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2012年8月

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(12) 徳川家康築城の天守跡 ~大坂城に2つの天守閣が並び立つ~ 西の丸

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(12)

徳川家康築城の天守跡 ~大坂城に2つの天守閣が並び立つ~ 西の丸

 豊臣秀吉の死後、勢力を拡大してきた徳川家康は、慶長4年(1599)9月9日、豊臣秀頼に対し、重陽の節句のお祝いのため伏見から大坂城に入城する。

 この頃、北の政所(秀吉の正妻)は西の丸に居を移していたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し、京都の高台寺に移り住んだ。

 家康は節句の祝いが済んでも伏見に帰らず、西の丸に居座った。

 慶長5年(1600)2月から3月にかけて、家康は西の丸に天守閣の築城工事を開始。

 家康が2つ目の天守に居座ることで、豊臣の勢力と互角であることを天下に知らしめることを狙ったのではないかと思われる。

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 重要文化財に指定されている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)に2つの天守が建っていた様子が描かれている。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(11) 北の政所邸跡・豊臣秀長邸跡・大坂城代上邸跡  西の丸

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(11)

北の政所邸跡・豊臣秀長邸跡・大坂城代上邸跡  西の丸

 豊臣秀吉の正室 北の政所(ねね)は、秀吉の死後、家督を継いだ秀頼と淀の方に本丸を譲り、自身は西の丸に住居を移した。

 豊臣秀吉が大坂城主の頃、秀吉の弟 豊臣秀長の屋敷が現在の西の丸庭園にあった。

 秀吉に臣下の礼をなかなか取らなかった徳川家康が、ようやく大坂城に登城したとき、前日の宿所になったのが豊臣秀長の邸だった。

 登城する前夜、秀吉は家康に会うために秀長邸を訪れた話は有名。

 また、本丸にあった「表御殿」に当時新発明だった雨戸が設けられており、家康が泊まった夜も、雨戸を閉めたところ、その音に敏感に徳川の家来たちが反応したという。

 大坂城代上邸跡  西の丸

 江戸幕府は、西国大名の監視をする役割として大坂城に城代を置いた。

 初代大坂城代は高槻城主 内藤信正で、元和5年(1619)に着任した。

 幕末までで、合計70名の大名が大坂城代を務めている。

 邸跡の遺構として井戸が唯一残っている。

 城代は主に譜代大名が任命され、京都所司代、勘定奉行などを歴任し、いずれは老中に就任する出世コースといわれている。

 城代の上屋敷が西の丸に設けられ、当時の井戸が残っている。

 京都所司代などを歴任し老中になるためのエリートコースのポストである。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(10) 二の丸千貫櫓

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(10)

二の丸千貫櫓

 石山本願寺から「千貫櫓」という名称の櫓が存在した。

 現在見ることができる「千貫櫓」は、大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620)に創建。

 昭和36年(1961)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日が明らかになった。

 大阪城内に残る古建物の中で、最も古い建物になる。

 千貫櫓の名前の由来は、織田信長の石山本願寺攻めのとき、「あの櫓を落としたときは銭千貫を与えても惜しくない」といわれたことかがきっかけだそうである。

 織田信長と石山本願寺の争いは10年にも及んだが、なかでも天正4年(1567)5月7日、「大坂大寄せ」といわれる織田軍総攻撃が行われ猛烈な戦闘が繰り広げられた。

 このときに「千貫矢倉」の名が歴史に刻まれた。

 「陰徳太平記」では信長軍は城郭の奥まで攻め込み、あと1塀を残すのみの段階で、顕如法主が紅の衣で矢倉の上に姿を現し、金の団扇を振って敵に向かって招く仕草をしてという。

 これを観た城兵(本願寺軍)は必死で奮戦し、織田軍を蹴散らし、城の陥落を防いだという。

 偶然にも38年後の5月7日は、「大坂夏の陣」にて徳川軍に敗れ、大坂城天守閣が炎上した日でもある。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(9) 大坂城大手門(追手門)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(9)

大坂城大手門(追手門)

 城の表の入り口を「大手口」、裏の入口を「搦手口」という。

 大坂城の場合、大手口に大手門(追手門)、搦手口に玉造門(東側)と青屋門(北側)を備えていた。この大手門(追手門)は、元和6年(1620)に創建されたが、天明3年(1783)に落雷によって破損。

 嘉永元年(1848)、幕府は大掛かりな修復を行い補修した。 

一、追手ノ口ハ土橋可然也。自然板ばしなどは火を附る事アル也。切て出てよき方を土ばしにする也。 

埴保己一「群書類従」巻419の中の「築城記」

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(8) 石山本願寺台所の井戸跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(8)

石山本願寺台所の井戸跡

 徳川家が大坂城を再建した以降にも石山本願寺の遺構が残っていた。

 大手門土橋の外端南側に「下馬ノ井」と称する石山本願寺の頃にあった台所の井戸が残っていた。現在は埋められていて確認ができない。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(7) 生国魂神社御旅所跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(7)

生国魂神社御旅所跡

 生国魂(いくたま)神社は大阪市天王寺区にあるが、もともとはこの辺りにあった。

 645年、孝徳天皇による難波宮造営時には、すでにこの地にあり、神社の木を斬ったと「日本書紀」に記載されている。
 豊臣秀吉が大坂城築城の際、現在の位置に移したといわれ、大坂城の大手門は生玉門とも呼ばれていた。

 このお旅所は昭和7年(1932)に新築された。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(6) 難波宮跡の遺跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(6)

難波宮跡の遺跡  大阪歴史博物館~中央区法円坂1-6

 大化の改新の難波遷都にともなって造営された孝徳天皇の朝廷の遺構(前期という)。
また、726年、聖武天皇が藤原宇合(ウマアイ)に任じて造営させた(後期という)遺跡がある。

 昭和28年(1953)大阪城外堀の南付近から鴟尾(しび)が発見された。

 このことがきっかけになり、山根徳太郎氏を指導者とする難波宮址顕彰会の努力により発掘・調査が進み、難波宮の遺構が次第に明らかになった。

 昭和29年(1954)、幻の都といわれてきた宮殿跡の発掘調査が、この地で本格的に開始。およそ半世紀にわたる調査や研究の結果、2時期の宮殿の遺跡が発掘された。

 <前期 難波宮>
 大化元年(645)におこった「大化の改新」以降、難波遷都を行った孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮(ナニワナガラトヨサキノミヤ)」にあたると考えられている。

 第36代の天皇である孝徳天皇から「天皇」と称され、それ以前は「大王(おおきみ)」と言われていた。

 唐の都長安を模して造営された日本初の宮殿に該当する。内裏や朝堂院が設けられ、西北部、つまり現在の大阪歴史博物館やNHKの場所あたりに「倉庫群」が設けられていた。

 日本書紀には「難波大蔵」(昔、「大蔵省」がありましたが由来はここからきている)と記載されている。

 また、宮殿造営前の5世紀後半に作られた倉庫(高床式倉庫)が16棟以上あったことも判明。

 規模は奈良の正倉院よりも大きいものだった。大阪歴史博物館の南に復元された「高床式倉庫」を見ることができる。

 <後期 難波宮>
 神亀3年(726)、聖武天皇によって造営が開始された「難波宮」。場所は前期とほぼ同じ。

 【5世紀後半の倉庫群】

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【大阪歴史博物館に見られる遺跡】

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(5) 豊臣秀次邸跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(5)

豊臣秀次邸跡

 永禄11年(1568)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(木下弥助)の長男として生まれる。

 浅井攻めの際、宮部継潤に養子となった。

 浅井氏滅亡後は、阿波国で勢力を誇っていた三好康長に養子となり三好信吉と名乗る。

 天正19年(1591)、秀吉の養子となり関白に就任。同時に豊臣性をもらいうける。 

 秀頼誕生後、秀吉から疎んじられついに切腹を命じられる。その後、一族全員処刑される。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(4) 安国寺恵瓊邸跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(4)

安国寺恵瓊邸跡

 豊臣期の武将、安国寺恵瓊の邸があったことから安国寺坂の名がついたといわれている。

 恵瓊の挿話として、信長の短命政権を予言した事が有名。

 毛利家の外交官として活躍。秀吉の出世の基点となった「備中高松攻・中国大返し」に於いては、信長の死を察知しながら秀吉との講和をまとめた。

 秀吉の政権樹立後は僧でありながら大名として取り立てられた。関が原合戦で西軍に付いたため徳川方に捕らえられ、石田三成、小西行長とともに六条河原で斬首された。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(3) 南組惣会所跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(3)

南組惣会所跡

 江戸時代、大坂には北組惣会所、南組惣会所、天満組惣会所があった。

 これを「大坂三郷」という。

 惣会所の仕事はお触れの伝達、各種租税の徴収と上納、仲間の人別長、新作出版物の調査及び上申、町奉行所依頼の調査、火消し人足の指揮などで、町の自治行政面を担当していた。

 惣会所の惣年寄は名誉職だった。

 公役・町役の一軒役(後に五軒役)を免除され、年頭や八朔の礼銭・祝儀を受けた。

 公役というのは惣会所経費・消防費などの諸費用の負担で、町役はそれぞれの町の町会所費用・橋の普請費用など町の運営費の負担の事である。

 人数は当初は北組10人、南組6人、天満組5人であった。

 この人数は時代によって変化し、3組で計10~20人前後であった。

 南組の惣年寄には道頓堀川を開削した安井道トの子孫である安井九兵衛がいる。

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(2) 太閤下水(背割下水)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(2)

太閤下水(背割下水)中央区農人橋1-3-1(南大江小学校)

 豊臣秀吉の大坂築城時に作られた石積みの下水で、この付近の下水は東横堀川へ流れるような仕組みだった。
 建物と建物とが背中合わせになっているところから「背割下水」と呼ばれている。

 また太閤秀吉にちなんで「太閤下水」とも呼ばれている。

 現存する最大の箇所は、幅1.8m、高さ1.35mあり、400年以上経った今日でも立派に役割を果たしている。

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 幕末、天保期におこった大塩平八郎の乱。首謀者の大塩平八郎は鎮圧されると、この下水を利用し行方をくらまし再起を図ったといわれる。

 

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(1) 熊野街道

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(1)

 集合日時 7月29日(日) 10:00

 谷町四丁目駅8番出口 

 第1回目よりも第2回目のほうが多くご参加いただいた。

 この日も2時間では終われない行程。全員ついてきてくれるだろうかと心配しながらスタート。しまった! 水分補給を促すことを言い忘れた! 旅程管理者として「反省」からスタート。

 とにかく日陰で話すことと説明を簡潔にすることを心がけた。まもなくこの日の最初の案内ちである「熊野街道説明板」に到着。

 

 

旧熊野街道

 熊野街道は、紀州熊野本宮への参詣道で、平安時代から鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、多くの人々の往来で賑わっていた。

 八軒家船着場(中央区天満橋京町2)から上町台地を縦断、途中点々と所在する熊野九十九王子」と呼ばれる遥拝所兼休憩所をたどりながら熊野三山に至る。

 地名が八軒家船着場といわれる前までは、その付近は「渡辺津」といわれた。

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わたしの大学時代

コンパの締めは大学の歌とエール!

今からおよそ30年前になってしまいますが、大学など学生時代というのは、今過ごす4年間と学生生活の4年間とずいぶん中身が違うものです。

正確に分析するとさほど変わらないかもしれませんが、学生時代の4年間は見に染み付いてよく記憶しているものです。

私は部活をしていましたので、部員の同輩や先輩後輩とよくお酒を飲みに行きました。

お疲れさん!とさらりとした終わり方はしませんでした。

きまって最後に締めくくるのは、大学の歌を歌い、エールをきることでした。

そのときの模様をアップいたしました。

「コンパの締めは大学の歌とエール」

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(28) 豊臣期大坂城三の丸の石垣 追手門学院小学校 

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(28)

豊臣期大坂城三の丸の石垣  大阪市中央区大手前1-3-20 (追手門学院小学校)

 追手門学院小学校では、改築工事の際、地下から当時の石垣が発掘された。

 発掘された石垣は「京橋口曲輪(篠の丸)」と推測され、ドーンセンターで発見された石垣とつながっていたと考えられる。

 そのままの状態の石垣は、地下にある職員駐車場とその下にあるボイラー室に見ることができる。(一般非公開)

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 フジテレビによる全国ネットで、同校の非公開である石垣がオンエアされて以降有名となった。 

 今回は、職員地下駐車場にある石垣をご案内した。

 さらに下に眠る石垣を同校のボイラー室で見ることは可能だが、見るための設備が整っておらず万一怪我があってはならないと思い写真による紹介にとどめた。

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<万城目学氏出身の小学校> 

 明治21年(1888)、薩摩藩出身 陸軍第四師団司令長官だった高島鞆之助(1844-1916)が「国家有為の人物の育成」を目指し、「将来の日本発展の原動力となる人材は小学校時代から育成すべきである」という思想をもって設立されたのが大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)。

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 卒業生にはたくさんの堺屋太一氏ほか著名人が多数いるが、2011年に公開された映画「プリンセストヨトミ」の原作者 万城目学氏もその一人である。

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 文庫本化された「プリンセストヨトミ」のあとがきに万城目氏は次のように記載している。

 私が通った小学校は、まさに大阪城の外堀と道路一本を隔てた場所にあった。

 ゆえに毎日、大阪城の外堀に沿って学校に向かい、六年間、天守閣をグランドから見上げ続けた。

 私は大阪城が好きだった。(途中略)

 校歌の中に「錦城のいらかは高く」という表現で、大阪城が堂々登場し、さらに校舎の建て替えの際、豊臣時代の金箔が残った瓦や城の石垣が、グランドの下から出土するような、まさしくお膝元に位置する小学校だったゆえ、子どもたち潜在的な秀吉支持率が高かったと思う。
「なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪」 (P538)より

 なお「錦城」と「金城」でどちらが正しいかを後に調査された結果、「金城」が正しく、以後「金城」で統一されている。

 

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(27) 豊臣期大坂城三の丸の石垣

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(27)

豊臣期大坂城三の丸の石垣  大阪市中央区大手前1-3-49(ドーンセンター)

 現在の大阪城に見られる石垣は、徳川幕府によって築かれた石垣である。

 豊臣期の遺構は、徳川家によってすべて土の中に葬り去られた。

 平成元年(1989)、ドーンセンターの建設に伴う発掘調査で、石垣が発見された。

 地下約2mのところに東西21mにわたって発見され、これまで見つかった豊臣期の石垣の中では最も残存状態の良いものだった。

 現在、地上に移されたおかげで石垣の仕組みを見ることができる。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(26) 明治紀念標跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(26)

明治紀念標跡 

明治35年(1902)、中之島にあった西南戦争の戦没者を追悼する明治紀念標は、大阪偕行社がある大手前(現在の追手門学院大手前中・高等学校の西南角)に移転された。台座をあわせて22mという異例な高さの忠霊塔だった。明治紀念標は戦時中に供出されて現在はない。

中之島にあった頃の写真より大手前にあった頃の写真のほうが多く残っている。

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豊臣期の大坂を歩く 番外編

豊臣期の大坂を歩く 番外編

7月22日、29日、8月5日の3回にわたって「豊臣期の大坂を歩く 夏の陣 VolⅠ~Ⅲ」を行いましたが、3回ともご参加いただいた方が8名もいらっしゃいました。総計のべ41名。

この場をお借りしてお礼申しあげます。

そのうちのお一方がBlogでご紹介していただいておられましたので、ご案内いたします。

asobo-rekishi-tansakuのブログ

また、当日紹介した写真をアップいたします。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(25) 大阪偕行社跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(25)

大阪偕行社跡 

陸軍将校の倶楽部(集会所)として、陸軍将校の親睦、教養、研鑽を目的で明治9年(1876)6月に設立された。

昭和20年(1945)6月、大空襲により社屋は全焼し、終戦後、偕行社は解散。

跡地にある追手門学院小学校の玄関と側壁、同大手前中・高等学校の正門は、大阪偕行社の遺構である。

明治天皇がここ大阪偕行社に行幸され、史跡として顕彰された石碑が同校敷地内に見られる。

また、学校の西側にある塀の外側に陸軍用地標石もいまだに残っている。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(24) 大坂東町奉行所跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(24)

大坂東町奉行所跡 

明治新政府外国事務局跡 江戸期、大坂には東町と西町の町奉行所があった。

両奉行所は月番制(一月交替)。

最初は両奉行所ともこの地にあった。

享保9年(1724)に大火があり、両奉行所とも焼失した。

西町奉行所はその後別の地に移り、東町奉行所はこの地に残った。

明治維新後、新政府の「外国事務局(現在の外務省)」が東町奉行所跡地に設置された。政権交代早々に外交に関する難問(神戸事件、堺事件、大阪開市問題など)が生じた。
これら難局を乗り切るため、外国事務局総督に山階宮二品晃親王、三条実美、伊達宗城、東久世通禧、沢 宣嘉が任命された。

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江戸前期は東町奉行所と西町奉行所が東西に並んで建っていた。

享保年間の大火事で両奉行所とも焼失。それ以降、西町奉行所は現在のマイドーム大阪または大阪商工会議所のある位置に移された。

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osayan のオリジナルソング

オリジナルソング

「一人旅」

昭和56年2月、高校2年のとき。学校内で開催した「若人の集い」で「あすなろ」というバンド

出演。前年の学園祭に続いて出演。

演奏する曲はすべてメンバー(3名)のオリジナルソング(編曲もあわせて)。

私の初作品は、音楽の宿題で提出したオリジナルソングが、バンドの曲として採用され、披露することになった。

曲の視聴はこちら

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(23) 石田三成邸跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(23)

石田三成邸跡 

豊臣秀吉政権のころ、五奉行のうちのひとりである石田三成の邸がここにあった。

大手前学園のビルが建っている辺りに該当する。

同学園は昭和56年4月より校舎増設に伴い、大阪城に関する発掘調査を行なった。

数々の遺物遺構が見つかった中で、石田三成邸にあったとされていた井戸の遺構が見つかった。その井戸の石の一部が同学園のビル玄関に飾られている。

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その日の模様

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(22) キリシタン寺(教会)跡

豊臣跡期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(22)

キリシタン寺(教会)跡 

大坂城三の丸にキリシタン寺があった。豊臣秀吉の死後、徳川家康による豊臣家攻略が始まろうとしているころ、豊臣・徳川両軍とも海外、キリスト教陣営と接触していた。大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城した。

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今夜も目一杯やるから最後まだ楽しんでいってほしい! やるよ!

薬師寺特設ステージでライブ 甲斐バンド

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SET LIST

01.破れたハートを売り物に
02.翼あるもの
03.フェアリー
04.きんぽうげ
05.裏切りの街角
06.シーズン
07.ビューティフル・エネルギー
08.悲しき愛奴(サーファー)
09.ナイト・ウェイブ
10.BLUE LETTER
11.恋のバカンス
12.安奈 2012
13.嵐の季節
14.氷のくちびる
15.ポップコーンをほおばって
16.漂泊者(アウトロー)
17.HERO(ヒーローになる時、それは今)

ENCORE 01
01.ダイナマイトが150屯
02.ラヴ・マイナス・ゼロ

ENCORE 02
100万$ナイト

詳細はこちら

「サンキュー! 甲斐バンドです」

薬師寺特設ステージでライブ 甲斐バンド

2012年8月12日、久しぶりに甲斐バンドとしてライブが行われた。

「破れたハートを売り物に」から始まり、夏に関連する名曲を次々と披露。

今まで見れなかった、許されるトチリもありそれをフォローする甲斐さんのトークも抜群でした。

今年、シングルとしてリリース予定の曲順のとき、その曲をとばして「嵐の季節」の前奏が始まった。客は順番を知らないので、前奏が終わって甲斐さんが歌いだすかと思ったら甲斐さんが「サンキュー」の一言でSTOP。

甲斐さん「びっくりしたー!次の曲は、今年シングルで発売される予定の番なのに、紹介できずに消え去るところでした。」(お客さん大うけ)

もう1箇所。バンド紹介で次々とメンバーが紹介されていき、田中一郎が紹介されると次の曲にいこうとした時、ドラムスの松藤英男の紹介を観客が解散に向かって手でアピール。

それに気づいた甲斐さんが松藤を紹介。

松藤はドラムスを叩いてから前に出てきて、甲斐さんに「警告」のポーズ。

甲斐さん「わざわざ、ドラムを叩いてから前に出てこなくても!」(またまた大うけ)

でも最後は決めました。

2回目のアンコール。どこかで聴いた曲。「街路」の演奏にお客がざわめく。

間髪いれずに「100万ドルナイト」の前奏が始まり、お客は「これがきたか!」

静かに聴き入る。

おなじみの照明効果が期待されるこの曲。薬師寺の仏殿、仏像とミックスして、「つらい愛と挫折の中 誰かが叫んでる 100万ドル・ナイト    WoO~!」

甲斐さんの叫びの中に演奏が続く。

すべてが終了し、メンバー全員が握手。

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テレビカメラが入っていて、NHKBSプレミアムで8月30日に放送予定だそうです。

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(21) 坂本龍馬ゆかりの地 船宿 堺屋源兵衛跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(21)

坂本龍馬ゆかりの地 船宿 堺屋源兵衛跡 

天満八軒家にあった船宿のうち「堺屋源兵衛」は、京都伏見の船宿「寺田屋」(龍馬の定宿で伏見奉行に襲撃を受けた場所)と業務提携していたので龍馬が利用していた可能性が高いと思われる。「京橋弐街目」の水帳を基に実測したところ、フロマージュ天満橋店(世界屋チーズ商会株式会社)の東端から東へ47.2732mの範囲が船宿堺屋源兵衛の間口となる。水帳には「内幅弐間(2間=3.6304m)の大道有」と記載がある。敷地内に2間(3.6304m)の道(高倉筋と思われる)を挟んだ店構えと考えられる。安政3年(1856)、東から西へ堺屋、京屋、有田屋、天王寺屋、伏見屋、播磨屋、小川屋、長浜屋という順に船宿が並んでいた。
 龍馬が姉乙女、おやべに宛てた慶応元年(1865)9月9日の手紙には次のような記載がある。

『(前文省略)伏見ニておやしきのそばニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。此両家なれバちょふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおりよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。』
と日野屋を紹介している。西郷伊三郎は龍馬の変名。

坂本龍馬の変名は、西郷伊三郎以外に、才谷梅太郎、高坂龍次郎、大浜濤次郎、取巻の抜六、自然堂と変名を使用していた。

天満八軒家は、伏見へのぼる淀川船の大坂駅になっている。天満橋と天神橋のあいだの南岸の地で、川ぶちに船宿がびっしりと軒をならべ、京大坂をのぼりくだりする旅客でにぎわっていた。
そこに京屋という船宿がある。京屋は新選組の御用やどで、将軍の大坂滞在中は、ここに一小隊が駐屯し、上下する旅客をあらためていた。
隊長は、藤堂平助である。藤堂は京屋の二階手すりに身をもたせかけ、下をゆく旅客を見おろしていた。(はて?)と、藤堂が目をこらしたのは、この日の昼まえである。
黒木綿の紋服をきた長身の武士が、京屋のとなりの堺屋という船宿から出てきた。まぎれもない坂本竜馬である。柏餅のようなかっこうの韮山笠をかぶっている。
「藤堂さん、あの男」と、そばにいた新田某という隊士が竜馬に同行している三吉慎蔵を指さした。
「そうだな」と、藤堂は、わざと気のない返事をした。「まあ、船着場に出ている連中がしらべるだろう。それよりも腹がへったな」と、藤堂は大刀をとって立ち上がり、めしでもくいにゆくようなそぶりで階段をおりた。
藤堂平助は、千葉道場での竜馬の後輩である。
司馬遼太郎氏の小説「竜馬がゆく 六 (文春文庫)」のP204より

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(20)新選組定宿 船宿 京屋忠兵衛跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(20)

新選組定宿 船宿 京屋忠兵衛跡 

「八軒家船着場」は、古くから「窪の津」「渡辺の津」といわれ、平安時代から四天王寺や熊野詣の人々の上陸地であった。江戸期にはこの辺りに船宿が8軒あったことから八軒家と呼ばれた。

京・大坂を淀川で結ぶ場として非常に賑わっていた。

新選組定宿「京屋忠兵衛」は、現在の土佐堀通南側フロマージュ満橋店から福助ビルに該当する。
間口は「京橋弐街目」の水帳によると11間(11×1.8182=20.002m)ほどあった。

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文久3年(1863)4月21日、将軍徳川家茂護衛のため新選組(当時は壬生浪士組)が下坂し京屋に宿泊した。

6月2日にも芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、平山五郎、野口健司、永倉新八、斎藤一、島田魁、井上源三郎が宿泊した。このとき大坂相撲力士との乱闘事件を起こす。

9月にも宿泊。元治元年(1864)7月には禁門の変後の大坂で残党狩りのため23日より宿泊した。
慶応2年(1866)1月19日には龍馬の護衛をしていた三吉慎蔵が八軒家で検問している新選組を目撃している。
鳥羽伏見の戦後、慶応4年(1868)1月6日、京屋へ投宿し、翌日大坂城へ入城したが、火災のため再度京屋へ戻ってくる。
「京橋弐街目」の水帳を見つけ、京屋並びに堺屋の跡地を見つけ出すのに貢献された奥野氏が、近年、フロマージュ天満橋店の許可を得て「京屋忠兵衛跡」の銘板を実費で建てられた。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(19)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(19)

料亭「三橋楼」跡 

江戸期から明治期にかけて「三橋楼」という料亭があった。

高台にあったため「天神橋」「天満橋」「難波橋」三つの橋を眺望することができたところから三橋楼と名づけられた。

元治元年(1864)11月16日、新選組隊長 近藤勇の名による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。
慶応4年(1868)4月、大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、大久保は小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所 篤を招き、三橋楼で祝宴をあげている。
明治7年(1874)~8年(1875)にかけ、大阪で繰り広げられた「大阪会議」の開催地のうちのひとつだった。

明治6年の政変後、大久保利通が政治の実権を握ったものの、不平士族の勢いが強まるばかりで、政府が困惑状態だった。そのような時期、井上馨、伊藤博文が、大久保利通に働きかけ、大阪を舞台に下野した木戸孝允の政界復帰の画策が行われた。
明治8年(1875)1月8日、木戸の宿泊先「加賀伊」に大久保が来訪。同伴にて「三橋楼」に場所を変え、10時間以上に及ぶ対談を行った。途中、黒田清隆が「三橋楼」に来訪。黒田は泥酔により両者の話をぶち壊してしまい、木戸は激怒し破談かと思われた。しかし、軌道修正され、「国会開設」に向けて話し合いが行われるようになった頃、同年1月26日、木戸孝允の呼びかけで、「三橋楼」において「囲碁会」が開催された。

参加者は井上 馨、中野梧一、鳥尾小彌太、伊藤博文、大久保利通、五代友厚、税所 篤、内海忠勝(大阪府参事)、松本、渡邊父子、山尾庸三、吉富などが参加した。その後、同年2月11日「加賀伊」において三者(大久保、木戸、板垣)の和解が成立し、木戸孝允、板垣退助は条件付きで政界に復帰することとなった。
これを「大阪会議」という。

明治10年、西南戦争が起こると「三橋楼」に陸軍参謀本部が置かれた。このことは、あまり知られていない。

【関連写真】

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(18)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(18)

大坂城謎の抜け穴跡 

大阪市内には、「大坂城の抜け穴」または「真田の抜け穴」と称されるものが十数か所あり、これらを利用して幸村が神出鬼没の戦いをしたといわれる。

江戸時代から語り継がれてきた由緒ある穴もあったそうである。

戦後、ほとんどの穴は埋められてしまった。

現在も残る抜け穴でもっとも有名なのは、天王寺区になる真田丸跡に近接する三光神社にある穴である。

阪神淡路大震災まではずいぶん奥まで穴があったようである。

現在は、ふさがり奥行きはあまり無い。

ここ八軒家の南に位置する石垣に人工的に作られた穴があり、地盤沈下の問題で現存させるのは困難であるようだが、穴の中は東西南北に広がっているという。

旧淀川に接しているだけに意味があると思われる。

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八軒家船着場の常夜燈が復元!

八軒家船着場の常夜燈が復元!

先月、天神祭りにあわせてかつて存在した八軒家船着場の常夜燈が、湯浅氏の寄贈により復元しました。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(17)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(17)

天神橋 

文禄3年(1594)豊臣秀吉が大坂城竣工後、褒美の印として天神橋が架けられた。江戸期、公儀橋のうちの一つで、大坂にある橋の中で一番の長橋だった。

天保3年(1832)、天神祭のとき、地車が橋から落ち13名が亡くなるという事件が起こっている。それ以降「天神橋長いな 落ちたら怖いな」というわらべ歌ができた。

明治18年(1885)、水害により流出し、同21年(1888)アーチ式の大鉄橋ができ今日に至る。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(16)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(16)

坐摩神社行宮 <渡辺・渡部等の姓の発祥の地> 

神社の創祀には諸説あるが、神功皇后が新羅より帰還の際、この地(渡辺)に奏祀されたのが始まりと伝わる。

境内には神功皇后が休息された鎮座石が今でも残っている。

石町はこの鎮座石に由来するという説もある。

天正10年(1582)、豊臣秀吉の大坂築城にあたり、替地を命ぜられ、寛永年間に現在地(中央区久太郎町4丁目渡辺3号)に遷座された。

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「豊臣期の大坂を歩く 夏の陣Vol.Ⅲ」

「豊臣期の大坂を歩く 夏の陣Vol.Ⅲ」

8月5日に行います。

詳細はこちらまで

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(15)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(15)

加藤清正邸跡

「労働センター南館」の建設に先立ち、昭和62年(1987)8月から11月にかけ、桃山時代(16世紀)に築造された豊臣秀吉による大坂城跡の発掘調査を実施した。

この地域は、大坂城の惣構内に位置し有力大名の屋敷があったと推測されていた。

調査の結果、元和元年(1615)大坂夏の陣で焼失した武家屋敷の遺構が検出された。

門の岩石とそれに続く築地塀基部の石垣は規模構造ともにすぐれ有力大名の外構施設に足るものである。

また、それらは現在の道路と同一方向で、当時の地割を考えるために貴重である。

そこで、検出された遺構をボルティコの一部とし、地上に移設、保存活用することにした。(但し、位置は建物との関係で若干移動している)また出土品はロビーで展示している。

なお、出土した鬼瓦に桔梗紋が使われているので、この屋敷の主は桔梗紋を家紋とする加藤清正あるいはその関係者と見られる。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(14)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(14)

紀州藩邸跡

徳川御三家のうちの一つ紀州藩の大坂蔵屋敷があった。紀州藩蔵屋敷はこの地以外に南堀江(西区南堀江2-5 堀江中学校付近)にも設けていた。

慶応4年(1868)3月23日、大阪に到着した明治天皇は、紀州藩邸に休息された。

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西区にある紀州藩邸跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(13)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(13)

新選組 山南敬助ゆかりの地 岩城升屋跡

江戸期、高麗橋の西詰周辺は繁華街で、京街道(東海道)の起点でもあり、呉服屋、扇屋、薬屋、菓子屋などの有名店が軒を並べるブランドストリートだった。三越のもととなる越後屋があったことで有名である。岩城升屋も越後屋のならびにあり、江戸にも支店があるような大きな呉服屋だった。
文久3年(1863)秋、岩城枡屋に盗賊が入り、京屋に滞在中の新選組に知らせが入った。
山南敬助ら隊士3名が岩城屋に駆けつけ、盗賊と斬り合いになり激戦になった。近藤勇はこの事件の詳細と山南敬助の多量の血糊がついた赤心沖光銘の押し型を故郷の多摩に書き送った。その内容を多摩の庄屋で地元の有力者だった小島鹿之助が日記に模写したため、今日この事件が大坂で起こったことや壮絶だったことを知ることができる。この事件後、山南敬助は報償として、京都守護職 松平容保より金8両が下賜された。剣術に優れた山南敬助はこのときの負傷により、第一線を退いた戸と推察される。明治19年(1886)5月6日の朝日新聞には、高麗橋一丁目呉服店岩城升屋の跡地に大阪市東區役所が移転地先として検分した
という記載がある。5月11日の朝日新聞では、大阪市東區役所が岩城升屋の跡地を五千圓余りで買い上げ、移転が決まったとの記載が確認される。

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