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2010年12月

徳川慶喜 休息の寺 唯松寺

徳川慶喜 休息の寺 唯松寺 (大阪市港区夕凪1-15-16)

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が思わぬ敗戦の報を聞いた徳川慶喜は、1月6日、松平容保らわずかな側近だけを伴い大坂城を脱出しました。
京橋口から出て小舟で西に下り、天保山に待機している幕府軍艦を目指しました。
安治川河口において、幕府軍艦に乗り込むための小船を調達させている間、慶喜が寺で休息しました。
小舟が見つかり出発すると、慶喜一行は休息した寺から梵鐘の音が聞こえたと、側近の記録に残っているそうです。
その寺は、唯松寺の可能性が高いといわれています。
徳川慶喜が休息した寺(唯松寺)付近は、現在、安治川の拡幅により埋め立てられています。唯松寺の現在の所在地は上記のとおり、移転しています。

大坂城内で撮影されたといわれる最後の将軍 徳川慶喜

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後藤象二郎寓居跡

後藤象二郎寓居跡

「幕末維新 京都史跡事典」に掲載されていた後藤象二郎寓居跡の石碑。

これまで姿を消し、だいたいこのあたりという説明を受けてきました。

「京都土佐藩邸近くの醤油商「壷屋」跡を現在所有されている不動産会社の会長である中井氏により駒札が設置されました。」と12月11日付けの京都新聞に掲載されました。

そんなことも知らず、たまたま時間が空いたので、「ぶらり京都」をしようと思い、お昼前に外出。嵐山にできた「土佐四天王像」をまず見に行き、そのあと坂本龍馬、中岡慎太郎の墓所を訪れようと計画した。

嵐山はすぐにわかった。もとは京都土佐藩邸跡にあった像が、忽然と姿を消してから何年経っただろうか。久しぶりの再会で感激した。

その後、地下鉄の乗り継ぎに失敗し「烏丸御池」で降りてしまい、雨も降ってきたので霊山行きは諦めた。

すると、小さな付近の紹介地図に「足利尊氏邸跡」碑がかかれてあり、そこを訪れた。

そのあと三条に出て、酢屋に向かった。今まで見られなかったが、「坂本龍馬寓居跡」の石碑に記念写真を撮る人が多いのに嬉しくなった。

土佐稲荷岬神社の坂本龍馬像も新しくなったことを聞いていたので、またまたきれいな坂本龍馬像と再会。

その後、河原町通り東側の商店街を歩いて阪急河原町駅に向かって歩いていると、どこかで見た顔の人とすれ違った。一瞬目があったが、先方はお気づきになっておられないよう。私はN先生に間違いないと思った。今日も歴史研究で歩いておられるのかと思いながら数秒西に歩いていたら、「幕末の大坂を歩く」を一緒にガイドしていたOさんと会った。

お互いに「何でこの場所で!」

実はN先生講師のもと京都三条・四条付近の史跡めぐりのツアーだったことを知った。

Oさんから「後藤象二郎寓居跡」に駒札が建ったことを教えてもらい、今からそこに行くのだと言う。

それで、便乗させてもらい、現地まで案内してもらった。

ツアー一行とはそこでお別れ。私は近江屋跡に行き、コンビニで「京都新聞」を購入。

近江屋跡でも殆んどの人が立ち止まり、「ここが近江屋か!」など感激の声と共にまたまた皆さん記念撮影。

駒札設置前は、立ち止まる人は殆んど無かったように思います。

そしてさらに西へ。「中岡慎太郎寓居跡」は以前のままで、立ち止まる人は少なく、少しさびしい思いをし、京都を後にしました。

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