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2011年6月

吉田松陰訪問の地 儒者 相馬九方住居跡・岸和田藩講習館跡

吉田松陰訪問の地 儒者 相馬九方住居跡・岸和田藩講習館跡

嘉永6年(1853)2月23日、岸和田に到着した吉田松陰と森田節斎は、その日の夜、岸和田藩に招かれている儒者 相馬九方(そうまきゅうほう)の寓居先である岸和田藩校「講習館」を訪問しました。

松陰は「発丑遊歴日録」には次のような記載があります。

二十三日

晴。十四日より今日に至るまで富田林に滞まる。又節斎に従ひ和泉の岸和田に至る。岸和田は戸数三千許り。富田林を発し小阪を越え、左に篠山第を観て過ぎ、南野田村を経、館林領なり。福町に至り午食す。

制令に云はく、小出伊織と。土生(はぶ)を経て岸和田に至る。行程六里。四面皆菜畦麥畝(さいけいばくほ)、土地肥沃にして生色蒼々たり。是の日、節斎は輿中に詩あり、云はく。

人情反覆雨耶雲    人情反覆雨か雲か、

気似吾樓獨有君    木吾樓(ごろう)に似たるもの獨り君あり。

他日勿忘河内路    他日忘るるなかれ河内の路、

輿中輿外共論文    輿中輿外共に文を論ぜしを。

夜、相馬一郎を訪ふ、名は肇、字は元基。帰りし時は夜巳に丑(午前2時)なり。相馬は教習館居り、館は官新たに造営し、以て一郎を居き、士農工商皆至りて業を受くるを許す。約140日間に及ぶ旅を終え、同5年(1852)4月、江戸藩邸に戻りましたが、「萩へ帰国・脱藩罪として7ヶ月間の自宅謹慎(その後士籍剥奪)の処分を受けました。

しかし、嘉永6年(1853)1月、「十ヶ年の遊学」の許可が出ます。嘉永6年(1853)1月26日、吉田松陰は長州萩を出発します。

萩から江戸に至るまでの旅を日記「発丑遊歴日録」として書き残しました。

2月23日から3月3日まで岸和田に逗留し、岸和田藩の志士、儒者など多くの人物と会っています。

3月3日~5日は熊取にある中左近邸に。3月5日~17日まで泉州岡田にある山田文英の邸にて逗留。

岸和田に滞在中、吉田松陰は城下町の藩士や儒者を訪ねまわりました。宿所に帰ったのは午前2時でした。翌日、相馬九方が松陰の宿所を訪ね会談後、その夜、再度相馬九方の寓居先を訪問しました。この時は夜を徹し、松陰が宿所に戻ったのが午前10時だったと「発丑遊歴日録」に書き記しています。2月26日にも相馬九方を訪ねています。その時に梅谷卓司著の「渦潮の譜 岸和田藩儒・相馬九方と幕末の学者群像」(朱鷺書房)のP113よりは、岸和田藩の七人庄屋のうちの一人で、岸和田城下に住む岸 長太郎に出会います。松陰が相馬九方を訪れたときの模様が詳しく書かれています。

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相馬九方                 岸和田藩講習館跡             

大坂の史跡を訪ねて 連載3回目

大坂の史跡を訪ねて 連載3回目

平成11年(1999)7月4日発行の会報に投稿した連載3回目です。

事前の取材で初めて「稱念寺」を訪れました。ご住職の奥様がアポなしにもかかわらず「大阪龍馬会」に所属しているということだけで、気軽に中に入れていただき、懇切丁寧にご案内してくださいました。

「3.pdf」をダウンロード

甲斐よしひろの「サウンドストリート」 ③

「(オープニング曲)

 こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。

 甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。

 今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。

 東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。
 「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に肩に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。
 「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲が流れる)

終了

 え~、この曲を作ったのは・・・まぁ・・・彼女が、本当に1m60cmで、今はもうどっか嫁さんになってると思うんだけど・・俺たちはまだ、この辺でちょこちょこしているという感じで(笑)
 え~、なんていうか・・思い出しますなぁ。

 これ(東京の冷たい壁にもたれて)は、非常に好きな曲でありまして、え~、今日は1回目の「サウンドストリート」、先週・・非常になんか・・「甲斐よしひろの音楽のルーツ」っていう感じで、こせこせした感じだったので、今日はゆっくりやろうと思っているわけですが・・・

 「若いこだま」の最終回が非常に大好評でして・・(笑)     
※「若いこだま」最終回:
http://ako.hacca.jp/ss9.htm

 何が大好評だったのかというと・・、俺のあの「最後の嘆きがいい」と(笑) あれはぁ~、なんとなくつまずきながらも終わったと・・・あれが非常に、「サウンドストリートに行くんだ」という「継続性があってすごくいい」という激励のお葉書をたくさんいただきましたっ。はい。・・・くそっ(笑)

 え~(笑)、「英雄と悪漢」という2枚目のアルバムの中からもう1曲聴いてもらいます。

 え~、これも非常に好きな曲ですね。

 「昨日のように」(曲が流れる)

 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND86710/index.html

前回からの続き

「昨日のように」の曲が終わる

 え~今夜は「甲斐バンドストーリー」という感じで、甲斐バンドのプロセス、経過を追いながら、いろんな話を使用と思っているんですが・・

 今、聴いていると歌詞がいいねぇ! なんか知らないけど・・・

 『飲みかけのグラスに嘘を数えて暮らす』(甲斐さんが再び机をたたく)。

 これはなかなか他人(ひと)には書けんぞっていう感じで「ざまぁみろ」という感じですが(笑)

 今の僕に書けっていうのもありますが・・・少しありますが・・・え~この時は同だったんだろうねぇ。

 あのね、この時期、確か~この曲を書き上げたときは阿佐ヶ谷に住んでいたんだよね俺。花籠部屋が近くにあってね・・それでオレンジジュースが非常に好きな人(力士)なのでオレンジジュースを3パックぐらい買って来るわけよ。途中、自分の家に帰ろうとしたらその花籠部屋の力士がね、「まわし」締めて裸でね、アイスキャンデーほおばっててね(笑)・・なんとなくだらしない街でしたが、あの街は。え~、なんかこう・・非常にハードな思い出ってないね、この頃は。

 ただ、東京に馴染もうという意識がものすごくあったね。

 最初、甲斐バンドで、4人で住んだわけです。あの~合宿という感じで。それが高円寺でね。それで、高円寺の「シャンポール南高円寺」というマンションで。下がラーメン屋で。あそこの野菜炒め定食がすごく美味しかったけど・・・。

 この前、秋田に演奏に行ったら、その1階の野菜炒め定食を作ってたタカシという人が会いに来てくれたんだよね(甲斐さん机をポンとたたく)。ただもう・・懐かしい顔でしたが、その人の顔を見て何を思ったかというと「野菜炒め定食、野菜炒め定食美味かったな」という、それだけしかないという、非常に気楽な人間関係を続けておりましたが。

 え~、そうですな。あの~まぁ~本当に今「英雄と悪漢」という2枚目のLPを2曲かけたんですが・・・

 「らいむらいと」というLPは1枚目のLPで。「バス通り」という曲が俺たちのデビュー曲で。

 それでね、あの~初登場が60何位なんだよね。HOT100の40何位、30何位までバーッといったわけよデビュー曲が。だいたい10万枚ぐらい売れているわけよ。シングルが(甲斐さんが机をポンとたたく)。

 2枚目の「裏切りの街角」が、これがほら、70万枚ぐらい売れているわけよ(甲斐さんが机をポンとたたく)。

 それであの~、1年間ぐらい売れ続けてね、1年間売れ続けてベスト10に入って、7位ぐらいまで上がったわけよ。

 そうすると、やっぱり、あの・・・出てきたてのバンドとしては、バンドのリーダーとしては、1枚目がスマッシュヒット。2枚目がビッグヒットと。「これはぁ簡単だろう」(甲斐さんが机をポンとたたく)と思うわけよね。「よしっ! 簡単だ!」(甲斐さんが机をポンとたたく)

 パーっと思っちゃったもんね、すぐ。(笑いながら)「世の中簡単!」ほんとにほんとに。(笑)

 それで「かりそめのスイング」を出したわけよ。・・・桂三枝なんか大阪に行った時、もう僕の手を握って「大好きです」っていう感じで・・・仁鶴(笑福亭仁鶴)はいわなかったけど(笑)・・え~それでね、「かりそめのスイング」という曲を出したわけよ、3枚目に。そしたらこれも40何位くらいまでいったわけよ。

 それでね、俺たちは「裏切りの街角」が売れたとき、どう思ったかというと

 (次回に続く)

 あと数日で、甲斐さんと握手して1年を迎えようとしています。

 つくづく思いますが、子供のときに夢中になった歌手・グループが、家庭を持ち子供がいるときに、まだ現役で活躍してくれていることが、非常に幸運だなと思います。

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吉田松陰訪問の地 坂本鉉之助邸跡

吉田松陰訪問の地  坂本鉉之助邸跡  大阪市中央区安堂寺町周辺

吉田松蔭が長州萩から江戸への旅路に出発したのは、嘉永6年(1853)1月26日で、海路で大坂に着いたのは2月10日でした。

松陰が大坂で最初に訪問した人物は、坂本鉉之助でした。来坂した翌日2月11日に坂本鉉之助の邸を訪ねています。

翌12日には高津宮に参詣したあと、大和五条の森田節斎を訪ねるため大坂を発ちました。

森田節斎を訪ねてからは岸和田などを遊歴の後、再び大坂へ3月18日に戻ります。3月19日から30日まで日記の記録が途絶えますが、4月2日、坂本鉉之助を訪れています。

坂本鉉之助邸の所在地は、手がかりとなる資料が少なく、現在のところ桃谷にあったことしかわかっていません。JR大阪環状線に桃谷駅がありますが、その周辺ではなく、大阪市地下鉄谷町6丁目駅周辺に該当します。

ちょうど現在公開中の映画「プリンセストヨトミ」の舞台地でもあります。

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吉田松陰訪問の地 高松藩蔵屋敷

吉田松陰訪問の地 高松藩蔵屋敷  北区中之島5-3 (リーガロイヤルホテル東南角)             

吉田松陰の「発丑遊歴日録」によると嘉永6年(1853)1月10日、松陰は大坂に到着しました。

次のような記載があります。

「(前文省略)越中橋を過ぎ、常安橋下に至りて碇を寄す。是れを土佐濠と爲す。河口よりここに至る一里半なり。家書を栽す。夜は金毘羅祭日にて、高松藩邸の中に祠あり、人多く詣で拝す。余も亦 造(いた)り観る。」

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京都の街で

「劇空間be Cool」の旗揚げ公演でOSAYAN作曲の「京都の街で」が採択されました。

お芝居のタイトルは「幕末新世紀」。

下記写真は公演前に劇団メンバーと一緒に史跡めぐり。

坂本龍馬寓居跡(海援隊京都詰所跡)、近藤 勇 像、新選組屯所八木邸にて

http://www.youtube.com/watch?v=T6PrddFmcfg

http://www.youtube.com/watch?v=GdPTUDB2mOA

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吉田松陰訪問の地 後藤松陰を訪問

吉田松陰訪問の地 後藤松陰を訪問

吉田松陰著の「癸丑遊歴日録」によると嘉永6年(1853)1月11日には、大坂梶木町の後藤春蔵(松陰)を訪れたことが記載されています。

「十一日(途中省略)。後藤春蔵を梶木町に訪ひ、一見して及ち出で、舟に還る。(以下省略)」

吉田松陰はその後、五條の森田節斎を訪ね、岸和田などを遊歴の後、再び3月18日に大坂へ戻ります。しばらく記録が途絶えていますが、4月1日と3日、再び後藤松陰を訪ねています。

「四月朔日 晴。後藤春蔵・藤澤昌蔵(即ち東畡なり、高松)を訪ふ。二日 晴。坂本鉉之助・奥野彌太郎(遠藤但馬守の臣)を訪ふ。三日 晴。後藤春蔵を訪ふ。(以下省略)」

<後藤松陰  (寛政9年(1797)~元治元年(1864))>

名を機(はた)。字を世張。通称を俊蔵または春草。安八郡森部村に、医師 後藤玄中の二男として生まれます。16歳で菱田毅斎の私塾の塾長を務め、毅斎の勧めにより、頼 山陽の門人となります。文政3年(1820)、大坂の永代浜で開塾し、文政8年(1825)、朱子学者である篠崎小竹の娘町子と結婚します。

この頃、「詩の広瀬旭荘、文の松陰」と呼ばれ評されていました。塾名は「広業館」といいます。何度か移転し、後藤松陰が60歳のころには梶木町御霊筋西南角 (現在の北浜4丁目)で開いていました。吉田松陰が訪れたのはこの地であったと考えられます。

吉田松陰の若き頃ですので吉田寅次郎と名乗り、後藤松陰と会談したと思われますが、

「松陰」同士の対談の地としてご紹介させていただきました。

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甲斐よしひろの「サウンドストリート」 ②

甲斐よしひろの「サウンドストリート」 ②

「(オープニング曲)

 こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。

 甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。

 今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。

 東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。
 「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に方に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。
 「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲が流れる)

終了

 え~、この曲を作ったのは・・・まぁ・・・彼女が、本当に1m60cmで、今はもうどっか嫁さんになってると思うんだけど・・俺たちはまだ、この辺でちょこちょこしているという感じで(笑)
 え~、なんていうか・・思い出しますなぁ。

 これ(東京の冷たい壁にもたれて)は、非常に好きな曲でありまして、え~、今日は1回目の「サウンドストリート」、先週・・非常になんか・・「甲斐よしひろの音楽のルーツ」っていう感じで、こせこせした感じだったので、今日はゆっくりやろうと思っているわけですが・・・

 「若いこだま」の最終回が非常に大好評でして・・(笑)     
※「若いこだま」最終回:
http://ako.hacca.jp/ss9.htm

 何が大好評だったのかというと・・、俺のあの「最後の嘆きがいい」と(笑) あれはぁ~、なんとなくつまずきながらも終わったと・・・あれが非常に、「サウンドストリートに行くんだ」という「継続性があってすごくいい」という激励のお葉書をたくさんいただきましたっ。はい。・・・くそっ(笑)

 え~(笑)、「英雄と悪漢」という2枚目のアルバムの中からもう1曲聴いてもらいます。

 え~、これも非常に好きな曲ですね。

 「昨日のように」(曲が流れる)

 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND86710/index.html

吉田松陰宿泊の地 塩屋甚兵衛邸跡(久住清子邸) 岸和田

吉田松陰宿泊の地 塩屋甚兵衛邸跡(久住清子邸) 岸和田

嘉永6年(1853)2月23日、吉田松陰は森田節斎と共に岸和田に到着します。岸和田城の城下町で紀州街道沿いにあった「塩屋甚兵衛邸」を借り宿泊先としました。

岸和田には2月23日から3月3日まで長期にわたり滞在し、相馬九方や岸和田藩の志士と会談しています。

「塩屋甚兵衛邸」に吉田松陰が宿泊したことを地元の人はご存知ですが、遠方から来た人たちは旧街道に残る住宅の趣を感じるだけだったでしょう。

近年、「吉田松陰の逗留地」という説明板ができました。これによって相馬九方という人のこともより知られることになることを望みます。

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大阪にある土浦藩ゆかりの地③ 勝 海舟宿泊の地

大阪にある土浦藩ゆかりの地③ 勝 海舟宿泊の地  泉南郡岬町

文久3年(1863)4月1日、勝 海舟は大坂から紀州へ向かう途中、ここ多奈川に立ち寄り1泊しています。

宿泊先は多奈川の庄官 戸口仙蔵邸で、現在も子孫の方がその地に住んでいらっしゃいます。

当時の戸口家は、門前まで海に入り組んだ小湊になっており、小舟で屋敷へ入れたようです。現在の建物は大正期に建て替えられたものだそうで当時の面影はありませんが、庭にある井戸は当時から残っているものだそうです。

庭は当時、お白州の場だったと言い伝えられています。

戸口仙蔵は、海舟日記にも記載されていますが、この地域(土浦藩領)で庄官を務めていました。文久3年(1863)、近くの淡輪(たんのわ)陣屋で「大砲御筒凌」という砲術の訓練があり、谷川村から戸口仙蔵の弟が参加したという記録があります。

勝海舟が宿泊した際、戸口仙蔵は海舟の目にとまり、「江戸に来ないか(あるいは一緒に来ないか)」と誘われたと戸口家では言い伝えられているようです。

戸口仙蔵は断りますが、子の亀太郎【その後通(とおる)に改名】は同行したかったそうです。

日本地図を描いた伊能忠敬も戸口家を訪れたことがあるそうです。

勝 海舟日記に次のような記載があります。

文久三年四月朔日

泉州田川へ泊す。此地は僻地、土屋采女正領所にて小湊あり。庄官 戸口仙蔵方へ泊す。途中より雨。

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大阪にある土浦藩ゆかりの地 ②

大阪にある土浦藩ゆかりの地 ②

蔵屋敷跡は①で紹介しました。

今回は、飛び地領について触れます。

現在の岬町は、寛文2年(1662)以降明治期までは、土浦藩の飛び地領でした。

その名残でいくつかの史跡がありますが、岬町棟合ノ谷にあるため池「古池」「新池」は、土浦藩土屋家によって人工的に作られた池です。

場所は、国道26号線を大阪から和歌山方面に走ります。

南海電鉄多奈川線深日町駅下のガードをくぐって峠を登っていきます。

左手に南海電鉄本線が見えてきますが、1番目の小さな踏切がある細い路地を入り、山道(林道)を登っていきます。

かなり登ったところに2つのため池「古池」「新池」があります。

新旧同じ内容の記念碑が2つありますが、古い方は、宝永7年(1710)に建てられた碑です。

表面には「土屋相模守此池築」と記され、両脇に「奉行 木村 茂兵衛」「奉行 山中 源太夫」と明記されています。

この池は、約50日という日数と述べ人員6101名の労働力を費やして築かれました。

山道ですので車で行くにはかなり無理がありますが、池で魚釣りをする人は車を利用しているようです。

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大阪にある土浦藩ゆかりの地 ①

大阪にある土浦藩ゆかりの地 ①  

土浦藩蔵屋敷跡 大阪市中央区瓦屋町2(中央小学校西南角) 

幕末期、大坂湾に突如現われたロシア船「ディアナ号」。

そのときの大坂城代は土浦藩9万5千石(現在の茨城県)の藩主 土屋寅直(ともなお)は、大坂城代を務めていて、大坂湾警護のため、各藩に兵を集合させました。

寅直の父である彦直(よしなお)は、水戸徳川家から来た養子で、徳川斉昭とは従兄弟の間柄でした。

土浦藩の藩祖は、下総 布川5千石から土浦藩3万5千石として入封した松平信一(のぶかず)です。その後、藩主となる大名家が松平氏→西尾氏→土屋氏→松平氏と入れ替わりましたが、貞享4年(1687)、土屋政直が藩主となってからは、明治維新まで土屋家が藩主でした。

幕末期、水戸藩を意識したがため、朝廷と幕府のどちらにつくかの藩論が定まらず、藩が混乱することになりました。

結局、慶応4年(1868)4月に勤王誓書を提出し、新政府に恭順しています。

この当時、各藩の蔵屋敷は大坂の中之島界隈に設置していましたが、土浦藩のみかけ離れた場所に置いていました。

蔵屋敷跡の碑が少ない中、土浦藩の蔵屋敷跡には石碑が建てられています。

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大坂にある平氏ゆかりの地

大坂にある平氏ゆかりの地

桓武平氏で高望王の孫にあたり、平 将門とは従兄弟にあたる平 貞盛により天慶年間(938-947)に創建された朝日神明社がこの地にありました。

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e-よこ会 東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期 3

e-よこ会 東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期③

講演会では伝えたかったことがすべて消化できませんでした。

「大阪会議」「大坂海軍塾」の大きな柱に、さまざまな横道・脱線。

次回からは欲張らず、優先順位の高いものから消化しようと思いました。

複数の方から写真を頂戴しましたので、披露したいと思います。

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甲斐よしひろの「サウンドストリート」

甲斐よしひろの「サウンドストリート」

月曜日~金曜日まで曜日ごとにDJが変わるFM NHK「サウンドストリート」。

水曜日担当は甲斐よしひろ。甲斐さんが担当して初回は聞き逃したのですが2回目を録音したテープが見つかりました。

何回かに分けてテープおこしをしたいと思います。

「(オープニング曲)

 こんばんは、甲斐よしひろです。今日は「サウンドストリート」2回目という感じではじまってますが、甲斐バンドストーリー・・えぇ今博多弁ぽいかったのでもう1回言い直します。今日は甲斐バンドストーリーで甲斐バンドの変遷について語ろうと思っています。

 甲斐バンドの曲を一辺倒でオンリーで。本当は甲斐バンドストーリーを語る上で甲斐バンドのファーストLPをかけるのが妥当なんだろうけど、甲斐バンドの最初のLPというのは、あれは、甲斐よしひろのアマチュア時代のベストLPというかんじで、本当にそういう意味では甲斐バンドのLPは6枚ライヴを入れて出しているんだけれど、甲斐バンドとして、本当にオリジナリティのあるLPというは2枚めのLPからなんだよね。2枚目のLP「英雄と悪漢」というLPこそが、甲斐バンドというかんじなんだよね。

 今日はその「英雄と悪漢」というLPから聴いてもらおうと思います。

 東京に来て3ヶ月目で、最初は「らいむらいと」という1枚目のLP録音に入ったんだけど、ほとんどがアマチュアのときに作った歌がほとんどで。

 「英雄と悪漢」というは東京に住んで馴染もう、これから一生ここに住んでいこうという感じで非常に方に力が入っていながらも、非常にやっぱり肩に力が入っていながらも、悲壮な感じ、ハングリーな部分がたくさん出ている。それが「英雄と悪漢」というLPなんです。そのなかから曲を聴いてもらいます。

 「東京の冷たい壁にもたれて」 (曲がかかる)

次回は10日後へ。

 

 

e-よこ会 東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期 ②

e-よこ会 東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期 講演を終えて

6月4日(土)大阪市中央区高麗橋2-6-2にある「浪花教会」において「東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期」というテーマで講演を行いました。

「e-よこ会」でのHPで講演内容をアップされました。

詳細はこちらです。

プリンセストヨトミ ②

プリンセストヨトミ ②

「プリンセストヨトミ」ロードショー。

「パイレーツカリビアン」に続いて第2位の観客動員。

大阪人としては嬉しい限りです。

いずれ「プリンセストヨトミ・ツアー」を実現したいと思っています。

勝 海舟ゆかりの専稱寺

勝 海舟ゆかりの専稱寺

先週、神戸市にある専稱寺を訪れました。

勝 海舟寓居(専稱寺)跡の銘板が設置されたことと、大阪龍馬会から専稱寺を含む大阪にある龍馬の足跡を著した「大坂の史跡探訪 ~龍馬の足跡~」を寄贈する為でした。

ちょうど読経中でお会いすることができませんでしたが、翌日お電話をいただき、お話することができました。

勝 海舟や坂本龍馬たちと接した専稱寺。そのご子孫とお話しするだけで、非常に興奮を覚えました。

最近、専稱寺の場所を求めて「大坂の幕末を歩く」コースに申し込む方が、多くなってきています。これも龍馬伝の影響なのでしょうか。

プリンセストヨトミ

プリンセストヨトミ

いよいよ明日からロードショーです。

大阪城、空堀商店街、大阪府庁などが舞台となった映画。

原作者は万城目 学 さん。小学校時代は最も大阪城に近い学舎で学ばれました。

私も史跡案内日の早い時間に、榎木大明神や空堀商店街に行って取材を行ってきました。

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膏肓記

膏肓記

歴史作家である桐野作人さんのBlog「膏肓記」

大阪龍馬会から先般発行した「大坂の史跡探訪 ~龍馬の足跡~」を取り上げていただきました。

こちらです。イベントでの集合写真。薩藩邸の北にあった「越中橋」で撮影。

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大阪龍馬会のイベント、2009年3月「大阪史跡探訪Yol.9」に参加いただいた桐野さんに「大阪市内を引き連りまわしてしまった講師のosayan。

桐野さんを極度に疲労させてしまいました。12時スタートの6時間コース。

反対の側に立てば「そこまでせんでええやろ!」と思いますよね。すみません!(最敬礼)

でも、このコースは桐野さんとMさんの助言なくしては成立しなかったイベントでした。

感謝感謝です!

「東横堀川・三休橋筋界隈の江戸期・明治期」講演

「東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期」講演

今年も「e-よこ会(東横堀川水辺再生協議会)」にお世話になることになりました。

日時:2011年6月4日(土) :13:30~16:30

テーマ:「東横堀川・三休橋筋界隈の幕末期・明治期」

    坂本龍馬・新選組・天誅事件・大阪会議など、幕末期~明治期の東横堀川

  ・三休橋筋界隈ゆかりの人物・事件をご紹介いたします。

   特にあまり知られていない三休橋筋にあった専稱寺で行われた「勝 海舟

  ・西郷隆盛 初めての会談跡」を詳しく紹介します。

場所:日本基督教団浪花教会

参加費:500円

申し込み要領は下記ファイルでご確認ください。

「2011.doc」をダウンロード

大阪史跡探訪 Vol.11<7>

大阪史跡探訪 Vol.11<7>

土佐海援隊は幕末史には欠かせない、明治維新の功労組織であることはすでにご存知と思います。

坂本龍馬と後藤象二郎との「清風亭会談」により薩摩藩出資の「亀山社中」から土佐藩出資に変わり「土佐海援隊」が誕生します。

本部は長崎でしたが、下関、京都、大坂に今でいう支店が設けられていました。

下関と京都は場所が確定されていて、京都は石碑「坂本龍馬寓居跡」という石碑も建てられています。

しかし、大坂に出張所を置いた「薩万」の場所の特定が、これまで発表されてきませんでした。

幕末史に詳しい方々の助言をいただき、可能性の高い場所を今回イベントでご紹介させていただきました。

100%自信があるとはいえないのですが、色々な史料や助言や調査などで今回は、推定地を紹介いたしました。

記念写真をここで撮影しようと思っていましたが、もののみごとに忘れて次の案内場所へ向かってしまいました。(残念・・)

最後は大阪国際会議場(グランキューブ大阪)の中にある「近代製紙業発祥の地 蓬莱社跡」の石碑の前で後藤象二郎ゆかりの地であることを説明し「大阪史跡探訪Vol11」を終えました。

そのあとは、グランキューブ大阪にある喫茶で懇談。そして解散。

当初は11回も行うとは想定できなかった「大阪史跡探訪」。

無事に終えることができ安堵しました。

この日は龍馬会の会員でない方の参加も多く、「大坂」の史跡を知っていただいたことに貢献したと勝手ながら自分で思っています。

大阪史跡探訪 Vol.11<6>

大阪史跡探訪 Vol.11<6>

大村益次郎寓居の倉敷屋跡を後にし、西へ土佐堀通りを進むとすぐに「薩摩藩蔵屋敷跡」の石碑に到着。現在は三井倉庫。そこで水帳絵図をみていただき薩摩藩蔵屋敷は道を挟んで南北に2箇所の藩邸があったことを説明。北側は上屋敷、南側は濱屋敷。

土佐脱藩の志士 土方楠左衛門の日記を紹介。「浪華薩州濱屋敷に着泊す」とあることを確認してもらった。

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勝 海舟が江戸にて謹慎となり勝塾生たちが薩摩藩の庇護を受け、藩邸に匿われたのは濱屋敷のほうかもしれないと思います。(上屋敷は重役が利用する場合が多いため)

0001 01063018

薩摩藩蔵屋敷(濱屋敷)跡と上屋敷・濱屋敷を示す水帳絵図。

続く

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osayan

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