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京都ホテルオークラにある2つの石碑

京都ホテルオークラにある2つの石碑

桂小五郎の銅像があることでも有名な京都ホテルオークラは、江戸期には「長州藩邸」がありました。Pict49500001

この京都ホテルオークラの北東角の敷地内に2つの大きな石碑がありますが、あまり脚光を浴びておりません。

周辺は史跡だらけなので、埋もれてしまっています。

両石碑とも漢語で書かれてあり、ガイドブックにもあまり掲載されていませんので、ついついスルーしてしまいます。

この2つの大きな石碑を取り上げたいと思います。

どちらも前田又吉に関する石碑です。

前田又吉については、詳しい記録が残されておらず、わずかに「神戸開港三十年史」(明治31年刊)と「神戸市史」(大正10年刊)に散見されるだけです。

大坂の裕福な家に生まれ、若い頃は遊興に身を持ち崩したといわれます。

貧乏となり兵庫の佐比江にあった米市場のあたりで、露店の煮売り屋を始めました。

徐々に発展しやがて小料理屋を開くようになりました。

明治初年、花隈で料亭「常盤花壇」を経営します。この花隈には旧三田藩主・九鬼隆義の別邸があり、お殿様が前田をヒイキにしたということです。

また「橋本花壇」には兵庫県初代知事の伊藤博文(当時は俊輔)が仮住まいしていましたので、このとき出会ったかもしれません。

北風正造・神田兵右衛門・藤田積中といった地元名士とも交わりが始まりました。

山田又吉は、明治6年(1873)、諏訪山に鉱泉が出るのに目をつけ、土地を借りて「常盤花壇」をここに移し温泉料亭を開業させました。

資金は九鬼(旧三田藩主)が出したといいます。

同15年(1882)ごろには「常盤花壇」は東・中・西の三店に増え、いずれも身内の者に営業させたようです。又吉は、宇治川にも「常盤」をつくり経営にあたりました。

「神戸開港三十年史」には次のように紹介されています。

<神戸開港三十年史(上)>
常盤花壇は前田又吉の開業なり。

又吉は大阪の人、其家元甚だ乏しからず。壮年の頃、遊蕩に其家産を失ひ、漂泊して兵庫に来る。其頃、佐比江に米市場あり、又吉、其衣を売却して僅かに両余の資本を作り、露店煮売を以て活路とせり。

又吉に一女あり。当時兵庫の料亭あらし花壇の男と慇懃を通じ嫁す。又吉是れより応援の助力を得、遂に佐比江に小割烹店を開く。資性機慧にして奇才あり。漸く有力者の助を得て、明治元年、常盤花壇を開業し、明治6年諏訪山温泉地を関戸由義に借り資本を三田藩主より得て開業し、十年後に至ては、諏訪山東中西の三常盤楼を造営し、又宇治川常盤を開業して、孰れも神戸有名の酒楼たらしめたり。

其後、京都「ホテル」の企画に失敗せりと雖も、浪々たる一箇の破落漢より、赤手を揮ひ、神戸の又吉として知らるヽに至れる彼は、仔細に其生前の経歴を叙せば、好個の小説的快話あるなるべし。

明治15年に『又吉泉記』をつくり、「常盤花壇」の庭に石碑を建てました。

撰文と書は巌谷一六です。一六は関西で最も人気の高かった書家です。子息は童話作家で有名になった巌谷小波です。

また同年、神戸新報で次のような記事が掲載されました。

神戸新報  明治15年1月15日

当時兵庫の紳商、神田・藤田・北風・岩田ら四氏には、一昨日、常盤花壇に於いて伊藤(博文)参議を始め、芳川工部少輔、朝倉生野鉱山長並に本県森岡県令、柳本・篠崎両少書記官及び属官の諸氏を招待し盛んに饗応されたり。

諏訪山のふもとの高台で兵庫の街並みを見下ろし、港までが一望できる眺望絶佳の地です。温泉街の背後にそびえる諏訪山は、明治36年(1903)に整備されて公園となり、温泉とともに市民の憩いの場となりました。

前田又吉は明治26年(1893)1月12日、この世を去ります。

64歳でした。墓所は大阪天王寺区の源聖寺にあり葬られています。

又吉の死後、 生前に親交のあった北風正造のほか伊藤博文その他の知友に寄付を求めて、銅像をつくりました。

銅像は戦時中に供出され、今は伊藤博文の銘文を彫り込んだ石碑だけしか残っておりません。

銅像の写真はありませんが、建設予想図によると座像であったことがわかります。

伊藤博文による撰文は、漢文ですが、現代訳を示しすとつぎのとおりです。

『前田又吉銅像記』

前田又吉の銅像が成った。又吉の遺族が来ていうには、

「又吉は、かつて伊藤公の知遇を得ました。公が京都や兵庫に来られた際には、いつも又吉の家に泊まられました。又吉の事績については、公はよくご存じですから、どうか、詩文にして、後世に遺していただきたいのです」と。
それで、又吉の歩んだ道をふりかえって見ることにした。

私が又吉を知ってから、三十年以上にもなる。又吉は市井にあっても、たいへんよく世の中の動きをさとっていた。それ故、往々、人の意表をつくような事業を始めた。たとえば、鉱泉を開いたり。公園を造ったり、会館を設けたり、貧者を救済したりである。どれも世の中に役立つことばかりだ。これは後世に伝え遺すべきことだと思い、つぎのような詩をつくった。

  神戸之郷 四時清和 海洋々兮 山峩々兮
  又吉開荒 泉出山阿 煙供浴場 能痊沈痾
  徳長誉長 千載不磨

  明治二十六年十月 伯爵 伊藤博文 撰印

第2次世界大戦で、この一帯は空襲ですっかり焼かれ、温泉街はなくなってしまいました。現在は、かつての温泉街の中央をバス道の山本通りが東西に走り、ビル街に変身しています。そのバス道のかたわらに、辛うじて残った割烹旅館の前庭に、巌谷一六の『又吉泉記』伊藤博文の『前田又吉銅像記』と、2つの石碑が、取り残されたように建っていました。この碑は「京都ホテル」創業100年の記念事業として京都ホテルが譲り受けました。

現在は「ホテル京都オークラです。

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左:「又吉泉記」 右:「前田又吉銅像記」

2008年12月に「京都ホテルオークラ」に両石碑の詳細を訪ねたところ、ご丁寧にもFAXにて9枚に及ぶ「京都ホテル100年ものがたり」を送ってくださいました。

上記文章は、この「京都ホテル100年ものがたり」から殆んどを引用させていただきました。

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