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土浦藩蔵屋敷跡

土浦藩(土屋相模守)蔵屋敷跡 

徳川譜代の常陸(茨城県)土浦藩9万5千石の大坂蔵屋敷がこの地にあった。天保9年(1838)、18代藩主となった土屋寅直(ともなお)は、大坂城代を務め、重責を果たし幕閣からの信任が厚かった。寅直の父である彦直(よしなお)は、水戸徳川家から来た養子で、徳川斉昭とは従兄弟の間柄だった。このことで、幕末維新の時期には水戸家を意識したがため、朝廷と幕府のどちらにつくかの藩論が定まらず、藩が混乱することとなった。
 結局、慶応4年(1868)4月に勤王誓書を提出し、新政府に恭順。戊辰戦争では317名の藩兵を出兵させている。

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<土浦藩について>
土浦藩の藩領は、現在の茨城県土浦市で石高は9万9千石。藩祖は、下総 布川5千石から土浦藩3万5千石として入封した松平信一(のぶかず)。
その後、藩主となる大名家が松平氏→西尾氏→土屋氏→松平氏と入れ替わったが、貞享4年(1687)、土屋政直が藩主となってからは、明治維新まで土屋家が藩主を務めた。 
第17代藩主となる土屋彦直(よしなお)は、水戸徳川家から土屋家に養子として入った人で、幕末期ではこのことが藩の政局に影響を及ぼした。領地は常陸(茨城県土浦市)だけでなく、和泉(大阪府)の一部や下総相馬郡など飛地領があった。
<土浦藩飛び地領について>
大阪府泉南郡岬町は寛永7年(1630)以降幕府領となっており、勘定奉行配下の代官が支配していた。寛文2年(1662)以降は、大坂城代を務めた者の知行地として支配することになった。貞享2年(1685)土浦藩の土屋政直が京都所司代、老中と昇進していき、この地は土浦藩土屋家の飛地領として明治維新まで継続して支配された。岬町には、土浦藩が築いたため池に石碑が建立されるなど、いくつかの史跡が残されている。

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<土浦藩飛び地領 勝 海舟宿泊の地 
  庄官 戸口仙蔵邸跡(戸口家)>
文久3年(1863)4月1日、勝 海舟は大坂から紀州へ向かう途中、ここ多奈川に立ち寄り1泊して阪府泉南郡宿泊先は多奈川の庄官 戸口仙蔵邸。
筆者(長谷)が、平成12年(2000)と平成19年、2回、戸口家を訪れて家に伝わる話を聞くことができた。当時の戸口家は、門前まで海に入り組んだ小湊になっており、小舟で屋敷に入ることができたそうである。
現在の建物は大正期に建て替えられたものだそうで当時の面影はないが、庭にある井戸は当時から残っているとのこと。
庭は当時、お白州の場だったそうである。戸口仙蔵は、海舟日記にも記載されているが、この地域(土浦藩領)で庄官を務めていた。
文久3年(1863)、近くの淡輪(たんのわ)陣屋で「大砲御筒凌」という砲術の訓練があり谷川村から戸口仙蔵の弟が参加したという記録がある。勝海舟が宿泊した際、戸口仙蔵は海舟の目にとまり、「江戸に来ないか(あるいは一緒に来ないか)」と誘われたと戸口家では言い伝えられている。戸口仙蔵はその話を辞退するが、子の亀太郎【その後通(とおる)に改名】は同行したかったようである。

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