大阪史跡探訪Vol.4(その7)
大阪史跡探訪Vol.4(その7)
今回は
・梅川、忠兵衛ゆかりの淡路町
・北御堂(西本願寺津村別院)
・勝 海舟 姉小路公知卿謁見の地
・討幕征討将軍 仁和寺宮嘉彰親王 本営の地
・親鸞像
・蓮如像
・明治天皇 大阪行幸行在所の地
・南御堂(東本願寺難波別院)
・討幕軍 薩摩藩屯所跡
・長州藩士切腹の地
を紹介します。
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大阪史跡探訪Vol.4(その7)
今回は
・梅川、忠兵衛ゆかりの淡路町
・北御堂(西本願寺津村別院)
・勝 海舟 姉小路公知卿謁見の地
・討幕征討将軍 仁和寺宮嘉彰親王 本営の地
・親鸞像
・蓮如像
・明治天皇 大阪行幸行在所の地
・南御堂(東本願寺難波別院)
・討幕軍 薩摩藩屯所跡
・長州藩士切腹の地
を紹介します。
神戸の史跡を訪ねて(連載4回目)
今回は
・薩摩藩浜本陣(小豆屋)跡
・浜本陣(絵屋)ゆかりの礎石(魚御堂)
・琵琶塚
・清盛塚
・平 清盛 蔵
・一遍上人廟所(真光寺)
・和田の笠松歌碑
・兵庫城跡
・兵庫県庁跡
・新川運河
を紹介いたします。
大阪史跡探訪Vol.4(その6)
今回は下記内容をご紹介いたします。
・坂本龍馬訪問の地
・勝 海舟、西郷吉之助会見の地
・そのほか「専稱寺」を訪れた人々
桂 小五郎、松本良順、安井九兵衛、井上聞多、山県半蔵、吉井幸輔、大島友之允、青山小三郎、中原猶介、牛島五一郎、今井 栄、松平大隈守勘太郎、伴 鉄太郎
大阪史跡探訪Vol.4(その5)
今回は下記内容をご紹介します。
・大阪商法会議所(現 大阪商工会議所)跡
・五代友厚ゆかりの地
・大坂三郷 北組惣会所跡
・勤王僧 月照 生誕の地
・勝 海舟寓居(専稱寺)跡
・大坂海軍塾(勝塾)跡
大阪史跡探訪Vol.4 その4
今回は
・越前福井藩蔵屋敷跡
・栴檀木橋
・彦根藩蔵屋敷跡
・盛岡藩蔵屋敷跡
・壬生義士伝ゆかりの地 吉村貫一郎終焉の地
・適塾跡
・緒方洪庵像
・銅座の跡
・除痘館跡
・懐徳堂跡
・富永仲基異聞
です。
大阪史跡探訪Vol.4 その3
平成15年(2003)年3月16日に開催した大阪龍馬会のイベント「大阪史跡探訪Vol.4」の三回目をご紹介します。
今回は
・鋒流橋
・銀水楼跡(景山英子、宮武外骨ゆかりの地)
・第7代大阪市長 関 一 像
・自由亭跡(のちの大阪ホテル)
・三好達治詩碑
・大阪市中央公会堂
・豊國神社跡
・初代豊臣秀吉像跡
・大阪通商会社 為替会社跡
です。
甲斐よしひろの「サウンドストリート」⑦ 最終
「(オープニング曲)
こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。
甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。
今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。
東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。
「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に肩に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。
「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲が流れる)
え~、この曲を作ったのは・・・まぁ・・・彼女が、本当に1m60cmで、今はもうどっか嫁さんになってると思うんだけど・・俺たちはまだ、この辺でちょこちょこしているという感じで(笑)
え~、なんていうか・・思い出しますなぁ。
これ(東京の冷たい壁にもたれて)は、非常に好きな曲でありまして、え~、今日は1回目の「サウンドストリート」、先週・・非常になんか・・「甲斐よしひろの音楽のルーツ」っていう感じで、こせこせした感じだったので、今日はゆっくりやろうと思っているわけですが・・・
「若いこだま」の最終回が非常に大好評でして・・(笑)
※「若いこだま」最終回:http://ako.hacca.jp/ss9.htm
何が大好評だったのかというと・・、俺のあの「最後の嘆きがいい」と(笑) あれはぁ~、なんとなくつまずきながらも終わったと・・・あれが非常に、「サウンドストリートに行くんだ」という「継続性があってすごくいい」という激励のお葉書をたくさんいただきましたっ。はい。・・・くそっ(笑)
え~(笑)、「英雄と悪漢」という2枚目のアルバムの中からもう1曲聴いてもらいます。
え~、これも非常に好きな曲ですね。
「昨日のように」(曲が流れる)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND86710/index.html
「昨日のように」の曲が終わる
え~今夜は「甲斐バンドストーリー」という感じで、甲斐バンドのプロセス、経過を追いながら、いろんな話を使用と思っているんですが・・
今、聴いていると歌詞がいいねぇ! なんか知らないけど・・・
『飲みかけのグラスに嘘を数えて暮らす』(甲斐さんが再び机をたたく)。
これはなかなか他人(ひと)には書けんぞっていう感じで「ざまぁみろ」という感じですが(笑)
今の僕に書けっていうのもありますが・・・少しありますが・・・え~この時は同だったんだろうねぇ。
あのね、この時期、確か~この曲を書き上げたときは阿佐ヶ谷に住んでいたんだよね俺。花籠部屋が近くにあってね・・それでオレンジジュースが非常に好きな人(力士)なのでオレンジジュースを3パックぐらい買って来るわけよ。途中、自分の家に帰ろうとしたらその花籠部屋の力士がね、「まわし」締めて裸でね、アイスキャンデーほおばっててね(笑)・・なんとなくだらしない街でしたが、あの街は。え~、なんかこう・・非常にハードな思い出ってないね、この頃は。
ただ、東京に馴染もうという意識がものすごくあったね。
最初、甲斐バンドで、4人で住んだわけです。あの~合宿という感じで。それが高円寺でね。それで、高円寺の「シャンポール南高円寺」というマンションで。下がラーメン屋で。あそこの野菜炒め定食がすごく美味しかったけど・・・。
この前、秋田に演奏に行ったら、その1階の野菜炒め定食を作ってたタカシという人が会いに来てくれたんだよね(甲斐さん机をポンとたたく)。ただもう・・懐かしい顔でしたが、その人の顔を見て何を思ったかというと「野菜炒め定食、野菜炒め定食美味かったな」という、それだけしかないという、非常に気楽な人間関係を続けておりましたが。
え~、そうですな。あの~まぁ~本当に今「英雄と悪漢」という2枚目のLPを2曲かけたんですが・・・
「らいむらいと」というLPは1枚目のLPで。「バス通り」という曲が俺たちのデビュー曲で。
それでね、あの~初登場が60何位なんだよね。HOT100の40何位、30何位までバーッといったわけよデビュー曲が。だいたい10万枚ぐらい売れているわけよ。シングルが(甲斐さんが机をポンとたたく)。
2枚目の「裏切りの街角」が、これがほら、70万枚ぐらい売れているわけよ(甲斐さんが机をポンとたたく)。
それであの~、1年間ぐらい売れ続けてね、1年間売れ続けてベスト10に入って、7位ぐらいまで上がったわけよ。
そうすると、やっぱり、あの・・・出てきたてのバンドとしては、バンドのリーダーとしては、1枚目がスマッシュヒット。2枚目がビッグヒットと。「これはぁ簡単だろう」(甲斐さんが机をポンとたたく)と思うわけよね。「よしっ! 簡単だ!」(甲斐さんが机をポンとたたく)
パーっと思っちゃったもんね、すぐ。(笑いながら)「世の中簡単!」ほんとにほんとに。(笑)
それで「かりそめのスイング」を出したわけよ。・・・桂三枝なんか大阪に行った時、もう僕の手を握って「大好きです」っていう感じで・・・仁鶴(笑福亭仁鶴)はいわなかったけど(笑)・・え~それでね、「かりそめのスイング」という曲を出したわけよ、3枚目に。そしたらこれも40何位くらいまでいったわけよ。
それでね、俺たちは「裏切りの街角」が売れたとき、どう思ったかというと
「もっとRock(ロック)をやりたい」と思ったわけね。激しいリズムで、なんか本当に自分たちの言いたいことをもっと・・もっと言いたいと。
それで、最初、甲斐バンドというのは、あの~、松藤がドラムやって2ヶ月目ですぐプロになったり・・・みたいなのがあったりで、やっぱりみんなが技術的にそんなに上手くなかったし・・・大森信和もエレキのリードギターを俺たちのバンドに入って初めて弾いたという感じだったので、技術的にも乏しかったわけね。
それで結局、その乏しいままデビューして・・・まぁ、それはしょうがないんだけど。
俺がいわゆるソロのシンガーとして認められて『バンド組みたい』というのがいろいろあったので、それでなんとなくだんだん上手くなろうと・・。
甲斐バンドがある種みんなに認められるまでには、俺は「2年かかる」とふんでたわけよ。ところが、もう1年目の、しかも半年目でパーッと売れちゃったみたいな・・のがあって、非常にやっぱりみんな慌てたわけよ・・・ね、はっきり言って。それで、まぁ技術の進歩と共に、俺たちのやりたい音楽をどんどんやっていこうという感じでここまできたという感じなんでありますが。
えぇ~、俺がいろいろ・・まぁ、そのへん「英雄と悪漢」の次に「ガラスの動物園」という3枚目のLPで。この時は、非常に追い詰められて、俺が作ったんだよね。
1m60cmの彼女と別れたと・・・。その辺の部分で、やっぱり俺は「ガラスの動物園」という、本当に一人の女のためにすべて曲を書き上げた・・・というかなり追い詰められた状況だったんだけども。
その「ガラスの動物園」という中の曲をかけます。
「らせん階段」 (曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=vFEOwDbwkCw
(前回からの続き)
「らせん階段」 (曲が終わる)
この前もね、松藤(まつふじ)・・っていう、うちのドラマーと話していたんだけど。
やっぱりね、うちのバンドは、みんなあのすごいレコードが売れた時に「世間は簡単だ」と思っていたみたいなのねやっぱりね(甲斐さん机をポンとたたく)。それは~そう思うと思うよ、俺も思ってたもんね、はっきり。
やっぱり、だけどあのままずーっと、いわゆる簡単だと・・世間が簡単だと思わなかった部分ね。パーンと一気にちょっと落ち込んだ部分。これは、非常にいろんな意味でものすごく感謝したいと・・誰に感謝したらいいのかわかんないんだけど・・思ってるし。
ただ、俺たち「ガラスの動物園」を作っている途中、「ガラスの動物園」という(も)のにね、300時間近くかかったのね。1年間ぐらいスタジオに入っていたのね、ずっと。延々と。
それでね・・俺が曲ができなかったわけよ・・ものすごく。・・そういうのがありましてですなぁ、事情が。
だからね・・・非常に苦労して作り上げたという思い出がありますね、これはね。
あの~、ただこの時の・・状態として、俺は自信があるのはね、メンバーが、みんなが、滅入らなかったのね、その状態に。
別にみんなメンバーは、非常にしたたかだったし、やっぱり・・自分たちの「甲斐バンド」の音楽というものを早く作り上げよう。
甲斐バンドのサウンドを確立しよう、というみたいな・・・非常にやっぱりあって、なんかやっぱり同じ状態という感じだったし、いろんな意味でも意気込んでいたような気がするんですが・・・。
え~、この番組、FMになっちまったので、新しく「甲斐よしひろ」という人間とか「甲斐バンド」という人間を、初めて聴いてるという人も沢山いるんじゃないかと思うんですが。
まぁ、その~、そんな感じなので、俺たちの・・まぁ紹介の部分を兼ねて、まぁ今日、こういう感じでやってるわけです。
え~、もう1曲「ガラスの動物園」から聴いてもらおうと思ったんですが、あの~LIVEがね、出ているので、それをね、ちょっと聴いてもらいます。
え~、これはね、「この夜のさよなら」のLPの中に入っている曲なんですが。
この「この夜にさよなら」というのは4枚目のLPで。そのあとに「サーカス&サーカス」というLIVEが出たわけです。
え~、そのLIVEから聴いてもらいます。
これは、あの~、うちの松藤と長岡のコンビで作った名作であります。
「きんぽうげ」(曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=tfODEWwPYb8&feature=related
「きんぽうげ」(曲が終わる)
「きんぽうげ」というタイトルは、俺がつけたんだけど・・中国産の毒気のある花なんですね。え~これを女に例えたと。ホホゥ(笑)
洒落ているという・・・ちょっと今、ハンバーグの包みを袖にやりましたが(甲斐さん包みをつかみ音を鳴らす)。これがハンバーグです。
え~(笑)・・えーとですなぁ、あの~・・・この時はね~、これはちょうど今から2年前・・1年半ぐらい? 2年ぐらい前か・・もう週刊誌でばんばん書かれたんですね、この頃は。とにかく、“やかましい”と。これね(きんぽうげのライヴの状況)、ライヴでいわゆる客席の方に向けたマイクを2つぐらい付けてるんだけど、それを完全に切ってこの状態なのね。
だから、もうもの凄く、いわゆるヒートしてた感じがあるんだけど。
あの~今はこういう感じで「キャ~」という恐ろしい歓声というのは・・まぁまったく陰を潜めてはいませんが(笑)・・、でもちょっとはね、みんなある種クールになってきた感じがあるんだけど。
俺はねぇ、ただね・・・あの~、いろんなコンサート行ってて思うのは・・・あの~、。日本人というのは「スタンディングオーベーション」という部分というのは、全く無いわけよ。もう、立ったら前に押しかけるとかね・・・。だから、そういう感じがある!
だから、会場を貸さないという部分が出てくるわけよ。
スタンディングオーベーションみたいな部分ね・・いわゆる、ちゃんと座って聴いてて、で・・ある種、こ~体を動かしながら聴いててね、それで・・こ~終わった瞬間、パーッと立って、「うわっ」とスタンディングオーベーションでやって、またみんな、パーッと座るという部分があったら誰も困らないんだよね(甲斐さんがポンと机をたたく)。
でみ、なんか、みんな、こ~押しかけて、誰か死んだりとかね・・・いう部分。
まぁ、ただ俺は、みんな「うわ~」ってくる部分ほど夢中になっている、熱狂している部分というのは、誰にも責められないしね・・・。
俺が、みんなをリードしていかなくちゃいけないということを、ずっと思っているけれども・・・。
近頃、日増しに頭にくるのは、あの~、テープを投げる奴ね!
もう俺はねぇ、1週間ぐらい前、ものすごく頭にきたんでんですが・・・あの~テープ投げる奴・・・それでもほとんど少なくなってるんだけれども・・・あれ(テープ)をねぇ、(苦笑)抜かないで・・・あれは、絶対コツけるのが、なんか目当てでやってるんじゃないかと・・・この前、左眼に当たりまして・・あっ右眼か! 右眼に当たりまして!
それでね・・・僕はもう、ムカッときましてですなぁ・・・。いわゆる、何千人の中の何人かの為に不愉快になる部分が当然出てくるからね・・・。
テープを投げるのは、止めにしましょう!なんか、あれはよくないですよ!なんか・・いろんな部分困るし、紙吹雪というのも、いわゆる、俺たちの機材がそれで壊されちゃったという部分も、やっぱあるしね。その~、一晩のためだけに、次の街に行っても、いろんな人間が待っているにもかかわらず、(公演が)できないという部分が出てくるので・・・なんか・・・テープはもう止めましょう!・・はい。ロックコンサートにテープはよくないと、俺は非常に近頃思います。
え~・・・それでは。
これはぁ~・・あの~・・・一番新しい「誘惑」というLPの中からの曲であります。
( )ました「シネマクラブ」 (曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=R5f7cVQEH4Q&feature=related
「シネマクラブ」 (曲が終わる)
え~、今年ももうあとちょっと、という感じで・・・あとちょっとというか、もうちょっとあるか(笑)
え~、俺たちのツアーが、もう少しで終わるんですが、え~、今年は1年間で110本以上まわって・・・よくまわった・・・と思うね。
え~、で、無事に本当に、もう少しでやれそうな感じなので、非常にうれしく思うんだけど・・・。
まぁ、2~3、一部のファンのために、非常に険悪ななることがあっても、圧倒的に、もう、いいんだよね、近頃の客は。で、俺達の存在が、ホントにいろいろちっちゃな街でもコンサートができる状態になった部分というのは、非常にみんなに感謝したいし、え~、2回目のアンコールの時は俺はねぇ、とろけそうになることが近頃あるわけよ。
で、この感じっていうのは、昔、なかったのね。
もう、ウワーッと客が前に来たときには、もうその波の中に飛び込みたい、ていう部分・・・かなり・・・異常な部分というのがあったけれど、立ったまま歌ってる時に、なんかとろけそうになる部分が近頃・・・なんか、ある種、別の感覚がおこってきまして「いいなぁ」と近頃思ってるかんじなんだけれども。
え~、新曲が出ます。・・・はいっ・・甲斐バンドの新しい曲なんだけど。
え~、その曲を今夜の最後という感じになりますね。
「HERO(ヒーロー)」(曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=-T4ud2WgLyM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IB25r_o0m5g&feature=related
「HERO(ヒーロー)」(曲が終わる)
え~、今あの~、思ってるのは、なんというか・・・非常に自分の住んでる街とか、状況が悪くても、もうちょっとこの街で頑張ってみよう。とか、この人間関係で、目一杯やるだけやってみよう、という感じがね、俺は、一番人間としてしたたかな感じなんじゃないかなと、ちょっと思ってるんだけど。
あの~、この「HERO」という、今聴いてもらったのも、かなり前向きな感じで。
結局、今日のこととか、明日のことを目一杯考えて、俺たちは太く生きなくちゃだめなんだと・・・いう感じで書いたわけです。
昨日のことを、うじうじ・・・まぁ・・・ある時はしてもいいけど、最後はしょうがないんだよね! そういうことはね。
え~、近頃は、そういう「太い感じで生きねば」と思ってる今日この頃であります。
え~、あて先をね・・はがき待ってます。
あて先を言います。さい・・あっ違った。下の関係ないところを読んでしまった(笑)。東京都渋谷区・・今、埼玉県って言おうとしたのね。
(甲斐さん、はがきのあて先を紹介)
サウンドストリート水曜日の甲斐よしひろの係まで、ご一報を。
今日は、この辺で・・・それでは、おやすみなさい。
(サウンドストリートテーマが流れフェードアウト)
完
最後までお読みいただきありがとうございました。
中学3年生のときに聴いたバンドが、2009年に新しいアルバムを2本出していることに、喜びがあると同時に、元気付けられています。
甲斐よしひろオフィシャルWEBサイト
大阪史跡探訪Vol.4 その2
その2をアップいたします。
ここでは
・大阪裁判所址
・明治天皇聖躅
・播州赤穂藩蔵屋敷跡
・肥前小城藩蔵屋敷跡
・佐賀藩蔵屋敷跡
・・船入橋跡
・聖賀奉迎記念樹
・新選組大坂力士騒動の地
です。
大阪史跡探訪Vol.4 その1
平成15年(2003)3月16日に開催しました「大阪史跡探訪Vol.4」を何回かに分けてアップいたします。
この日は天候が雨。状況が悪いにもかかわらず38名の参加者がありました。
出発点は、1年前最終地点だったところからスタートしました。
大坂の史跡を訪ねて(連載17回目)その2
今回のご紹介は
・天五に平五 十兵衛横町の碑
・大阪会議開催地跡
・大阪銀座跡
・紀州藩蔵屋敷跡
・内山彦次郎暗殺の地
です。
大坂の史跡を訪ねて(連載17回目)その1
平成15年(2003)2月2日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報第87号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載17回目)」を2回に分けてアップいたします。
今回は
・鴻池本宅跡
・少彦名神社
をご紹介しています。
大坂の史跡を訪ねて(連載16回目)その2
今回の紹介は
・南御堂(東本願寺難波別院)
・鳥羽伏見の戦い 討幕軍 薩摩藩屯所跡
・松尾芭蕉句碑
・長州藩士切腹の地
・松尾芭蕉終焉の地
・坐摩神社
・明治天皇聖躅の碑
・佐久良東雄寄寓跡
・樟樹句碑
です
大坂の史跡を訪ねて(連載16回目)その1
平成14年(2002)11月10日に発行した大阪龍馬会会報「龍馬速報第86号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載16回目)をアップいたします。
今回は
・近松門左衛門の傑作「冥土の飛脚」のゆかりの地「梅川・忠兵衛ゆかりの碑」
・勤王僧 月照 生誕の地 佛光寺大坂別院跡
・御堂筋完成五十周年記念碑
・北御堂(西本願寺津村別院)
・勝 海舟、姉小路公知卿謁見の地
・討幕征討将軍 仁和寺嘉彰王本営の地
・明治天皇 大阪行幸時の行在所
・親鸞像
・蓮如像
です。
神戸の史跡を訪ねて(連載3回目)
舞子から和田岬へ移動。三菱造船所の敷地内にある史跡「和田岬砲台跡」がメインですが、見落としてはならないのが、同社敷地内にある「和田神社跡」の石碑です。
和田岬砲台には専門のガイドさんが案内してくれましたが、なんと「和田神社跡」の石碑はご存じないようでした。
この場所こそが、徳川家茂が休息した場所に該当します。
大坂の史跡を訪ねて(連載15回目)その3
専稱寺に訪問した人物名をご紹介いたしました。
大坂の史跡を訪ねて(連載15回目)その2
平成14年4月14日発行の「大阪龍馬会会報 龍馬速報第84号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載15回目)の2回目です。
今回の紹介内容は下記のとおりです。
「坂本龍馬の訪問」「勝 海舟・西郷吉之助の会談」「桂 小五郎の訪問」「安井九兵衛の訪問」
大坂の史跡を訪ねて(連載15回目)その1
平成14年(2002)7月20日発行の「大阪龍馬会会報 龍馬速報第85号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載15回目)」3回に分けてご紹介いたします。
今回は勝 海舟寓居(専稱寺)跡です。
私が佛教大学で開催された「学内企業説明会」を終えて帰宅途中、三条付近にさしかかった頃、大阪市立中央図書館から「専稱寺のあった場所が特定できました」と電話をいただいたときは今でも忘れません。
大坂の史跡を訪ねて(連載14回目)その2
平成14年(2002)4月14日発行の「大阪龍馬会会報 龍馬速報第84号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載14回目)後半を紹介いたします。
紹介内容は下記のとおりです。
「銅座の跡」「盛岡(南部)藩蔵屋敷跡」「彦根藩蔵屋敷跡」「大阪商法会議所(現 大阪商工会議所)跡」
次回はいよいよ来坂時の勝 海舟寓居跡を紹介いたします。
大坂の史跡を訪ねて(連載14回目)その1
平成14年(2002)4月14日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報第84号」に投稿しました「大坂の史跡を訪ねて(連載14回目)を2回に分けてアップいたします。
紹介内容は下記のとおりです。
「懐徳堂跡」「適塾跡」「緒方洪庵像」「除痘館跡」
大阪史跡探訪Vol.3を終えて
3回目となるイベントを終えて質問を受けた内容を、平成14年(2002)4月14日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報 第84号」に投稿しました。
大阪史跡探訪Vol.3 その4
「薩摩藩蔵屋敷(上屋敷)跡」「大村益次郎寓居跡」「長州萩藩蔵屋敷跡」「頼 山陽生誕の地」「宇和島藩蔵屋敷跡」「松瀬青々生誕地」「手形交換所発祥の地」「林 市蔵 像」「淀屋の屋敷跡」「淀屋小路跡」
を紹介します。
この日は、予定していたところまで行けず、淀屋橋にて解散。
大阪史跡探訪Vol.3 その3
「大阪商業講習所跡」「永代浜跡」「永代橋・門樋橋跡」「関西法律学校(関西大学)発祥の地」「中 天游邸跡」「薩摩藩蔵屋敷(中屋敷)跡」
を紹介します。
大阪史跡探訪Vol.3 その2
「平和を祈る記念像」「土佐藩蔵屋敷跡」「土佐藩11烈士ゆかりの地」「岩崎家舊邸跡」「西長堀と鰹座の跡」「西区にある道標」「鰹座発祥の地」「鰹節問屋山田屋跡地」「薩摩藩蔵屋敷(下屋敷跡)」「島津公園」「薩摩堀川跡」「薩摩堀公園」「イギリス公使オール・コック宿泊の地」を紹介します。
大阪史跡探訪Vol.3 その1
天神橋六丁目駅で集合という少し変ったイベントコースを試みました。
「住まいのミュージアム」を見学。大坂・大阪の今昔を体感。
そして四ツ橋まで電車で移動。
「長堀川跡」「宇和島橋跡」「砂場跡」「本邦麺類店発祥の地」「間 長涯天文観測の地」「大阪木材市売市場碑」「司馬遼太郎旧居跡」「木村兼葭堂邸跡」「
を紹介します。
大坂の史跡について(戯言)
歴史はもともと好きでしたが、歴史・時代小説どまりでした。
これまでは「平 将門」「源 義経」「赤穂浪士」「豊臣秀吉」「武田信玄」などに興味があり、小説や時代劇を観てきました。
幕末期はどちらかというと「難しい(理解しにくい)時代」という認識の中で、中学時代に見た両極端のドラマ「花神」「新選組始末記」です。
花神では、中村雅俊が演じた高杉晋作。夏八木勲が演じた坂本竜馬。
新選組始末記では、草刈正雄が演じた沖田総司。がひどく印象に残りました。
高校、大学時代は専ら、戦国期に興味がありました。「風林火山」の映画を観てからは、武田信玄にはまってしまいました。
社会人になり営業職時代は、「歴史」から遠ざかってしまいましたが、本社勤務になったからは通勤途中と昼休みに時代小説を読むようになり、「竜馬がゆく」で幕末期の猛烈なファンになりました。
「竜馬がゆく」の文春文庫は1巻から8巻までありますが、6巻途中で、宿泊なしの日帰りで高知にある龍馬ゆかりの地を訪れました。
龍馬生誕地の碑から少し離れたところに「さいたにや」という喫茶店があり、思わず入って昼食休憩していますと、店員のかたからこえがかかりました。
「どこからお越しですか? 龍馬が好きですか?」
思わず「はい・・・」「それなら龍馬を研究する会がありますよ。」と聞いて「へぇ~」と思いながらも「龍馬研究会」に入会していました。
「それから、大阪にも大阪龍馬会というのがあるから、興味があったら連絡されたらどうですか?」と大阪龍馬会の連絡先を入手。
大阪に戻ってしばらくしてから、現在の事務局長(大阪龍馬会の創設者)に電話をして入会したい意向を伝えました。
初めて大阪龍馬会のイベントに参加したのは、次の年の2月11日 龍馬LIVE5 会場:A&Hホールで開催された「土佐の鰹を待っちょった女たち」(作:山口比呂子さん 演出:藤本栄治さん)でした。
観劇をしたのが初めてなら、龍馬のイベントに参加したのも初めてで興奮したことを思い出します。
猛烈な幕末ファンになる影響を与えていただいたのは、上記のなかで出会った方々からでした。
それ以降、更に東京龍馬会の方々にもエネルギーをいただき、現在に至っていると思います。
「大坂の史跡を訪ねて」をアップしながら、当時を思い出し、更にエネルギーを見出せたような気がします。
龍馬LIVE5「
大坂の史跡を訪ねて(連載13回目)その2
後半では「関 一 像」「木村長門守重成表忠碑」「佐賀藩蔵屋敷跡」「肥前小城藩蔵屋敷跡」「船入橋跡」「新選組力士騒動の地」「「茶屋 河庄の跡」をご紹介します。
大坂の史跡を訪ねて(連載13回目)その1
平成14年(2002)1月1日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報第83号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載13回目)」を2回に分けてアップします。
前半は「宇和島藩蔵屋敷跡」「頼 山陽生誕の地」「先賢景仰碑」「西横堀川跡」「松瀬青々生誕地」「手形交換所発祥の地」「淀屋の屋敷跡」「淀屋小路跡」「加賀藩蔵屋敷跡」「島原藩蔵屋敷跡」「五代友厚別邸跡」「駅逓司大阪郵便役所跡」「水戸藩蔵屋敷跡」「大阪裁判所址」「明治天皇聖躅碑」「越前福井藩蔵屋敷跡」
をご紹介します。
大坂の史跡を訪ねて(連載12回目)その2
平成13年(2001)9月30日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報第82号」に投稿した大坂の史跡を訪ねて(連載12回目)の2回目をアップします。
旧西国街道(池田市)の画像をアップします。
大坂の史跡を訪ねて(連載12回目)その1
平成13年(2001)9月30日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報第82号」に投稿した大坂の史跡を訪ねて(連載12回目)を2回に分けてアップします。
大坂の史跡を訪ねて(連載11回目)その1
平成13年(2001)8月5日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報 第81号」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載11回目)」を2回に分けてアップいたします。
大阪史跡探訪Vol.2 その5
「大阪史跡探訪Vol.2」の最終編です。
2001年3月20日の参加者は24名でした。「泉布館」を見学する積りでしたが、見学希望者のあまりにも長座の列に見学を断念しました。
甲斐よしひろの「サウンドストリート」⑥
「(オープニング曲)
こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。
甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。
今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。
東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。
「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に肩に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。
「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲が流れる)
え~、この曲を作ったのは・・・まぁ・・・彼女が、本当に1m60cmで、今はもうどっか嫁さんになってると思うんだけど・・俺たちはまだ、この辺でちょこちょこしているという感じで(笑)
え~、なんていうか・・思い出しますなぁ。
これ(東京の冷たい壁にもたれて)は、非常に好きな曲でありまして、え~、今日は1回目の「サウンドストリート」、先週・・非常になんか・・「甲斐よしひろの音楽のルーツ」っていう感じで、こせこせした感じだったので、今日はゆっくりやろうと思っているわけですが・・・
「若いこだま」の最終回が非常に大好評でして・・(笑)
※「若いこだま」最終回:http://ako.hacca.jp/ss9.htm
何が大好評だったのかというと・・、俺のあの「最後の嘆きがいい」と(笑) あれはぁ~、なんとなくつまずきながらも終わったと・・・あれが非常に、「サウンドストリートに行くんだ」という「継続性があってすごくいい」という激励のお葉書をたくさんいただきましたっ。はい。・・・くそっ(笑)
え~(笑)、「英雄と悪漢」という2枚目のアルバムの中からもう1曲聴いてもらいます。
え~、これも非常に好きな曲ですね。
「昨日のように」(曲が流れる)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND86710/index.html
「昨日のように」の曲が終わる
え~今夜は「甲斐バンドストーリー」という感じで、甲斐バンドのプロセス、経過を追いながら、いろんな話を使用と思っているんですが・・
今、聴いていると歌詞がいいねぇ! なんか知らないけど・・・
『飲みかけのグラスに嘘を数えて暮らす』(甲斐さんが再び机をたたく)。
これはなかなか他人(ひと)には書けんぞっていう感じで「ざまぁみろ」という感じですが(笑)
今の僕に書けっていうのもありますが・・・少しありますが・・・え~この時はどうだったんだろうねぇ。
あのね、この時期、確か~この曲を書き上げたときは阿佐ヶ谷に住んでいたんだよね俺。花籠部屋が近くにあってね・・それでオレンジジュースが非常に好きな人(力士)なのでオレンジジュースを3パックぐらい買って来るわけよ。途中、自分の家に帰ろうとしたらその花籠部屋の力士がね、「まわし」締めて裸でね、アイスキャンデーほおばっててね(笑)・・なんとなくだらしない街でしたが、あの街は。え~、なんかこう・・非常にハードな思い出ってないね、この頃は。
ただ、東京に馴染もうという意識がものすごくあったね。
最初、甲斐バンドで、4人で住んだわけです。あの~合宿という感じで。それが高円寺でね。それで、高円寺の「シャンポール南高円寺」というマンションで。下がラーメン屋で。あそこの野菜炒め定食がすごく美味しかったけど・・・。
この前、秋田に演奏に行ったら、その1階の野菜炒め定食を作ってたタカシという人が会いに来てくれたんだよね(甲斐さん机をポンとたたく)。ただもう・・懐かしい顔でしたが、その人の顔を見て何を思ったかというと「野菜炒め定食、野菜炒め定食美味かったな」という、それだけしかないという、非常に気楽な人間関係を続けておりましたが。
え~、そうですな。あの~まぁ~本当に今「英雄と悪漢」という2枚目のLPを2曲かけたんですが・・・
「らいむらいと」というLPは1枚目のLPで。「バス通り」という曲が俺たちのデビュー曲で。
それでね、あの~初登場が60何位なんだよね。HOT100の40何位、30何位までバーッといったわけよデビュー曲が。だいたい10万枚ぐらい売れているわけよ。シングルが(甲斐さんが机をポンとたたく)。
2枚目の「裏切りの街角」が、これがほら、70万枚ぐらい売れているわけよ(甲斐さんが机をポンとたたく)。
それであの~、1年間ぐらい売れ続けてね、1年間売れ続けてベスト10に入って、7位ぐらいまで上がったわけよ。
そうすると、やっぱり、あの・・・出てきたてのバンドとしては、バンドのリーダーとしては、1枚目がスマッシュヒット。2枚目がビッグヒットと。「これはぁ簡単だろう」(甲斐さんが机をポンとたたく)と思うわけよね。「よしっ! 簡単だ!」(甲斐さんが机をポンとたたく)
パーっと思っちゃったもんね、すぐ。(笑いながら)「世の中簡単!」ほんとにほんとに。(笑)
それで「かりそめのスイング」を出したわけよ。・・・桂三枝なんか大阪に行った時、もう僕の手を握って「大好きです」っていう感じで・・・仁鶴(笑福亭仁鶴)はいわなかったけど(笑)・・え~それでね、「かりそめのスイング」という曲を出したわけよ、3枚目に。そしたらこれも40何位くらいまでいったわけよ。
それでね、俺たちは「裏切りの街角」が売れたとき、どう思ったかというと
「もっとRock(ロック)をやりたい」と思ったわけね。激しいリズムで、なんか本当に自分たちの言いたいことをもっと・・もっと言いたいと。
それで、最初、甲斐バンドというのは、あの~、松藤がドラムやって2ヶ月目ですぐプロになったり・・・みたいなのがあったりで、やっぱりみんなが技術的にそんなに上手くなかったし・・・大森信和もエレキのリードギターを俺たちのバンドに入って初めて弾いたという感じだったので、技術的にも乏しかったわけね。
それで結局、その乏しいままデビューして・・・まぁ、それはしょうがないんだけど。
俺がいわゆるソロのシンガーとして認められて『バンド組みたい』というのがいろいろあったので、それでなんとなくだんだん上手くなろうと・・。
甲斐バンドがある種みんなに認められるまでには、俺は「2年かかる」とふんでたわけよ。ところが、もう1年目の、しかも半年目でパーッと売れちゃったみたいな・・のがあって、非常にやっぱりみんな慌てたわけよ・・・ね、はっきり言って。それで、まぁ技術の進歩と共に、俺たちのやりたい音楽をどんどんやっていこうという感じでここまできたという感じなんでありますが。
えぇ~、俺がいろいろ・・まぁ、そのへん「英雄と悪漢」の次に「ガラスの動物園」という3枚目のLPで。この時は、非常に追い詰められて、俺が作ったんだよね。
1m60cmの彼女と別れたと・・・。その辺の部分で、やっぱり俺は「ガラスの動物園」という、本当に一人の女のためにすべて曲を書き上げた・・・というかなり追い詰められた状況だったんだけども。
その「ガラスの動物園」という中の曲をかけます。
「らせん階段」 (曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=vFEOwDbwkCw
(前回からの続き)
「らせん階段」 (曲が終わる)
この前もね、松藤(まつふじ)・・っていう、うちのドラマーと話していたんだけど。
やっぱりね、うちのバンドは、みんなあのすごいレコードが売れた時に「世間は簡単だ」と思っていたみたいなのねやっぱりね(甲斐さん机をポンとたたく)。それは~そう思うと思うよ、俺も思ってたもんね、はっきり。
やっぱり、だけどあのままずーっと、いわゆる簡単だと・・世間が簡単だと思わなかった部分ね。パーンと一気にちょっと落ち込んだ部分。これは、非常にいろんな意味でものすごく感謝したいと・・誰に感謝したらいいのかわかんないんだけど・・思ってるし。
ただ、俺たち「ガラスの動物園」を作っている途中、「ガラスの動物園」という(も)のにね、300時間近くかかったのね。1年間ぐらいスタジオに入っていたのね、ずっと。延々と。
それでね・・俺が曲ができなかったわけよ・・ものすごく。・・そういうのがありましてですなぁ、事情が。
だからね・・・非常に苦労して作り上げたという思い出がありますね、これはね。
あの~、ただこの時の・・状態として、俺は自信があるのはね、メンバーが、みんなが、滅入らなかったのね、その状態に。
別にみんなメンバーは、非常にしたたかだったし、やっぱり・・自分たちの「甲斐バンド」の音楽というものを早く作り上げよう。
甲斐バンドのサウンドを確立しよう、というみたいな・・・非常にやっぱりあって、なんかやっぱり同じ状態という感じだったし、いろんな意味でも意気込んでいたような気がするんですが・・・。
え~、この番組、FMになっちまったので、新しく「甲斐よしひろ」という人間とか「甲斐バンド」という人間を、初めて聴いてるという人も沢山いるんじゃないかと思うんですが。
まぁ、その~、そんな感じなので、俺たちの・・まぁ紹介の部分を兼ねて、まぁ今日、こういう感じでやってるわけです。
え~、もう1曲「ガラスの動物園」から聴いてもらおうと思ったんですが、あの~LIVEがね、出ているので、それをね、ちょっと聴いてもらいます。
え~、これはね、「この夜のさよなら」のLPの中に入っている曲なんですが。
この「この夜にさよなら」というのは4枚目のLPで。そのあとに「サーカス&サーカス」というLIVEが出たわけです。
え~、そのLIVEから聴いてもらいます。
これは、あの~、うちの松藤と長岡のコンビで作った名作であります。
「きんぽうげ」(曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=tfODEWwPYb8&feature=related
「きんぽうげ」(曲が終わる)
「きんぽうげ」というタイトルは、俺がつけたんだけど・・中国産の毒気のある花なんですね。え~これを女に例えたと。ホホゥ(笑)
洒落ているという・・・ちょっと今、ハンバーグの包みを袖にやりましたが(甲斐さん包みをつかみ音を鳴らす)。これがハンバーグです。
え~(笑)・・えーとですなぁ、あの~・・・この時はね~、これはちょうど今から2年前・・1年半ぐらい? 2年ぐらい前か・・もう週刊誌でばんばん書かれたんですね、この頃は。とにかく、“やかましい”と。これね(きんぽうげのライヴの状況)、ライヴでいわゆる客席の方に向けたマイクを2つぐらい付けてるんだけど、それを完全に切ってこの状態なのね。
だから、もうもの凄く、いわゆるヒートしてた感じがあるんだけど。
あの~今はこういう感じで「キャ~」という恐ろしい歓声というのは・・まぁまったく陰を潜めてはいませんが(笑)・・、でもちょっとはね、みんなある種クールになってきた感じがあるんだけど。
俺はねぇ、ただね・・・あの~、いろんなコンサート行ってて思うのは・・・あの~、。日本人というのは「スタンディングオーベーション」という部分というのは、全く無いわけよ。もう、立ったら前に押しかけるとかね・・・。だから、そういう感じがある!
だから、会場を貸さないという部分が出てくるわけよ。
スタンディングオーベーションみたいな部分ね・・いわゆる、ちゃんと座って聴いてて、で・・ある種、こ~体を動かしながら聴いててね、それで・・こ~終わった瞬間、パーッと立って、「うわっ」とスタンディングオーベーションでやって、またみんな、パーッと座るという部分があったら誰も困らないんだよね(甲斐さんがポンと机をたたく)。
でみ、なんか、みんな、こ~押しかけて、誰か死んだりとかね・・・いう部分。
まぁ、ただ俺は、みんな「うわ~」ってくる部分ほど夢中になっている、熱狂している部分というのは、誰にも責められないしね・・・。
俺が、みんなをリードしていかなくちゃいけないということを、ずっと思っているけれども・・・。
近頃、日増しに頭にくるのは、あの~、テープを投げる奴ね!
もう俺はねぇ、1週間ぐらい前、ものすごく頭にきたんでんですが・・・あの~テープ投げる奴・・・それでもほとんど少なくなってるんだけれども・・・あれ(テープ)をねぇ、(苦笑)抜かないで・・・あれは、絶対コツけるのが、なんか目当てでやってるんじゃないかと・・・この前、左眼に当たりまして・・あっ右眼か! 右眼に当たりまして!
それでね・・・僕はもう、ムカッときましてですなぁ・・・。いわゆる、何千人の中の何人かの為に不愉快になる部分が当然出てくるからね・・・。
テープを投げるのは、止めにしましょう!なんか、あれはよくないですよ!なんか・・いろんな部分困るし、紙吹雪というのも、いわゆる、俺たちの機材がそれで壊されちゃったという部分も、やっぱあるしね。その~、一晩のためだけに、次の街に行っても、いろんな人間が待っているにもかかわらず、(公演が)できないという部分が出てくるので・・・なんか・・・テープはもう止めましょう!・・はい。ロックコンサートにテープはよくないと、俺は非常に近頃思います。
え~・・・それでは。
これはぁ~・・あの~・・・一番新しい「誘惑」というLPの中からの曲であります。
( )ました「シネマクラブ」 (曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=R5f7cVQEH4Q&feature=related
※次回に続く
甲斐よしひろオフィシャルWEBサイト
大阪史跡探訪Vol.2 その1
平成13年(2001)3月20日に実施しました大阪龍馬会のイベント「大阪史跡探訪Vol.2」。
自身としては2回目のイベント講師を担当。
大阪城の天守広場まで行く予定でしたが、天満橋駅周辺で終了。
そのときのテキストを何回かに分けてアップいたします。
大坂の史跡を訪ねて(連載10回目)その2
平成13年(2001)5月12日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて(連載10回目)その2」をアップいたします。
東京宝映のタレントレッスン場だった「大阪私学会館」に通っていた頃、藤田邸の屋敷門を当時はどこかの藩邸の屋敷門と思っていました。
私の観ていた藤田邸屋敷門は当時は遮断されていましたが、現在は公園になり、自由に入ることができます。
また、龍海寺はなかなか入ることができなかったのですが、同寺の了解を得てはじめて中に入らせていただいたときは感動でした。
次回は平成13年3月20日に行いましたイベント「大阪史跡探訪Vol.2」をご紹介したいと思います。
大坂の史跡を訪ねて(連載10回目)その1
平成13年(2001)5月12日発行の大阪龍馬会会報「龍馬速報」に投稿した「大坂の史跡を訪ねて」の10回目を2回に分けてアップいたします。
この頃は、まだ龍馬ゆかりの船宿「堺屋源兵衛」、新選組定宿「京屋忠兵衛」跡がどこにあるかは探索中でした。
大阪旅めがね 大阪城ツアー 7月17日
午前10時すぎに集合場所(道頓堀川「太左衛門橋船着場」に到着。
本日の参加予定者は20名。
参加料が初参加の方やファンクラブの方など多様で、おつりの対策や複数でこられた際の金額の把握に努めました。
「トンボリリバクルーズ」スタッフ数人と挨拶。
準備しているときから汗がポタポタ落ち、猛暑を実感しながら参加者に熱中症がでないことを祈りました。
11時集合でしたが、皆さん早めにお越しいただき11時前に全員集合。
「太左衛門橋船着場」から「大阪城港」までの行程と見所を説明。
「アクアミニ」のガイドさんに期待しましたが、大事な「曲がり淵地蔵尊」や東横堀川に架かる橋が「鉄橋」「石橋」が交互になっている点、更には東横堀川水門でのシャワーの意味などが説明されず欲求不満のまま大阪城港に到着。
「しろてん」で現在活躍中のつんく。松田聖子が大阪城ホールでコンサートの際、終了後ホテルニューオータニに宿泊している部屋から「手を振る」こと。
大阪城ホールで日本のロックグループが初めてコンサートをしたのは「甲斐バンド」だったことを説明。
その後は「大阪砲兵工廠」「プリンセストヨトミロケ地」「算盤橋」「大阪城に生息する動植物」「青屋門」「大阪城の石垣」「豊臣期の石垣」「雁木坂」「梅林」「石山本願寺」「大阪城内にかつてあった病院、刑務所、英国公使館」「豊國神社」「桜門」「蛸石」「その他の巨石」「本丸御殿」「プリンセストヨトミロケ地」「たこやき造り体験」
なんとか無事終了。
今思えば「プリンセストヨトミ」を観ていてネタが膨らんでよかった!
もしよろしければ、私は8月27日も大阪旅めがね「大阪城ツアー」を担当することとなりました。
販売は昨日から開始しております。
申し込みはこちらから
「大阪史跡探訪Vol.1」での講師デビューを終えて
31名の参加者を松屋町駅から天王寺駅まで、ひたすら歩き続けたイベント。
約4時間。今から思うとぞっとしますね。
稱念寺のご住職さまが、境内の中にある陸奥家墓所跡を丁寧にご案内くださいました。
現在も残る常夜燈や墓碑。非公開だけに参加された方は満足されたようです。
この日、たくさんの質問が出てその場で回答できませんでした。
後日、質問の回答を大阪龍馬会の会報に投稿しました。
インターナショナル ワークショップ フェスティバル[300 DOORS」
7月7日。
インターナショナル ワークショップ フェスティバル[300 DOORS」の広報誌が家に届きました。
7月16日~8月9日にかけて数箇所に分けて300ものワークショップが開催されます。
個人的には、「BRIDGE」で影響を受けました大塚雅史さんのワークショップに興味大有り。
タイトルは「オーディションの受かり方を探せ!自己アピール講座」
そのほか平松大阪市長や大阪旅めがねの泉 英明さんの名があるではありませんか。
「幕末の大坂を歩く」のパートナー奥野さんの名もあります。
私の名も入っていて、8月5日10時30分「大阪市中央公会堂」の枠でワークショップを行うことになりました。
大阪市中央公会堂にて簡単な講座と街歩きです。
元治元年9月11日、勝 海舟と西郷隆盛の初会見の地や坂本龍馬が学んだ大坂海軍塾跡、近藤長次郎挙式地跡などを予定します。
参加料金は500円。
ぜひ、お申し込みください。
詳細や申し込みはこちら
インターナショナル ワークショップ フェスティバル[300 DOORS」は
問合せ先は 080-3134-6755(10:00~18:00)です。
大阪史跡探訪Vol.1 その3
「夕日岡創名の地」という碑が昨年建立されました。
このイベントではまだその碑はありませんでしたが、初めて「稱念寺」境内をご案内させていただいた場所です。
大坂の幕末を歩く【天満橋~北浜コース】開催
7月23日(土)天満橋を16時スタートで、「幕末の大坂を歩く」の史跡案内を実施することになりました。
龍馬ゆかりの船宿「堺屋源兵衛」跡、新選組定宿「京屋忠兵衛」跡、木戸孝允主催で大久保利通、伊藤博文、井上馨、五代友厚らが集まり「囲碁会」が開催された料亭「三橋楼」跡。
新選組ゆかりの平野屋跡、岩城枡屋跡などを巡ります。
大阪史跡探訪Vol.1 その2
松屋町駅をスタートして、人生で初めて案内した場所が、直木賞で有名な「直木三十五文学碑」でした。
そのかたわらにあるのが「榎木大明神」。プリンセストヨトミの舞台地でした。
大阪史跡探訪Vol.1 その1
平成12年(2000)6月4日に行われた大阪龍馬会のイベント。「大阪史跡探訪Vol.1」を何回かに分けてご紹介します。
神戸の史跡を訪ねて(連載1回目)
大阪龍馬会にて「大阪史跡探訪Vol.1~5」を実施したあと、大阪を離れ神戸に向けた時期がありました。
結局、「神戸史跡探訪」のイベントを3回行いましたが、大阪龍馬会の会報に投稿している「大坂の史跡を訪ねて」と並行しながらご紹介していきたいと思います。
1週間に1回ぐらいの割合で紹介できればと考えています。
今回は、平成17年(2005)3月27日に行いました第1回目からスタートします。
徳川家康築城の天守跡 ~大坂城に2つの天守閣が並び立つ~
豊臣秀吉の死後、勢力を拡大してきた徳川家康は、慶長4年(1599)9月9日、豊臣秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため、伏見から大坂城に入城します。
この頃、北の政所(秀吉の正妻)は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し、京都の高台寺に移り住んでしまいました。
家康は節句のお祝いが済んでも伏見に帰らず西の丸に居座ります。
慶長5年(1600)2月~3月にかけて、家康は西の丸に天守閣の築城工事を開始します。
姫路城も天守閣が2つ以上ありますが、大天守を中心に小天守があるといった造りです。
しかし、この時の大坂城は、本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つありました。
家康が2つ目の天守に居座ることで、豊臣の勢力と互角であることを天下に知らしめることを狙ったのではないかと思われます。
重要文化財に指定されている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)に2つの天守が建っていた様子が描かれています。
第15代将軍 徳川慶喜と外国公使謁見(本丸御殿 白書院)の地跡
慶応3年(1867)3月と12月、大坂城本丸御殿の中の「白書院」にて、徳川慶喜と外国公使との公式な謁見が行わました。後者は政権を調停に返していながら日本国の代表として各国公使と謁見しているところが慶喜のしたたかさか出ています。
そのときの模様が絵として数枚英国の「ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」に紹介されました。
いうまでもありませんが、この当時、大坂城に天守閣はありませんでした。
意外な大阪城 ⑪
<大坂遷都論>
慶応3年(1867)10月、大政奉還後俄かに「大坂遷都論」が述べられるようになりました。
鳥羽伏見の戦い後、大久保利通は、岩倉具視や三条実美に大阪遷都を説き、1月23日建白書を提出します。
「公家の天皇」から「国民の天皇」像を作り上げる事が急務と考え、これまで因習にとらわれた京都から都を移そうとしたのでした。
神戸事件、堺事件と外国との紛争が起き、天皇が大阪に行幸し、親政を行いつつ大阪を掌握し、いずれは遷都に持っていくつもりでした。
しかし、大阪行幸中、京都では「江戸遷都論」が有力になり、大阪遷都は自然消滅しました。
もし大阪遷都が実現していたら、大阪城が皇居となっていた可能背が高いと考えます。
意外な大阪城 ⑩
第2代城主 池田恒興(いけだつねおき)
本能寺の変後、すぐに山崎の合戦により羽柴(のちの豊臣)秀吉が明智光秀を破ります。
天正10年(1582)6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行いました。有名な清洲会議です。会議の結果、池田恒興が摂津国を領することになり、大坂城主に就任します。つまり、池田恒興が第2代大坂城主ということになります。
恒興が城主だった期間は1年未満であったため、応急に造られた大坂城の修復工事はしなかったようです。
その後、池田恒興は秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となります。小牧長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき、長久手の合戦で討ち死にします。
天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。「ikedatuneoki.doc」をダウンロード
甲斐よしひろの「サウンドストリート」⑤
「(オープニング曲)
こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。
甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。
今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。
東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。
「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に肩に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。
「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲が流れる)
え~、この曲を作ったのは・・・まぁ・・・彼女が、本当に1m60cmで、今はもうどっか嫁さんになってると思うんだけど・・俺たちはまだ、この辺でちょこちょこしているという感じで(笑)
え~、なんていうか・・思い出しますなぁ。
これ(東京の冷たい壁にもたれて)は、非常に好きな曲でありまして、え~、今日は1回目の「サウンドストリート」、先週・・非常になんか・・「甲斐よしひろの音楽のルーツ」っていう感じで、こせこせした感じだったので、今日はゆっくりやろうと思っているわけですが・・・
「若いこだま」の最終回が非常に大好評でして・・(笑)
※「若いこだま」最終回:http://ako.hacca.jp/ss9.htm
何が大好評だったのかというと・・、俺のあの「最後の嘆きがいい」と(笑) あれはぁ~、なんとなくつまずきながらも終わったと・・・あれが非常に、「サウンドストリートに行くんだ」という「継続性があってすごくいい」という激励のお葉書をたくさんいただきましたっ。はい。・・・くそっ(笑)
え~(笑)、「英雄と悪漢」という2枚目のアルバムの中からもう1曲聴いてもらいます。
え~、これも非常に好きな曲ですね。
「昨日のように」(曲が流れる)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND86710/index.html
「昨日のように」の曲が終わる
え~今夜は「甲斐バンドストーリー」という感じで、甲斐バンドのプロセス、経過を追いながら、いろんな話を使用と思っているんですが・・
今、聴いていると歌詞がいいねぇ! なんか知らないけど・・・
『飲みかけのグラスに嘘を数えて暮らす』(甲斐さんが再び机をたたく)。
これはなかなか他人(ひと)には書けんぞっていう感じで「ざまぁみろ」という感じですが(笑)
今の僕に書けっていうのもありますが・・・少しありますが・・・え~この時は同だったんだろうねぇ。
あのね、この時期、確か~この曲を書き上げたときは阿佐ヶ谷に住んでいたんだよね俺。花籠部屋が近くにあってね・・それでオレンジジュースが非常に好きな人(力士)なのでオレンジジュースを3パックぐらい買って来るわけよ。途中、自分の家に帰ろうとしたらその花籠部屋の力士がね、「まわし」締めて裸でね、アイスキャンデーほおばっててね(笑)・・なんとなくだらしない街でしたが、あの街は。え~、なんかこう・・非常にハードな思い出ってないね、この頃は。
ただ、東京に馴染もうという意識がものすごくあったね。
最初、甲斐バンドで、4人で住んだわけです。あの~合宿という感じで。それが高円寺でね。それで、高円寺の「シャンポール南高円寺」というマンションで。下がラーメン屋で。あそこの野菜炒め定食がすごく美味しかったけど・・・。
この前、秋田に演奏に行ったら、その1階の野菜炒め定食を作ってたタカシという人が会いに来てくれたんだよね(甲斐さん机をポンとたたく)。ただもう・・懐かしい顔でしたが、その人の顔を見て何を思ったかというと「野菜炒め定食、野菜炒め定食美味かったな」という、それだけしかないという、非常に気楽な人間関係を続けておりましたが。
え~、そうですな。あの~まぁ~本当に今「英雄と悪漢」という2枚目のLPを2曲かけたんですが・・・
「らいむらいと」というLPは1枚目のLPで。「バス通り」という曲が俺たちのデビュー曲で。
それでね、あの~初登場が60何位なんだよね。HOT100の40何位、30何位までバーッといったわけよデビュー曲が。だいたい10万枚ぐらい売れているわけよ。シングルが(甲斐さんが机をポンとたたく)。
2枚目の「裏切りの街角」が、これがほら、70万枚ぐらい売れているわけよ(甲斐さんが机をポンとたたく)。
それであの~、1年間ぐらい売れ続けてね、1年間売れ続けてベスト10に入って、7位ぐらいまで上がったわけよ。
そうすると、やっぱり、あの・・・出てきたてのバンドとしては、バンドのリーダーとしては、1枚目がスマッシュヒット。2枚目がビッグヒットと。「これはぁ簡単だろう」(甲斐さんが机をポンとたたく)と思うわけよね。「よしっ! 簡単だ!」(甲斐さんが机をポンとたたく)
パーっと思っちゃったもんね、すぐ。(笑いながら)「世の中簡単!」ほんとにほんとに。(笑)
それで「かりそめのスイング」を出したわけよ。・・・桂三枝なんか大阪に行った時、もう僕の手を握って「大好きです」っていう感じで・・・仁鶴(笑福亭仁鶴)はいわなかったけど(笑)・・え~それでね、「かりそめのスイング」という曲を出したわけよ、3枚目に。そしたらこれも40何位くらいまでいったわけよ。
それでね、俺たちは「裏切りの街角」が売れたとき、どう思ったかというと
「もっとRock(ロック)をやりたい」と思ったわけね。激しいリズムで、なんか本当に自分たちの言いたいことをもっと・・もっと言いたいと。
それで、最初、甲斐バンドというのは、あの~、松藤がドラムやって2ヶ月目ですぐプロになったり・・・みたいなのがあったりで、やっぱりみんなが技術的にそんなに上手くなかったし・・・大森信和もエレキのリードギターを俺たちのバンドに入って初めて弾いたという感じだったので、技術的にも乏しかったわけね。
それで結局、その乏しいままデビューして・・・まぁ、それはしょうがないんだけど。
俺がいわゆるソロのシンガーとして認められて『バンド組みたい』というのがいろいろあったので、それでなんとなくだんだん上手くなろうと・・。
甲斐バンドがある種みんなに認められるまでには、俺は「2年かかる」とふんでたわけよ。ところが、もう1年目の、しかも半年目でパーッと売れちゃったみたいな・・のがあって、非常にやっぱりみんな慌てたわけよ・・・ね、はっきり言って。それで、まぁ技術の進歩と共に、俺たちのやりたい音楽をどんどんやっていこうという感じでここまできたという感じなんでありますが。
えぇ~、俺がいろいろ・・まぁ、そのへん「英雄と悪漢」の次に「ガラスの動物園」という3枚目のLPで。この時は、非常に追い詰められて、俺が作ったんだよね。
1m60cmの彼女と別れたと・・・。その辺の部分で、やっぱり俺は「ガラスの動物園」という、本当に一人の女のためにすべて曲を書き上げた・・・というかなり追い詰められた状況だったんだけども。
その「ガラスの動物園」という中の曲をかけます。
「らせん階段」 (曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=vFEOwDbwkCw
(前回からの続き)
「らせん階段」 (曲が終わる)
この前もね、松藤(まつふじ)・・っていう、うちのドラマーと話していたんだけど。
やっぱりね、うちのバンドは、みんなあのすごいレコードが売れた時に「世間は簡単だ」と思っていたみたいなのねやっぱりね(甲斐さん机をポンとたたく)。それは~そう思うと思うよ、俺も思ってたもんね、はっきり。
やっぱり、だけどあのままずーっと、いわゆる簡単だと・・世間が簡単だと思わなかった部分ね。パーンと一気にちょっと落ち込んだ部分。これは、非常にいろんな意味でものすごく感謝したいと・・誰に感謝したらいいのかわかんないんだけど・・思ってるし。
ただ、俺たち「ガラスの動物園」を作っている途中、「ガラスの動物園」という(も)のにね、300時間近くかかったのね。1年間ぐらいスタジオに入っていたのね、ずっと。延々と。
それでね・・俺が曲ができなかったわけよ・・ものすごく。・・そういうのがありましてですなぁ、事情が。
だからね・・・非常に苦労して作り上げたという思い出がありますね、これはね。
あの~、ただこの時の・・状態として、俺は自信があるのはね、メンバーが、みんなが、滅入らなかったのね、その状態に。
別にみんなメンバーは、非常にしたたかだったし、やっぱり・・自分たちの「甲斐バンド」の音楽というものを早く作り上げよう。
甲斐バンドのサウンドを確立しよう、というみたいな・・・非常にやっぱりあって、なんかやっぱり同じ状態という感じだったし、いろんな意味でも意気込んでいたような気がするんですが・・・。
え~、この番組、FMになっちまったので、新しく「甲斐よしひろ」という人間とか「甲斐バンド」という人間を、初めて聴いてるという人も沢山いるんじゃないかと思うんですが。
まぁ、その~、そんな感じなので、俺たちの・・まぁ紹介の部分を兼ねて、まぁ今日、こういう感じでやってるわけです。
え~、もう1曲「ガラスの動物園」から聴いてもらおうと思ったんですが、あの~LIVEがね、出ているので、それをね、ちょっと聴いてもらいます。
え~、これはね、「この夜のさよなら」のLPの中に入っている曲なんですが。
この「この夜にさよなら」というのは4枚目のLPで。そのあとに「サーカス&サーカス」というLIVEが出たわけです。
え~、そのLIVEから聴いてもらいます。
これは、あの~、うちの松藤と長岡のコンビで作った名作であります。
「きんぽうげ」(曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=tfODEWwPYb8&feature=related
※次回に続く
甲斐よしひろオフィシャルWEBサイト
意外な大坂城 ⑧ 大坂城築城前は浄土真宗総本山
大坂城の前身が石山本願寺(大坂本願寺)
現在の大阪城南部の一部は難波宮の内裏(天皇の寝所)がありました。
それから約700年後、明応5年(1496)、本願寺8代目法主 蓮如が82歳のとき、石山御坊という隠居寺を建てたのが始まりです。
山科本願寺焼き討ち事件の後、本坊が徐々にここへ移されることになり、城郭の造りを形成し、石山本願寺と呼ばれるようになりました。
このあたりに巨石がたくさんあったことから「石山」と命名したそうです。
11代目法主 顕如の時、織田信長から「石山本願寺の明け渡し」を要求され、信長に抵抗し合戦となります。
最初の戦では、本願寺軍が信長軍に勝利しています。しかし、勝敗を決する打撃には至らず、元亀元年(1570)より10年間に及ぶ石山合戦が起こり、天正8年(1580)、信長に降参します。明け渡し直前に不審火により、三昼夜にわたり炎上。城郭であった寺(御坊)は、灰となり全焼してしまいました。
石山本願寺の遺構は皆無に近いですが、雁木坂上がった左手、豊國神社の北東に「蓮如上人の袈裟懸けの松跡」があります。
また、大阪市東淀川区の定専坊というお寺に、石山本願寺の梵鐘が残っています。
勝利した織田信長は、石山本願寺跡地に城郭を築きます。これが大坂城です。
イメージとして武田信玄が川中島合戦の為に築いた海津城。あるいは極論かもしれませんが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が一晩で築いたといわれる「墨俣一夜城」などのようなものです。
しかし、この時の大坂城は、後世の大規模な城と大いに違っており、石山本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。
意外な大坂城 ⑦
豊臣秀吉築城の天守閣は現在の天守閣の位置と少し違っている!
豊臣秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年(1583)9月1日から工事を開始します。
天正13年(1585)に第一期工事が終了。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)です。約15年にも及ぶ工事は、想像を絶するほどの力の入れようでした。南惣構えを堺にしようという計画もあり、もう数年延命であれば日本一巨大な城郭が築かれていたと思われます。
豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり千利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸から成り、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
大坂築城に伴う町づくりは、その後の日本都市のモデルにもなります。
特に下水溝は現在でも使用されています。建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので、「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。
本丸のあった場所は、「豊臣時代大坂城本丸図」という資料によると、現在の大阪城天守閣がある場所とは若干異なり、北東方面(約100m)にありました。
豊臣期の天守閣は39mの高さがあり、3階建ての屋根上に更に3階建てを載せた望楼型で、安土城天守閣を受け継いだ造りとなっていました。
意外な大坂城 ⑥
イギリス公使館跡
イギリス外交官 アーネスト・サトウの日記によりますと、大坂城二の丸玉造門近くにあった老中 板倉勝静の屋敷をイギリス公使館として使用していたとあります。
場所は玉造御門を入ったすぐのところにありました。
幕末期で大政奉還後に置かれましたので、大坂城炎上とともにイギリス公使館も廃墟となりました。
焼失後の大坂城へサトウが訪れ、詳細を日記に残しています。詳細は萩原延壽氏著の「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄」まで。
ちなみに、大政奉還→王政復古の大号令などの急展開で、徳川慶喜は二条城を離れ、大坂城に入ります。
そのとき、慶喜ら幕府重臣などの軍が大坂城入城する際、偶然アーネスト・サトウは京橋口付近でその模様を観ています。
「ちょうど城の壕に沿った通りの端まで来たとき、進軍ラッパが鳴りひびき、伝習隊が長い列をつくって行進して来た。(途中省略)われわれ、この転落した偉人に脱帽した。彼は黒い頭巾で顔をつつみ、軍帽をかぶっていた。(以下省略)」
意外な大坂城 ⑤
秀吉築城の天守と家康築城の天守が存在した大坂城
豊臣秀吉の死後、勢力を拡大してきた徳川家康は、慶長4年(1599)9月9日、豊臣秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため、伏見から大坂城に入城します。
この頃、北の政所(秀吉の正妻)は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し、京都の高台寺に移り住んでしまいました。
家康は節句のお祝いが済んでも伏見に帰らず西の丸に居座ります。
慶長5年(1600)2月~3月にかけて、家康は西の丸に天守閣の築城工事を開始します。
姫路城も天守閣が2つ以上ありますが、大天守を中心に小天守があるといった造りです。しかし、この時の大坂城は、本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つありました。
家康が2つ目の天守に居座ることで、豊臣の勢力と互角であることを天下に知らしめることを狙ったのではないかと思われます。
重要文化財に指定されている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)に2つの天守が建っていた様子が描かれています。
NHK大河ドラマ「天地人」でも2つの天守が描かれていました。
意外な大阪城 ④
3代目の大阪城天守閣<その3>
~進駐軍に占領された大阪城~
1)昭和20年(1945)8月14日の大空襲
昭和20年(1945)8月14日午後1時ごろ、アメリカ軍のB29戦闘機145機が、大阪城とその周辺にある軍の施設・砲兵工廠を空襲しました。
1トン爆弾をばらまいたため、民間人も含め大きな打撃を蒙りました。
京橋駅にも5つの爆弾が落ち、700~800名の死者が出たといわれます。
2) 天守閣の被弾
この時の空襲で、大阪城天守閣は奇跡的に壊滅せず残りました。
しかし、2発の1トン爆弾を近くに落とされ石垣が相当ずれました。
また、雨あられのように放たれた焼夷弾により、天守閣の屋根もずいぶん傷みました。
天守閣は、石垣に重みをかけないという特殊な工法で建てられていたため、大きな打撃を受けずに済みました。
3) 砲兵工廠・櫓・門などの被弾
砲兵工廠破壊が主目的であったため、砲兵工廠の施設は壊滅状態になりました。
また、大阪城の貴重な建物も破壊されました。破壊されたのは、徳川期に創建された二の丸二番櫓・三番櫓、伏見櫓、坤(ヒツジサル)櫓、京橋門などです。
4) 進駐軍に占領された大阪城
昭和20年(1945)8月15日終戦となり、9月下旬和歌山に進駐軍が上陸します。
進駐軍は大阪城の明け渡しを命じます。
展示資料や書物を天守閣に残したまま進駐軍が入場します。
以後3年間、大阪城は進駐軍によって占領されました。
昭和23年(1948)の夏、アメリカ軍から大阪市へ返還されましたが、天守閣内はさんざんに荒らされていたようです。
返還される前年(昭和22年)には、米軍の失火により紀州御殿が焼失しています。
5) 応急復旧
返還後、応急に復旧作業がなされて、大阪市の管理のもとで、昭和24年(1949)7月より一般公開が再開されました。
意外な大阪城③
3代目の大阪城天守閣<その2>
~陸軍により閉鎖された大阪城~
1) 観光客入場の規制
昭和12年(1937)に日中戦争が開戦となり、これ以降は戦時体制となったため、大阪城の観光客に対し、規制が強まってきます。
昭和15年(1940)、大手門で写真機が取り上げられるようになりました。
次第に規制が強化され、天守閣の展望台を閉鎖し、窓はすべて鎧戸で覆い隠されてしまい、館内の展示品以外は見る事ができなくなりました。
これにより、一般客は大阪城内の軍事施設や軍需工場をまったく見る事ができなくなります。
2) 天守閣の一般公開を閉鎖
昭和17年(1942)9月25日、ついに市民の寄付により復興された天守閣が軍部に取り上げられる事になり、市民への公開も閉鎖となりました。その後、敗戦により進駐軍に明け渡すまでの期間中、この天守閣をどのように使用していたかは不明のままです。
意外な大阪城②
3代目の大阪城天守閣
~大阪市民の寄付金により再建~
1) 天守閣の復興が議会で可決
昭和3年(1930)11月、昭和天皇即位の式典が行われるにあたり、大阪市の記念事業として、寛文5年(1665)1月の落雷で焼失して以来約270年間失っていた天守閣の復興が、第7代大阪市長 関 一(せき はじめ)より大阪市議会に提案され、満場一致で可決されました。前大阪市長 関 淳一氏は、関 一の孫にあたります。
2) 寄付金の募集
昭和3年8月から寄付金を募集し、早くも翌年の2月に目標額の150万円(現在の600~700億円)に到達しました。天守閣に47万円、公園整備に23万円、合わせて70万円。残りの80万円は「第四師団司令部の新庁舎建設に充てられました。最も多く寄付をした人は、住友財閥の住友吉右衛門氏で25万円。続いて、三菱財閥の岩崎小弥太氏で5万円でした。
3) 天守閣再建の問題点
大阪城内は明治以降、陸軍の軍用地となっており、あらゆる施設が所狭しと建っていたため、一般の市民や観光客が、自由に出入りすることは困難であると予想されました。そのため陸軍からいくつかの条件が出され、それを認めるということで再建が進められました。その条件とは、募金額の6割を新庁舎の新築に充て、残りの4割を天守閣再建・大阪城公園の整備に充てること。また、いざという時は天守閣を軍部に明け渡すということでした。新築された第四師団司令部の庁舎は、戦後、進駐軍の本部、大阪市警察本部と移り変わり、大阪市立博物館として平成14年(2002)3月31日まで利用されていました。
4) 大阪城天守閣の再建
天守閣の建設は昭和5年(1930)5月6日に起工し、翌年の10月30日に竣工しました。(約270年ぶりに天守閣が復興しました。)豊臣期の天守閣の復興が望まれ、数少ない資料から現在の天守閣が設計されました。竣工式典は、昭和6年(1931)11月7日に行われ、同月16日から一般公開が始まりました。
(続く)
意外な大阪城の発見①
内堀の生物
魚類は、14種が確認され外来種であるブルーギルとオオクチバスがほとんどを占め、従来から生息する魚類はごく僅かで、石垣などの隙間に生息するチチブやテナガエビなどがいる。
なかでもチチブは築城以来住み続けていて石垣の隙間に多く生息する貴重な生物です。
この内堀は流れてくる水もなければ流れ出る水もありません。
つまり湧き水なんです。
現在は余りいい水の質とはいえなく、多くのプランクトンが生息しています。
【「大阪城ネイチャーウォッチング」/追手門学院大阪城プロジェクト(朝日新聞出版より)
大阪旅めがね「大阪城ツアー」
大阪旅めがねは、「アクアミニ」の運行に伴い、7月のツアーが販売となりました。
私は7月17日(日)の担当です。
出発点が道頓堀川の太左衛門橋船着場(とんぼりリバーウォーク)。
アクアミニで大阪城港まで「道頓堀川」「東横堀川」「土佐堀川」「大川」「第二寝屋川」をアクアミニでクルージングを楽しんでいただきます。
上陸後、いざ大阪城本丸へ。
その途中でいくつかの名所をご案内。
本丸跡に到着後、豊城園にて「たこやき造り」。
ぜひ、ご参加ください。(7/30は私ではなく他のエリアクルーが担当。私以上に詳しいのでこちらで申し込みいただいてもかまいません)
お申し込みはこちらから
吉田松陰と泉南市
吉田松陰が宿泊した「山田文英邸」跡。
この方のおかげで見つけることができました。
この方は私が、突き止める約8年前に現地を訪れていました。
吉田松陰宿泊の地 山田文英邸跡(山田家) 泉南市岡田
大阪龍馬会の会報「第76号【平成12年(2000)5月13日発行】でMさんによる「ひょうたんからの駒の巻・吉田松陰と泉南市」を読んだのがきっかけでこの地にたどることができました。
嘉永6年(1853)1月26日、吉田松陰は長州萩を出発。萩から江戸に至るまでの旅を日記「発丑遊歴日録」として書き残しました。
海路で大坂に着いたのは同年2月10日でした。約3ヶ月間、大坂・五條・富田林・岸和田・泉州各所の儒学者を訪ねまわりました。
同年2月26日泉州岡田浦から山田文英が、岸和田滞在中の松陰を訪ね会談しました。
3月3日に岸和田を発った松陰は、3月5日、泉州岡田浦の山田文英の邸を訪ねました。5日から17日の13日間、山田家に滞在しました。
現在は、当時の面影もありませんが、子孫の方が山田文英邸跡地に居住されています。
松陰は「発丑遊歴日録」に山田文英のことを次のように記載しています。
二月二十六日(前文省略)
山田文英なる者は雲(州)※現在の島根県の人なり。泉(州)の岡田に来り醫(医)業とす、亦来りて一宿す。
三月五日 熊取を発し、岡田の山田文英の家に至る。行程二里。岡田は一漁村なり。文英の門生に西川俊齋と云うものあり、紀の人なり。
甲斐よしひろ「サウンドストリート」④
「(オープニング曲)
こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。
甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。
今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。
東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。
「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に肩に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。
「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲が流れる)
え~、この曲を作ったのは・・・まぁ・・・彼女が、本当に1m60cmで、今はもうどっか嫁さんになってると思うんだけど・・俺たちはまだ、この辺でちょこちょこしているという感じで(笑)
え~、なんていうか・・思い出しますなぁ。
これ(東京の冷たい壁にもたれて)は、非常に好きな曲でありまして、え~、今日は1回目の「サウンドストリート」、先週・・非常になんか・・「甲斐よしひろの音楽のルーツ」っていう感じで、こせこせした感じだったので、今日はゆっくりやろうと思っているわけですが・・・
「若いこだま」の最終回が非常に大好評でして・・(笑)
※「若いこだま」最終回:http://ako.hacca.jp/ss9.htm
何が大好評だったのかというと・・、俺のあの「最後の嘆きがいい」と(笑) あれはぁ~、なんとなくつまずきながらも終わったと・・・あれが非常に、「サウンドストリートに行くんだ」という「継続性があってすごくいい」という激励のお葉書をたくさんいただきましたっ。はい。・・・くそっ(笑)
え~(笑)、「英雄と悪漢」という2枚目のアルバムの中からもう1曲聴いてもらいます。
え~、これも非常に好きな曲ですね。
「昨日のように」(曲が流れる)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND86710/index.html
「昨日のように」の曲が終わる
え~今夜は「甲斐バンドストーリー」という感じで、甲斐バンドのプロセス、経過を追いながら、いろんな話を使用と思っているんですが・・
今、聴いていると歌詞がいいねぇ! なんか知らないけど・・・
『飲みかけのグラスに嘘を数えて暮らす』(甲斐さんが再び机をたたく)。
これはなかなか他人(ひと)には書けんぞっていう感じで「ざまぁみろ」という感じですが(笑)
今の僕に書けっていうのもありますが・・・少しありますが・・・え~この時は同だったんだろうねぇ。
あのね、この時期、確か~この曲を書き上げたときは阿佐ヶ谷に住んでいたんだよね俺。花籠部屋が近くにあってね・・それでオレンジジュースが非常に好きな人(力士)なのでオレンジジュースを3パックぐらい買って来るわけよ。途中、自分の家に帰ろうとしたらその花籠部屋の力士がね、「まわし」締めて裸でね、アイスキャンデーほおばっててね(笑)・・なんとなくだらしない街でしたが、あの街は。え~、なんかこう・・非常にハードな思い出ってないね、この頃は。
ただ、東京に馴染もうという意識がものすごくあったね。
最初、甲斐バンドで、4人で住んだわけです。あの~合宿という感じで。それが高円寺でね。それで、高円寺の「シャンポール南高円寺」というマンションで。下がラーメン屋で。あそこの野菜炒め定食がすごく美味しかったけど・・・。
この前、秋田に演奏に行ったら、その1階の野菜炒め定食を作ってたタカシという人が会いに来てくれたんだよね(甲斐さん机をポンとたたく)。ただもう・・懐かしい顔でしたが、その人の顔を見て何を思ったかというと「野菜炒め定食、野菜炒め定食美味かったな」という、それだけしかないという、非常に気楽な人間関係を続けておりましたが。
え~、そうですな。あの~まぁ~本当に今「英雄と悪漢」という2枚目のLPを2曲かけたんですが・・・
「らいむらいと」というLPは1枚目のLPで。「バス通り」という曲が俺たちのデビュー曲で。
それでね、あの~初登場が60何位なんだよね。HOT100の40何位、30何位までバーッといったわけよデビュー曲が。だいたい10万枚ぐらい売れているわけよ。シングルが(甲斐さんが机をポンとたたく)。
2枚目の「裏切りの街角」が、これがほら、70万枚ぐらい売れているわけよ(甲斐さんが机をポンとたたく)。
それであの~、1年間ぐらい売れ続けてね、1年間売れ続けてベスト10に入って、7位ぐらいまで上がったわけよ。
そうすると、やっぱり、あの・・・出てきたてのバンドとしては、バンドのリーダーとしては、1枚目がスマッシュヒット。2枚目がビッグヒットと。「これはぁ簡単だろう」(甲斐さんが机をポンとたたく)と思うわけよね。「よしっ! 簡単だ!」(甲斐さんが机をポンとたたく)
パーっと思っちゃったもんね、すぐ。(笑いながら)「世の中簡単!」ほんとにほんとに。(笑)
それで「かりそめのスイング」を出したわけよ。・・・桂三枝なんか大阪に行った時、もう僕の手を握って「大好きです」っていう感じで・・・仁鶴(笑福亭仁鶴)はいわなかったけど(笑)・・え~それでね、「かりそめのスイング」という曲を出したわけよ、3枚目に。そしたらこれも40何位くらいまでいったわけよ。
それでね、俺たちは「裏切りの街角」が売れたとき、どう思ったかというと
(前回からの続き)
「もっとRock(ロック)をやりたい」と思ったわけね。激しいリズムで、なんか本当に自分たちの言いたいことをもっと・・もっと言いたいと。
それで、最初、甲斐バンドというのは、あの~、松藤がドラムやって2ヶ月目ですぐプロになったり・・・みたいなのがあったりで、やっぱりみんなが技術的にそんなに上手くなかったし・・・大森信和もエレキのリードギターを俺たちのバンドに入って初めて弾いたという感じだったので、技術的にも乏しかったわけね。
それで結局、その乏しいままデビューして・・・まぁ、それはしょうがないんだけど。
俺がいわゆるソロのシンガーとして認められて『バンド組みたい』というのがいろいろあったので、それでなんとなくだんだん上手くなろうと・・。
甲斐バンドがある種みんなに認められるまでには、俺は「2年かかる」とふんでたわけよ。ところが、もう1年目の、しかも半年目でパーッと売れちゃったみたいな・・のがあって、非常にやっぱりみんな慌てたわけよ・・・ね、はっきり言って。それで、まぁ技術の進歩と共に、俺たちのやりたい音楽をどんどんやっていこうという感じでここまできたという感じなんでありますが。
えぇ~、俺がいろいろ・・まぁ、そのへん「英雄と悪漢」の次に「ガラスの動物園」という3枚目のLPで。この時は、非常に追い詰められて、俺が作ったんだよね。
1m60cmの彼女と別れたと・・・。その辺の部分で、やっぱり俺は「ガラスの動物園」という、本当に一人の女のためにすべて曲を書き上げた・・・というかなり追い詰められた状況だったんだけども。
その「ガラスの動物園」という中の曲をかけます。
「らせん階段」 (曲が流れる)
http://www.youtube.com/watch?v=vFEOwDbwkCw
※次回に続く
2008年12月20日、16時より実施された「甲斐よしひろさんサイン会」。
まもなく1年を迎えます。今年は甲斐バンドでデビュー35周年の記念ツアーの真っ最中。
昔はあまりなかったテレビ出演も多くうれしい限りです。
「最後の夜汽車」(明石家さんまの思い出の曲)と「熱狂(ステージ)」(プロレスラー小橋選手の思い出の曲)をテレビで演奏があったときは感動でした。
JASS「イベント」大坂の龍馬2 幕末の志士が歩いた西区周辺巡り
7月2日、昨年に続き「大坂の龍馬」の第2回目となる史跡案内を行いました。
これまで大阪の史跡案内を行ってきましたが、初めて「小松帯刀終焉の地」を案内することができました。
大河ドラマ「篤姫」では病院で息を引き取ったシーンがありましたが、それを覆す内容のものです。
大宝寺町にあった小松帯刀の愛妾 お琴の家のあった場所をご案内し、小松帯刀と主治医のA・ボードウィンとの関係を披露しました。
その後、昔の赤線地域「新町花街」をご案内。
夕霧太夫ゆかりの扇屋跡、吉田屋跡、石碑のある場所でなく実際にはここにあったと説明した「新町九軒堤跡」など、古地図を照らし合わせながら皆さんを誘導。
信号待ちするたびに、「今、この地図ではどこに該当しますか?」が頻繁に聞かれ、皆さんも熱心な様子が伺えタイムスリップを楽しまれているようでした。
コースの途中にある某自動車販売会社で「新車1万台を販売した営業スタッフ」を紹介。
営業経験年数27年で生涯累計販売台数が10,018台。
1日平均1.5台以上という換算となります。年間平均400台以上。
某メーカーでの殿堂入り表彰基準は累計販売台数は3000台です。
プロ野球で言う2000本安打や200本の本塁打に該当しますが、それを考えると7000本安打くらいに匹敵しますよね。
そこから更に西へ。今度は堀江新地跡をご案内。ここで六人斬り事件があったことをご案内。そのときに被害にあった女性は両腕を斬り落とされましたが、彼女はその後、口に筆を咥えて絵画を描き、福祉活動家として世界的に有名になります。
その人の名は大石順教。
最後に「土佐藩蔵屋敷跡」をご案内。
来年もお声架けいただけるとのこと。嬉しい限りです。
吉田松陰宿泊の地 中 左近邸跡 泉南郡熊取町
中家は平安末期、後白河法皇が熊野行幸の際立ち寄り、行宮(仮御所)とした由緒ある旧家です。中家は江戸期、岸和田藩の郷士代官として、七人庄屋の筆頭を務めた家柄です。
五門・野田・紺屋・小垣内・宮・久保・下高田の村の年貢徴収や年寄・組頭の決定権を持ち、この地の行政を委ねられていました。元禄5年(1692)には岸和田藩の藩札の札元に任命されています。嘉永6年(1853)3月3日、吉田松陰は岸和田を発ち、熊取の中 左近(中 瑞雲斎)を訪ねました。松陰は中家に3月3日から5日の3日間滞在しています。
吉田松陰著の旅日記「発丑遊歴日録」では次のような記載があります。
(嘉永6年)三月三日 岸和田を発し、熊取の中 左近(なか さこん)の家に至る、二里。醫生 佐海祐斎(さうみゆうさい)數ゝ(しばしば)来る。五日 熊取を発し、岡田の山田文英の家に至る。行程ニ里。岡田は一漁村なり。
松陰は、中 左近から清国で起こった「太平天国の乱」について詳しく聴きました。また、松陰滞在中に、熊取の医師である佐海祐斎(さうみゆうさい)が中家を訪れ、松陰と会談し漢詩の交換を行っています。
中家住宅は、昭和39年(1964)5月29日に国の重要文化財に指定されました。主屋は入母屋造り、茅葺き、妻入りで、周囲に本瓦葺の庇をめぐらしています。
中家住宅は、現在でも広い敷地を占めますが、江戸時代後期の古い図によると、今よりもはるかに大きく、主屋の東側には別棟の式台玄関のつく客殿(書院)がありました。
土佐藩大坂蔵屋敷跡
大阪市立中央図書館やかつての名称「マンモスアパート」がある地は広大な土佐藩の蔵屋敷がありました。
土佐藩の名産である鰹や材木が江戸時代この地に運ばれ、鰹座や材木を商う店、更には本屋までこの付近で栄えました。
現在は、かつて蔵屋敷内にあった稲荷神社が残され、土佐稲荷神社として遺跡が残されています。
明治期に大坂蔵屋敷の主となった岩崎彌太郎が今日まで残る「三菱」を興したからこそ、神社として残されています。
境内には、第8代藩主山内豊敷(やまうちとよのぶ)寄進の常夜燈、彌太郎の実弟の彌之助寄進の青銅狛犬、彌太郎の娘婿加藤高明(内閣総理大臣)寄進の常夜燈などが残されています。
更には謎めいた慶応三年十一月十五日寄進の常夜燈があります。
常夜燈や石碑など建立年月が記されていても日単位まで刻まれている碑は少ないですよね。
なぜ「慶応三年十一月十五日」と刻まれているのでしょうか?
この日はご存知のとおり、京都の坂本龍馬寓居である近江屋にて土佐海援隊の隊長 坂本龍馬と土佐陸援隊の隊長 中岡慎太郎が遭難した日です。
明日はJASS主催の「大坂にある龍馬ゆかりの地2」のガイドとして案内してきます。
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