夕陽丘史跡探訪 原点に戻って
大阪史跡探訪 夕陽丘
1月28日(土)、「大阪歴史散歩の会」から2回目のご依頼をいただき、夕陽丘周辺をご案内いたしました。
平均年齢が70歳以上。でもなんとお元気で明るい方々ばかり。
1/25のNHKの「歴史ヒストリア」で井原西鶴について取り上げられたばかり。
生國魂神社境内にある井原西鶴像では、これまでにない時間を費やし、井原西鶴について語らせていただきました。
今年初めてのガイドでしたが、ところどころ人物の名が出てこなかったりし、年齢を感じましたが、参加いただいた方の皆様には、初めて聞く内容も多く満足をいただいて、ほっとしました。
ご案内箇所は以下のとおりです。
・大仙寺 臨済宗の寺で、淀屋常安の墓があり、淀屋一族の菩提寺でもある。幕臣である伊庭八郎が、将軍家茂の上洛に伴って、大坂にやって来た際に宿泊している。21歳のとき、元治元年(1864)1月14日の江戸出発から、6月15日に江戸に帰るまで、「征西日記」を表した。幕臣の日常や公務についても記されている。伊庭八郎は心形刀流の宗家の息子で、遊撃隊の隊長になる。剣術に天性の才が有り、「伊庭の小天狗」と言われた。江戸に居た頃の土方歳三の遊び仲間で、土方が吉原田圃で大喧嘩をしたときには、助っ人に来たというエピソードが残されている。箱館戦争にも共に参加し、木古内の戦いで重症を負い、明治2年(1869)5月、五稜郭開城前夜、服毒自殺をする。
・法性寺 法性寺は日蓮宗のお寺で、維新時のオランダ人医師、ボードウインの宿舎となった。現在もガラスの菓子入れや、ボードウインの写真など遺品が残されている。ボードウインは浪華仮病院のお雇い医師で、負傷した大村益次郎や労咳だった小松帯刀の主治医であった。また、ここは薩摩藩出入りの御用商人薩摩屋半兵衛の菩提寺でもあり、その縁か、坂本龍馬が新選組に追われた際に、匿って潜伏したという言い伝えが残されている。
・福泉寺 赤穂義士のうち、父子で仇討ちに参加した堀部弥兵衛・安兵衛の墓が福泉寺にあります。全国各所に両名の墓があります。
・薬王寺 赤穂義士47士のうちの一人である大高源吾の墓を天川屋利兵衛(天野屋利兵衛のモデルと伝えられる人物)によって建てられました。墓碑の土台には大高源吾が切腹時に詠んだ句が記載されています。 梅でのむ茶屋もあるべし 死出の山
・英国公使ハリー・パークス宿泊の地 正法寺 幕末期、英国公使ハリー・パークスが来坂の際宿泊した。
・英国外交官アーネスト・サトウ宿泊の地 法雲寺、本覚寺跡 アーネスト・サトウが初めて来坂したのは、慶応3年(1867)1月7日。来坂の目的は、将軍徳川慶喜が公使ハリー・パークスとの謁見を控え下見と大坂町民の観察だった。1月9日午後に薩摩藩士 吉井幸輔(のちの友実)が、サトウの宿泊所 本覚寺を訪れた。11日には、再び吉井幸輔が小松帯刀を伴って本覚寺を訪ね、朝食を共に摂った。小松と吉井は、パテ・ド・フォアグラとビールが大いに気に入ったとサトウは書き残している。同年7月、3回目の来坂。パークス・慶喜との大坂城での謁見当日の早朝、7月27日、薩摩藩士 西郷吉之助が本覚寺にいるアーネスト・サトウを訪ね会談を行った。5回目の来坂は、慶応4年(1868)2月。本覚寺ではなく法雲寺に宿泊。この来坂中に「堺事件」が勃発している。
(前文省略)大坂商社仏人(フランス人)と取り結び、大いに利を計り、候趣委敷(くわしく)申し聞け、仏人のつかわれものと御話しの通り言い掛け、些(いささ)か腹を立てさせて見たき賦(つもり)に御座候故、仏に憤激いたし候様説き込み候処、大いによく乗り、思い通りに怒らせ候処、段々意底を咄(はな)し出し候間、左の通りに御座候。 |
・梶井 基次郎墓所(常国寺) 梶井基次郎は、明治34年(1901)大阪市西区土佐堀通五丁目(現西区土佐堀三丁目)に生まれ、昭和7年(1932)3月24日死去しました。昭和3年(1928)、「蒼穹」「冬の蝿」「ある崖上の感情」などを発表しましたが、病気が悪化となり、臥床するときが多くなりました。その後、昭和6年(1931)には、三好達治、淀野隆三らの尽力で創作集「檸檬」を出版し、翌年の昭和7年(1932)には、「のんきな患者」を「中央公論」に発表後、病状が悪化し、31歳の短い生涯を閉じました。
・藤次寺(高野山真言宗) 藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人を開基とする。摂関家である藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、「藤冶寺」と称していたが、明治時代から「藤次寺」と改称。俗称「融通さん」と称されている。(願い事を1つだけ叶えてくれる)
・オセロ(中島知子、松嶋尚美)・今田耕司がこの付近に住んでいて、境内のブランコでよく遊んでいた。
・生國魂神社 「難波大社(なにわのおおやしろ)」とも呼ばれ、国土の守護神、大阪の総鎮守として崇敬されている神社。神武天皇が難波の津に上陸し、国土の神である生島神・足島神を現在の大阪城付近に祀ったのが始まりと伝えられています。織田信長の石山本願寺攻めの際、社殿は焼失します。当初は石山本願寺に隣接していたが、織田信長との戦で焼失。豊臣秀吉が大坂城築城のため現在地に移転。
・八軒家船着場常夜燈① 生國魂神社北側にある門の左右と「米澤彦八の碑」の北側に対となった八軒家に建てられていた常夜燈2種類が生國魂神社境内に移されています。そのうちのひとつが、真言坂を上がった神社の門の左右に設置されています。門にある常夜燈は、万延元年の建立された常夜燈で、呉服屋連合の寄進によるものです。
・井原西鶴像 井原西鶴は寛永10年(1642)に大坂の裕福な家に生まれました。本名は平山藤五といい、井原姓は母方の姓になります。43歳の時、住吉大社で開かれた「矢数俳諧興行」で23,500句をわずか一昼夜で詠むという驚異的な記録を残しています。換算すると1分間に平均16句を詠んだ事になります。生國魂神社境内においても「大矢数俳諧」を行い、一昼夜通して4000句を詠みました。そのほか、「日本永代蔵」「世間胸算用」などの作品を残しています。元禄6年(1693)、52歳の時、亡くなりました。
・八軒家船着場常夜燈② 「米澤彦八の碑」の北側に対となった八軒家船着場に建てられていた常夜燈が生國魂神社境内に移されています。寛保年間(1741~1744)に建立されたものです。天満八軒家船宿の皆さんが寄贈されたものです。中には、幕末期、新選組の定宿「京屋忠兵衛」や伏見寺田屋と業務提携をしていた「堺屋源兵衛」などの名前が確認できます。
・水戸藩士 川崎孫四郎 自刃の所 笠間藩士 島 男也 旧居跡
安政7年(1860)3月3日、江戸の桜田門外で、水戸、薩摩の脱藩浪士により、大老 井伊直弼が暗殺されるという大事件がおこりましたが、このとき、江戸だけではなく大坂でも並行して、水戸、薩摩藩を中心とした挙兵計画がありました。挙兵を計画したのは、水戸藩士 高橋多一郎、川崎孫四郎ら水戸藩士です。ところが、薩摩藩が慎重策に変じ、計画が進まなくなったところで、幕吏(大坂町奉行所)に漏れてしまいます。桜田門外の変後、間もない万延元年(1860)[※3月18日より改元]、生國魂神社境内にあった笠間藩士 島 男也宅に水戸藩の志士たちが協議のため集まっているところを幕吏が取り囲みます。川崎孫四郎は自刃し死に切れないでいるところを捕らえられ、翌日死亡します。
島 男也は捕らえられた後、江戸の伝馬町の牢に送られ、文久元年(1861)11月5日牢死します。そのほか、高橋多一郎、庄左衛門父子は、囲みを破り四天王寺まで逃れますが、ついに観念し、同寺内で自刃します。(高橋父子の墓が四天王寺境内にあります。
佐久良東雄も捕えられ、江戸伝馬町の牢獄に送ら6月獄死します。
・土佐藩ゆかりの寺 齢延寺 武市半平太(瑞山)の妻 富子の弟で武市半平太の義弟にあたる島村寿太郎(洲平)は、武市半平太が切腹する際、小笠原忠五郎とともに介錯人を命じられ、辛い役目を果たしている。戊辰の役では従軍し活躍するが、明治6年(1873)12月2日、大阪で死亡しこの寺に埋葬された。土佐藩刀工の佐(さの) 行(ゆき)秀(ひで)や、同藩郷士 安岡恒之進の墓所もある。安岡恒之進の従兄弟にあたる安岡嘉助は、武市半平太の密命により、大石団蔵、那須信吾の3人で土佐藩参政吉田東洋を暗殺している。
南門に「見ザル・聞かザル・言わザル」、対の仁王像は左が白鳳、右が朝青龍がモデル
・萬福寺(新選組旅宿跡) 萬福寺は西山浄土宗のお寺で、ある。文禄3年(1594年)前田利家の弟 前田利信と僧開導によって開創された。慶応元年(1865年)5月に将軍家茂の上洛に備えて、大坂の警備のため新選組は萬福寺、会津藩は一心寺に屯営を振り分けられる。新選組は谷三十郎以下、20人ばかりが本堂(宝暦年間に創設。間口9間、奥行8間)で寝起きしていたと伝わる。5月26日、尊攘派浪士と交流があったと疑われた藤井藍田が萬福寺に連行される。藤井は尋問に答えようとせず、押収書類から藤井の潜伏浪士との交遊関係を察知した隊士らは、これに激昴し、藤井を獄中で刺殺したものと思われる。また、6月15日には新選組が警備するので、中止される予定だった天神祭を実施しないかと、大坂天満宮に持ちかけた。その返答を下寺町の「我等旅宿」まで持ってくるようにと回状が回ってきて、下寺町まで届けたと、天満宮の宮司が日記に記している。
・小説「燃えよ剣」ゆかりの地 料亭 西昭庵(さいしょうあん)跡
「浮瀬(うかむせ)」、「福家席」と並んで大坂を代表する料亭「西昭庵」が夕陽丘にありました。場所は、現在でいうと夕陽丘学園(旧大阪女子学園)のあたりになります。
司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」では、土方歳三が口縄坂を上って「西昭庵」に行く場面があります。(参考:新潮文庫「燃えよ剣」下巻P195~)
・織田作之助文学碑 織田作之助は、大正2年(1913)、大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐町4丁目27)にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれました。作家活動を始め、「夫婦善哉」を発表し著名になります。「木の都」は、昭和19年(1944)「新潮」に発表された作品は、織田作之助が大阪に在住していた最後の小説で、大阪的庶民気質や大阪人情への深い共感が読み取れる作品です。文学碑には次のような記載があります。
・松尾芭蕉墓所と芭蕉堂(梅旧院) 生涯松尾芭蕉の顕彰に尽力した俳人 不二庵二柳(ふじあんじりゅう)が、朽ちていた松尾芭蕉の墓を修復し、その横には自身の墓が並んでいます。不二庵二柳は、俳諧の低俗化や遊戯化を憂い、芭蕉の精神に戻り芸術性を持たせようと運動を起こします。天明期、梅旧院に芭蕉堂を建てました。大正期、朽ちてきたところを松瀬青々が復元をしています。
・陸奥宗光の父 伊達宗広隠居(自在庵)跡(稱念寺) 伊達宗広は享和2年(1802)5月25日、紀州藩士の家に生まれます。紀州藩主 徳川治宝(はるとみ)は宗広の才能を評価し18歳で藩の監察に任じます。その後、勘定吟味役、勘定奉行、寺社奉行兼務と昇進して500石取りとなります。家老山中筑後守を補佐して藩政改革を推進する一方で、藩内の尊王論を主導していきました。嘉永5年(1852)に山中筑後守、更には藩主 治宝が相次いで病死すると、改革に反対する派が推す家老水野忠央が実権を握ります。幕府からの信頼も厚かった水野は、藩内に危険な思想を広めたとして宗広は捕えられ、10年近くにわたって紀伊国田辺に幽閉されました。文久元年(1861)、その才能を惜しんだ土佐藩 山内容堂の口利きによって宗広が釈放されると、養子である宗興に家督を譲って隠居します。紀州藩は激怒し元治2年(1865)に和歌山に連れ戻され、再び幽閉の身となります。明治維新後、実子の陸奥宗光が新政府に出仕すると、明治2年(1869)には幽閉が解かれ、宗興も和歌山藩執政に抜擢されました。紀州藩は過酷な措置を行ってきたお詫びとして隠居料200石を与えました。宗広はその後歌道に専念し、大阪夕陽丘にある歌人藤原家隆の荒廃していた墓を修理し、付近の土地千百数坪を購入し「自在(じざい)庵(あん)」を築き、余生を歌道に専念しました。家隆の歌からこの地名を「夕日岡」と創名したのは伊達宗広です。明治5年(1872)頃、宗広は病状が悪くなり、子の宗光邸のある東京深川清川町に移り住むことになり、夕陽丘を離れることとなりました。移る際、宗広は次のような句を読んでいます。
空蝉の 殻は何處に 朽ちぬとも 我魂やどる かた岡ぞこれ |
・夕陽岡阡表(せんぴょう)(陸奥宗光 先考 伊達宗広を弔う碑)(稱念寺)
陸奥宗光は、明治10年(1877)5月に亡くなった父 伊達宗広の遺言に従い、夕陽丘に墓所を建て、さらにその傍らに宗広の生涯と事績を顕彰する「夕陽丘阡表」という碑を建てました。この地に移転してきた稱念寺さんによって、陸奥家墓所が鎌倉へ移転後、平成元年(1989)邸宅内から門前に移され、外部から見ることができるように配慮していただきました。
・清(さや)地蔵(稱念寺) 陸奥宗光の最初の妻 蓮子が亡くなった明治5年(1872)に、亮子と再婚をします。亮子との間に生まれた長女 清子(さやこ)が翌年に生まれました。しかし、明治26年(1893)、清子20歳のとき腸チフスにより若くして亡くなります。宗光と亮子は非常に悲しんだと思われます。その死を悼み、等身大の地蔵尊を陸奥家墓所に設けました。
・陸奥宗光及び陸奥家墓所跡(稱念寺) 伊達宗広は明治10年(1877)5月に病死し、遺言により宗広が隠棲した「自在庵」の地(夕陽丘)に墓を建て埋葬されました。その後、陸奥宗光をはじめとして陸奥家の墓所となりました。 昭和28年(1953)、遺族が墓所を寿福寺(神奈川県鎌倉市)に移葬することとなりました。 しかし、現在でも稱念寺内には当時の面影が残されています。
・陸奥宗光 最初の妻 蓮子の墓碑(稱念寺) 明治元年(1868)、陸奥宗光が大阪府権判事に就任した頃、蓮子と結婚しました。宗光が神奈川県知事だった明治5年(1872)2月、蓮子は亡くなり、神奈川県の「豊顕寺(ぶげんじ)」に埋葬されました。父 宗広が明治10年(1877)に亡くなると蓮子の遺骨もこの地に埋葬されました。昭和28年(1953)、陸奥家墓所が神奈川県鎌倉市の寿福寺に移葬された折、蓮子の墓碑だけ置き去りにされました(遺骨は寿福寺に移されています)。
・原敬 陸奥宗光に追慕の意を表す碑(稱念寺) 明治40年(1907)8月、当時、第一次西園寺公望内閣の内務大臣を務めていた原 敬は、陸奥宗光に恩恵を受けました。原 敬は、宗光の死から10年後、陸奥家墓所に「陸奥宗光に追慕の意を表す碑」を建立しました。碑の高さは「夕陽丘阡表」と同じくらいの高さで原 敬が宗光に対する追慕の辞が記載されています。
・薩摩藩家老 小松帯刀墓所跡 地名を「夕日岡」と創名した伊達宗広(陸奥宗光の父)が、「自在庵」に在住中、維新の功労者 薩摩藩元家老の小松帯刀が、明治3年(1870)大阪で病死し、夕陽丘に埋葬されました。【明治維新の國士小松帯刀の碣(いしぶみ)も此處(ここ)にあった】と田中吉太郎著「夕陽丘の回顧」に記載があり、伊達宗広の敷地一角に小松帯刀と帯刀の側室 琴 仙子(ことせんこ)の墓がありました。明治9年(1876)10月3日、鹿児島県吉利村園林寺にある小松家墓地に改葬されました。小松帯刀は明治に入り、徴士参与と外国事務局判事に任命され、主に外交を主として新政府に出仕しましたが、体調が芳しくなく、明治2年(1869)7月、大阪にて蘭医ボードウィンの治療を受けました。明治天皇は2度にわたり菓子・肴の見舞い品を贈り、病気全快次第に東京在住するよう示達されています。昨今、脚気により病死したと思われていましたが、死因は肺病である可能性が高いと思われます。息を引き取ったのも「大阪病院・医学校」ではなく、側室 琴 仙子の家で正室 近(ちか)や五代友厚などの薩摩藩関係者に看取られて静かに永眠しました。
・舊山口藩殉難諸士招魂之碑(大江護国神社) 元治元年(1864)7月18日「蛤御門の変」が起こり、敗戦した長州藩兵 宍戸久之進ら62名の兵士たちは、伏見から舟で淀川を下ってきます。大坂の桜宮付近で高松藩に捕えられ、千日前刑場の獄舎へ投獄されました。
ここでは幕府による極めて残酷な扱いを受けたようです。半年以内に刑死者6名、牢死者39名を数え、一説には一人ずつ毒殺したともいわれています。ここで亡くなった45名の死骸は、犬猫同様無造作に、刑場片隅に埋められたそうです。明治期に入り、賊として扱われたこの長州兵士らは、勤王の志士として評価されます。明治2年(1869)夏、夕陽丘にある大江神社一角に招魂社を建て慰霊・顕彰を行いました。同じく蛤御門の変で敗走中、尼崎で捕えられ、自刃した山本文之進(残念さん)と「薩摩藩御用船を焼き討ち事件」で、大坂南御堂前で切腹した水井精一、山本誠一郎の計3名と千日前でなくなった45名で、計48名が祀られました。その後、千日前で眠っていた45名の遺骨を掘り起こし、前記3名とともに阿倍野墓地に改葬されました。この「舊山口藩殉難諸士招魂之碑」は、明治23年(1890)11月に建立され、裏面に48名の名が5段にわたり記載されています。
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