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吉田松陰訪問の地 後藤松陰を訪問

吉田松陰訪問の地 後藤松陰を訪問

吉田松陰著の「癸丑遊歴日録」によると嘉永6年(1853)1月11日には、大坂梶木町の後藤春蔵(松陰)を訪れたことが記載されています。

「十一日(途中省略)。後藤春蔵を梶木町に訪ひ、一見して及ち出で、舟に還る。(以下省略)」

吉田松陰はその後、五條の森田節斎を訪ね、岸和田などを遊歴の後、再び3月18日に大坂へ戻ります。しばらく記録が途絶えていますが、4月1日と3日、再び後藤松陰を訪ねています。

「四月朔日 晴。後藤春蔵・藤澤昌蔵(即ち東畡なり、高松)を訪ふ。二日 晴。坂本鉉之助・奥野彌太郎(遠藤但馬守の臣)を訪ふ。三日 晴。後藤春蔵を訪ふ。(以下省略)」

<後藤松陰  (寛政9年(1797)~元治元年(1864))>

名を機(はた)。字を世張。通称を俊蔵または春草。安八郡森部村に、医師 後藤玄中の二男として生まれます。16歳で菱田毅斎の私塾の塾長を務め、毅斎の勧めにより、頼 山陽の門人となります。文政3年(1820)、大坂の永代浜で開塾し、文政8年(1825)、朱子学者である篠崎小竹の娘町子と結婚します。

この頃、「詩の広瀬旭荘、文の松陰」と呼ばれ評されていました。塾名は「広業館」といいます。何度か移転し、後藤松陰が60歳のころには梶木町御霊筋西南角 (現在の北浜4丁目)で開いていました。吉田松陰が訪れたのはこの地であったと考えられます。

吉田松陰の若き頃ですので吉田寅次郎と名乗り、後藤松陰と会談したと思われますが、

「松陰」同士の対談の地としてご紹介させていただきました。

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