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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(13)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(13)

新選組 山南敬助ゆかりの地 岩城升屋跡

江戸期、高麗橋の西詰周辺は繁華街で、京街道(東海道)の起点でもあり、呉服屋、扇屋、薬屋、菓子屋などの有名店が軒を並べるブランドストリートだった。三越のもととなる越後屋があったことで有名である。岩城升屋も越後屋のならびにあり、江戸にも支店があるような大きな呉服屋だった。
文久3年(1863)秋、岩城枡屋に盗賊が入り、京屋に滞在中の新選組に知らせが入った。
山南敬助ら隊士3名が岩城屋に駆けつけ、盗賊と斬り合いになり激戦になった。近藤勇はこの事件の詳細と山南敬助の多量の血糊がついた赤心沖光銘の押し型を故郷の多摩に書き送った。その内容を多摩の庄屋で地元の有力者だった小島鹿之助が日記に模写したため、今日この事件が大坂で起こったことや壮絶だったことを知ることができる。この事件後、山南敬助は報償として、京都守護職 松平容保より金8両が下賜された。剣術に優れた山南敬助はこのときの負傷により、第一線を退いた戸と推察される。明治19年(1886)5月6日の朝日新聞には、高麗橋一丁目呉服店岩城升屋の跡地に大阪市東區役所が移転地先として検分した
という記載がある。5月11日の朝日新聞では、大阪市東區役所が岩城升屋の跡地を五千圓余りで買い上げ、移転が決まったとの記載が確認される。

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