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三菱発祥の地 岩崎彌太郎舊邸跡

岩崎彌太郎ゆかりの地  岩崎彌太郎旧居跡(土佐藩蔵屋敷跡) 

大阪市西区北堀江4-9

 三菱の創業者である岩崎彌太郎は、土佐藩が運営する「長崎土佐商会」の主任として任命され、長崎へ着任したのが慶応3年(1867)3月13日でした。
 正式には「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」と称し、土佐藩の御手先商法を行う機関でした(同年2月開設)。開成館奉行は土佐藩参政の後藤象二郎でした。
 彌太郎は商事貿易活動に従事し、維新期では藩の武器・軍需品の購入などに奔走しました。藩の土佐商会とは別組織だったのが、坂本龍馬率いる「土佐海援隊」です。
 4月から6月にかけて彌太郎と龍馬は、長崎で何度か面談していることが記録されています。彌太郎が記した「瓊浦日記其一」をご紹介します。

(慶應三年六月)三日 
天気快晴、朝入商會談公事(朝、長崎商会に行き仕事の打ち合わせを行う)、囘寓(彌太郎の寓居に帰る)、到後藤氏談公事(後藤象二郎の寓居に行き打ち合わせを行う)、午後坂本良馬来置酒(午後になり坂本龍馬が来訪し酒を置く)、従容談心事(じっくりと心を割って談じ)、兼而余素心ノ所在ヲ談候處(前々からの考えている本心を談じたところ)、坂本抵掌稱善(龍馬は手を叩いて「善し!」と称えた)、(以下省略)

(慶應三年六月)九日 
雨、(途中省略)
午後水蓮船ニ乗ル(後藤象二郎と坂本龍馬は藩船「夕顔」に乗る)、商會高橋随行(土佐商会より高橋某が随行)、忽々旅装着ス(たちまち旅装する)、狼狽可知、二字比出帆ナリ(午後2時に出帆)、余及一同送之(余(岩崎)および関係者一同)、余不覚流涕數行(余(岩崎)は不覚にも涙を流す)、(以下省略)
※この船の中にて「船中八策」を龍馬は起草する。

 彌太郎は、土佐藩開成館大阪出張所(土佐藩開成館貨殖局大阪出張所)の責任者として異動することになり、明治2年(1869)1月9日に長崎を発ち、同月12日、西長堀にある土佐藩大阪蔵屋敷に到着しました。この夜は近くの茶屋で宿泊したと日記に記しています。
明治政府が藩営事業を禁止しようとしている事を察知した土佐藩は、同年閏10 月、土佐藩士とは別組織の民間商社として「九十九商会」を設立し、翌年に開業しました。彌太郎は藩の立場で事業の指揮を執りました。
 明治3年(1870)、岩崎彌太郎は土佐藩の少参事(中老格)に昇格します。その後、土佐稲荷神社の西側にある敷地に住居を構えました。
 廃藩置県後、土佐商会の事業を九十九商会へ継承し、「三川商会」「三菱商会」と名称が変更し、岩崎彌太郎が社主となりました。
 明治7年(1874)、本社を東京に移転し、本宅も東京へ転居しました。
土佐藩蔵屋敷の跡地は大阪市などに分譲され、土佐稲荷神社だけは、三菱が継続して管理することになり現在に至ります。
 同神社境内に「岩崎舊邸跡」の石碑と説明板があります。
 その他、彌太郎の弟 岩崎彌之助寄進の青銅狛犬、彌太郎の長女 春路の婿である元内閣総理大臣加藤高明寄進の常夜燈などがあります。明治2年(1869)2月13日、住吉卯日例祭のため同地を訪れた岩崎彌太郎は、坂本龍馬も宿泊したことがある「三文字屋」で夕食をしたことが日記に記されています。
 彌太郎の長女 春路の夫は加藤高明(首相)、四女雅子の夫は幣原喜重郎(首相)。 
 彌太郎の弟 彌之助(三菱の2代目社長)の妻 早苗は、後藤象二郎の長女にあたります。福澤諭吉と連携し慶應義塾卒業をした優秀な人材を三菱に採用をしました。
 現在も「三菱」は誰もが知るブランドとなっています。

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