龍野藩蔵屋敷跡
龍野藩蔵屋敷跡 大阪市北区中之島6-2-57(味の素グループ大阪ビル)
味の素グループ大阪ビルが建てられる前に発掘調査が行なわれました。
この地は、各藩の蔵屋敷が入れ替わりが激しい土地でしたが、天保期から文久3年にかけては、龍野藩が、この地に所在していたことは資料で明らかになっています。
味の素ビルの1階には、発掘調査跡や主と土品の展示が行なわれていて、いつでも観ることが可能です。
龍野藩は、播磨地方に所領があり、最初は姫路藩の池田氏が支配していました。
元和3年(1617)、池田氏が鳥取に転封するにあたり、本多政朝が入封し、新たに龍野藩ができ、5万石の藩主となりました。その後かなりの大名家の交代があり、万治元年(1658)、一時、幕府の直轄領となります。
寛文12年(1672)、脇坂安政が信濃飯田から入封し、再び龍野藩となりました。
元禄14年(1701)、3月14日、江戸城において有名な「殿中松の廊下事件」がおこります。勅使刃傷に及び 浅野内匠頭長矩は即日切腹、播州浅野家は断絶、吉良家はお構いなしというご馳走役を務めていた播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が、指南役の吉良上野介義央に、厳しい処分が下され、播州赤穂城は明け渡しということになります。
同年、安照と足守藩主 木下肥後守公定が赤穂城を請け取りました。
4月19日、目付・代官立会いのもと、「受城使」として龍野藩第2代目の藩主 脇坂淡路守浅野家旧領は龍野藩脇坂家が翌年11月3日まで在番し、石原新左衛門正氏・岡田庄太夫俊陳両代官の支配となりました。
天保3年(18は、寺社奉行を務めており、見事にこの騒動を裁き「名奉行」と評判され、天保8年(1838)には、老中になり天保の改革に参画しました。
第9代藩主 脇坂安宅(やすおり)も、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中を歴任し第10代藩主 脇坂安斐(やすあや)のときに、明治維新を迎えました。
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