中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 5
大阪歴史散歩の会 中大江・北大江エリアの史跡探訪レポート 5
五代友厚像 中央区本町橋2-8(大阪商工会議所)
五代友厚は天保6年(1835)12月26日(坂本龍馬と同じ年に生まれる)、鹿児島城下城ヶ谷に生まれた。幼名を徳助、通称は才助。
父の五代秀尭が、藩主の島津斉彬から世界地図と地球儀の作成を命じられていたために、才助は14歳でこれらを目にする。特に海軍国イギリスが日本と似ている地形に驚く。才助は、長崎海軍伝習所で航海術、砲術、測量、数学を学んだ。文久3年(1863)7月、薩英戦争の際、3隻の藩船ごと寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放された。イギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学に出発、欧州各地を巡歴。慶応2年には薩摩藩の商事を任される会計係に就任。長崎でトーマス・グラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。
慶応3年には坂本龍馬の土佐海援隊と紀州藩が争った「いろは丸事件」で両者の仲介を務めた。
新政府の参与、外国官権判事などを歴任し堺事件やイギリス公使ハリー・パークス襲撃事件の外交処理を行った。初代大阪税関長にも就任したが、新政府に不満を感じ、明治2年下野し大阪へ永住する。
大阪で多くの事業を起こし、大阪商法会議所初代会頭に就任。
明治18年(1885)没。東京において東京商法会議所(現・東京商工会議所)等を設立した渋沢栄一と比肩する人物として「東の渋沢,西の五代」と称され、両者の功績が語り継がれている。
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