意外な大坂城 ⑦
意外な大坂城 ⑦
豊臣秀吉築城の天守閣は現在の天守閣の位置と少し違っている!
豊臣秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年(1583)9月1日から工事を開始します。
天正13年(1585)に第一期工事が終了。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)です。約15年にも及ぶ工事は、想像を絶するほどの力の入れようでした。南惣構えを堺にしようという計画もあり、もう数年延命であれば日本一巨大な城郭が築かれていたと思われます。
豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり千利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸から成り、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
大坂築城に伴う町づくりは、その後の日本都市のモデルにもなります。
特に下水溝は現在でも使用されています。建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので、「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。
本丸のあった場所は、「豊臣時代大坂城本丸図」という資料によると、現在の大阪城天守閣がある場所とは若干異なり、北東方面(約100m)にありました。
豊臣期の天守閣は39mの高さがあり、3階建ての屋根上に更に3階建てを載せた望楼型で、安土城天守閣を受け継いだ造りとなっていました。
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