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2012年7月

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(12)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(12)

大阪銀座跡 -大阪にも銀座があった!-

高麗橋(東海道57次の起点)から徒歩2分の場所に「大阪銀座」が幕末期まで存在していました。銀座といえば東京をイメージしがちですが、大阪にもありました。

ガイドをした際、坂本龍馬の「銀座移転論」をご紹介しました。

坂本龍馬が後藤象二郎にあてた手紙は下記のとおりです。

龍馬は「大政奉還」が駄目だった場合の次の策を後藤象二郎に指示していました。

去ル頃御建言書ニ国躰を一定し政度ヲ一新シ云々の御論被行候時ハ、先ヅ将軍職云云の御論は兼而も承り候。此余幕中の人情に不被行もの一ケ条在之候。其儀は江戸の銀座を京師ニうつし候事なり。此一ケ条さへ行被候得バ、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なけれバ恐るゝにたらずと奉存候。此所に能ゝ眼を御そゝぎ被成、不行と御見とめ被成候時は、義論中ニ於て何か証とすべき事を御認被成、けして破談とはならざるうち御国より兵をめし、御自身は早々御引取老候様に御報じ可然奉存候。破談とならざる内ニ云云は、兵を用御座候。   
                                 謹言
十月
                               楳 拝首
後藤先生

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(11)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(11)

高麗橋

橋の名の由来は、古代に朝鮮半島諸国の使節を迎えた「高麗館(こまのむろつみ)」があったからという説と、豊臣秀吉の大坂町割りの際、この辺に朝鮮との交易の拠点があったという説など多数ある。
大坂冬の陣・夏の陣では、高麗橋をめぐる攻防戦は熾烈をきわめ、元和元年に大坂城が落城した時、この高麗橋の擬宝珠を徳川方の安藤右京進重長が持ちかえり、長く安藤家で所持していた。その後、大磯の吉田茂元首相邸に保管されていることが明らかになり、関係者と遺族の手によって、再び大阪に戻ってきた(1969年)。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(10)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(10)

大坂城の外堀-西惣構(東横堀川)

東横堀川は土佐堀川から分かれ、大阪市中央区を南北に流れて道頓堀へと至る全長3kmの運河である。東横堀川は天正13年(1585)、豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削。大阪市で最古の堀川である。当時架かっていた橋は北から順に「浜の橋」「高麗橋」「平野町橋」「淡路町橋」「備後橋」「本町筋橋」「久太郎町橋」「久宝寺町橋」「かんとうし町橋(安堂寺町橋?)」「うなぎ谷町橋」があった。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(9)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(9)

岩本榮之助所有の地跡  中央区北浜1-9-9

住岩本榮之助は、大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本栄蔵の次男として南区安堂寺橋通2丁目(現・中央区南船場2丁目付近)に生まれる。
明治39年(1906)4月、父栄蔵から家督を相続。
明治40年(1907)、株式市場の大暴落時に野村徳七ら大阪株式取引所(現大阪証券取引所)の仲買人らの訴えで全財産を投じて市場を買い支え、北浜の仲買人らを救った。私財を投じて塾を作るなどをし、取引所で働く少年たちを支援した。そのことで「北浜の風雲児」と称えられる。
明治42年(1909)に財界が結成した渡米実業団に加わり、渋沢栄一らとともにアメリカ合衆国を視察。
明治44年3月8日、大阪市に金百万円を寄付するとの発表。そのときにはまだ寄附の内容は決まっておらず、検討を重ねた結果、市民の誰もが利用できる「中央公会堂」を建設する案に決定する。
第一次世界大戦を機に苦境となり、大正5年(1916)10月22日、岩本商店の全使用人と家族を松茸狩りに出した後、自宅の離れ屋敷で陸軍将校時代に入手した短銃で咽喉部を斜めに打ち抜き自殺を図る。左手には愛用の菩提樹の数珠を握っていた。その5日後の同年10月27日永眠。享年39。辞世の句「この秋をまたでちりゆく紅葉哉」。
その2年後の大正7年10月、中央公会堂が竣工。
同年11月17日に落成奉告祭が行われた。 現在、大阪市中央公会堂地下1階には、「岩本記念室」が設置され、銅像と遺品が展示されている。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(8)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(8)

旧住吉街道(紀州街道) 

住吉街道は、(1)住吉大社付近で紀州街道から東行分岐し、住吉大社を横切り現在の長居交差点に到る道筋の名称として用いられる場合と、(2)紀州街道の一部の別称として用いられる場合との二つの用例が見られる。現在の堺筋が旧紀州街道にあたる。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(7)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(7)

五代友厚座像 

大阪証券取引所からすぐの場所にある光世証券株式会社の社屋入り口に、中村晋也氏の作による五代友厚の座像がある。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(6)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(6)

大阪慶應義塾跡  中央区北浜2-5-23(小寺プラザビル) 緒方洪庵の適塾で塾頭を経験した福澤諭吉は、幕命により江戸へ出仕することになり、江戸築地鉄砲州の中津藩中屋敷にて蘭学塾を開いた。この塾が「慶應義塾」に発展する。慶応4年(1868)、塾名を慶應義塾と変更。全国各地からの入塾者が多くなり、諭吉の生誕の地でもあり学問を学んだ適塾がある地でもある大阪に「大阪慶應義塾」を開塾した。
「大阪慶應義塾」は明治6年(1873)11月1日、安堂寺橋通3丁目192番地の丸屋善藏の控えの家で開塾した。「丸屋」は後の「丸善」です。書店として開業したのは明治元年(1868)でした。明治7年6月に「丸屋」から小寺篤兵衛宅(現:北浜2-5-23)に移転した。創立150周年にあたる平成21年(2009)に大坂慶応義塾跡の石碑が建立された。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(5)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(5)

土佐堀の由来 『大阪市史』によると、この付近は豊臣期に土佐商人の群居した土佐座の地といわれ、これによって河川名を土佐堀川と名づけたと伝えられている。

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(4)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(4)

明治紀念標跡 明治10年(1877)に起こった西南戦争の戦没者を追悼する慰霊塔。
明治12年(1879)、博交社(後に大阪偕行社と改称)が中心となって寄付を募り、明治16年(1883)、中之島の豊國神社の西隣で現在の中央公会堂のある場所に建立された。
5月6日から3日間にわたって落成式典が行われ、その後も毎年5月に招魂祭がここで行われたことから、陸軍にとっては東京の靖国神社にも匹敵する施設であったといえる。
寄付を募るポスター風の広告物(倉敷市立美術館所蔵)は、維新後に、大阪で初めて洋風表現をした画家、森琴石の手で100分の1の銅版画として作られた。

次回、7月29日は夏の陣vol.2です。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(3)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(3)

大阪市中央公会堂 株仲買人 岩本榮之助(1877-1916)が大阪市に私財100万円の寄付によって大正7年(1918)に建てられた
 (当時の100万円は現在の貨幣価値で30億円を超える)。
※大阪城天守閣復元費用47万円
岩本榮之助は、30歳で相場師として成功し、「商いで儲けさせてもらったのも人様のおかげ。大阪の街にみんなが楽しめる公共の場を作りたい」という思いで私財を寄贈した。公会堂建設中に、岩本は第一次世界大戦の影響で相場の深みにはまり大損害を被った。
当時の市長が、寄付金の返還を申し出たが、岩本は頑なに固辞し、公会堂の完成を見ないまま大正5年(1916)に自ら命を絶った。
享年39歳。その岩本榮之助の遺品が、中央公会堂の地下1階に展示されている。日本銀行大阪支店を設計した辰野金吾が、設計に関し相談を受け懸賞設計方式を採った。
 地下1階、地上3階、2000名収容の大集会場、500名が一度に会食ができるホールが建てられた。市民の集会場として親しまれ、時にはロシア歌劇団の公演、ヘレン・ケラー(アメリカの盲(もう)聾唖(ろうあ)の著述家、社会福祉事業家)の講演会などが行われた。ここ何年間か改修工事をし、大阪を代表する建物として赤レンガの公会堂が甦った。

<ミネルヴァ・メルクリウス像> 昭和18年(1943)、公会堂に2つの像がある。商工業の町にふさわしくローマ神話の知恵と工芸の神「ミネルヴァ」と商売の神「メルクリウス」の像がある。一時戦争で供出されたが、平成14年(2002)8月に復元された。

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(2)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(2)

豊國(ほうこく)神社跡 豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀った神社。豊臣氏滅亡後、徳川幕府は、社殿の修理一切を認めなかったため衰退していった。明治時代に再建が認められ、京都に興し、別社として明治12(1879)大阪中之島、現在の中央公会堂の地に建てられた。明治36年(19033月、神社境内に豊臣秀吉の銅像が建てられたが、太平洋戦争の折、供出のため姿を消し、復元されないまま今日に至っている。昭和36年(1861)、神社は大阪城内に移った。

※京都市東山区にあるのは豊国(とよくに)神社。                  

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豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート(1)

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 レポート

・木村長門守重成表忠碑 明治29年(1896)、大阪府知 西村捨三と侠客 小林佐兵衛によって建立。木村重成は、豊臣家の家臣としてよく働いた有名な武将。元和元年(161556日、大坂夏の陣により徳川家康と奮闘したが、河内若江の堤で討死。

 この石碑の石は、豊臣秀吉による大坂城築城の際、はるばる運んできた石で、安治川に沈んでいたのを小林佐兵衛が引き上げて寄付したもの。この時期、歌舞伎役者 市川新蔵が十代目市川団十郎を引き継ぐ間際に「眼疾」に犯され再起が心配される中、今生の思い出に「木村重成」を演じたいと申し出た。その願いが聞き入れられ見事に演じきっ た。

 その芝居を観に来ていた大阪府知事の西村捨三が感動し、建碑運動を起こし実現した。

<西村捨三> 6代大阪府知事。西村捨三は、天保14年(18437月 彦根藩作事奉行西村又次郎の三男として生まれた。明治22年(1889)、大阪府知事(大阪港の開港には永年尽力している)に就任。同24年(1891)から農商務次官等々を歴任。明治41年(1908114日に郷里彦根で逝去、享年66歳。従三位勲二等瑞宝章を賜る。大阪築港事務所初代所長の功績をたたえるため、昭和32年(1957)天保山公園(大阪市港区築港3)に銅像が建立された。

<小林左兵衛> 天保元年(1830)に生まれた。任侠の道に入ったが、明治6年(1873)、大阪消防「北大組」の請負人となり、300人の若い者を束ねて活躍する。

堂島の米市場の「差米」と市中各橋の掃除を仕切り収入を得ていたが、その収入で老人や幼児を引き取り世話をしていた。明治16年(1883)頃から大阪初の感化院を設立する池上雪枝に協力し、非行の少年少女の更生に尽力した。その後、「小林授産所」を設け、孤児や捨て子を養育した。

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豊臣期の武将(加藤清正、石田三成)の邸跡をご案内(2012.7.22) 

豊臣期の武将(加藤清正、石田三成)の邸跡をご案内(2012.7.22) 

夏の史跡探訪がいよいよ近づいてきました。

またまた前回の続報です。

「豊臣期の大坂を歩く 夏の陣 vol.1」では豊臣秀吉に仕えた武将の邸跡をご紹介します。

大坂城三の丸には全国の武将の邸が構えられました。

7.22には加藤清正と石田三成。

8.5の「豊臣期の大坂を歩く 夏の陣 vol.3」では、前田利家、千利休、宇喜多秀家、細川忠興をご紹介します。

また、昨年建立された下記写真の人の銅像もご案内します。

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申し込みはこちらから

豊臣期の大坂城石垣をご案内!

豊臣期の大坂城石垣をご案内(2012.7.22) 

さて、夏の史跡探訪がいよいよ近づいてきました。

前回の続報です。

一般公開されていない「豊臣期の大坂城石垣」をご案内いたします。

今日、許可をもらいました!

現在、私たちが見る大阪城の櫓や石垣は、江戸期、徳川家が築いた大阪城です。

石垣は寸法や角度が計算されたうえで積まれています。

豊臣期のころは、野面積みといい、徳川期の石垣とはまったく違います。

徳川家が豊臣期の大坂城を埋めてその上に徳川大坂城が築かれたので、掘ると豊臣期の遺構や遺品が出てきます。

今回ご案内する箇所も、建物の建て直し時に見つかった石垣。

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一人でも多くの方にご参加いただきたいと思っております。

申し込みはこちらから

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 

豊臣期の大坂を歩く 夏の陣vol.1 

たまたま、このブログを書こうと思いましたら、ABCラジオ「大阪歴史ロマン」の2回目の放送が始まりました。

話は大坂城についてでした。私の勤務先がスポンサーとなっている番組です。

村上信夫のosaka歴史ロマン〜歴史を知れば今がわかる〜 毎週月曜日18:35~

ラジコで全国の皆さんにも是非聞いてほしいです。

さて、夏の史跡探訪がいよいよ近づいてきました。

vol.1は7/9現在で定員まであと6名となりました。

キャンセル待ちにならないよう早めにお申し込みください。

見所をご紹介します。

・木村重成表忠碑  豊臣軍のもっともいけメンで人気がある武将。この石碑が建立されたいきさつを披露。

・サイトの紹介では記載されていませんが、「大阪慶応義塾跡」をご案内。

 このまま存続していたら「関関同立」という言葉は無かったかも?

・大坂城の抜け穴

 昨年、追手門学院の卒業生であるM氏の小説「プリンセストヨトミ」が映画で公開されましたが、キーポイントの抜け穴。天満橋に残る「抜け穴」跡をご紹介。

ついでに坂本龍馬が利用したであろう船宿「堺屋源兵衛」跡と新選組定宿「京屋忠兵衛」跡もご紹介します。

そのほか、豊臣秀吉に可愛がられた加藤清正、石田三成の邸跡もご紹介。

そして、大阪城にあるほとんどの石垣は徳川期に築かれたものですが、2箇所だけ豊臣期の積まれた石垣をご案内いたします。

ぜひとも、当日ご参加ください。

申し込みはこちらから

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今はコンクリートで封じられています。中は穴が東西南北に広がっているそうです。

大坂夏の陣 「豊臣期の大坂を歩く」を行います!

「豊臣期の大坂を歩く」

7月~8月にかけまして、私自身初挑戦、安土桃山時代の史跡探訪絵を行う事となりました。

題して「豊臣期の大坂を歩く 夏の陣 Vol.1~3」

3回大阪市内の史跡探訪を行います。

真夏日に街歩きは酷かもしれませんが、一人でも多くの方の参加を期待しております。

詳細はこちらまで

そのほかは

http://www.osaka-asobo.jp/

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