寺田屋騒動 龍馬危機一髪
寺田屋騒動
薩長同盟を無事締結させた龍馬は、伏見寺田屋へ帰ります。
帰りを待っていた龍馬のボディーガードを務める三吉慎蔵に、薩長同盟締結を知らせ、祝杯をあげます。
しかし、この秘事が幕吏に漏れていました。
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寺田屋騒動
薩長同盟を無事締結させた龍馬は、伏見寺田屋へ帰ります。
帰りを待っていた龍馬のボディーガードを務める三吉慎蔵に、薩長同盟締結を知らせ、祝杯をあげます。
しかし、この秘事が幕吏に漏れていました。
龍馬が怒って薩長同盟成立
坂本龍馬は京都に入り、すでに薩長同盟が結ばれていると思い桂小五郎に会うと、まだ成立していないどころか何の話し合いも為されていないと知り愕然とします。
理由を聞くと、孤立無援の長州藩から「同盟」の話を切り出すと、助けを乞うことになるのでそれは絶対にできない。と桂が言ったのに対し、龍馬は激しく桂に叱ります。
藩のような小さなプライドより日本という国を考えるべき!
すぐさま薩摩の西郷の寓居先にも飛んで行き、同じ内容を叱ると同時に桂のいう長州藩の事情をといてようやく両藩が集まり、龍馬が仲介のもと念願の薩長同盟が成立しました。
しかしながら、同盟の盟約に対し、桂は薩摩が信じられない為か、仲介した龍馬に念書を求め、龍馬は朱筆で覚書を書きました。
桂のこういった慎重さは、明治8年(1875)、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、板垣退助の三者が集まり話し合われた「大阪会議」の際も同じような行動をしています。
この秘密に行われていた「薩長同盟」もすでに幕吏に漏れていました。
石田三成生誕の地 長浜とその周辺の地
大河ドラマ「葵~徳川三代~」が放映された2000年。つまり関ヶ原の戦い400周年にあたる年に訪れた際の写真を公表いたします。
http://www.digibook.net/d/0095e3ff805ab211303dcb47374a6fae/?viewerMode=fullWindow
慶応2年(1866)1月16日
慶応2年1月10日、三吉慎蔵とともに京都を目指し下関を発った坂本龍馬は、1月16日、神戸に到着し1泊しています。
果たしてどこに泊まったのでしょうか。
かつて神戸で海軍の勉強した地でもあり、いくつかのコネクションがあり、三吉慎蔵の日記によると17日は、湊川に岡山藩の警備兵がいたことを書き残しています。
亀山社中に出資している神戸の商人 成尾屋与三郎、かつての勝海舟と懇意があった生島四郎などの関わりが考えられます。
秀吉ゆかりの地 長浜②
秀吉だけでなく、そのほかの人物のゆかりの地でもあります。
http://www.digibook.net/d/81158dfbb0da9015b89fd9572140efa8/?viewerMode=fullWindow
播州赤穂藩ゆかりの地 赤穂義士の墓
兵庫県にある社(やしろ)という地に「赤穂義士の墓」があります。
http://www.digibook.net/d/541489bb9119ba19acba5bc361536faa/?viewerMode=fullWindow
赤穂義士ゆかりの地
大河ドラマで数多く描かれた江戸期の元禄。
赤穂義士による忠臣蔵はいつ見ても心を打たれるものがありますが、ベスト10の上位にランクされなかったのは残念ですが、最近。放映されていない事情があるかもしれません。
私の最も好きな赤穂義士関連のドラマや映画は、「大忠臣蔵」で、大石内蔵助役は三船敏郎でした。
※当時のNETによる作品。
TV放映のため実に詳細で且つ感動的に描かれたドラマだと思います。
現在もケーブルテレビで放映中です。
http://www.digibook.net/d/e005e39b811db25938f8d1d301586eec/?viewerMode=fullWindow
御陵衛士
新選組の勤王佐幕派から勤王倒幕派へ離脱したのが御陵衛士(高台寺党)。
新選組の幹部 伊東甲子太郎が、同隊士だった藤堂平助、鈴木三樹三郎、篠原泰之進らを引き連れ離脱し、別組織「御陵衛士」を作りました。
佐幕派とは対峙する薩摩藩・長州藩側の活動を行いましたが、坂本龍馬暗殺の3日後、慶応3年(1867)11月18日、新選組による伊東甲子太郎暗殺をはじめ、遺骸を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せしていた新選組による奇襲で藤堂平助ら御陵衛士数名が暗殺された「油小路の血闘」でとどめをさされます。
王政復古の大号令以降、伏見奉行所に詰めていた新選組に対し、復讐の機会を狙っていた旧御陵衛士 篠原泰之進、阿部十郎らは、同年12月18日(油小路の血闘の1ヶ月後)、新選組局長 近藤 勇を伏見の墨染め付近にて狙撃し負傷を負わせました。
坂本龍馬暗殺は、新選組による犯行という説がありますが、伊東甲子太郎ら高台寺党をいかに撲滅させるかで精一杯だったため、新選組による犯行は可能性がないと思われます。
近藤 勇が板橋で斬首の刑になったのも、龍馬が新選組による暗殺と信じ込んでいた土佐藩士たちの恨みが多大な影響があると思います。
近藤 勇、伊東甲子太郎、藤堂平助さらには坂本龍馬も非業の死だったのですね。
http://www.digibook.net/d/8804eddfb11aba18341edbc3615aafee/?viewerMode=fullWindow
秀吉初の一国一城の主となった 長浜
織田信長と浅井長政の戦で勝利し、お市とその娘三姉妹を救出させた秀吉は、その地の支配を任され、小谷から今浜に居城を移しました。今浜という地名を長浜に変更。
http://www.digibook.net/d/7485e9d381dfb815b87dd347074a2ee8/?viewerMode=fullWindow
龍野藩蔵屋敷跡 大阪市北区中之島6-2-57(味の素グループ大阪ビル)
味の素グループ大阪ビルが建てられる前に発掘調査が行なわれました。
この地は、各藩の蔵屋敷が入れ替わりが激しい土地でしたが、天保期から文久3年にかけては、龍野藩が、この地に所在していたことは資料で明らかになっています。
味の素ビルの1階には、発掘調査跡や主と土品の展示が行なわれていて、いつでも観ることが可能です。
龍野藩は、播磨地方に所領があり、最初は姫路藩の池田氏が支配していました。
元和3年(1617)、池田氏が鳥取に転封するにあたり、本多政朝が入封し、新たに龍野藩ができ、5万石の藩主となりました。その後かなりの大名家の交代があり、万治元年(1658)、一時、幕府の直轄領となります。
寛文12年(1672)、脇坂安政が信濃飯田から入封し、再び龍野藩となりました。
元禄14年(1701)、3月14日、江戸城において有名な「殿中松の廊下事件」がおこります。勅使刃傷に及び 浅野内匠頭長矩は即日切腹、播州浅野家は断絶、吉良家はお構いなしというご馳走役を務めていた播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が、指南役の吉良上野介義央に、厳しい処分が下され、播州赤穂城は明け渡しということになります。
同年、安照と足守藩主 木下肥後守公定が赤穂城を請け取りました。
4月19日、目付・代官立会いのもと、「受城使」として龍野藩第2代目の藩主 脇坂淡路守浅野家旧領は龍野藩脇坂家が翌年11月3日まで在番し、石原新左衛門正氏・岡田庄太夫俊陳両代官の支配となりました。
天保3年(18は、寺社奉行を務めており、見事にこの騒動を裁き「名奉行」と評判され、天保8年(1838)には、老中になり天保の改革に参画しました。
第9代藩主 脇坂安宅(やすおり)も、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中を歴任し第10代藩主 脇坂安斐(やすあや)のときに、明治維新を迎えました。
五大力の碑 大阪市北区堂島3-3-5(浄祐寺)
薩摩藩士 早田八右衛門は、北新地の「桜風呂」の菊野に一目惚れをしたものの、体よくあしらわれている事を知って激昂します。
元文2年(1737)7月3日、菊野の居る「大和屋」へ乱入しました。
寝入っている菊野の横に女将が寝ていましたが、情夫と勘違いし、二人を滅多突きにして殺害しました。
騒ぎを聞いた主人と下女3名も斬り殺し計5名殺害する事件が起こりました。
早田八右衛門は翌年の2月に千日前刑場で刑死。
当初は「五人斬りの碑」がありましたが、明治42年(1909)の大火で消失したため、大正14年(1925)、「五人斬り」から「五大力」と改められた碑が建てられました。
詳細は歴史作家桐野作人さんのブログでも紹介されています。
赤穂義士 大石内蔵助良雄寓居跡 大阪市福島区福島1-4付近
暁 鐘成著の「攝津名所図會大成 其之ニ」に忠臣蔵で有名な「大石良雄寓居跡」が次のように記載されています。
浄祐寺の西梯起寺裏にあり、傳云(つたへていふ) 此所原天野屋利兵衛所持のざしきなりし故に良雄赤穂退居の後すべらく志バらく此に寓せしといふ
今尚四方佛の手水鉢あり是その時よりの器なりとぞ一説に此邊をいにしへより鵲の森といふよし名義詳ならず
「梯起寺」はすでに明治期には所在していませんでしたので、現在もある「浄祐寺」と古地図を手がかりに、また、長岡藩蔵屋敷の真北に「梯起寺」にあったことなどを考慮し推定地をご案内します。
なお、浄祐寺には同じ赤穂義士 矢頭矢頭長助・右衛門七父子の墓があります。
大石内蔵助寓居跡推定地
<赤穂義士 矢頭矢頭長助・右衛門七父子の墓と顕彰碑>
大久保利通揮毫による小楠公墓碑 四條畷市雁屋南町27-5(小楠公墓地)
南朝:正平3年・北朝:貞和4年(1348)1月5日、南朝の武将として活躍した楠木正行(楠木正成の嫡男)が「四條畷の合戦」で戦死しました。
戦死の地は大東市錦町附近(旧の地名は「字ハラキリ」でした)あたりとされています。
墓所は、戦没の地から北で、現在の四條畷市雁屋南町にあります。その場所はもともと古墳塚があり(江戸期は代官陣屋がありました)、文字が刻まれた小石と、植樹された楠樹が「供養塚」として建てられました。
楠木正成が明治政府によって「大楠公」(だいなんこう)として神格化されたのに伴い、遺志を継ぎ命を落とした正行も「小楠公」(しょうなんこう)として崇められるようになり、「忠君愛国」の象徴とされました。
現墓所の入り口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があり、敷地内には、「楠公父子訣別之所」と記された“墓石”、「贈従三位楠正行朝臣之墓」(原文のまま)と記された大きな碑と、楠樹の巨木(樹齢600年、大阪府指定の天然記念物=府文化財)があります。
明治5年(1872)湊川神社が竣工。それを受けて地元の住民が、小楠公社の設立の請願書を提出し明治7年に許可が下ります。
豊臣期の大坂城築城の際、切り出しに失敗したと伝えられる巨岩で墓碑を建てることとなりました。切断には5ヶ月を要したようです。
許可が下りてから思いのほか日数を要し、明治11年(1878)1月5日(楠木正行の命日)~7日の3日間、建碑式等の祭典が行われました。
墓碑銘「贈従三位楠正行朝臣之墓」は、大久保利通による揮毫です。
同時に墓碑の後方に、三条実美揮毫による「四條畷表忠碑」が建立されました。
この碑には、小楠公を讃える撰文240文字が刻まれていますが、西側面は黒田清隆、北側面は当時の大阪府知事 建野郷三による揮毫です。
また、東側面に同合戦で小楠公と共に戦死した24名が上下刻まれ、上段11名は吉井友実、下段13名は松方正義による揮毫です。
この墓地建立の際、政府及び近隣の府県から寄付金があり、四條畷神社が建設されました。
明治26年(1893)、土佐勤王党へ15番目に署名した曽和伝左衛門が、同神社の神官を1年間務め、その後の消息が不明となっています。
今後の課題としたいと思います。
勝 小吉(勝 海舟の父)の来坂および宿泊の地「御願塚村」
幕末維新期に活躍した幕臣 勝 海舟の父、勝 小吉(こきち)が来坂した時の史跡を紹介します。
勝 小吉は「不良旗本」といわれ自由奔放に生きながら、度肝を抜くような交渉上手で胆力が備わった魅力ある人物です。
男谷平蔵の子として生まれ、7歳のとき勝家の養子となりました。
勝家の祖 勝 季時は、近江の国坂田郡(滋賀県長浜市)に住み、2代目以降、今川家を経て徳川家康に仕えました。勝 小吉は勝家10代目になります。
自身は貧困でありながら、人の世話をよくしました。勝 小吉著による「夢酔独言」に「御願塚村での金談」があります。そこでは、天保9年(1838)当時、勝 小吉居住の地主 岡野孫一郎(1500石の旗本)を援けるため上坂したことが記されています。
岡野孫一郎は、かなりの道楽者だったようで、もめごとや借金をかかえていました。
小吉は岡野家から援助の依頼を受け、幾度となく奔走しました。
それでも道楽が直らず、岡野家の借金が5000両に跳ね上がり、岡野家断絶の危機となったため、勝 小吉は金の調達のため、岡野家の所領のうちのひとつである、摂津の御願塚村(ごがつかむら)へ向かいました。(天保9年(1838)11月9日)
<御願塚村での金談>
八軒家の船宿で2~3日逗留後、御願塚村に到着。御願塚村は現在の伊丹市御願塚付近にあたります。
代官の山田新右衛門の邸に逗留し、事情説明のうえ村へ金の支援を講じます。しかし、金策ははかどらず小吉は当惑してしまいます。(天保7年には凶作飢饉があり、同8年2月に大塩平八郎の乱があったのでやむをえない事情もあったようです)。
しかし、情報を収集すると「金を出さずに、退屈させて追い返す」という手段をとっていることを知った小吉は、一層諦めずに本腰を入れて粘りの行動に出ます。小吉は、御願塚村を起点にあちこちと出かけます。出かけますが村には間者を残し、村の状況を探らせています。
大坂西町奉行 堀伊賀守利堅の用心を務め、知人でもある下山弥右衛門に会うため、大坂西町奉行所を訪ね、「夢酔(勝 小吉)様とお奉行様は懇意の仲」と知らしめたり、能勢妙見山詣で雨を降らせて驚かせたりしました。
最終的に「百姓相手の大芝居」を行います。1ヶ月間の滞在中で、百姓の非協力的であったことを責め、自身は代官の山田邸にて切腹することを公言します。慌てた百姓らは、翌日550両を差出し、残りの50両は近日中に江戸へ送ることを約束し、小吉は命がけの任務を果たしました。
八軒家船宿「京屋忠兵衛」跡 御願塚村(現在の伊丹市御願塚)
岩崎彌太郎ゆかりの地 岩崎彌太郎旧居跡(土佐藩蔵屋敷跡)
大阪市西区北堀江4-9
三菱の創業者である岩崎彌太郎は、土佐藩が運営する「長崎土佐商会」の主任として任命され、長崎へ着任したのが慶応3年(1867)3月13日でした。
正式には「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」と称し、土佐藩の御手先商法を行う機関でした(同年2月開設)。開成館奉行は土佐藩参政の後藤象二郎でした。
彌太郎は商事貿易活動に従事し、維新期では藩の武器・軍需品の購入などに奔走しました。藩の土佐商会とは別組織だったのが、坂本龍馬率いる「土佐海援隊」です。
4月から6月にかけて彌太郎と龍馬は、長崎で何度か面談していることが記録されています。彌太郎が記した「瓊浦日記其一」をご紹介します。
(慶應三年六月)三日
天気快晴、朝入商會談公事(朝、長崎商会に行き仕事の打ち合わせを行う)、囘寓(彌太郎の寓居に帰る)、到後藤氏談公事(後藤象二郎の寓居に行き打ち合わせを行う)、午後坂本良馬来置酒(午後になり坂本龍馬が来訪し酒を置く)、従容談心事(じっくりと心を割って談じ)、兼而余素心ノ所在ヲ談候處(前々からの考えている本心を談じたところ)、坂本抵掌稱善(龍馬は手を叩いて「善し!」と称えた)、(以下省略)
(慶應三年六月)九日
雨、(途中省略)
午後水蓮船ニ乗ル(後藤象二郎と坂本龍馬は藩船「夕顔」に乗る)、商會高橋随行(土佐商会より高橋某が随行)、忽々旅装着ス(たちまち旅装する)、狼狽可知、二字比出帆ナリ(午後2時に出帆)、余及一同送之(余(岩崎)および関係者一同)、余不覚流涕數行(余(岩崎)は不覚にも涙を流す)、(以下省略)
※この船の中にて「船中八策」を龍馬は起草する。
彌太郎は、土佐藩開成館大阪出張所(土佐藩開成館貨殖局大阪出張所)の責任者として異動することになり、明治2年(1869)1月9日に長崎を発ち、同月12日、西長堀にある土佐藩大阪蔵屋敷に到着しました。この夜は近くの茶屋で宿泊したと日記に記しています。
明治政府が藩営事業を禁止しようとしている事を察知した土佐藩は、同年閏10 月、土佐藩士とは別組織の民間商社として「九十九商会」を設立し、翌年に開業しました。彌太郎は藩の立場で事業の指揮を執りました。
明治3年(1870)、岩崎彌太郎は土佐藩の少参事(中老格)に昇格します。その後、土佐稲荷神社の西側にある敷地に住居を構えました。
廃藩置県後、土佐商会の事業を九十九商会へ継承し、「三川商会」「三菱商会」と名称が変更し、岩崎彌太郎が社主となりました。
明治7年(1874)、本社を東京に移転し、本宅も東京へ転居しました。
土佐藩蔵屋敷の跡地は大阪市などに分譲され、土佐稲荷神社だけは、三菱が継続して管理することになり現在に至ります。
同神社境内に「岩崎舊邸跡」の石碑と説明板があります。
その他、彌太郎の弟 岩崎彌之助寄進の青銅狛犬、彌太郎の長女 春路の婿である元内閣総理大臣加藤高明寄進の常夜燈などがあります。明治2年(1869)2月13日、住吉卯日例祭のため同地を訪れた岩崎彌太郎は、坂本龍馬も宿泊したことがある「三文字屋」で夕食をしたことが日記に記されています。
彌太郎の長女 春路の夫は加藤高明(首相)、四女雅子の夫は幣原喜重郎(首相)。
彌太郎の弟 彌之助(三菱の2代目社長)の妻 早苗は、後藤象二郎の長女にあたります。福澤諭吉と連携し慶應義塾卒業をした優秀な人材を三菱に採用をしました。
現在も「三菱」は誰もが知るブランドとなっています。
桂小五郎潜伏の地「寒天屋」
元治元年(1864)7月19日、京都で「禁門の変」が勃発。長州藩が京都の御所に兵を向け敗戦。
同月、長州藩士 桂小五郎は五日間京都に潜伏の後、対馬藩に出入していた但馬の商人 広戸甚助の手引きで京都から逃れて亀岡に向かいます。
途中能勢に寄り「寒天屋」に一時潜伏しました。
去り際に「無倦」という揮毫を残したそうで、今でもその家には自然木に書かれた揮毫が掲げられているそうです。
桂小五郎揮毫の「無倦」。銘は「松菊堂人」。
「muken_katurakogorou.doc」をダウンロード
西国街道 箕面市編
茨木市編に続いて箕面市編をご覧ください。
http://www.digibook.net/d/e5d4eb5f80dc9058bf914373975a6ef8/?viewerMode=fullWindow
近藤 勇の愛妾 深雪太夫ゆかりの「折屋」跡 大阪市西区新町1-18
新選組は京都での警護と思われがちですが、大坂にも頻繁に出張しています。
来坂した際、新町花街によく遊びに行ったようです。
新選組局長 近藤 勇は、この新町にあった「折屋」の深雪太夫を妾にし、京都に醒ケ井木津屋橋下ルに住まわせました。
元治元年(1864)、新選組の大坂定宿だった「京屋忠兵衛」の周旋により身請けができたといわれています。
新選組隊士 島田 魁の遺談によりますと、彼女は背がすらりとした23~4歳の美人だったようです。身請け後1年で病死しています。
大河ドラマ「新選組!」では女優の優香さんが演じていたといえば思い出す方もいらっしゃることと思います。
大坂にある新町花街では夕霧太夫も有名です。住吉大社の神田に関する行事は未だに新町の女性が出向いている習慣が残っているそうです。
西国街道 茨木市
今も残る街道を写真に収めました。
http://www.digibook.net/d/5d548f13b118925433f041f78942afaa/?viewerMode=fullWindow
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