豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(28)
豊臣期大坂城三の丸の石垣 大阪市中央区大手前1-3-20 (追手門学院小学校)
追手門学院小学校では、改築工事の際、地下から当時の石垣が発掘された。
発掘された石垣は「京橋口曲輪(篠の丸)」と推測され、ドーンセンターで発見された石垣とつながっていたと考えられる。
そのままの状態の石垣は、地下にある職員駐車場とその下にあるボイラー室に見ることができる。(一般非公開)
フジテレビによる全国ネットで、同校の非公開である石垣がオンエアされて以降有名となった。
今回は、職員地下駐車場にある石垣をご案内した。
さらに下に眠る石垣を同校のボイラー室で見ることは可能だが、見るための設備が整っておらず万一怪我があってはならないと思い写真による紹介にとどめた。
<万城目学氏出身の小学校>
明治21年(1888)、薩摩藩出身 陸軍第四師団司令長官だった高島鞆之助(1844-1916)が「国家有為の人物の育成」を目指し、「将来の日本発展の原動力となる人材は小学校時代から育成すべきである」という思想をもって設立されたのが大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)。
卒業生にはたくさんの堺屋太一氏ほか著名人が多数いるが、2011年に公開された映画「プリンセストヨトミ」の原作者 万城目学氏もその一人である。
文庫本化された「プリンセストヨトミ」のあとがきに万城目氏は次のように記載している。
私が通った小学校は、まさに大阪城の外堀と道路一本を隔てた場所にあった。
ゆえに毎日、大阪城の外堀に沿って学校に向かい、六年間、天守閣をグランドから見上げ続けた。
私は大阪城が好きだった。(途中略)
校歌の中に「錦城のいらかは高く」という表現で、大阪城が堂々登場し、さらに校舎の建て替えの際、豊臣時代の金箔が残った瓦や城の石垣が、グランドの下から出土するような、まさしくお膝元に位置する小学校だったゆえ、子どもたち潜在的な秀吉支持率が高かったと思う。
「なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪」 (P538)より
なお「錦城」と「金城」でどちらが正しいかを後に調査された結果、「金城」が正しく、以後「金城」で統一されている。
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