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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(21) 坂本龍馬ゆかりの地 船宿 堺屋源兵衛跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(21)

坂本龍馬ゆかりの地 船宿 堺屋源兵衛跡 

天満八軒家にあった船宿のうち「堺屋源兵衛」は、京都伏見の船宿「寺田屋」(龍馬の定宿で伏見奉行に襲撃を受けた場所)と業務提携していたので龍馬が利用していた可能性が高いと思われる。「京橋弐街目」の水帳を基に実測したところ、フロマージュ天満橋店(世界屋チーズ商会株式会社)の東端から東へ47.2732mの範囲が船宿堺屋源兵衛の間口となる。水帳には「内幅弐間(2間=3.6304m)の大道有」と記載がある。敷地内に2間(3.6304m)の道(高倉筋と思われる)を挟んだ店構えと考えられる。安政3年(1856)、東から西へ堺屋、京屋、有田屋、天王寺屋、伏見屋、播磨屋、小川屋、長浜屋という順に船宿が並んでいた。
 龍馬が姉乙女、おやべに宛てた慶応元年(1865)9月9日の手紙には次のような記載がある。

『(前文省略)伏見ニておやしきのそばニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。此両家なれバちょふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおりよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。』
と日野屋を紹介している。西郷伊三郎は龍馬の変名。

坂本龍馬の変名は、西郷伊三郎以外に、才谷梅太郎、高坂龍次郎、大浜濤次郎、取巻の抜六、自然堂と変名を使用していた。

天満八軒家は、伏見へのぼる淀川船の大坂駅になっている。天満橋と天神橋のあいだの南岸の地で、川ぶちに船宿がびっしりと軒をならべ、京大坂をのぼりくだりする旅客でにぎわっていた。
そこに京屋という船宿がある。京屋は新選組の御用やどで、将軍の大坂滞在中は、ここに一小隊が駐屯し、上下する旅客をあらためていた。
隊長は、藤堂平助である。藤堂は京屋の二階手すりに身をもたせかけ、下をゆく旅客を見おろしていた。(はて?)と、藤堂が目をこらしたのは、この日の昼まえである。
黒木綿の紋服をきた長身の武士が、京屋のとなりの堺屋という船宿から出てきた。まぎれもない坂本竜馬である。柏餅のようなかっこうの韮山笠をかぶっている。
「藤堂さん、あの男」と、そばにいた新田某という隊士が竜馬に同行している三吉慎蔵を指さした。
「そうだな」と、藤堂は、わざと気のない返事をした。「まあ、船着場に出ている連中がしらべるだろう。それよりも腹がへったな」と、藤堂は大刀をとって立ち上がり、めしでもくいにゆくようなそぶりで階段をおりた。
藤堂平助は、千葉道場での竜馬の後輩である。
司馬遼太郎氏の小説「竜馬がゆく 六 (文春文庫)」のP204より

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