勝 小吉(勝 海舟の父)の来坂および宿泊の地「御願塚村」
勝 小吉(勝 海舟の父)の来坂および宿泊の地「御願塚村」
幕末維新期に活躍した幕臣 勝 海舟の父、勝 小吉(こきち)が来坂した時の史跡を紹介します。
勝 小吉は「不良旗本」といわれ自由奔放に生きながら、度肝を抜くような交渉上手で胆力が備わった魅力ある人物です。
男谷平蔵の子として生まれ、7歳のとき勝家の養子となりました。
勝家の祖 勝 季時は、近江の国坂田郡(滋賀県長浜市)に住み、2代目以降、今川家を経て徳川家康に仕えました。勝 小吉は勝家10代目になります。
自身は貧困でありながら、人の世話をよくしました。勝 小吉著による「夢酔独言」に「御願塚村での金談」があります。そこでは、天保9年(1838)当時、勝 小吉居住の地主 岡野孫一郎(1500石の旗本)を援けるため上坂したことが記されています。
岡野孫一郎は、かなりの道楽者だったようで、もめごとや借金をかかえていました。
小吉は岡野家から援助の依頼を受け、幾度となく奔走しました。
それでも道楽が直らず、岡野家の借金が5000両に跳ね上がり、岡野家断絶の危機となったため、勝 小吉は金の調達のため、岡野家の所領のうちのひとつである、摂津の御願塚村(ごがつかむら)へ向かいました。(天保9年(1838)11月9日)
<御願塚村での金談>
八軒家の船宿で2~3日逗留後、御願塚村に到着。御願塚村は現在の伊丹市御願塚付近にあたります。
代官の山田新右衛門の邸に逗留し、事情説明のうえ村へ金の支援を講じます。しかし、金策ははかどらず小吉は当惑してしまいます。(天保7年には凶作飢饉があり、同8年2月に大塩平八郎の乱があったのでやむをえない事情もあったようです)。
しかし、情報を収集すると「金を出さずに、退屈させて追い返す」という手段をとっていることを知った小吉は、一層諦めずに本腰を入れて粘りの行動に出ます。小吉は、御願塚村を起点にあちこちと出かけます。出かけますが村には間者を残し、村の状況を探らせています。
大坂西町奉行 堀伊賀守利堅の用心を務め、知人でもある下山弥右衛門に会うため、大坂西町奉行所を訪ね、「夢酔(勝 小吉)様とお奉行様は懇意の仲」と知らしめたり、能勢妙見山詣で雨を降らせて驚かせたりしました。
最終的に「百姓相手の大芝居」を行います。1ヶ月間の滞在中で、百姓の非協力的であったことを責め、自身は代官の山田邸にて切腹することを公言します。慌てた百姓らは、翌日550両を差出し、残りの50両は近日中に江戸へ送ることを約束し、小吉は命がけの任務を果たしました。
八軒家船宿「京屋忠兵衛」跡 御願塚村(現在の伊丹市御願塚)
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