豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅲ レポート(4)
大名屋敷跡、豊臣秀頼ゆかりの地
前田利家邸跡-前田利家終焉の地-(大阪女学院付近)
NHK大河ドラマ「利家と松」でクローズアップされた前田利家。青年のころは血気盛んで武勇を誇り、「槍の又左衛門」といわれた。信長に従軍して功をあげた。
本能寺の変で信長が急死し、羽柴秀吉と柴田勝家との抗戦で秀吉につき、柴田氏の滅亡後、加賀国2郡を加増されて尾山城(金沢市)に移る。豊臣秀吉による天下統一に貢献し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築いた。
慶長3年(1598)、五大老に列せられ豊臣秀頼の後見人を任じられた。秀吉の死後、徳川家康が勢力拡大を図るなか仲裁役として尽力。家康を牽制するものの秀吉の死の8ヶ月後に大坂の自邸で病没。
千利休邸跡 堺の商家に生まれる。武野紹鴎から茶を学び宗易と名乗る。23歳のときに茶会を開いた。織田信長、豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585)10月、秀吉が正親町天皇へ禁中献茶に奉仕。このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年には北野大茶会を開く。
秀吉の側近として厚遇されたが、突然、蟄居を命じられその後、切腹となった。大坂の屋敷があった辺りは清水の井戸がいくつもあったといわれる。
宇喜多秀家邸跡 (城星学園付近) 前田利家と同じ五大老のうちの一人。通称は「備前宰相」。宇喜多秀家の邸があったので一時岡山町という町名の時期があった。
秀吉による紀州、四国、九州、小田原征伐に功を上げ、さらに文禄・慶長の役にも功績を挙げた。秀吉の死後、宇喜多家のお家騒動があり、家臣が分裂し、多くの優秀な家臣が去ることになった。関が原のたたきでは西軍の将として参陣。小早川秀秋の裏切りに寄り添う崩れとなり敗戦。
変装して島津義弘を頼って薩摩に逃げたが薩摩潜伏の噂が広がる。島津忠恒は秀家を家康に身柄を渡す。助命により八丈島に流刑となった。明暦元年(1655)、死去。83歳。そのときの将軍は第4代徳川家綱。
玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり) 大坂城玉造門(現・大阪市中央区玉造1丁目)が黒塗りの門であった事から、この門を別名「黒門」と呼ばれた。江戸時代この黒門付近で作られ名産となった瓜の事を「玉造黒門越瓜」という。一般に「くろもん」と呼ばれ長くて大きく濃緑色で八~九条の白色の縦縞があり、糟漬けにして美味しかった事から浪花名産の一つとされた。
近松門左衛門文学碑 近松門左衛門は、本名 杉森信盛といい、承応2年(1653)、越前吉江藩士の家の次男として生まれた。若い時、上京し大津の近松(キンショウ)寺に遊学していたことから近松姓を名乗った。25歳のとき浄瑠璃作者となり、天和3年(1683)、「世継曽我」を書いて認められ、2年後、大坂の竹本座で上演されることとなった。
元禄16年(1703)、の作品「曽根崎心中」が大当たり。竹本座の座付き作者として迎えられ、心中ものなど「世話浄瑠璃」を24作品発表した。ここにある文学碑は、彼の2作品の中から「玉造稲荷神社」が登場する箇所が紹介されている。
千 利休顕彰碑 千利休を偲ぶ「利休井」 千利休邸には「利休井」があったと伝えられる。利休の弟子にあたる細川忠興邸には「越中井」。古田織部邸には「山吹井」があった。この井戸は平成18年(2006)、採掘された。
豊臣秀頼寄進の鳥居 玉造稲荷神社に、慶長8年(1603)3月吉日という銘のある豊臣秀頼奉納の鳥居があった。大阪市内では四天王寺の鳥居に次ぐ大きさ(高さ:5.1m、幅:6.7m)のものだった。阪神大震災の際、亀裂ガが生じ、翌年の5月解体され、その上部のみ名残として境内に残されている。
秀頼公胞衣(えな)塚大明神
豊臣秀頼像 大阪城築城80周年の節目である平成23年(2011)、「豊臣秀頼公銅像」が10月13日に除幕竣工された。また銅像は、文化勲章受章・日本芸術院会員の中村晋也氏が当時の史料を基に制作された。
細川ガラシア顕彰碑 石像 (聖マリア大聖堂) 細川ガラシア(玉)は、永禄6年(1563)明智光秀の三女として生まれた。細川忠興の正室として嫁ぎ、於長(おちょう:1579年生 前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)と子を産んだ。玉はキリスト教信徒(キリシタン)となり、この敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、大聖堂内内陣左側には細川ガラシアを描いた画が掲げられている。
高山右近像 (聖マリア大聖堂) 天文21年(1552)、高山右近は友照の嫡男として
生まれた。12歳でキリスト教の洗礼を受けた。高槻城主だったころ、織田信長と敵対したものの単身で信長へ降伏を申し出て、高槻城主としての地位を安堵される。本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えた。秀吉によるバテレン追放令で大名の地位と領地を捨て、信仰を続けた。江戸幕府によるキリシタン国外追放により、マニラヘ渡りその地で亡くなった。
青刻昆布発祥の地 昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は享保6年(1721)頃。文化年間に清国(中国)に試売し、1820年頃から販路を拡張、大坂上町台地において製造していた明治33年(1900)には、大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定された。大阪昆布商工同業会(起源は明治34年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は、平成13年(2001)に百周年を向かえたのを記念してこの碑が建立された。
細川越中守忠興邸跡 越中井 細川越中守忠興の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれる。慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い、上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉(洗礼名ガラシア)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。細川家は足利家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のときの権力者に仕え、肥後細川家を存続させた。
第79代内閣総理大臣 細川護煕はその子孫である。
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