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大久保利通揮毫による小楠公墓碑

大久保利通揮毫による小楠公墓碑     四條畷市雁屋南町27-5(小楠公墓地)

 南朝:正平3年・北朝:貞和4年(1348)1月5日、南朝の武将として活躍した楠木正行(楠木正成の嫡男)が「四條畷の合戦」で戦死しました。
 戦死の地は大東市錦町附近(旧の地名は「字ハラキリ」でした)あたりとされています。
 墓所は、戦没の地から北で、現在の四條畷市雁屋南町にあります。その場所はもともと古墳塚があり(江戸期は代官陣屋がありました)、文字が刻まれた小石と、植樹された楠樹が「供養塚」として建てられました。
 楠木正成が明治政府によって「大楠公」(だいなんこう)として神格化されたのに伴い、遺志を継ぎ命を落とした正行も「小楠公」(しょうなんこう)として崇められるようになり、「忠君愛国」の象徴とされました。
 現墓所の入り口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があり、敷地内には、「楠公父子訣別之所」と記された“墓石”、「贈従三位楠正行朝臣之墓」(原文のまま)と記された大きな碑と、楠樹の巨木(樹齢600年、大阪府指定の天然記念物=府文化財)があります。
 明治5年(1872)湊川神社が竣工。それを受けて地元の住民が、小楠公社の設立の請願書を提出し明治7年に許可が下ります。
 豊臣期の大坂城築城の際、切り出しに失敗したと伝えられる巨岩で墓碑を建てることとなりました。切断には5ヶ月を要したようです。
 許可が下りてから思いのほか日数を要し、明治11年(1878)1月5日(楠木正行の命日)~7日の3日間、建碑式等の祭典が行われました。
 墓碑銘「贈従三位楠正行朝臣之墓」は、大久保利通による揮毫です。
 同時に墓碑の後方に、三条実美揮毫による「四條畷表忠碑」が建立されました。
 この碑には、小楠公を讃える撰文240文字が刻まれていますが、西側面は黒田清隆、北側面は当時の大阪府知事 建野郷三による揮毫です。
 また、東側面に同合戦で小楠公と共に戦死した24名が上下刻まれ、上段11名は吉井友実、下段13名は松方正義による揮毫です。
 この墓地建立の際、政府及び近隣の府県から寄付金があり、四條畷神社が建設されました。
 明治26年(1893)、土佐勤王党へ15番目に署名した曽和伝左衛門が、同神社の神官を1年間務め、その後の消息が不明となっています。

 今後の課題としたいと思います。

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