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2012年9月

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

2012 秋 幕末の大坂を歩く! のお知らせ

下記のとおり日程が決まり、受付が開始されました。

10月14日が早くも△になっているのに驚きです。

夕陽丘コースは、今回新ネタありです!

<夕陽丘コース>

・実施日時  10月14日(日)14:00   11月4日(日)14:00

http://www.osaka-asobo.jp/course68.html

<北浜コース>

・実施日時  11月3日(月)14:00   11月11日(日)14:00

  http://www.osaka-asobo.jp/course49.html

大村益次郎終焉の地 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(5)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(5)

大村益次郎終焉の地 

 大村益次郎は、文政7年(1824)、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村にて医者 村田孝益の子として生まれた。弘化3年(1846)、23歳の時、大坂に出てきて、緒方洪庵の適塾に入門。入門後、成長著しく、3年後には塾頭を務めた。
 塾頭になったその年に、橋本左内、杉 亨二が入門している。
 27歳で塾を辞め、帰郷し医業を開業。
 その後、才能を買われて宇和島藩に招かれ、藩主 伊達宗城より蒸気船の建造を命じられ、それを実現させた。
 安政3年(1856)、幕府から招かれ蕃書調所(洋書を翻訳する役所)に出仕し、併せて講武所(幕府の学校)の教授を務めた。
 2年後、長州藩 桂小五郎の薦めにより長州藩の藩校教授となる。幕府による第二次長州征伐の時は、参謀として指揮を取り、勝利に導いた。新政府樹立後は、大参謀 薩摩藩 西郷吉之助の下で軍監兼参謀を務め、上野の彰義隊との戦いの総指揮を命じられ、僅か1日で終わらせた。
 明治元年(1868)、維新に散った人たちを祀る招魂社(現在の靖国神社)を九段に創建する。
 明治2年9月4日、京都の三条木屋町の定宿にいるところを刺客に襲われ、瀕死の重傷を負った。大阪病院(浪華仮病院)に治療のため運ばれる。敗血症を併発し、右足の切断手術を受けたが、その甲斐なく同年11月5日、46歳で永眠。
 墓は故郷の鋳銭司村にあるが、切断した右足は、大村益次郎の遺志により、師である緒方洪庵の墓がある龍海寺に、洪庵の墓の横に埋められた。

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大名屋敷跡、豊臣秀頼ゆかりの地 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(4)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(4)

大名屋敷跡、豊臣秀頼ゆかりの地

前田利家邸跡-前田利家終焉の地-(大阪女学院付近) 

NHK大河ドラマ「利家と松」でクローズアップされた前田利家。青年のころは血気盛んで武勇を誇り、「槍の又左衛門」といわれた。信長に従軍して功をあげた。
本能寺の変で信長が急死し、羽柴秀吉と柴田勝家との抗戦で秀吉につき、柴田氏の滅亡後、加賀国2郡を加増されて尾山城(金沢市)に移る。豊臣秀吉による天下統一に貢献し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築いた。
慶長3年(1598)、五大老に列せられ豊臣秀頼の後見人を任じられた。秀吉の死後、徳川家康が勢力拡大を図るなか仲裁役として尽力。家康を牽制するものの秀吉の死の8ヶ月後に大坂の自邸で病没。

千利休邸跡 堺の商家に生まれる。武野紹鴎から茶を学び宗易と名乗る。23歳のときに茶会を開いた。織田信長、豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585)10月、秀吉が正親町天皇へ禁中献茶に奉仕。このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年には北野大茶会を開く。
秀吉の側近として厚遇されたが、突然、蟄居を命じられその後、切腹となった。大坂の屋敷があった辺りは清水の井戸がいくつもあったといわれる。

宇喜多秀家邸跡 (城星学園付近) 前田利家と同じ五大老のうちの一人。通称は「備前宰相」。宇喜多秀家の邸があったので一時岡山町という町名の時期があった。
秀吉による紀州、四国、九州、小田原征伐に功を上げ、さらに文禄・慶長の役にも功績を挙げた。秀吉の死後、宇喜多家のお家騒動があり、家臣が分裂し、多くの優秀な家臣が去ることになった。関が原のたたきでは西軍の将として参陣。小早川秀秋の裏切りに寄り添う崩れとなり敗戦。
変装して島津義弘を頼って薩摩に逃げたが薩摩潜伏の噂が広がる。島津忠恒は秀家を家康に身柄を渡す。助命により八丈島に流刑となった。明暦元年(1655)、死去。83歳。そのときの将軍は第4代徳川家綱。

玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり) 大坂城玉造門(現・大阪市中央区玉造1丁目)が黒塗りの門であった事から、この門を別名「黒門」と呼ばれた。江戸時代この黒門付近で作られ名産となった瓜の事を「玉造黒門越瓜」という。一般に「くろもん」と呼ばれ長くて大きく濃緑色で八~九条の白色の縦縞があり、糟漬けにして美味しかった事から浪花名産の一つとされた。

近松門左衛門文学碑 近松門左衛門は、本名 杉森信盛といい、承応2年(1653)、越前吉江藩士の家の次男として生まれた。若い時、上京し大津の近松(キンショウ)寺に遊学していたことから近松姓を名乗った。25歳のとき浄瑠璃作者となり、天和3年(1683)、「世継曽我」を書いて認められ、2年後、大坂の竹本座で上演されることとなった。
元禄16年(1703)、の作品「曽根崎心中」が大当たり。竹本座の座付き作者として迎えられ、心中ものなど「世話浄瑠璃」を24作品発表した。ここにある文学碑は、彼の2作品の中から「玉造稲荷神社」が登場する箇所が紹介されている。

千 利休顕彰碑 千利休を偲ぶ「利休井」 千利休邸には「利休井」があったと伝えられる。利休の弟子にあたる細川忠興邸には「越中井」。古田織部邸には「山吹井」があった。この井戸は平成18年(2006)、採掘された。

豊臣秀頼寄進の鳥居 玉造稲荷神社に、慶長8年(1603)3月吉日という銘のある豊臣秀頼奉納の鳥居があった。大阪市内では四天王寺の鳥居に次ぐ大きさ(高さ:5.1m、幅:6.7m)のものだった。阪神大震災の際、亀裂ガが生じ、翌年の5月解体され、その上部のみ名残として境内に残されている。

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豊臣秀頼像
 大阪城築城80周年の節目である平成23年(2011)、「豊臣秀頼公銅像」が10月13日に除幕竣工された。また銅像は、文化勲章受章・日本芸術院会員の中村晋也氏が当時の史料を基に制作された。

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細川ガラシア顕彰碑 石像 (聖マリア大聖堂) 細川ガラシア(玉)は、永禄6年(1563)明智光秀の三女として生まれた。細川忠興の正室として嫁ぎ、於長(おちょう:1579年生 前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)と子を産んだ。玉はキリスト教信徒(キリシタン)となり、この敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、大聖堂内内陣左側には細川ガラシアを描いた画が掲げられている。

高山右近像 (聖マリア大聖堂) 天文21年(1552)、高山右近は友照の嫡男として
生まれた。12歳でキリスト教の洗礼を受けた。高槻城主だったころ、織田信長と敵対したものの単身で信長へ降伏を申し出て、高槻城主としての地位を安堵される。本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えた。秀吉によるバテレン追放令で大名の地位と領地を捨て、信仰を続けた。江戸幕府によるキリシタン国外追放により、マニラヘ渡りその地で亡くなった。

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青刻昆布発祥の地 昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は享保6年(1721)頃。文化年間に清国(中国)に試売し、1820年頃から販路を拡張、大坂上町台地において製造していた明治33年(1900)には、大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定された。大阪昆布商工同業会(起源は明治34年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は、平成13年(2001)に百周年を向かえたのを記念してこの碑が建立された。

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細川越中守忠興邸跡  越中井  細川越中守忠興の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれる。慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い、上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉(洗礼名ガラシア)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。細川家は足利家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のときの権力者に仕え、肥後細川家を存続させた。
第79代内閣総理大臣 細川護煕はその子孫である。

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京都見廻組 桂 早之助、渡邊吉太郎墓所 心眼寺 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(4)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(4)

京都見廻組 桂 早之助、渡邊吉太郎墓所 心眼寺

京都市中の警固には、「新選組」のほか武芸達者な幕臣 旗本で組織された「見廻組」があった。任務の内容に大差はないが、新選組の方が活躍の記録は多く残っている。
目立った活躍はないが、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件
には「見廻組」が大きく関与していた。
維新後、見廻組出身の今井信郎が官軍に捕縛された際、「見廻組」が坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したことを自供し初めて公表された。(それまでは、新選組による犯行と思われていた。)見廻組隊士として、当日暗殺に加わったと思われる桂早之助及び渡邊吉太郎(吉三郎)の墓所が真田幸村ゆかりの寺「心眼寺」の無縁仏の墓碑郡に埋もれていたところを歴史研究家 故西尾秋風氏により発見された。
両名とも鳥羽伏見の戦いで傷を負い、大坂で命を落とし心眼寺に葬られた。

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真田丸(真田の出丸)跡/真田山心眼寺 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(3)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(3)

真田丸(真田の出丸)跡/真田山心眼寺

心眼寺は、元和8年(1622)4月、真田幸村(信繁)とその子大助の冥福を祈るため、真田幸村が築いた「真田の出丸」と呼ばれる砦の跡地に、白牟和尚によって創建された。
心眼寺の定紋は真田家の六文銭に定められ、山号は真田山となっている。
真田丸(真田の出丸)は東西2つの郭で構成され、広範囲にわたる砦だった。
西側の郭は、南面を半月状の頑丈な柵で固められていた。東側の郭は、堀の内側に塀を建て連ねた構えとなっていた。
慶長19年(1614)大坂冬の陣の際、真田幸村率いる豊臣軍は、徳川軍の松平忠直、井伊直孝、前田利常、藤堂高虎らをここで迎え撃ち勝利している。

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旧真田山陸軍墓地 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(2)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(2)

旧真田山陸軍墓地

明治4年(1871)、当時の兵部省が大阪を陸軍の本拠地とし、その一環で埋葬地を真田山に設置した。

訓練中死亡した兵学寮生徒や兵卒などがここに埋葬され、西南戦争、日清戦争、日露戦争(初期)までに亡くなった墓碑がある。
昭和13年(1938)、「陸軍埋葬地」は陸軍墓地規則によって「陸軍墓地」と名称変更された。

陸軍墓地最古の墓は下田織之助(山口県出身、明治3年(1870)大阪の兵学寮に入学。同年12月1日病死。)。

日清戦争での清国兵の俘虜、第一次世界大戦でのドイツ兵の俘虜の墓碑もある。

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真田の抜け穴跡・真田幸村像 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(1)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(1)

真田の抜け穴跡・真田幸村像

かつては「真田の抜け穴」が10数箇所あった。

現在残る貴重な抜け穴跡。

現在抜け穴の奥はすぐに遮断されているようであるが、阪神大震災前は結構おくまで入れたと体験談を聞いたことがある。昔は柵がなく子どもにとってよき遊び場所だったようである。

大坂冬の陣で徳川軍に大きく立ちはだかったのが真田の出丸。

宰相山公園から西あたりに真田丸が築かれていた。契沖の旧跡及び墓所がある近くの円珠庵(鎌八幡)境内のエノキの木は、古来から霊木として人びとの信仰を集めていた。

真田幸村(信繁)がこのエノキに鎌を打ちつけて戦勝を祈念し、大いに戦功をあげたと伝えられている。以来、「鎌八幡」と呼ばれ、このエノキに鎌を打ち込み悪縁を断つ願かけをする人が増えたそうである。

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大阪砲兵工廠跡 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(24)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(24)

大阪砲兵工廠跡

大阪砲兵工廠は明治3年(1870)「造幣司」という名称で、大阪城三の丸米倉跡に設置された。同5年(1872)「大砲製造所」、同8年(1875)「砲兵第二方面内砲兵支廠」、同12年(1879)「大阪砲兵工廠」と名称が変わった。
政府(陸軍)直属の兵器製造工場で、大砲、重兵器、爆弾、戦車などを製造していた。
終戦直前では6万4千人近くがここで働いていた。終戦の前日である昭和20年(1945)8月14日の大空襲により、完全に破壊されました。
多くの犠牲者を出した。大阪砲兵工廠本部があった場所は、現在、大阪城ホールがある場所に該当する。                 003

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極楽橋 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(23)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(23)

極楽橋

山里丸と二の丸を結ぶ橋で、かつては幅3mの木造橋だった。

おそらく大坂本願寺の時代からあった橋とされている。
近年、17世紀に渡欧した豊臣期の大坂城を描いた壁画が、オーストリアのエッゲンベルグ城で見つかった。予想以上に豪華だったことが判明。屋根つきで鍍金され、鳥や樹木の彫刻が施され、欄干にも黄金がはめ込まれていた。

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豊臣秀頼・淀殿自刃の跡(山里曲輪) / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(22)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(22)

豊臣秀頼・淀殿自刃の跡(山里曲輪)

元和元年(1615)5月に大坂夏の陣が起こり、5月7日ついに大坂城が炎上。5月8日、焼け残った櫓に潜んでいた淀殿、豊臣秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡する。「朱三櫓(しゅみやぐら)(「糒庫(ほしいぐら)という蔵という説の史料が多いため、この地に石碑が建てられた。
・山里曲輪跡 天守閣の北にあり、本丸とは高い石垣に隔てられている。豊臣秀吉やその家族らが茶会や花見を催した。大坂夏の陣で落城の際、淀殿と豊臣秀頼が山里曲輪で自刃したと伝わっている。

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豊公館跡 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(21)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(21)

豊公館跡

大正14年(1925)3月15日~4月30日に「大大阪(だいおおさか)記念博覧会が天王寺公園を第一会場に、大阪城を第二会場として開催された。
第二会場として大阪城で開催されるにあたり、天守台に二層の仮説建物が建てられ、「豊公館」と名づけられた。

豊公館の1階は豊臣秀吉の遺品や、その時代の歴史資料が展示され、2階は展望台となっていた。
開催わずか45日間にもかかわらず、豊公館に69万8386人の入場者があった。

この豊公館がきっかけで大阪城天守閣の復興につながった。

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豊臣期の大坂城天守閣跡 /豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(20) 

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(20)

豊臣期の大坂城天守閣跡

豊臣期の大坂城天守閣跡 天正11年(1583)9月1日から工事を開始。

天正13年(1585)に第一期工事が終了。

外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)。

現在の大阪城天守閣がある場所とは若干異なり、北東方面にあった。

天守閣は3階建ての屋根上に更に3階建てを載せた望楼型で、安土城天守閣を受け継いだ造りとなった。

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徳川期の大坂城天守閣跡 / 豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(19)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(19)

徳川期の大坂城天守閣跡

元和6年(1620)1月、第2代将軍 徳川秀忠の命により、65家の外様大名を中心に、大坂城の再建が進められた。

およそ10年間の工事を経て、寛永6年(1629)に完成。現在の大阪城天守閣の位置に建てられた。

石垣や堀の深さは、豊臣期のものより規模が2倍大きいものだった。

豊臣期の天守閣の高さが約39mだったのに対し、新しい天守閣の高さは約58mだった。

寛永6年(1629)の完成からわずか36年後の、寛文5年(1665)1月、珍しい冬の落雷により天守閣は焼失し、昭和6年まで大坂城には天守閣はなかった。

最初に天守閣が築かれて今日いたるまで、412年間のうち天守閣が存在した期間は、わずか150年足らずである。残りの260年は大坂城に天守閣が存在しなかったことになる。

豊臣期の大坂城天守閣は1585-1615(30年) 

徳川期の大坂城天守閣は1629-1665(36年)

現在の大阪城天守閣は1931~(81年~)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(18) 現在の大阪城天守閣

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(18)

現在の大阪城天守閣

 昭和3年(1930)11月、昭和天皇即位の式典が行われるにあたり、大阪市の記念事業として、寛文5年(1665)1月の落雷で焼失して以来約270年間失っていた天守閣の復興が、第7代大阪市長 関 一(せき はじめ)氏により大阪市議会に提案され、満場一致で可決された。

昭和3年8月から寄付金を募集し、早くも翌年の2月に目標額の150万円に到達し最も多く寄付をした人は、住友財閥の住友吉右衛門氏で25万円。続いて、三菱財閥の岩崎小彌太氏で5万円。

昭和5年(1932)5月6日に起工し、翌年の昭和6年10月30日に竣工した。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(17)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(17)

本丸ヒューム管(豊臣期の大坂城石垣遺構)

 昭和34年(1959)の大阪城総合学術調査の際、ボーリング調査で発見。

その後引き続き行われた発掘調査で見つかった石垣遺構の一部をヒューム管設備で保存したもの。

調査結果により「中ノ段帯曲輪の石垣」の一部であることが確認された。

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ちょうど案内時の頃、豊臣期の大坂城石垣公開施設を計画中と発表があった。

こちら

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(16) 豊臣期本丸表御殿跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(16)

豊臣期本丸表御殿跡

 豊臣期の大坂城本丸表御殿は、現在の旧大阪市立博物館建物の南側周辺にあった。「御対面所」にて秀吉と諸大名との対面を行った場所である。

 徳川家康が、臣下の礼のため豊臣秀吉のため対面したのもこの場所である。

 
 特に日本国外の使節を出迎える場所として「千畳敷対面所」が秀吉の晩年に設けられた。

 この千畳敷で明国の使者を出迎えた場所で、明国の親書と贈り物を秀吉は受け取った。

 受け取り使者を下がらせた後、親書の文面を読み、自分に屈する文面が一言もないことに気づき、贈られた明国の衣服を脱ぎ捨て怒りをあらわにした。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(15) 片桐且元邸跡 市正(いちのかみ)曲輪跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(15)

片桐且元邸跡 市正(いちのかみ)曲輪跡

 豊臣家の重臣 片桐市正(いちのかみ)且元の屋敷があったことから「市正曲輪」と呼ばれ、江戸期でもそう呼ばれていた。

 現在は「梅林」となっている。梅林の見頃は2月末から3月上旬にかけてのあたり。約1.7ha(5000坪)の広さに約1,250本の梅が植えられている。

 昭和48年(1973)、大阪府立北野高等学校創立100周年記念として梅を大阪府に寄付。

 同校の六稜同窓会の協力を得て、昭和49年3月に開園。その後、補植等の整備を行い現在に至っている。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(14) 豊國神社(ほうこくじんじゃ)・豊臣秀吉像

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(14)

豊國神社(ほうこくじんじゃ)・豊臣秀吉像

 豊國神社の祭神は豊臣秀吉、秀頼、秀長。

 秀吉の死後、豊国神社が創建され、朝廷から「豊国大明神」の神号と正一位が贈られた。

 大坂夏の陣後、家康が社領を没収し、社殿の修理を一切禁じたため、豊国神社は衰退していった。

 明治になり征夷大将軍にならなかった秀吉に好意を持つ明治天皇は、神社の再建が命じられた。

 明治12年(1879)、大阪の中之島に別社が建てられ、昭和36年(1961)大阪城内に移された。

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 明治36年(1903)3月、神社境内に豊臣秀吉の銅像が建てられたが、太平洋戦争の折、供出のため姿を消したままになっていたが、平成19年(2007)4月17日、祭神の一人である豊臣秀吉公を祀る豊國神社境内に豊臣秀吉の銅像が復元され、その除幕式が開かれた。

 時代考証なども踏まえて、日本芸術院会員で五代友厚像などの作品で知られる中村晋也氏により建立された。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(13)  石山本願寺跡(推定地)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(13)

石山本願寺跡(推定地)

 大坂城の前身が石山本願寺。石山本願寺は明応五年(1496)、本願寺8代目法主 蓮如が82歳のとき、石山御坊という隠居寺を建てたのが始まり。

 山科本願寺焼き討ち事件の後、本坊が徐々にここへ移されることになり、城郭の造りを形成し、石山本願寺と呼ばれるようになった。

 このあたりに巨石がたくさんあったことから「石山」と命名。11代目法主 顕如の時、織田信長から「石山本願寺の明け渡し」を要求され、信長に抵抗し開戦。

 元亀元年(1570)より10年間に及ぶ石山合戦が起こり、天正8年(1580)3月1日、正親町天皇からの勅使3名が石山本願寺を訪れ講和を勧告。

 顕如は承諾。明け渡し時に出火し御坊は全焼した。

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