われた。
実行犯は最後の止めを刺さず退去した。
龍馬はその後蘇生したが、中岡に容態はどうか声をかけ、自分は「脳をやられたのでもういかん」と言い残し絶命した。享年33歳。
軍鶏を買いに行っていた峯吉が戻り、惨事に気づき、凶報を知らせるため各所へまわった。駆け付けた谷干城らに中岡は、襲撃の経緯を語った。
中岡も2日後に亡くなった。享年30歳
当初の犯行は新選組説が高かった。明治3年、元京都見廻組隊士今井信郎の自供により京都見廻組説となった。薩摩藩黒幕説をなぜかテレビ。映画で取り上げられるが、根拠のない説である。
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当初は、現場の遺物から新選組の関与が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、同年12月6日、陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いを起こしている。「天満屋事件」。
土佐海援隊が新選組を襲撃した事件である。
土佐藩の功労者2名を失った打撃は大きかった。龍馬と中岡は、霊山にある霊明神社に埋葬された。神道による葬儀であった。

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坂本龍馬は酢屋(中川嘉兵衛)を寓居先とした。酢屋は材木業、運送業を営む店だった。
ここを京都の土佐海援隊京都の詰所とした。長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬らが宿泊した。この酢屋から土佐海援隊が手掛けた「カステラ製造」に係るレシピが、屋根裏から見つかっている。酢屋には、二階から坂本龍馬がピストルを放ったことなどの言い伝えが残っている。
土佐海援隊は本部を長崎(小曽根邸)に置き、京都(酢屋)、下関(伊藤助太夫邸)、大坂(薩万)に詰所を置いた。

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