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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(20)新選組定宿 船宿 京屋忠兵衛跡

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(20)

新選組定宿 船宿 京屋忠兵衛跡 

「八軒家船着場」は、古くから「窪の津」「渡辺の津」といわれ、平安時代から四天王寺や熊野詣の人々の上陸地であった。江戸期にはこの辺りに船宿が8軒あったことから八軒家と呼ばれた。

京・大坂を淀川で結ぶ場として非常に賑わっていた。

新選組定宿「京屋忠兵衛」は、現在の土佐堀通南側フロマージュ満橋店から福助ビルに該当する。
間口は「京橋弐街目」の水帳によると11間(11×1.8182=20.002m)ほどあった。

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文久3年(1863)4月21日、将軍徳川家茂護衛のため新選組(当時は壬生浪士組)が下坂し京屋に宿泊した。

6月2日にも芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、平山五郎、野口健司、永倉新八、斎藤一、島田魁、井上源三郎が宿泊した。このとき大坂相撲力士との乱闘事件を起こす。

9月にも宿泊。元治元年(1864)7月には禁門の変後の大坂で残党狩りのため23日より宿泊した。
慶応2年(1866)1月19日には龍馬の護衛をしていた三吉慎蔵が八軒家で検問している新選組を目撃している。
鳥羽伏見の戦後、慶応4年(1868)1月6日、京屋へ投宿し、翌日大坂城へ入城したが、火災のため再度京屋へ戻ってくる。
「京橋弐街目」の水帳を見つけ、京屋並びに堺屋の跡地を見つけ出すのに貢献された奥野氏が、近年、フロマージュ天満橋店の許可を得て「京屋忠兵衛跡」の銘板を実費で建てられた。

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