豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(11) 北の政所邸跡・豊臣秀長邸跡・大坂城代上邸跡 西の丸
豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(11)
北の政所邸跡・豊臣秀長邸跡・大坂城代上邸跡 西の丸
豊臣秀吉の正室 北の政所(ねね)は、秀吉の死後、家督を継いだ秀頼と淀の方に本丸を譲り、自身は西の丸に住居を移した。
豊臣秀吉が大坂城主の頃、秀吉の弟 豊臣秀長の屋敷が現在の西の丸庭園にあった。
秀吉に臣下の礼をなかなか取らなかった徳川家康が、ようやく大坂城に登城したとき、前日の宿所になったのが豊臣秀長の邸だった。
登城する前夜、秀吉は家康に会うために秀長邸を訪れた話は有名。
また、本丸にあった「表御殿」に当時新発明だった雨戸が設けられており、家康が泊まった夜も、雨戸を閉めたところ、その音に敏感に徳川の家来たちが反応したという。
大坂城代上邸跡 西の丸
江戸幕府は、西国大名の監視をする役割として大坂城に城代を置いた。
初代大坂城代は高槻城主 内藤信正で、元和5年(1619)に着任した。
幕末までで、合計70名の大名が大坂城代を務めている。
邸跡の遺構として井戸が唯一残っている。
城代は主に譜代大名が任命され、京都所司代、勘定奉行などを歴任し、いずれは老中に就任する出世コースといわれている。
城代の上屋敷が西の丸に設けられ、当時の井戸が残っている。
京都所司代などを歴任し老中になるためのエリートコースのポストである。
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