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2013年10月

中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 12

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 12

中大江小学校                  中央区糸屋町2-3-14

明治6年(1873)から明治7年にかけて開校した東大組第六番小学校~東大組第九番小学校の4校が明治18年に合併し中大江小学校が誕生した。
現在小学校の玄関にかつて木造校舎にレリーフ(飾りタイル)がある。
昭和2年(1927)、旧木造校舎は、玄関周りの建物の一部が、当時の日根野村(現:泉佐野市日根野)の村役場に移築された。しかし、老朽化に伴い解体となりレリーフや使用されていた木材の一部が中大江小学校で保存されている。

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玄関の壁にあるレリーフ

古写真

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中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 11

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 11

牢屋跡                        中央区糸屋町2-3

「浪花の繁栄-大坂三郷の商工-」(文化3年と宝暦13年を参考に作られた地図)の古地図によると西町奉行所の北東部に牢屋があったことがわかる。

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中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 10

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 10

大阪府庁跡   

        中央区本町橋2-5(マイドーム大阪)
明治新政府になると、慶応4年(1868)2月、西町奉行所の跡地に大阪府庁が設置された。その後府庁は、明治7年(1874)江之子島庁舎に移転した。
初代大阪府知事は、醍醐大納言忠順が就任したが、僅か22日で退任。
醍醐忠順の退任後、参与として薩摩藩家老 小松帯刀、土佐藩参政 後藤象二郎が府事管理(副知事)に就任。この時、五代友厚が大阪府権判事に、陸奥陽之助が会計官権判事大阪府在勤に任命されている。
同年7月12日、第2代知事として後藤象二郎が就任。翌年の明治2年2月4日に退任。同日後任に由利公正(福井藩)が「知事御用取扱」という役職名で後藤の後を引き継いだ。
いずれも坂本龍馬ゆかりの人物が、大阪府の政治に関わった。
第3代大阪府知事の西四辻公業が、明治4年11月20日退任。
22日より渡邊 昇が権知事に就任。明治10年1月12日からは正式に知事に就任し明治13年5月4日まで務めた。渡邊は大村藩出身で江戸の斎藤弥九郎によって開かれた神道無念流「練兵館」の塾頭の経験者である。明治8年、新島襄が大阪に学校を設立したいと考え大阪府に申し出るが、当時の権知事だった渡邊に許可がもらえず、京都に開設することとなった。開設した学校が現在の同志社大学である。

歴代の知事

初代:醍醐忠順→府事管理:小松帯刀・後藤象二郎→2代:後藤象二郎→知事御用取扱:三岡八郎(由利公正)→3代:西四辻公業→権知事:渡邊昇→4代:渡邊昇→5代:建野郷三→6代:西村捨三→7代:山田信道→8代:内海忠勝→9代:時任為基→10代:沖守固→代理(書記官):吉原三郎→11代:菊池侃二→12代:高崎親章→13代:犬塚勝太郎→14代:大久保利武)→
15代:林市蔵→16代:池松時和→17代:井上孝哉→18代:土岐嘉平→19代:中川望→20代:田邊治通→21代:力石雄一郎→22代:柴田善三郎→23代:齋藤宗宜→24代:縣 忍→25代:安井英二→26代:池田清→27代:半井清→28代:三邊長治→29代:河原田 稼吉→30代:池田清(再任)→31代:安井英二(再任)→32代:新居善太郎→33代:松井春生→34代:田中廣太郎→代理:大塚兼紀→35代:高辻武邦
※以降公選知事36代:赤間文三→37代:左藤義詮→38代:黒田了一 →39代:岸 昌→40代:中川和雄→41代:横山ノック(山田勇)→代理:木村良樹→42代:太田房江→43代:橋下徹→代理:小河保之→44代:松井一郎

大大阪府庁跡            中央区本町橋2-5(マイドーム大阪)
明治新政府になると、慶応4年(1868)2月、西町奉行所の跡地に大阪府庁が設置された。その後府庁は、明治7年(1874)江之子島庁舎に移転した。
初代大阪府知事は、醍醐大納言忠順が就任したが、僅か22日で退任。
醍醐忠順の退任後、参与として薩摩藩家老 小松帯刀、土佐藩参政 後藤象二郎が府事管理(副知事)に就任。この時、五代友厚が大阪府権判事に、陸奥陽之助が会計官権判事大阪府在勤に任命されている。
同年7月12日、第2代知事として後藤象二郎が就任。翌年の明治2年2月4日に退任。同日後任に由利公正(福井藩)が「知事御用取扱」という役職名で後藤の後を引き継いだ。
いずれも坂本龍馬ゆかりの人物が、大阪府の政治に関わった。
第3代大阪府知事の西四辻公業が、明治4年11月20日退任。
22日より渡邊 昇が権知事に就任。明治10年1月12日からは正式に知事に就任し明治13年5月4日まで務めた。渡邊は大村藩出身で江戸の斎藤弥九郎によって開かれた神道無念流「練兵館」の塾頭の経験者である。明治8年、新島襄が大阪に学校を設立したいと考え大阪府に申し出るが、当時の権知事だった渡邊に許可がもらえず、京都に開設することとなった。開設した学校が現在の同志社大学である。
坂には

京都史跡探訪

京都史跡ガイド

坂本龍馬は、天保6年11月、土佐藩士 坂本八平の次男として高知城下に生まれる。
嘉永6年(1853)、江戸の北辰一刀流千葉定吉に入門。剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。
安政3年(1856)、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請し、1年間の修業が許される。
(さらに1年の修行延長が許される。)盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨(龍馬の従兄弟にあたる。後に日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる)を逃がす。
安政5年(1858)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。同年9月に土佐へ帰国した。
文久元年(1861)、土佐藩士 武市半平太(龍馬とは親戚にあたる)は、長州藩 久坂玄瑞、薩摩藩 樺山三円と朝廷を助け、幕府に対抗する盟約を交わした。武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成。
武市は土佐に戻り、勤王党の同志を募るが、地元で最初に加盟したのが坂本龍馬である(9番目の加盟者となる)。土佐勤王党に加盟したのは総勢192名となった。
文久元年(1861)、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出た。文久2年(1862)1月に長州萩を訪れて久坂玄瑞(吉田松陰の松下村塾の優等生)と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。「維新土佐勤王史」では久坂に会った後、大坂にある土佐藩住吉陣屋に赴任している同志と密かに会ったとされる。

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龍馬は、久坂との対談がその後の大きな影響力を与えることとなった。
土佐藩の藩論を尊皇攘夷にすることにこだわる武市の考えとは異にし、脱藩を考え、文久2年3月24日、龍馬は脱藩。
文久2年(1862)8月、江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。
12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝 海舟への紹介状を受けた龍馬は海舟の屋敷を訪問して門人となった。
海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することも許可を得た。

京都にある土佐藩邸にて謹慎の刑を受けた。

その土佐藩邸跡には土佐四天王像があったが、現在は撤去され嵐山に移転している。

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龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。

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元治元年(1864)2月、龍馬は「土佐に戻れ」という藩命を無視し、再度の脱藩をする。
同年、6月5日に池田屋事件が起きた。池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。望月亀弥太は神戸海軍塾の塾生であった。翌月には禁門の変(蛤御門の変)が起き、長州勢は敗北し賊軍となる。混乱の中、龍馬は楢崎将作の娘である龍と内祝言を挙げている。

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海舟の塾生が禁門の変に参陣していたことから、海舟は江戸蟄居を命じられ、龍馬ら海軍塾の塾生は薩摩藩に身を寄せることとなる。
塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は、家老 小松帯刀を主とする社中を結成。
長崎に本拠を置き、薩摩藩から一人当たり金3両2分が給与として龍馬らに支払われた。
拠点を亀山に置いたことから「亀山社中」と称されている。社中の設立は、商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、薩摩藩と長州藩の両藩和解の目的も含まれていた。
龍馬は大村藩士 渡邉 昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡邉は練兵館(斎藤弥九郎道場)で塾頭経験があり、桂小五郎と昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋し、長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
慶応元年(1865)5月、土佐の土方楠左衛門と龍馬が協同で桂を説諭し、下関で薩摩の西郷吉之助と会談することを承服させた。
また、同時に同じ考えを持っていた土佐の中岡慎太郎は、薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、中岡しか現れず、西郷は京都へ向かってしまった。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取引の実行と貨物の搬送は亀山社中が担当し、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功した。これは薩長和解の最初の契機となった。
また、近藤長次郎(上杉宗次郎と改名)の働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
薩長両藩は、慶応2年(1866)1月22日、薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、薩長同盟と呼ばれることになる盟約が締結された。
盟約成立直後、1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士 三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。この時、のちに「寺田屋遭難事件」称される事件が起こる。

伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めており、深夜、一階で入浴していたお龍が窓外の異常を察知し、袷(あわせ)一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。捕り手が屋内に押し入り、龍馬は拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。
寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告している。
同じ1月23日、長崎では同じ志を持って活動してきた近藤長次郎が自刃している。享年29歳。(これまで1月14日とされてきたが、史料などから23日だったことが判明)
西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、お龍を伴い2月29日に薩摩藩船 三邦丸に便乗。3月10日に薩摩に到着し、初日の宿は「茶会」というところだった。その日の深夜、また、龍馬を襲う者が現れる。
龍馬とお龍が睡眠中、お龍が不審な気配に察知。昼間、龍馬と口論した大藤太郎が刀を抜いて、襲うタイミングを計っていた。お龍は龍馬を揺り起こして危急を告げた。龍馬も迎え撃つ姿勢で待機していると大藤も察知し引き上げた。このことを西郷に告げると宿泊先の変更と警護を付ける便宜を図った。その後、日当山温泉、塩浸温泉、霧島温泉などを巡り83日間逗留した。

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薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が五島列島付近で遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。
6月16日、「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより幕府と長州との戦に参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。しかし、ユニオン号を長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまう。
一方、土佐藩では、航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬ら亀山社中に注目した。土佐藩は溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取った。
慶応3年(1867)1月13日に龍馬と参政 後藤象二郎が会談(清風亭会談)した。結果、土佐藩は龍馬と中岡慎太郎の脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「土佐海援隊」と改称した。一方、中岡慎太郎は「土佐陸援隊」組織することになる。
土佐海援隊の主要目的は、土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士 (千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎) および他藩出身者 (陸奥陽之助 (紀州藩) ・白峰駿馬 (長岡藩)) など16~28人、水夫を加えて約50人から成っていた。一人あたりの給与も5両となった。
薩摩藩 五代才助(のちの五代友厚)の尽力により、伊予大洲藩は蒸気船「いろは丸」を購入。

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さらに、この船を土佐海援隊が借りて運航する賃貸借契約を結んだ。さっそく「いろは丸」で武器や食料などを積み込み長崎から大坂へ出航。
4月23日晩、「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突。
「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没する。
龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求し談判となる。談判の舞台となった長崎で、紀州藩を批判する流行歌まで流行らせた。後藤ら土佐藩も支援した結果、五代才助の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。
今後の具体策として龍馬は、「建議案十一箇条」を後藤に提案。
後藤は直ちに長崎から京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、「建議案十一箇条」に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、その場で切腹する覚悟で臨むよう。下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討つ。」という手紙を送り、決死の覚悟を促した。
一方、徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
京都守護職の任に当たっていた會津藩は大政奉還に不満を持った。
大政奉還の功労者である薩摩藩、小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵は、會津藩から標的にされたため即座に京都を去った。
龍馬は、徳川政権崩壊後の新政府への意見書「新政府綱領八策」をまとめた。しかし、この「新政府綱領八策」は、後藤象二郎を通じて山内容堂から建白させるためのメモ書きであった。(以下の「政府綱領八策」は、第五義以降の文面である。)

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○○○は山内容堂に提言するため、慶喜公とはっきり書けず、遠慮したとみるのが良いと思われる。

坂本龍馬は酢屋(中川嘉兵衛)を寓居先とした。酢屋は材木業、運送業を営む店だった。

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ここを京都の土佐海援隊京都の詰所とした。長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬らが宿泊した。この酢屋から土佐海援隊が手掛けた「カステラ製造」に係るレシピが、屋根裏から見つかっている。酢屋には、二階から坂本龍馬がピストルを放ったことなどの言い伝えが残っている。
土佐海援隊は本部を長崎(小曽根邸)に置き、京都(酢屋)、下関(伊藤助太夫邸)、大坂(薩万)に詰所を置いた。

坂本龍馬は、寓居先を酢屋(のちに後述)から近江屋へ変更したのが、慶応3年10月13日。

河原町通りにあった坂本龍馬と中岡慎太郎が遭難した醤油商・近江屋跡(本当は水島善三郎邸跡)。

折しも二条城に各藩の重臣を集め15代将軍 徳川慶から「大政奉還」受諾の諮問書が示された日である。翌日、朝廷へ「大政奉還」を上奏した。
龍馬は大政奉還が成ったことをここ近江屋で聞いた。
龍馬は、徳川慶喜の英断を大きく評価した。
大政奉還を朝廷が受理して以来、會津藩では大政奉還に尽力した薩摩藩や土佐藩に敵意を感じ不穏な動きを始める。岩倉具視はこの不穏な動きを察知し、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵らに一刻も早く京都から退去するよう警告の手紙を出している。
西郷らは岩倉の忠告に従い、小松、大久保と共に帰国をした。會津では標的に逃げられたので、矛先が坂本龍馬に向けられることとなる。
慶応3年11月15日(西暦1867年12月10日火曜日)。近江屋の母屋で龍馬と中岡慎太郎が対談していた。腹が減ったのでたまたま近江屋に来ていた菊屋峯吉に軍鶏を買いに走らせた。峯吉が出てすぐに京都見廻組に数名が、「十津川郷士」と偽って名乗り、龍馬に面会を求めた。取り次いだ下僕 藤吉は2人がいる2階へ上がっていった。1階に見張りを残し実行犯たちはそのまま彼に気づかれず追いていった。藤吉は来客があり面会求めていることを龍馬に告げ、下に戻ろうしたところ、実行犯の侵入と遭遇し、藤吉は不意打ちにより斬られる。体が大きい藤吉が倒れたことにより大きな物音がした。
これに対して龍馬が「ほたえな!」と注意したといわれる。
声の出所が分かった実行犯は、部屋に入り「坂本さん、お久しぶりです」と言ったという。「はて、どなたでしたか?」と龍馬が聞き返したので、この者が龍馬と判断し、刀を抜き龍馬の前額を抜き打ちざまに真横に払った。実行犯の一人が「こなくそ!」と言って、中岡の後頭部を斬りつけた。
龍馬は初太刀を深く受けながらも床の間にあった刀を取ろうとし、身をひねったところに右肩先から袈裟懸けに斬られた。続けざまに降りかかる次の太刀を取った刀を鞘のまま受け止めた。実行犯の刀勢はあり余って龍馬の前額を薙ぎ払った。このため脳漿が噴出した。「石川(中岡の変名)、刀はないか」と叫びつつ倒れこんだ。
中岡も短刀で鞘のまま切り込んでくるのを必死に防ごうとしたが、初太刀が深手で、その後手や足をさらに薙ぎ払われた。
実行犯は最後の止めを刺さず退去した。
龍馬はその後蘇生したが、中岡に容態はどうか声をかけ、自分は「脳をやられたのでもういかん」と言い残し絶命した。享年33歳。
軍鶏を買いに行っていた峯吉が戻り、惨事に気づき、凶報を知らせるため各所へまわった。駆け付けた谷干城らに中岡は、襲撃の経緯を語った。
中岡も2日後に亡くなった。享年30歳
当初の犯行は新選組説が高かった。明治3年、元京都見廻組隊士今井信郎の自供により京都見廻組説となった。薩摩藩黒幕説をなぜかテレビ。映画で取り上げられるが、根拠のない説である。
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当初は、現場の遺物から新選組の関与が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、同年12月6日、陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いを起こしている。「天満屋事件」。
土佐海援隊が新選組を襲撃した事件である。
土佐藩の功労者2名を失った打撃は大きかった。龍馬と中岡は、霊山にある霊明神社に埋葬された。神道による葬儀であった。

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坂本龍馬は酢屋(中川嘉兵衛)を寓居先とした。酢屋は材木業、運送業を営む店だった。
ここを京都の土佐海援隊京都の詰所とした。長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬らが宿泊した。この酢屋から土佐海援隊が手掛けた「カステラ製造」に係るレシピが、屋根裏から見つかっている。酢屋には、二階から坂本龍馬がピストルを放ったことなどの言い伝えが残っている。
土佐海援隊は本部を長崎(小曽根邸)に置き、京都(酢屋)、下関(伊藤助太夫邸)、大坂(薩万)に詰所を置いた。

中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 9

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 9

大坂西町奉行所跡        中央区本町橋2-5(マイドーム大阪)

大坂には東町奉行所と西町奉行所があった。

江戸の北町奉行所、南町奉行所と同様に1ヶ月交代で町の取締りを行っていた。江戸初期は、西町奉行所と東町奉行所は東西に並んで建っていた。
享保9年(1724)の大火で焼失した。その後、東町奉行所はもともとあった地に、西町奉行所は元のから南西部のこの地に置かれた。

文久3年(1863)7月上旬、勝 海舟が大坂の専稱寺に開塾していた「勝塾(大坂海軍塾)」に入門した坂本龍馬と海軍塾の塾頭 佐藤与之助や門下生などが、勝 海舟と親交があり、大坂西町奉行に赴任していた松平大隈守勘太郎(信敏)を数回訪ねている。
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京都史跡ガイド 初体験

京都史跡ガイド

2013年10月27日。私のとって記念すべき日となりました。

これまで、大阪史跡探訪、神戸史跡探訪のガイドを担当したことがありますが、ご縁があり、初めて「京都史跡探訪」のガイドを体験させていただきました。

10:00~13:00の3時間。四条河原町をスタートして池田屋騒動之址地までご案内いたしました。

最初の案内地からマニアックな史跡をご案内。

土方楠佐衛門寓居跡。鳥新跡。中村半次郎寓居跡。

半次郎と村田さととの経緯を説明。

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いずれも石碑がないのが残念ですね。

そのような中で、一番時間を割いたのは坂本龍馬について。

今回の史跡探訪のレジュメは、知野文哉さんのレジュメページ数には届きませんでしたが、30ページとなりました。

そのうち坂本龍馬の案内は6ページ。

その内容を紹介したいと思います。

明日のこの時間にアップいたします。

中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 8

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 8

英照皇太后・昭憲皇太后 行啓之所                 

   中央区本町橋2-5(マイドーム大阪)

明治23年(1890)4月、美子皇后陛下(のちの昭憲皇太后)が、明治24年11月に英照皇太后がこの地にあった大阪博物場を行啓された。
(英照皇太后は孝明天皇のお妃、昭憲皇太后は明治天皇のお妃。)
昭憲皇太后行啓の際、木造瓦葺2階建ての聖堂である綿繍堂が新築され、当時の大阪府知事 西村捨三は「神聖である由緒ある建物は、永久に保存すべきである」と「綿繍堂記」に記している。昭憲皇太后は、明治期に女子教育、慈善事業に関心を持たれ、東京女学校への行啓をはじめ、東京慈恵医院や日本赤十字社の発展に貢献された。

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<昭憲皇太后と坂本龍馬>
 昭憲皇太后(当時は皇后陛下)は、坂本龍馬とゆかりがある。
もちろん、二人は会ったことはない。
坂本龍馬が刺客の刃によって倒れてから、38年後の明治37年(1904)、日露戦争が勃発しかけた頃、昭憲皇太后の「霊夢事件」がおこった。
枕元に坂本龍馬が現れ「この度の海戦は、必ず皇国の勝利です。」と言って消えていった。真実味に欠ける話だが、藩閥政治に対して、当時の第三勢力だった土佐藩出身者たちの巻き返しであった策という説が高い。
京都東山霊山にある坂本龍馬の墓の傍らに、「贈正四位 坂本龍馬君忠魂碑」という碑がある。この碑は、明治37年11月、伏見の船宿寺田屋伊助が「霊夢事件」の内容を記し建立した。

下記の写真は、「明治37年紱(ふつ)乙夜(おつよ)之覧 坂本龍馬(ま)傳(でん)艸稿(そうこう)」という史料。
「乙夜之覧」とは、天使がご覧になるという意味であり、皇后に坂本龍馬の写真と伝記が献上された時の献上本である。

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<昭憲皇太后陵>
明治天皇陵の東に昭憲皇太后陵が京都市伏見区にある。
豊臣秀吉が築いた伏見城の本丸跡に現在明治天皇陵が設けられた。明治天皇陵へ参拝するには大きな難関がある。230段もある長い石段がある。230段という石段の数の230段には意味がある。23ずつの石段が10に区切られ、それぞれの境は平らになっている。
23段の石段は明治23年を意味し、区切られた10は10月を示す。
さらに、最後の23段と御陵の前にある7段の石段を加えた30段は、30日を示す。これは明治23年10月30日発布の「教育勅語」を意味している。
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明治天皇行幸の地 2

明治天皇行幸の地 2

難盛泉寺(東御坊) 内侍所奉安所跡     守口市浜町1-2-6

盛泉寺は、東本願寺の末寺で、慶長11年(1606)に教如上人が開基したと伝えられます。
たび重なる風水害がありましたが、現在の本堂は、天保6年(1835)に再建されたものです。
ここからすぐ西にある難宗寺(西御坊)に対して、東御坊と呼ばれるようになりました。
大塩平八郎が、内山彦次郎に宛てた長文の書状が、この寺に保存されています。
内山彦次郎は、大坂西町奉行所与力で大塩平八郎や新選組に関連のあつた人物です。
明治天皇大阪行幸(慶応4年3月)の折、この盛泉寺には、三種の
神器を祀る内侍所とされ、本堂前に神殿が建てられました。
この時三種の神器を入れるため、正門の横に重ねて新たに作られた表門は、「塀重門」と呼ばれています。

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明治天皇行幸の地 1

明治天皇行幸の地 1

難宗寺(西御坊) 明治天皇守口行在所  守口市竜田通1-5-2

難宗寺は、蓮如上人が、文明9年(1477)に創立した守ロ御坊が始まりと伝えられ、慶長16年(1611)に本願寺掛所となり、ここからすぐ東にある盛泉寺(東御坊)に対して、西御坊と呼ばれるようになりました。
場所は、前記の「大塩ゆかりの書院Jからすぐ近くにあります。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利し、幕府軍を追い詰め、勝海舟と西郷隆盛の歴史的会見が行われた頃、明治天皇の大阪行幸がありました。
その際、明治天皇は3月22日、守口で宿泊することになり宿泊先となつたのが難宗寺です。
難宗寺境内には、次頁のように「明治大帝聖跡」という大きな碑があり、「正三位大勲位侯爵松方正義謹書」という文字も確認できます。
また、門の前には案内板や「明治天皇守口行在所」という碑も建つています。
幕末の頃は京大坂間を幕府の閣僚も行き来していましたので、何人かは訪れたと考えられます。
難宗寺には樹齢400年と想定されるイチョウの大木があり、昭和50年、大阪府の指定天然記念物となつています。
今年は、江戸幕府開府400年にあたりますが、なお、生き続けていることを思うと感慨深くなります。

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中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 7

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 7

稲畑勝太郎像          中央区本町橋2-8(大阪商工会議所)

稲畑勝太郎は、正六位勲三等、第10代大阪商工会議所会頭を務めた。
文久2年(1862)10月30日、京都で生まれた。明治10年(1877)、フランスへ留学。
明治18年に帰国し、翌年には京都府染色講習所の教授になった。明治21年、京都織物株式会社の技師に就任。カーキ色の軍隊服は、稲畑勝太郎の力により完成したものである。
そのほか、民衆娯楽として歓迎されつつあった活動写真をわが国で初めて輸入し、公開させた功績がある。
7代大阪商工会議所会頭を務めたのが土居通夫である。
彼は宇和島藩出身で天保8年(1837)生まれ。同藩の児島惟謙とは剣友の仲だった。

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史跡探訪参加者に稲畑勝太郎のご子孫の方がおられた。

直系ではないが、阪急の小林家や元テニス選手。タレントの松岡修造氏は稲畑家に縁があるとのことだった。

幕末の大坂を歩く(八重の桜編)

幕末の大坂を歩く(八重の桜編)

11月10日(日)、天満橋~北浜の幕末維新の史跡案内を行います。

今年の大河ドラマにあわせて、大阪にある新島八重のゆかりの地も訪ねます。

これまでの天満橋編をマイナーチェンジしての史跡案内です。

もちろん、復帰した「八軒家船着場の常夜燈」もコースに入ります。

さらに、明らかになった大阪会議ゆかりの地「三橋楼」跡も、存分に紹介させていただきます。

詳細はこちらです。

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大坂の幕末を歩く第3弾

大坂の幕末を歩く

11月10日、幕末をテーマに天満橋周辺の史跡をご案内します。

申し込みはこちらまで。

今までのコースと少し変更しています。

大河ドラマ「八重の桜」にあわせて、新島八重ゆかりの地もコースに加えました。復帰した八軒家船着場常夜燈も。

中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 6

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 6

土居通夫像            中央区本町橋2-8(大阪商工会議所)

第7代大阪商工会議所会頭を務めたのが土居通夫である。
彼は宇和島藩出身で天保8年(1837)生まれ。同藩の児島惟謙とは剣友の仲だった。
坂本龍馬が宇和島を訪れたという説が残っており、龍馬と土居が剣術の試合を行い、龍馬が3本取って勝利したといわれている。
「土居通夫君伝」に次のような記載がある。
 脱藩した竜馬が宇和島を訪れた。
また、「新編惟謙」には次のような記載がある。
 文久元年(龍馬は)宇和島城下に入り、町会所の二階に止宿して、宇和島藩内の御庭番と剣術の試合、を行う等、画策するところがあった。
(途中省略)

児島惟謙はこの時龍馬と面識を得たといわれる。
龍馬の宇和島来訪は脱藩後ではなく、脱藩する前だった可能性が高い。
土居は、慶応元年(1865)7月18日、宇和島藩を脱藩。
大坂へ出て、心斎橋筋の金貸し屋「高池屋」の手代を務めた。大変な計数家で帳付けから複雑な金利計算までこなしていたといわれる。
剣術の腕もあることから、主人の三郎兵衛が襲われた護衛し力を発揮している。薩摩藩の中井弘と出会い勤王活動を行う。鳥羽伏見の戦いの折には、いち早く大津へ行き、官軍の兵糧確保のために米問屋に手を打ち、大きな功績を上げ、前藩主の伊達宗城に賞賛され脱藩罪が赦免される。
その後、外国事務局大阪運上所に勤務した。
五代友厚の知遇を得て、明治2(1869)年に大阪府権少参事となった。
明治5年、司法省に出仕。兵庫裁判長、大阪上等裁判長、大阪控訴裁判長などを歴任した。井上馨、伊藤博文、大隈重信、大久保利通らと交わり政界で人脈を築いた。
また、五代友厚、住友家、鴻池家ら大阪財界ともつながりを持った。
明治17年4月30日に退官。江戸期に有力両替商だった鴻池善右衛門が明治中期に衰退の一路をたどっている中、土居通夫に顧問になってもらえないかの打診があった。土居通夫は「終身顧問」を務めることになり、鴻池家の危機を救った。功績が讃えられ、明治28年、第7代大阪商工会議所会頭に就任(死亡するまで22年間、会頭職を務めた。)。明治36年、第5回内国勧業博覧会の大阪誘致に尽力し通天閣の建設と博覧会の成功を導いた。
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中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 5

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 5

五代友厚像            中央区本町橋2-8(大阪商工会議所)

五代友厚は天保6年(1835)12月26日(坂本龍馬と同じ年に生まれる)、鹿児島城下城ヶ谷に生まれた。幼名を徳助、通称は才助。
父の五代秀尭が、藩主の島津斉彬から世界地図と地球儀の作成を命じられていたために、才助は14歳でこれらを目にする。特に海軍国イギリスが日本と似ている地形に驚く。才助は、長崎海軍伝習所で航海術、砲術、測量、数学を学んだ。文久3年(1863)7月、薩英戦争の際、3隻の藩船ごと寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放された。イギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学に出発、欧州各地を巡歴。慶応2年には薩摩藩の商事を任される会計係に就任。長崎でトーマス・グラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。

慶応3年には坂本龍馬の土佐海援隊と紀州藩が争った「いろは丸事件」で両者の仲介を務めた。
新政府の参与、外国官権判事などを歴任し堺事件やイギリス公使ハリー・パークス襲撃事件の外交処理を行った。初代大阪税関長にも就任したが、新政府に不満を感じ、明治2年下野し大阪へ永住する。
大阪で多くの事業を起こし、大阪商法会議所初代会頭に就任。
明治18年(1885)没。東京において東京商法会議所(現・東京商工会議所)等を設立した渋沢栄一と比肩する人物として「東の渋沢,西の五代」と称され、両者の功績が語り継がれている。

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中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 4

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 4

宇野薬局                        中央区徳井町2-3-3
                  
松屋町筋の拡幅工事を機に昭和9年(1934)に建てられた3階建ての木造ビル。国の登録有形文化財にしてされている。
宇野薬局の創業は天保元年(1830)で現在も営業している。
屋内には貴重なガス設備が残っている。
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中大江・北大江エリアの史跡探訪-3

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 3

本町橋                        中央区内本町2
本町橋は、東横堀川の開削とともに、豊臣秀吉の大阪城築城の時期に架けられた橋である。江戸時代には、「公儀橋」として幕府の管理するところとなり、船場と大阪城を結ぶ重要な地位を占め、橋詰の北東側には西町奉行所もおかれた。天明7年(1787)の調査によれば、当時の橋は長さ約54メートル、幅約5.9メートルの木橋だった。
現在の橋は、本町通が市電道路として拡幅された大正12年(1913)に架けかえられた鉄橋で、石づくり橋脚をもつ重厚な構造は、70年近い風雪に耐えて現存する市内最古の橋にふさわしい風格をそなえている。
本町橋西詰、本町通りの南側には、老舗で「ゼー六」というアイスモナカがおいしいことで有名な店が、今でも営業を行っている。

補足としてe-よこ会の活動も説明。

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中大江・北大江エリアの史跡探訪 2

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 2

大阪会議ゆかりの地「三橋楼」跡         中央区本町1-4
(後に紹介する)天満橋近くの石町(こくまち)にあった「三橋楼(さんきょうろう)」は、大阪ハリストス正教会に土地・建物を転売し、この地に移転してきた。
朝日新聞に移転広告を載せている。
4年後は、大川筋築地に移転した。

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中大江・北大江エリアの史跡探訪

大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 1

2013年10月19日、地下鉄堺筋本町駅、9時30分集合。

今日も35人の参加者がいらっしゃるというからびっくりです。

お話をいただいたのは6月。今までガイドをしたことがないエリアも少しあり、一から勉強でした。

大坂商工会議所の道迎えにある宇野薬局や大手湯(銭湯)、日限地蔵、釣鐘邸跡などを加えたコースのリクエストでした。

9時30分過ぎに出発のご挨拶。

まずは最初の案内場所である「曲淵地蔵尊」。

東横堀川が南北に流れていますが、農人橋と本町橋の間だけ、南東に曲がっています。そこに川に向いた地蔵尊が「曲淵地蔵尊」。

曲渕地蔵尊                      中央区南本町1-2
豊臣秀吉が大坂城の外堀として人工の川を開削したころ、浄国寺を避け、川筋を曲げたため、俗称「曲がり」が発生した。
江戸期には東横堀川として再利用。現在と違い、川の流れが急なため、この「曲がり」により流水は岸に当たり渦を生じた。
そのため、入水自殺をする人が絶えなかったといわれる。そのため水難除けの地蔵尊を祀り供養したのが始まりといわれる。
宮本又(また)次(じ)著「船場(風土記大阪)」(ミネルヴァ書房)によりますと、文政13年(1830)船場上町方面の大火後、復興工事の景気に乗じ、「まがり」を中心に遊女が多く出現した(明治40年ころより衰退)。また、この付近では「手拭染屋」が多く存在した。染手拭が風になびく特異な風景が見られた。

 

 

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外山脩造

外山脩造

越後長岡藩出身 外山脩造 所有の地   中央区北浜3丁目2-16

明治末期の「大阪地籍地図」によると盛岡藩蔵屋敷跡地は、実業界で活躍した外山脩造の主有する地だった。
外山脩造は越後小貫村に生まれ幼名を寅太。17歳のとき江戸へ出て、清河八郎の「経学文章指南所」に入塾した。
わずかの期間学んだ後、すぐに帰郷することとなった。
帰郷後、外山脩造の人生に大きく影響を与えた河井継之助に出会う。
外山脩造は河井継之助に師事し、勉学に励んだ。やがて戊辰戦争が始まり、長岡藩の軍事総督となった河井継之助に従い、行動を共にした。

新政府軍に敗戦し、河井継之助は受けた傷が元で戦死する。
臨終の際、河井継之助は外山修三を枕元へ呼び、次のような遺言を残したという。竹田十岐生著の「阪神の百年を創った男 外山脩造伝」(文芸社)から引用する。
「寅や、おみしゃんは商人になりやい、これからの世はおもしろくなるだで、もう士分は駄目だ。」
河井は外山脩造の能力を高く評価し、商人になることを薦めた。
明治に入り、河井継之助の遺志を継ぐため、継之助の推挙状を持って福沢諭吉の紙幣寮の翻訳家に勤務することとなった。
簿記学の翻訳に携わっている時に渋沢栄一の目にとまる。
明治12年(1879)1月、大阪にある第三十二国立銀行の総監役に就任し、悪化していた経営の建て直しを見事成功させ、一躍名を挙げることとなった。
明治15年(1882)、日本銀行大阪支店長に就任し3年間務め、明治20年(1887)、欧米の商工業を視察するため外遊に出かけた。
特に学んだことは、石油事業、電気鉄道事業、麦酒醸造事業だった。
帰国後は、大阪貯蓄銀行頭取、更には衆議院議員を務めながら本格的に起業家として力を発揮していった。
堺の醸造家であった鳥居駒吉と協力し、明治22年(1889)11月、発起人の一人として「大阪麦酒会社」の設立を実現させる。設立した場所は、当時の地番で「大阪府島下郡吹田村八百六番屋敷」。現在の大阪府吹田市西の庄町にあるアサヒビール株式会社吹田工場にあたる。
このアサヒビールは、現在誰もが知る大企業に成長している。
神戸大阪間の鉄道敷設計画のあった電気鉄道会社2社を、外山脩造の尽力により合併することになり、明治32(1899)年6月12日、新しい電気鉄道会社を設立させる。設立当初の社名は、「摂津電気鉄道株式会社」だったが、同年7月に社名変更し、現在の「阪神電気鉄道株式会社」となる。
外山脩造は、第1回目の取締役会において互選により、初代社長に就任。
6年後の明治38年(1905)4月12日、大阪の出入橋と神戸の加納町の間が開業し、出入橋駅から第1号車が発車させた。
念願の開業だったが、外山脩造は、前年より病に倒れていたため開業式には出席できず、堂島の自邸で打ち上げ花火の音を聞き、第1号車の発車を確認した。
同鉄道は関西五大私鉄のうちの1社として発展し、現在も走り続けている。
昭和10年(1935)には、プロ野球大阪タイガースが設立。
これが現在の阪神タイガース。関西だけでなく全国に及ぶ人気のある球団である。
「タイガース」は外山脩造の幼名「寅太」からつけられたと言われている。

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夕陽丘から見る夕陽

夕陽丘から見る夕陽

大阪の上町台地。松屋町筋から西は海だったとか。

西に沈む夕陽を見ることのできる場所が、ごく限られた場所しかないことから京都に近いこの場所が聖地だったのかもしれません。

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大阪市内にある五代友厚像

大阪市内にある五代友厚像

薩摩藩出身の五代友厚。幕末期に大いに活躍しましたが、明治維新後も実業界で大活躍。

大阪を基盤とし、大きな功績を残しました。彼の墓所も大阪市内にあります。

大阪市内にある銅像で4か所もある人物は、二宮金次郎を除いて彼しかないと思います。

現在、判明している4か所の銅像をご紹介いたします。

①大阪商工会議

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②大阪証券取引所

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③某証券会社

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④大阪市立某高等学校

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