豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(10) 二の丸千貫櫓
豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.Ⅱ レポート(10)
二の丸千貫櫓
石山本願寺から「千貫櫓」という名称の櫓が存在した。
現在見ることができる「千貫櫓」は、大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620)に創建。
昭和36年(1961)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日が明らかになった。
大阪城内に残る古建物の中で、最も古い建物になる。
千貫櫓の名前の由来は、織田信長の石山本願寺攻めのとき、「あの櫓を落としたときは銭千貫を与えても惜しくない」といわれたことかがきっかけだそうである。
織田信長と石山本願寺の争いは10年にも及んだが、なかでも天正4年(1567)5月7日、「大坂大寄せ」といわれる織田軍総攻撃が行われ猛烈な戦闘が繰り広げられた。
このときに「千貫矢倉」の名が歴史に刻まれた。
「陰徳太平記」では信長軍は城郭の奥まで攻め込み、あと1塀を残すのみの段階で、顕如法主が紅の衣で矢倉の上に姿を現し、金の団扇を振って敵に向かって招く仕草をしてという。
これを観た城兵(本願寺軍)は必死で奮戦し、織田軍を蹴散らし、城の陥落を防いだという。
偶然にも38年後の5月7日は、「大坂夏の陣」にて徳川軍に敗れ、大坂城天守閣が炎上した日でもある。
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