意外な大坂城 ⑩
意外な大阪城 ⑩
第2代城主 池田恒興(いけだつねおき)
本能寺の変後、すぐに山崎の合戦により羽柴(のちの豊臣)秀吉が明智光秀を破ります。
天正10年(1582)6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行いました。有名な清洲会議です。会議の結果、池田恒興が摂津国を領することになり、大坂城主に就任します。つまり、池田恒興が第2代大坂城主ということになります。
恒興が城主だった期間は1年未満であったため、応急に造られた大坂城の修復工事はしなかったようです。
その後、池田恒興は秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となります。小牧長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき、長久手の合戦で討ち死にします。
天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。「ikedatuneoki.doc」をダウンロード
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